霍成はもう目覚めているようだ。
紙包みや竹籠を腕に抱えて七ツ純喫茶へ戻ると、二階に動く気配がある。
先刻までののんびりうきうきした調子はどこへやら、蘭は急いだ様子で氷式冷蔵庫にあれこれを詰め込んでいる。
いけない、いけない、もうこんなお時間! 夜の戦場に間に合いませんにゃ! ああーっ、氷の牽引車も来てしまいますッ!と、忙しない。
冷やす必要のない細々を食糧収納部屋に運んでおく。
一頻手伝ってしまうと、居ても邪魔になるだけだと判断した椿は、忙しい蘭の背中へ心の中で感謝を伝えながら二階へ上がる。
霍成は長椅子に身を横たえ、長い脚を投げ出して、書類に目を落としていた。
眠る前に見せていたような、あの深い疲れの色は、今は幾分薄れているようだった。
「戻ったか」
霍成がそう言って立ち上がる。
椿は抱えていた包みを文机の上へそっと置いた。
霍成は、二つの玩具に目を留めた。
文化人形と、てでぃべあ。
口元がにやりと持ち上がる。
「……楽しかったか」
椿は、こくりと頷く。
外の川の方角からは時折、細い篠笛の音が抜けて流れて来ていた。
商いを終えた番頭や車夫たちが、宵のひとときを楽しんでいるのだろう。
「そうか」
短く応じて、霍成は文机の上へ手を伸ばす。
置かれていた書類を二、三枚まとめ、やがて視線を椿へと向けた。
「和歌は、宮中にある。今は預かりの形で留めてある」
自分の詠んだものが、手許を離れ、家を離れ、ついには畏れ多い場所へ。
殿上人はなんと思ったことだろう。
考えるだに恐ろしいことだった。
だからこそ、霍成は守ると言ったのかもしれない。
和歌だけでなく椿自身も、誰かの手に渡れば、都合よく意味を添えられることだろう。
いつ何どき父の政敵の手札として使われぬとも限らなかった。
「このあたりの蔵の一つに、古い家譜を抱え込んでいるところがある。華族のものだ。尤も大半は写本として佐伯家へ入ったものだが」
霍成はそこで一息おき、椿の顔色を窺った。
既に宮中では椿の異能の発現が囁かれているだろう。
霍成は、椿を守る理由は値打ちではないと言った。
主上への忠誠ゆえだろうか。
「明日はその蔵を捜査する。が、その前に、俺は一度ご報告に上がる」
噛んで含めるような、優しい声色だった。
少しでも安心させようとしてのことなのかもしれない。
「夜は寝んでいろ。……明日、蔵へ入るなら、気力が要る」
椿は、色々と思案しながらも、小さく頷いた。
霍成にとっては参内は職務の一部でしかないのだろうが、椿にはその響きだけでも憧れを誘うものだった。いずれ後宮の女官として上がることを思えば、尚更に。
霍成が出て暫くすると、湯の支度が整ったと下働きの女給が告げに来た。
案内されて裏手へ回ると、遠くに大衆銭湯が見え、椿はひやりとする。
だが女給はそのまま廊下の奥へと進み、小ぢんまりとした内風呂へ導いた。
椿はようやく、ほっと息をついた。
板敷を踏む足の裏に、昼とは異なる夜の気配がある。
戸を開けると、湯気がほのかに籠っていて、椿が扱う石鹸とも匂油ともつかぬ、どこか異国めいた香りが漂っていた。
和泉邸の主屋の奥にある、古い檜の湯殿とはまるで違う。
白く曇った硝子窓、洗面所の磨かれた蛇口は舶来式だった。
衣を解き、手拭で胸元を押さえながら入室してみると、湯船は銅のようだった。
洗い場も備えられており、当然ながら五右衛門風呂の造りとも趣きが全く異なっている。
午前に乱れた髪を、時間をかけて丹念に梳き、身体も洗い流してから、片手を湯船の縁に這わせて体重をかけながら、そっと入浴する。
肩まで浸かると、昼に蘭と歩いた町の賑わいも、七ツ蔵の忙しない空気も遠のいていく。
どうやら自分のためだけに湯が張られたようだ。
湯の中で、椿は目を伏せた。
霍成に、これ以上の苦労はかけたくない。
だが、わたしを参内に伴ったところで、口を利くこともできず、和歌の原作者である分、却って足手まといになるばかりだ。断じて帝の御前へ奏上するつもりなどなかったと――どうして信じてもらえるだろう。
父のことを思えば不安は尽きなかった。
明日には、何かが判るとよいのだけれど。
部屋へ戻る途中、椿はふと七ツ純喫茶の内を覗いた。
昼は開け放たれている店内も、夜には引き戸が閉まり、密やかな別世界となっていた。
昼は珈琲や軽食を出すが、夜になれば酒も扱うようだ。
硝子笠の明かりは、心もち控えめに落とされていた。
店の空気は、完全に昼とは別のものへ変わっている。
女給たちは、昼の給仕よりも一層客の懐へ踏み込むような笑みを浮かべている。
卓に盃を置く指先は殊更に優美で、身を屈めるたび、鈴の音と一緒に甘い匂油の香りがふわりと零れ、客たちもまた、一日の終わりを待っていたように肩の力を抜き、声を高くし、酔いに任せて冗談とも本気とも判別できぬ言葉を投げる。
店の奥で、笑い騒めく声が大きく弾けた。
見ると、常連らしい男が、猫耳の女給を膝へ半ば抱え上げるようにしている。女は驚いたふうに肩を竦めてみせながらも、ほんの一拍おいて、するりとその腕の中で身を翻した。
膝に乗ったのも束の間、次の瞬間にはもう男の盃を取り上げて、おしまいになさって、と宣っている。
男は気勢を削がれたようでいて、尚嬉しそうにどっと笑った。
そのような接客の近さが、この店では珍しくもないらしい。
酔客にとっては、酒と笑いと旨い飯、手の届きそうで届かぬ酌婦の気配とが、夜の遊びと混然一体なのだろう。
昼間の七ツ純喫茶しか知らぬ者には、同じ店とは思えぬ程だった。
二階へ上がっても、霍成が戻った気配はなかった。
先程手にしていた書類も、そのまま見当たらない。
椿のために新しく褥が一つ、部屋の隅にきちんと整えられていた。
ふと見れば、文机には握り飯も用意されている。
一階の純喫茶に出入りできる刻限ではないからだろう。
どちらも、先ほど案内してくれた女給の心配りに違いなかった。
椿は、てでぃべあと文化人形を大事そうに枕もとへ置いた。
昼にとんかつを口にしたこともあり、食事には手を付けず、そのまま布団に入り天井を見上げる。
階下の睦み合う気配が、尚もぼんやりと二階まで届いていた。
それらを聞きながら目を閉じると、今日という一日が、あまりにも目新しく、まるで長い夢であったかのように思われた。
あくる朝、七ツ蔵の空気は澄んでいた。
春の始めとはいえ、川岸の傍では和泉邸より底冷えを感じる。
店がまだ始まる前に、椿は支度を整えた。
霍成が戻っていないか確かめながら、手伝えることがあれば手伝うつもりで階下に蘭を探しに行く。
下では蘭が眠そうな目で珈琲を飲んでおり、目配せで向かいの席を示した。
他の女給たちは姿が見えない。疲れて眠っているのだろう。
椿が向かいに座ると、おはようございますにゃと呟きながら、表にめにゅう、と書かれた品書きを取り出し、椿へと差し出した。
一、
珈琲 十銭
香り高き舶来豆を用ゐ、猫娘が心をこめて淹れ申候
一、
牛乳珈琲 十二銭
同上
角砂糖添へも可
一、
猫舌(ねこじた)しるこ 八銭
熱き汁粉をほどよく冷まし召し上がりやすく仕立て候
一、
みけ猫さんど 十三銭
三色の具を挟みたる洋風軽食
見た目も艶やか
と、ここまで目を走らせたところで――
あッ、と声をあげて品書が取り上げられた。
「失礼。こちらは朝食めにゅうでございましたわ」
まだ疲れが抜け切らぬらしく、昨夜の名残で蘭は上の空の様子だ。
矯めつ眇めつ昼食のほうと見比べたあと、ふたたび椿の手の上へ朝食品書を押し込んだ。
「お好きなものを選びなすってくださいにゃ。昨日買い出しを済ませて、材料は揃っております故」
椿は、昨夜食べていないのもあり、空腹だった。
すぐ猫舌しるこを指さしてみせると、蘭はきりりと威勢よく立ち上がって、厨房の奥へ猪突猛進していく。
椿が熱い汁を啜っていると、程なくして霍成が戻ってきた。
蘭の座っていた向かいの席へ収まるや否や、ひょいと蘭本人が現れて二人の前に昼食の曲げわっぱを置く。
そのまま取って返り、今度は霍成の手へ珈琲を渡した。
どうやらこれがいつもの調子らしい。
先ほど品書に関して取り違えていたのは、そもそも朝食を用意する習わしがなかったせいなのだろう。あの品書も、今は使われていないものかもしれない。
こんなやり取り一つにも、口を利かぬ自分には、確かめる術さえなかった。
「飲んだら出発だ」
そう言われ、椿は、猫舌と銘打つわりに存外熱く仕立てられていた汁を、慌てて飲み下した。
次からは朝は珈琲にしよう――そんなことを、ふと考えながら。
だが、その瞬間、椿は自分で自分に驚いた。
この雑多な純喫茶へ、これからも当たり前のように戻って来るつもりでいる。
そういう風に考えていたことに、気付いてしまったのである。

