言うや否や、あっという間に近づいて小柄な身を低くして、椿の顔を覗き込む。
猫のように愛嬌のある瞳が近くにある。
「はじめまして、お嬢さま。七ツ純喫茶へようこそ。あてし、蘭と申しますにゃ」
語尾に添えられた妙な音に、椿は目を瞬かせた。
蘭と名乗った猫娘は、それを面白がるように唇の端を持ち上げると、すっと片目を瞑った。
それから暖簾の向こうの厨房へ一旦引き返し、猫の顔型に似せた配膳盆を取り出し、掲げてみせる。
盆と頭の上の猫の髪輪を引き比べて眺めながら、椿は凍り付いている。
その間を、霍成が割って入るように、どこか照れた風に口を挟む。
「驚かせるな。その……深窓の姫だ」
「まあァ、お可愛らしいこと」
まるで赤子扱いだ、と椿は思った。
俄然、子供っぽい気がして霍成の手を放す。
蘭はそうして粗末な着の身着のままの身なりである椿を眺めるその目に、商売人らしいすばやい光を一筋だけ走らせる。
「大丈夫ですよーう、お嬢さま。……うちは見てのとおり、ちょーっとばかり妙なお店ですけれど、食べものも飲みものも、ちゃんとしておりますから」
蘭はくすくすと笑い、胸許に盆を抱え直した。
椿が急いで再び霍成の袖のあたりをそっとつまむと、彼は口元を歪めた。
笑ったのかもしれない。
「何か出してくれ」
「腹ぺこのお役人さまをこれ以上、しおしおにしてはあてしの名折れでございますーう」
ぴッと、嬉しそうに一瞬居直ると、蘭はちりんと音を立てながら、帳場のうしろにある厨房の奥へ消えて行った。
胸のざわめきを抱えたまま、椿は霍成のあとに従って箱形の席へ腰を下ろした。
卓を挟んで向かい合う形になる。
板床の上で、異なる音色の鈴が、ちり、ともう一度鳴った。
本物の猫である。開放式純喫茶だというのに、外ではなく店の中を我が物顔にうろついていた。
ほどなく食べものの溢れる刻になると、ちゃんと心得ているらしい。
「さて、まずは昼食だな。それから話そう」
霍成は気だるげにそう言うと、長椅子の縁へ頭をもたせかけ、ふっと目を閉じて顔の上に軍帽を乗せた。
夜もまだ更けきらぬうちに呼び立てられたのだろう。
まぶたはとろりと重たげで、いつもの隙のなさにも、さすがに疲れの影が滲んでいた。
帳場で算盤の音がやみ、男は蘭の拵えた、ついでの賄いでも食べに立ったのだろう。なんといっても、まだ昼営業の始まる前のひとときである。
それと入れ替わるように、配膳盆を抱えた蘭が現れたときには、霍成はすでに長椅子の背へ深く身を預けていた。
「お待たせいたしましたにゃ! さあさ、お夜食です」
料理と共に現れた蘭が、厨房とのあいだを何度も行き来しながら、盆を器用に扱って皿を卓へ並べてゆく。
香ばしい匂いがふわりと鼻先をくすぐった。
霍成は目を開くなり、綻んだ顔を見せる。
切り分けられた肉の衣はきつね色にさくりと立っている。初めてみる料理だ。
傍らには山のような刻み菜が添えられ、白米の茶碗に薄い大根が見え隠れする味噌汁の小椀も遅れて運ばれて来る。
「とんかつ、でございますにゃ。豚のかつれつ。天麩羅みたいなものですーぅ。お疲れの殿方のお腹ずっしりですよッ」
蘭は得意そうに胸を張った。
喉元の鈴が、ちり、と鳴る。
霍成は皿を見下ろし、納得したように頷いた。
「豪勢なことだな。旨そうだ。いただく」
「随分と、大事そうなお連れさまをお伴にしていらっしゃるのですしー」
そう言って蘭がにやりと笑うので、霍成は、聞かなかったことにするように箸を取った。
蘭がふい、と厨房の後片付けに立つ。ちょこまかとよく動いている。
その仕事ぶりから、椿は初対面から蘭に好印象を持った。
「食え、椿」
促され、椿も箸を伸ばした。
衣ごと豚肉をつまみ上げると、その断面は、白くやわらかな身を溶き卵が優しく覆っているように見えた。
口に運べば、思っていたよりも軽やかである。さくりとした歯ざわりのあとに、やわらかな肉の旨味が広がり、小皿の汁は甘辛く濃く、それがまた合った。
向かいでは霍成が、ほとんど無言のまま箸を進めている。最初の一切れを呑み込んでからの手つきは目に見えて速くなり、空腹だったのだと判った。
椿はその様子を盗み見るたび、胸のうちに小さな灯がともる心地がした。
……大きな熊さんみたい、と、最初の峻厳な武官の印象も和らいで来ている。
蘭が用意したのは霍成のための食事であり、椿には多いくらいだった。
それを言うなら、和泉の家の献立は妙に魚が多かった。煤を集める意味もあったのだろう。
しかし、あのようにして清められた家で、和泉の朋輩、総勢二十ほどが日々口にする食の営みから生まれる煤こそに何か意味があるのかもしれなかった。
「お気に召しましたかにゃ?」
食事の終わりころに蘭が戻って来て、脇からのぞきこむ。
椿はこくりと頷いた。
――また、この娘、意思表示した。
霍成の箸が、ほんの一瞬だけ止まった。
だが、彼は何も言わず、また箸を動かしただけだった。
やがて食事が終わる頃、卓の上は、下げるべきものはすでに引かれて整えられていた。
椿は少しだけ食べきれず、申し訳なく思ったが、蘭は気にするふうもなく盆に皿を重ねていく。残ったもののいくつかは、衣を剥ぐなどそれなりの処置をされたのち、猫の味見にまわされるのだろう。
「霍成さまは、おねむですし、ここでは耳も目も多うございますし」
その言い方に、この店がただ風変わりなだけの場所ではないことを、椿も察した。
雑多な気配の裏で、何か別の用向きにも使われているのである。
「お二階でお休みになってください。さあさあ」
急かされて霍成が立ち上がる。椿も遅れて腰を上げた。
「世話になった」
短く礼を述べると、蘭はどこか芝居がかった仕草で胸元に手を当てた。
「ありがとーお、ございましたーーーっ」
階段は店の奥、帳場の脇にひっそりと口を開けていた。
霍成が先に上がり、椿がその後に続く。
板の階段は思ったより急で、一段ごとに、下の店の匂いが次第に薄れていく。
二階の小部屋には障子窓に向かって文机と長椅子、それに書きもののできる明かりが一つ。霍成の隠れ家なのだろう、私物と思われる服などが隅に畳まれている。
霍成は硝子を背にして立ち、しばらく椿を見た。
先刻までのけだるさは払拭され、色の薄い目に職務の色が見える。
「……まず、伝えておく」
低い声が、狭い部屋に落ちる。
「お前の父、大納言殿は今、拘束されている」
椿の指先が、連れて来られたままの粗末な袖のうちで強ばった。
和泉の家でも聞いたことだ。
椿は畳の上に袷の前を払って抑えながら膝をそろえて折り、正座した。
半ば引き離されるようにして来たが、やむにやまれぬ何かがある。
それでも、言葉にされると腹の底が冷える。
「命に別状はない。少なくとも、今のところはな」
椿は息を詰めたまま、霍成を見上げた。
「和泉の家を調べる」
きっぱりと言い切られる。
けれど、その声音は脅すためのものではなく、事実をそのまま置くような響きだった。
椿は膝の上で手を軽く握った。何か事情がある気がした。
霍成は唇を湿らせ、続けた。
「お前の父母は何かを隠しているな。蔵も、書庫も、人の出入りも調べる」
言われてみて、妙に腑に落ちた。
これまで椿は、和泉の内側にいながら、知らされることだけを知り、見えているものだけを見てきた。
なぜか椿を女学校へ行かせたがらず、西洋式教育にこだわった両親。
その父を助けるためにも、何か突き止めなければならないことがある。
椿は頷いた。
それは、そのまま捜査への同意でもあった。
「協力してくれるか」
霍成が椿の目を見て訊ねる。
椿はまっすぐにその視線を受け、もう一度、こくりと首を縦に振った。
「えぇ」
消え入りそうな声を、どうにか絞り出す。
霍成はしばらく黙っていたが、やがて静かに話し始めた。
昨夜、機密文書の中から見つかったのは、筆書きの和歌だったという。
筆墨と料紙を見て、これを和泉家のものと断じ、名指しで讒言した大臣があったこと。
出処を洗えと命じられ、急ぎ霍成が和泉家へ遣わされたこと。
要すれば、下女が椿を貶めるように囁いていた、外つ国の内通誘致の書などではなかったのだ。
舞台は確かに政事の場ではあった。
ただしそれはずっと薄暗い、権力に関わる何かのようだ。
聞く限り、それが椿自身のものであることは疑いようもなかった。
誰かが似せたのではない。
椿の和歌そのものが、どこかで抜き取られ、宮中へ紛れ込まされたのだ。
誰の手を経て、何の目的で帝の御前へと奉られたのか。
肝心のところだけが、闇に伏せられたまま抜け落ちていた。

