紙包みや竹籠を抱え、椿は七ツ純喫茶へ戻った。
先刻までの、のんびり浮き立った調子はどこへやら。
蘭は氷式冷蔵庫の前で、紙包みや瓶を次々と詰め込んでいる。
店の奥から、二階を歩く気配がした。
霍成は、もう目覚めているらしい。
「いけない、いけない、もうこんなお時間! 夜の戦場に間に合いませんにゃ!」
蘭は棚を開け、氷を避け、竹籠から包みを抜き取っては、手際よく奥へ収めていく。
「ああーっ、附木に炭団に、氷の牽引車まで来てしまいますッ!」
鈴をちりちり鳴らしながら、蘭は店の奥と帳場の間を小走りに行き来していた。
椿は、冷やす必要のない細々としたものを食品庫へ運んだ。
一頻り手伝ったところで、そっと手を止める。
これ以上は、かえって邪魔になる。
忙しく立ち働く蘭の背中へ、心の中で礼を告げる。
椿は静かに二階へ上がった。
霍成は長椅子に身を横たえていた。
肘掛けに長い脚を投げ出し、書類に目を落としている。
眠る前に見せていた深い疲れの色は、今は幾分薄れていた。
短い睡眠でも、少しは身体が休まったのだろう。
「戻ったか」
霍成が書類から目を上げ、身を起こした。
椿は抱えていた包みを、文机の上へそっと置く。
紙包みの文化人形と、てでぃべあ。
霍成の目が、そこで止まった。
口元が、にやりと持ち上がる。
「……楽しかったか」
責める響きではなかった。
むしろ、椿が外で何かを見て来たことを、面白がっているような目だった。
椿は、微かに微笑んだ。
霍成は周章てて、にやけかけた口元を手の甲で隠した。
一言まちがえれば、たちまちその微笑は消えてしまう。
そう思ったのか、暫く何も言わなかった。
窓の外では、川の方角から細い篠笛の音が流れて来ていた。
遠くで笑い声が上がり、荷を下ろす鈍い音が、それに重なる。
商いを終えた番頭や俥夫たちが、宵口の一時を楽しんでいるのだろう。
その賑わいが遠いほど、部屋の中は静かだった。
文机の上では、紙包みの人形とてでぃべあが、肩を並べている。
「そうか」
短く応じて、霍成はその隣へ手を伸ばす。
置かれていた書類を二、三枚纏め、ややあって視線を椿へ戻した。
「和歌は、内裏にある。今は預かりの形で留めてある」
自分の詠んだものが、手許を離れていた。
家を離れ、ついには畏れ多い場所へ届いてしまった。
殿上人は、あれを何と思ったのだろう。
考えるだけで、身の内が冷える。
和歌だけではない。
椿自身もまた、誰かの手に渡れば、幾らでも都合のよい意味を添えられる。
いつ何時、父の政敵の手札として使われぬとも限らなかった。
「この辺りの蔵の一つに、古い家譜を抱え込んでいるところがある。華族のものだ。尤も、大半は写本として佐伯家へ渡ったものだが」
霍成はそこで一息おき、椿の顔色を窺った。
既に宮中では、異能の発現が囁かれているのだろう。
和泉の娘が、紙に言霊を宿した。
それだけで、どれほど尾ひれが付くか知れない。
霍成は、守る理由は値打ちではないと言った。
では、何なのだろう。
主上への忠誠故か。父のためか。
それとも――。
「明日はその蔵を捜査する。が、その前に、俺は一度ご報告に上がる」
噛んで含めるような、穏やかな調子だった。
少しでも安心させようとしているのかもしれない。
「夜は先に寝んでいろ。……明日、蔵へ入るなら、気力が要る」
霍成にとって、参内は職務の一つでしかないのだろう。
けれど椿には、その響きだけで遠い憧れを誘うものだった。
いずれ後宮の女官として上がる身であれば、尚更に。
あれこれと思案しながらも、椿は小さく頷いた。
霍成が出て暫くすると、湯が整ったと女給の一人が告げに来た。
案内されて裏手へ回る。
遠くに蔵屋敷町の大衆銭湯の灯りが見え、椿は思わず身を強張らせた。
まさか、あちらへ連れて行かれるのだろうか。
女給はそのまま廊下の奥へ進み、小ぢんまりとした内風呂へ椿を導いた。
そこで初めて、ほっと息が漏れる。
戸を開けると、湯気が仄かに籠っていた。
石鹸とも、匂油ともつかぬ、どこか異国めいた香りが漂っている。
和泉邸の主屋の奥にある、古い檜の湯殿とはまるで違う。
洗い場も備えられており、当然ながら五右衛門風呂の造りとも全く異なる。
白く曇った硝子窓も、磨かれた蛇口も舶来式である。
衣を解き、手拭で胸元を押さえながら入ると、湯船は銅で出来ていた。
昼前に乱れた髪を、時間をかけて丹念に梳く。
身体も洗い清めてから、片手を湯船の縁に這わせ、そっと湯へ身を沈めた。
肩まで浸かると、昼に蘭と歩いた町の賑わいも、七ツ蔵の忙しない空気も、次第に遠のいていく。
どうやら、この湯は椿一人のために張られたものらしい。
父のことを思えば、不安は尽きない。
明日には、何かが判るとよいのだけれど。
霍成に、これ以上の苦労はかけたくなかった。
しかし、口の利けない自分を参内に伴ったところで、何の役に立てるのだろう。
それどころか、あの和歌の詠み手である分、却って足手まといになるばかりではないか。
断じて、帝の御前へ奏上する心算などなかった。
そう訴えたところで、誰が信じてくれるだろう。
湯上がりの身に仄かな湯気を纏いながら、椿が部屋へ戻りかけたときだった。
店の奥から、笑い騒めく声が漏れて来る。
気に掛かって、椿は七ツ純喫茶の内をそっと覗いた。
昼は開け放たれていた店内も、夜には引き戸が閉まり、密やかな別世界となっていた。
硝子笠の明かりは控えめに落とされ、女給たちは昼の給仕よりも一層、客の懐へ踏み込むような笑みを浮かべている。
卓子に盃を置く指先は、殊更に優美だった。
身を屈めるたび、鈴の音と一緒に、甘い匂油の香りがふわりと零れる。
奥の席では、常連らしい男が猫耳の女給を膝へ抱え上げかけていた。
女は驚いたふうに肩を竦めながらも、するりと腕の中を逃れる。
細い腕がすっと伸びたかと思うと、早業で男の盃を取り上げていた。
「おしまいになさって」
男は気勢を削がれたようでいて、猶嬉しそうにどっと笑った。
酒と笑いと旨い飯。
手の届きそうで届かぬ酌婦の気配。
それらが夜の遊びと混然一体になっている。
昼間の七ツ純喫茶しか知らぬ者には、同じ店とは思えぬ程だった。
二階へ上がっても、霍成が戻った気配はなかった。
先程手にしていた書類も見当たらない。
椿のために新しく褥が一つ、部屋の隅に整えられていた。
ふと見れば、文机には握り飯も用意されている。
一階の純喫茶に出入りできる刻限ではないからだろう。
どちらも、先ほど案内してくれた女給の心配りに違いなかった。
椿は、文机のてでぃべあと文化人形を枕許へ置き直す。
昼にとんかつを口にしたこともあり、握り飯には手を付けず、そのまま布団へ入る。
階下の睦み合う気配は、尚もぼんやりと二階まで届いていた。
それを聞きながら目を閉じると、今日という一日があまりにも目新しく、長い夢のように思われた。
あくる朝、七ツ蔵の空気は澄んでいた。
春の始めとはいえ、川岸の傍では、和泉邸より底冷えがする。
店が始まる前に、椿は支度を整えた。
霍成が戻っていないか確かめがてら、手伝えることがあればと階下へ降りる。
下では、蘭が眠そうな目で珈琲を飲んでいた。
椿に気付くと、言葉より先に目配せで向かいの席を示す。
他の女給たちの姿はない。
昨夜の疲れで、まだ眠っているのだろう。
椿が腰を下ろすと、蘭は古い品書を差し出した。
一、
珈琲 十銭
香り高き舶来豆を用ゐ、猫娘が心をこめて淹れ申候
一、
牛乳珈琲 十二銭
同上
角砂糖添へも可
一、
猫舌(ねこぢた)しるこ 八銭
熱き汁粉をほどよく冷まし召し上がりやすく仕立て候
一、
みけ猫さんど 十三銭
三色の具を挟みたる洋風軽食
見た目も艶やか
と、ここまで目を走らせたところで――
あッ、と声が上がり、品書が取り上げられた。
「失礼。此方は朝食めにゅうでございましたわ」
まだ疲れが抜け切らぬらしく、蘭はどこか上の空だった。
昼の品書と矯めつ眇めつ見比べた後、再び椿の手へ朝食の品書を押し込む。
「お好きなものを選びなすってくださいにゃ。昨日買い出しを済ませて、材料は揃っております故」
昨夜殆ど食べていないせいで、椿は空腹だった。
猫舌しるこを指さすと、蘭はきりりと立ち上がり、厨房の奥へ勢いよく消えて行った。
熱い汁を啜っていると、程なくして霍成が戻って来た。
蘭の座っていた向かいの席へ収まるや否や、奥から当の蘭がひょいと現れる。
二人の前に昼食の曲げわっぱを置き、取って返して、今度は霍成の手へ珈琲を渡した。
「お二方、ごゆるりと。あてしはもう、猫の手も貸せぬほど眠うございますにゃ」
そう言うなり、蘭は喉許の鈴をちりんと鳴らし、奥の寝床へ退散していった。
どうやら、これがいつもの調子らしい。
先ほど品書を取り違えていたのは、そもそも朝食を出す習わしがないせいなのだろう。
こんなやり取り一つにも、口を開かぬ自分には、確かめる術さえなかった。
「飲んだら出発だ」
そう言われ、椿は、猫舌と銘打つわりに存外熱く仕立てられていた汁を、急いで飲み下した。
明日の朝は、珈琲にしよう。
ふと、そんなことを考える。
その瞬間、椿は自分で自分に驚いた。
明朝もまた、この雑多な純喫茶で朝食を取る心算でいる。
まるで、此処がもう、帰る場所の一つになっているかのように。
先刻までの、のんびり浮き立った調子はどこへやら。
蘭は氷式冷蔵庫の前で、紙包みや瓶を次々と詰め込んでいる。
店の奥から、二階を歩く気配がした。
霍成は、もう目覚めているらしい。
「いけない、いけない、もうこんなお時間! 夜の戦場に間に合いませんにゃ!」
蘭は棚を開け、氷を避け、竹籠から包みを抜き取っては、手際よく奥へ収めていく。
「ああーっ、附木に炭団に、氷の牽引車まで来てしまいますッ!」
鈴をちりちり鳴らしながら、蘭は店の奥と帳場の間を小走りに行き来していた。
椿は、冷やす必要のない細々としたものを食品庫へ運んだ。
一頻り手伝ったところで、そっと手を止める。
これ以上は、かえって邪魔になる。
忙しく立ち働く蘭の背中へ、心の中で礼を告げる。
椿は静かに二階へ上がった。
霍成は長椅子に身を横たえていた。
肘掛けに長い脚を投げ出し、書類に目を落としている。
眠る前に見せていた深い疲れの色は、今は幾分薄れていた。
短い睡眠でも、少しは身体が休まったのだろう。
「戻ったか」
霍成が書類から目を上げ、身を起こした。
椿は抱えていた包みを、文机の上へそっと置く。
紙包みの文化人形と、てでぃべあ。
霍成の目が、そこで止まった。
口元が、にやりと持ち上がる。
「……楽しかったか」
責める響きではなかった。
むしろ、椿が外で何かを見て来たことを、面白がっているような目だった。
椿は、微かに微笑んだ。
霍成は周章てて、にやけかけた口元を手の甲で隠した。
一言まちがえれば、たちまちその微笑は消えてしまう。
そう思ったのか、暫く何も言わなかった。
窓の外では、川の方角から細い篠笛の音が流れて来ていた。
遠くで笑い声が上がり、荷を下ろす鈍い音が、それに重なる。
商いを終えた番頭や俥夫たちが、宵口の一時を楽しんでいるのだろう。
その賑わいが遠いほど、部屋の中は静かだった。
文机の上では、紙包みの人形とてでぃべあが、肩を並べている。
「そうか」
短く応じて、霍成はその隣へ手を伸ばす。
置かれていた書類を二、三枚纏め、ややあって視線を椿へ戻した。
「和歌は、内裏にある。今は預かりの形で留めてある」
自分の詠んだものが、手許を離れていた。
家を離れ、ついには畏れ多い場所へ届いてしまった。
殿上人は、あれを何と思ったのだろう。
考えるだけで、身の内が冷える。
和歌だけではない。
椿自身もまた、誰かの手に渡れば、幾らでも都合のよい意味を添えられる。
いつ何時、父の政敵の手札として使われぬとも限らなかった。
「この辺りの蔵の一つに、古い家譜を抱え込んでいるところがある。華族のものだ。尤も、大半は写本として佐伯家へ渡ったものだが」
霍成はそこで一息おき、椿の顔色を窺った。
既に宮中では、異能の発現が囁かれているのだろう。
和泉の娘が、紙に言霊を宿した。
それだけで、どれほど尾ひれが付くか知れない。
霍成は、守る理由は値打ちではないと言った。
では、何なのだろう。
主上への忠誠故か。父のためか。
それとも――。
「明日はその蔵を捜査する。が、その前に、俺は一度ご報告に上がる」
噛んで含めるような、穏やかな調子だった。
少しでも安心させようとしているのかもしれない。
「夜は先に寝んでいろ。……明日、蔵へ入るなら、気力が要る」
霍成にとって、参内は職務の一つでしかないのだろう。
けれど椿には、その響きだけで遠い憧れを誘うものだった。
いずれ後宮の女官として上がる身であれば、尚更に。
あれこれと思案しながらも、椿は小さく頷いた。
霍成が出て暫くすると、湯が整ったと女給の一人が告げに来た。
案内されて裏手へ回る。
遠くに蔵屋敷町の大衆銭湯の灯りが見え、椿は思わず身を強張らせた。
まさか、あちらへ連れて行かれるのだろうか。
女給はそのまま廊下の奥へ進み、小ぢんまりとした内風呂へ椿を導いた。
そこで初めて、ほっと息が漏れる。
戸を開けると、湯気が仄かに籠っていた。
石鹸とも、匂油ともつかぬ、どこか異国めいた香りが漂っている。
和泉邸の主屋の奥にある、古い檜の湯殿とはまるで違う。
洗い場も備えられており、当然ながら五右衛門風呂の造りとも全く異なる。
白く曇った硝子窓も、磨かれた蛇口も舶来式である。
衣を解き、手拭で胸元を押さえながら入ると、湯船は銅で出来ていた。
昼前に乱れた髪を、時間をかけて丹念に梳く。
身体も洗い清めてから、片手を湯船の縁に這わせ、そっと湯へ身を沈めた。
肩まで浸かると、昼に蘭と歩いた町の賑わいも、七ツ蔵の忙しない空気も、次第に遠のいていく。
どうやら、この湯は椿一人のために張られたものらしい。
父のことを思えば、不安は尽きない。
明日には、何かが判るとよいのだけれど。
霍成に、これ以上の苦労はかけたくなかった。
しかし、口の利けない自分を参内に伴ったところで、何の役に立てるのだろう。
それどころか、あの和歌の詠み手である分、却って足手まといになるばかりではないか。
断じて、帝の御前へ奏上する心算などなかった。
そう訴えたところで、誰が信じてくれるだろう。
湯上がりの身に仄かな湯気を纏いながら、椿が部屋へ戻りかけたときだった。
店の奥から、笑い騒めく声が漏れて来る。
気に掛かって、椿は七ツ純喫茶の内をそっと覗いた。
昼は開け放たれていた店内も、夜には引き戸が閉まり、密やかな別世界となっていた。
硝子笠の明かりは控えめに落とされ、女給たちは昼の給仕よりも一層、客の懐へ踏み込むような笑みを浮かべている。
卓子に盃を置く指先は、殊更に優美だった。
身を屈めるたび、鈴の音と一緒に、甘い匂油の香りがふわりと零れる。
奥の席では、常連らしい男が猫耳の女給を膝へ抱え上げかけていた。
女は驚いたふうに肩を竦めながらも、するりと腕の中を逃れる。
細い腕がすっと伸びたかと思うと、早業で男の盃を取り上げていた。
「おしまいになさって」
男は気勢を削がれたようでいて、猶嬉しそうにどっと笑った。
酒と笑いと旨い飯。
手の届きそうで届かぬ酌婦の気配。
それらが夜の遊びと混然一体になっている。
昼間の七ツ純喫茶しか知らぬ者には、同じ店とは思えぬ程だった。
二階へ上がっても、霍成が戻った気配はなかった。
先程手にしていた書類も見当たらない。
椿のために新しく褥が一つ、部屋の隅に整えられていた。
ふと見れば、文机には握り飯も用意されている。
一階の純喫茶に出入りできる刻限ではないからだろう。
どちらも、先ほど案内してくれた女給の心配りに違いなかった。
椿は、文机のてでぃべあと文化人形を枕許へ置き直す。
昼にとんかつを口にしたこともあり、握り飯には手を付けず、そのまま布団へ入る。
階下の睦み合う気配は、尚もぼんやりと二階まで届いていた。
それを聞きながら目を閉じると、今日という一日があまりにも目新しく、長い夢のように思われた。
あくる朝、七ツ蔵の空気は澄んでいた。
春の始めとはいえ、川岸の傍では、和泉邸より底冷えがする。
店が始まる前に、椿は支度を整えた。
霍成が戻っていないか確かめがてら、手伝えることがあればと階下へ降りる。
下では、蘭が眠そうな目で珈琲を飲んでいた。
椿に気付くと、言葉より先に目配せで向かいの席を示す。
他の女給たちの姿はない。
昨夜の疲れで、まだ眠っているのだろう。
椿が腰を下ろすと、蘭は古い品書を差し出した。
一、
珈琲 十銭
香り高き舶来豆を用ゐ、猫娘が心をこめて淹れ申候
一、
牛乳珈琲 十二銭
同上
角砂糖添へも可
一、
猫舌(ねこぢた)しるこ 八銭
熱き汁粉をほどよく冷まし召し上がりやすく仕立て候
一、
みけ猫さんど 十三銭
三色の具を挟みたる洋風軽食
見た目も艶やか
と、ここまで目を走らせたところで――
あッ、と声が上がり、品書が取り上げられた。
「失礼。此方は朝食めにゅうでございましたわ」
まだ疲れが抜け切らぬらしく、蘭はどこか上の空だった。
昼の品書と矯めつ眇めつ見比べた後、再び椿の手へ朝食の品書を押し込む。
「お好きなものを選びなすってくださいにゃ。昨日買い出しを済ませて、材料は揃っております故」
昨夜殆ど食べていないせいで、椿は空腹だった。
猫舌しるこを指さすと、蘭はきりりと立ち上がり、厨房の奥へ勢いよく消えて行った。
熱い汁を啜っていると、程なくして霍成が戻って来た。
蘭の座っていた向かいの席へ収まるや否や、奥から当の蘭がひょいと現れる。
二人の前に昼食の曲げわっぱを置き、取って返して、今度は霍成の手へ珈琲を渡した。
「お二方、ごゆるりと。あてしはもう、猫の手も貸せぬほど眠うございますにゃ」
そう言うなり、蘭は喉許の鈴をちりんと鳴らし、奥の寝床へ退散していった。
どうやら、これがいつもの調子らしい。
先ほど品書を取り違えていたのは、そもそも朝食を出す習わしがないせいなのだろう。
こんなやり取り一つにも、口を開かぬ自分には、確かめる術さえなかった。
「飲んだら出発だ」
そう言われ、椿は、猫舌と銘打つわりに存外熱く仕立てられていた汁を、急いで飲み下した。
明日の朝は、珈琲にしよう。
ふと、そんなことを考える。
その瞬間、椿は自分で自分に驚いた。
明朝もまた、この雑多な純喫茶で朝食を取る心算でいる。
まるで、此処がもう、帰る場所の一つになっているかのように。



