霍成は話し終えると、そこでふっと息を吐いた。
張っていたものが解けるのが見て取れる。
「……少し寝る」
低くそれだけ言うと、部屋の隅の押し入れへ歩み寄る。
襖を開け、流れるような動作で中から布団を引き摺り出した。
その運びに無駄がないのは、ここで眠るのが一度や二度ではないからだろう。
敷布を広げ、掛け布団を放るように置くと、霍成は軍帽を脱いで脇へ置き、軍服の上着を脱いだ。すぐさま布団の上に横たわって背を向けた。
長い髪が少し乱れる。眠気に逆らう気も起こらない程らしい。
椿は畳の上に座ったまま、ただ霍成を、じっと見ていた。
傍に脱ぎ捨てられた軍服は飾りに乏しい仕立てながら、詰襟は喉もとをきっちりと囲っていて、着姿には却って妙な色気があったことを思い出す。
肩から胸、腰へかけての線に、少しの隙もない。布団の上からでも、足の長さは隠しようがない。
むしろ布団を被っているせいで、霍成の骨格の正しさばかりが、いっそう際立って見えるのだった。
強く、揺るぎなく見える人にも、こうして目を閉じるひとときがあるのだと思うと、胸の奥がやわらかく疼いた。
そうしてしばらく見守っているうちに、霍成はやにわに寝返りを打ち、ふと思い出したように顔を上げた。
「椿」
名を呼ばれ、椿ははっとして背筋を伸ばす。
「昼営業が終わったら起こしてくれ。俺は少し寝る。蘭と外に出ていていい」
頷こうとして、椿はわずかに身じろぎした。
だが、それでは足りぬと自分でも判った。
相手はもう疲れ果てて目を瞑っているのだ。
――何か、して差し上げたいのに。
椿は困惑した。
蘭にどう伝えればよいのか、判らなかった。
声が出せぬことが、こんなにも歯がゆいことは、此れまで一度もなかった。
「いや……やはり先に俺が蘭に話をつける」
そう言うと、霍成は眠たげなまま掛け布団を押しのけ、半ば無理に身を起こした。
その様子に、椿は思わず一歩踏み出す。
――わたしが動けていれば。
その一事が胸に引っかかり、離れない。
階段を降りてゆく背を見送りながら、椿は思う――
次こそは、自分の言葉で伝えられるように、と。
程なくして、霍成が純喫茶から戻ってきた。
と、襖の向こうから、蘭が顔をのぞかせる。
猫のように気配の軽い女だ。
霍成は懐から紙入れを取り出し、中を検めるでもなく無造作に数枚つまんで蘭へ差し出した。
「金は気にするな」
「まあッ」
蘭はその場で気をつけの姿勢をとる。ちりん、と喉元の鈴が鳴る
受け取った紙幣を見たとたん、瞳の奥にあからさまな歓喜が灯る。
髪輪の耳がぴんと立ったように見えた。
「なんて気前のよろしい。あてし、そういう殿方、だーいすきですにゃ」
「客に言ってやれ」
はッと、気が付いて椿に申し訳ないとでも思ったのか、ばつが悪いように階下へ逃げて行った。
「お前の事情は話しておいた。口を利くなと言われているんだろう」
椿の表情が曇った。
どうして判ったのだろう。
父への尋問で零れ出た話だろうか。
「それもいずれ……、が、俺はもう寝る。遠くへは行くなよ」
本当に眠いのか、手振りで追い払われる。
椿が一階の純喫茶に降りていくと、
「ご安心なさいまし。あてし、空気を読むのは得意にゃん」
待っていたかのように蘭が出迎える。
「ご主人様はお疲れなのですよー。ではお嬢さま、あてしたちも。こういうときは、ぱっと目に楽しいものを見るのが一番ですにゃ」
七ツ蔵の長屋門を通り過ぎ、繁華な通りへ出ると、椿の目はたちまち忙しくなった。
硝子窓のある店。色刷りの広告。洋装の娘たち。軒先で鳴る蓄音機。
これまで書物の上でしか知らなかったものが、匂いを持ち、音を立てて目の前に並んでいる。
蘭はそんな椿の様子を横目に見て、くすりと笑った。
嗜虐心がくすぐられたのか、焦らすように言う。
「まあァ、きょろきょろと! 何方から行くかにゃ」
椿は答えられず、ただ困ったように蘭を見る。
「もーう、ほんっと乳児ちゃんみたい。流行りの西洋玩具屋なんてどうかにゃあー。眺めるだけでも夢のようにゃ」
蘭に導かれ、椿は一軒の店へ入った。
硝子戸をくぐったとたん、世界が色づく。
棚という棚に、玩具がぎっしりと並んでいた。ぜんまい仕掛けの兵隊、目を閉じる洋人形、小さな木馬、積み木。
華族の娘として、かろうじて馴染みがあったのは、隅っこに押し遣られていた色硝子のおはじきだけだ。
ごく幼少の時分に妹の紬路と盤上に並べて、指ではじき合って遊んだ記憶がある。
中でも椿の目を引いたのは、柔らかな毛に包まれた熊のぬいぐるみだった。
丸い耳。つぶらな目。
どこかとぼけた顔つきで、でも抱き寄せればちゃんとぬくもりを返してくれそうな姿。
椿が足を止めると、蘭はすぐに気づいた。
「あら、それ選んじゃいますにゃ? 洋熊――」
「てでぃ……べあ」
座った耳の先へ縫いつけられていた札の洋文字を読んで、その名がふいに椿の口から滑り出した。
蘭はすぐさま店員を呼びつける。
椿はつられるように手を伸ばし、そっとそれを腕に抱いた。思っていたより軽い。布や綿とは違う、妙に人懐こい柔らかさだ。
てでぃべあの丸い目の奥に、ふと霍成の気だるげな眼差しが重なる。
眠たげで、ぶっきらぼうで、けれど手を差し出せばちゃんと引いてくれる人。
蘭はそんな椿を見て、今度は別の棚から人形を取り上げた。
店員はひどく愛想よく、にこにこと脇に控えている。
「あはっ、こっち何にゃ?」
「文化人形でございます」
すかさず店員が口を添えた。
黒いまっすぐな髪に、大きな目。小さな口許。
赤や橙の鮮やかな衣裳を身につけ、此方を見返している。
椿はてでぃべあと文化人形を並べ、左右の手に一つずつ持って掲げて近くで見てみる。
「まあァ、お似合いですにゃっ。ふふふ……」
蘭は何か密かな楽しみでも見つけた様子だ。
何やら途端に面映ゆくなる。
「両方くーださいッ」
蘭が満面の笑みで言うと、店員は心得たように取って返す。
帳場では、ぱちぱちと珠を払う音がして、程ななく勘定が済んだ。
そうして二人は店を出た。
――この熊は、霍成さんみたい。
――そして、この人形は、きっと私。
もちろん、そんなことを口にはしない。
心の中でさえ、言葉にしてしまえばあまりに幼く、あまりに身勝手な気もした。
それから蘭は買い足すものがあるのだと言って、たーっぷり頂きましたもんねぇと算段でもするように呟きながら、椿を連れて大通りから少し外れた路上市の一角へ足を向けた。
様々な露店が肩を寄せ合うように並ぶ中でも、とりわけ食べものを扱う店が集まっているようだ。
魚を下したあとの生ぐさい潮の気配、焼いた餅や煮豆の甘い匂いが、狭い路地の空気に幾重にも折り重なっている。
筵の上に並べられた青菜や大根や牛蒡、桶に沈められた貝のぬめるような光。
椿の見知った庭や台所のものとは違って、どれもこれも剥きだしの活気を帯びて見えた。
威勢のいい売り声があちらこちらから飛ぶ。
「朝じめだよ、朝じめ!」
「豆腐、まだ温かいよ!」
「蜜柑、ふた山でその値だ、持っていきな!」
声と声とがぶつかり合い、笑い、値切るやりとり。
それらが重なって、通りそのものが一つの大きな生き物のように脈打っていた。
蘭は慣れたものだった。
あてし、こういうところでは負けませんのよ、とでも言いたげな顔で、次々と露店の前にしゃがみこみ、手に取っては色つやを確かめ、覗きこんでは気前よく値を叩く。
目立って仕方がないのに、当の本人は一向に構わぬ様子である。
むしろ飛び交うお追従を、面白がっている様子だ。
「姐さん、今日も景気がいいねえ」
「へいッ、毎度。うちの大根、あんたに買われてべっぴん冥利に尽きるねえ」
「あんたが立つと、品まで上等に見えるよ。こっちにも来ておくれ!」
蘭はちゃっかりと野菜や卵を値切っていく。
椿はその脇に立って見ているばかりだったが、やがて有無を言わせず紙包みや小さな籠を一つ二つ渡され、最後には両腕が埋まってしまった。
紙越しに伝わる温みもあれば、まだひんやりしたままのものもある。
そんな中でも、葱の青い香りが一等立っている。こんな風に、買ったばかりのものを抱えて通りを歩くことすら、椿には新しい。
「では、戻りますにゃ」
蘭は、たっぷりお世辞を浴びせられ、満喫してご機嫌の様子だ。
七ツ蔵へ戻る道は、荷も多いので流しの人力俥を使った。
呼び止めるときには蘭はおもむろに車道の真ん中へ一歩進み出ると、配膳盆でも掲げるような勢いで、籠を肩にかけたままの両手を振った。
すると、通りかかった車夫が、ぎょっとしたように轅を取り落としかけ、俥をがたんと止めた。
車夫は何事かと目を剥いたが、蘭はにっこり笑って、空車ですにゃ? と言っただけだった。あまりの手際のよさに、椿は終始圧倒されていた。
俥の上から、通りの気配が静かに流れてゆく。
いつしか、夕刻の色へと移ろい始めていた。
賑やかな露店の喧騒が遠のくにつれ、人の声は短く、足音は忙しなくなり、代わりに車輪の軋みや、木箱を下ろすどん、と鈍い音が耳につくようになる。
川沿いに土手蔵がずらりと並ぶ辺りまで来ると、この一帯は買いもの客が一寸散策にぶらつく町筋というより、もう玄人商売向けのような迫力がある。
その傍らでは、帳面を開いた番頭らしき男が、蔵の中から出てきた商人と何事か言葉を交わしていた。品の名か、数か、値か。椿には聞き取れない。
やり取りの末に相手が懐から金を出し、番頭がそれを受け取る手つき。
それを見るに、ここは貯蔵するだけではなく、実物を見ながら大量取引されているのが椿にも判った。
「蔵ごと売り買いが付いて、いちいち荷をよそへ移さずとも、ちょっくら蔵出しすればよいのですにゃッ」
蘭は金勘定に明るい、なかなかしっかりした娘なのである。
なるほど、と椿は思った。
椿は馬車から降り、紙包みを落とさぬよう受け取ると、蔵と蔵のあいだに挟まるようにして建っている七ツ純喫茶の面妖な看板を見上げた。
「椿さま、お足もとにお気をつけあそばせ」
蘭に言われてはっとし、椿は敷居の前の石段を見た。
荷を抱えたまま一段上がると、店の奥から、またあの乾いた算盤の音が聞こえて来る。
ぱち、ぱち、と小気味よく響くそれは、見世蔵と同様に、飯代の勘定だけではないのかもしれない。
張っていたものが解けるのが見て取れる。
「……少し寝る」
低くそれだけ言うと、部屋の隅の押し入れへ歩み寄る。
襖を開け、流れるような動作で中から布団を引き摺り出した。
その運びに無駄がないのは、ここで眠るのが一度や二度ではないからだろう。
敷布を広げ、掛け布団を放るように置くと、霍成は軍帽を脱いで脇へ置き、軍服の上着を脱いだ。すぐさま布団の上に横たわって背を向けた。
長い髪が少し乱れる。眠気に逆らう気も起こらない程らしい。
椿は畳の上に座ったまま、ただ霍成を、じっと見ていた。
傍に脱ぎ捨てられた軍服は飾りに乏しい仕立てながら、詰襟は喉もとをきっちりと囲っていて、着姿には却って妙な色気があったことを思い出す。
肩から胸、腰へかけての線に、少しの隙もない。布団の上からでも、足の長さは隠しようがない。
むしろ布団を被っているせいで、霍成の骨格の正しさばかりが、いっそう際立って見えるのだった。
強く、揺るぎなく見える人にも、こうして目を閉じるひとときがあるのだと思うと、胸の奥がやわらかく疼いた。
そうしてしばらく見守っているうちに、霍成はやにわに寝返りを打ち、ふと思い出したように顔を上げた。
「椿」
名を呼ばれ、椿ははっとして背筋を伸ばす。
「昼営業が終わったら起こしてくれ。俺は少し寝る。蘭と外に出ていていい」
頷こうとして、椿はわずかに身じろぎした。
だが、それでは足りぬと自分でも判った。
相手はもう疲れ果てて目を瞑っているのだ。
――何か、して差し上げたいのに。
椿は困惑した。
蘭にどう伝えればよいのか、判らなかった。
声が出せぬことが、こんなにも歯がゆいことは、此れまで一度もなかった。
「いや……やはり先に俺が蘭に話をつける」
そう言うと、霍成は眠たげなまま掛け布団を押しのけ、半ば無理に身を起こした。
その様子に、椿は思わず一歩踏み出す。
――わたしが動けていれば。
その一事が胸に引っかかり、離れない。
階段を降りてゆく背を見送りながら、椿は思う――
次こそは、自分の言葉で伝えられるように、と。
程なくして、霍成が純喫茶から戻ってきた。
と、襖の向こうから、蘭が顔をのぞかせる。
猫のように気配の軽い女だ。
霍成は懐から紙入れを取り出し、中を検めるでもなく無造作に数枚つまんで蘭へ差し出した。
「金は気にするな」
「まあッ」
蘭はその場で気をつけの姿勢をとる。ちりん、と喉元の鈴が鳴る
受け取った紙幣を見たとたん、瞳の奥にあからさまな歓喜が灯る。
髪輪の耳がぴんと立ったように見えた。
「なんて気前のよろしい。あてし、そういう殿方、だーいすきですにゃ」
「客に言ってやれ」
はッと、気が付いて椿に申し訳ないとでも思ったのか、ばつが悪いように階下へ逃げて行った。
「お前の事情は話しておいた。口を利くなと言われているんだろう」
椿の表情が曇った。
どうして判ったのだろう。
父への尋問で零れ出た話だろうか。
「それもいずれ……、が、俺はもう寝る。遠くへは行くなよ」
本当に眠いのか、手振りで追い払われる。
椿が一階の純喫茶に降りていくと、
「ご安心なさいまし。あてし、空気を読むのは得意にゃん」
待っていたかのように蘭が出迎える。
「ご主人様はお疲れなのですよー。ではお嬢さま、あてしたちも。こういうときは、ぱっと目に楽しいものを見るのが一番ですにゃ」
七ツ蔵の長屋門を通り過ぎ、繁華な通りへ出ると、椿の目はたちまち忙しくなった。
硝子窓のある店。色刷りの広告。洋装の娘たち。軒先で鳴る蓄音機。
これまで書物の上でしか知らなかったものが、匂いを持ち、音を立てて目の前に並んでいる。
蘭はそんな椿の様子を横目に見て、くすりと笑った。
嗜虐心がくすぐられたのか、焦らすように言う。
「まあァ、きょろきょろと! 何方から行くかにゃ」
椿は答えられず、ただ困ったように蘭を見る。
「もーう、ほんっと乳児ちゃんみたい。流行りの西洋玩具屋なんてどうかにゃあー。眺めるだけでも夢のようにゃ」
蘭に導かれ、椿は一軒の店へ入った。
硝子戸をくぐったとたん、世界が色づく。
棚という棚に、玩具がぎっしりと並んでいた。ぜんまい仕掛けの兵隊、目を閉じる洋人形、小さな木馬、積み木。
華族の娘として、かろうじて馴染みがあったのは、隅っこに押し遣られていた色硝子のおはじきだけだ。
ごく幼少の時分に妹の紬路と盤上に並べて、指ではじき合って遊んだ記憶がある。
中でも椿の目を引いたのは、柔らかな毛に包まれた熊のぬいぐるみだった。
丸い耳。つぶらな目。
どこかとぼけた顔つきで、でも抱き寄せればちゃんとぬくもりを返してくれそうな姿。
椿が足を止めると、蘭はすぐに気づいた。
「あら、それ選んじゃいますにゃ? 洋熊――」
「てでぃ……べあ」
座った耳の先へ縫いつけられていた札の洋文字を読んで、その名がふいに椿の口から滑り出した。
蘭はすぐさま店員を呼びつける。
椿はつられるように手を伸ばし、そっとそれを腕に抱いた。思っていたより軽い。布や綿とは違う、妙に人懐こい柔らかさだ。
てでぃべあの丸い目の奥に、ふと霍成の気だるげな眼差しが重なる。
眠たげで、ぶっきらぼうで、けれど手を差し出せばちゃんと引いてくれる人。
蘭はそんな椿を見て、今度は別の棚から人形を取り上げた。
店員はひどく愛想よく、にこにこと脇に控えている。
「あはっ、こっち何にゃ?」
「文化人形でございます」
すかさず店員が口を添えた。
黒いまっすぐな髪に、大きな目。小さな口許。
赤や橙の鮮やかな衣裳を身につけ、此方を見返している。
椿はてでぃべあと文化人形を並べ、左右の手に一つずつ持って掲げて近くで見てみる。
「まあァ、お似合いですにゃっ。ふふふ……」
蘭は何か密かな楽しみでも見つけた様子だ。
何やら途端に面映ゆくなる。
「両方くーださいッ」
蘭が満面の笑みで言うと、店員は心得たように取って返す。
帳場では、ぱちぱちと珠を払う音がして、程ななく勘定が済んだ。
そうして二人は店を出た。
――この熊は、霍成さんみたい。
――そして、この人形は、きっと私。
もちろん、そんなことを口にはしない。
心の中でさえ、言葉にしてしまえばあまりに幼く、あまりに身勝手な気もした。
それから蘭は買い足すものがあるのだと言って、たーっぷり頂きましたもんねぇと算段でもするように呟きながら、椿を連れて大通りから少し外れた路上市の一角へ足を向けた。
様々な露店が肩を寄せ合うように並ぶ中でも、とりわけ食べものを扱う店が集まっているようだ。
魚を下したあとの生ぐさい潮の気配、焼いた餅や煮豆の甘い匂いが、狭い路地の空気に幾重にも折り重なっている。
筵の上に並べられた青菜や大根や牛蒡、桶に沈められた貝のぬめるような光。
椿の見知った庭や台所のものとは違って、どれもこれも剥きだしの活気を帯びて見えた。
威勢のいい売り声があちらこちらから飛ぶ。
「朝じめだよ、朝じめ!」
「豆腐、まだ温かいよ!」
「蜜柑、ふた山でその値だ、持っていきな!」
声と声とがぶつかり合い、笑い、値切るやりとり。
それらが重なって、通りそのものが一つの大きな生き物のように脈打っていた。
蘭は慣れたものだった。
あてし、こういうところでは負けませんのよ、とでも言いたげな顔で、次々と露店の前にしゃがみこみ、手に取っては色つやを確かめ、覗きこんでは気前よく値を叩く。
目立って仕方がないのに、当の本人は一向に構わぬ様子である。
むしろ飛び交うお追従を、面白がっている様子だ。
「姐さん、今日も景気がいいねえ」
「へいッ、毎度。うちの大根、あんたに買われてべっぴん冥利に尽きるねえ」
「あんたが立つと、品まで上等に見えるよ。こっちにも来ておくれ!」
蘭はちゃっかりと野菜や卵を値切っていく。
椿はその脇に立って見ているばかりだったが、やがて有無を言わせず紙包みや小さな籠を一つ二つ渡され、最後には両腕が埋まってしまった。
紙越しに伝わる温みもあれば、まだひんやりしたままのものもある。
そんな中でも、葱の青い香りが一等立っている。こんな風に、買ったばかりのものを抱えて通りを歩くことすら、椿には新しい。
「では、戻りますにゃ」
蘭は、たっぷりお世辞を浴びせられ、満喫してご機嫌の様子だ。
七ツ蔵へ戻る道は、荷も多いので流しの人力俥を使った。
呼び止めるときには蘭はおもむろに車道の真ん中へ一歩進み出ると、配膳盆でも掲げるような勢いで、籠を肩にかけたままの両手を振った。
すると、通りかかった車夫が、ぎょっとしたように轅を取り落としかけ、俥をがたんと止めた。
車夫は何事かと目を剥いたが、蘭はにっこり笑って、空車ですにゃ? と言っただけだった。あまりの手際のよさに、椿は終始圧倒されていた。
俥の上から、通りの気配が静かに流れてゆく。
いつしか、夕刻の色へと移ろい始めていた。
賑やかな露店の喧騒が遠のくにつれ、人の声は短く、足音は忙しなくなり、代わりに車輪の軋みや、木箱を下ろすどん、と鈍い音が耳につくようになる。
川沿いに土手蔵がずらりと並ぶ辺りまで来ると、この一帯は買いもの客が一寸散策にぶらつく町筋というより、もう玄人商売向けのような迫力がある。
その傍らでは、帳面を開いた番頭らしき男が、蔵の中から出てきた商人と何事か言葉を交わしていた。品の名か、数か、値か。椿には聞き取れない。
やり取りの末に相手が懐から金を出し、番頭がそれを受け取る手つき。
それを見るに、ここは貯蔵するだけではなく、実物を見ながら大量取引されているのが椿にも判った。
「蔵ごと売り買いが付いて、いちいち荷をよそへ移さずとも、ちょっくら蔵出しすればよいのですにゃッ」
蘭は金勘定に明るい、なかなかしっかりした娘なのである。
なるほど、と椿は思った。
椿は馬車から降り、紙包みを落とさぬよう受け取ると、蔵と蔵のあいだに挟まるようにして建っている七ツ純喫茶の面妖な看板を見上げた。
「椿さま、お足もとにお気をつけあそばせ」
蘭に言われてはっとし、椿は敷居の前の石段を見た。
荷を抱えたまま一段上がると、店の奥から、またあの乾いた算盤の音が聞こえて来る。
ぱち、ぱち、と小気味よく響くそれは、見世蔵と同様に、飯代の勘定だけではないのかもしれない。

