七ツ蔵と呼ばれた蔵屋敷は、長屋門を正面に、幾棟もの蔵が連っていた。
いずれも椿には見慣れた白塗り壁に屋根のついたものだ。
閉ざされた観音開きの扉には鉄の金具が鈍く光り、厳重な錠が下ろされている。
和泉の家では、警備が置かれるのは正門と通用門ばかりで、蔵の扉は殆ど開け放たれているのが常だった。
禁中から運び出され、理由あって和泉へ運び込まれる書物といえど、機密性がさほど高くないこともあるのだろう。
とはいえ、高貴なる手によるものであれば、焼き捨てることも、市井へ下げ渡すこともできない。
椿はそうした書物が好きだった。
入内した姫たちの気散じのような手記には、尊き御方からの夜の誘いを待ち、その寵愛を乞い、ときには他の女御に悋気を起こすほどの恋する気持ちが、余すところなく綴られていたからだ。
やがて自動車は、中央に据えられた長屋門の前で停まった。
椿は窓越しに、通りの幅を見た。
ここを行き交うのは、殆どが人力俥や荷車なのだろう。
砂埃をかぶった道に、機械仕掛けの黒い車体だけが場違いに浮いている。
先に降りた霍成が、異国の貴婦人を馬車から降ろす時のように、手を差し出した。
上向けられた掌を目にした瞬間、たとえよろけてもこの腕が抱きとめてくれる――そんな刹那の安心が過る。
次の瞬間、足裏が石畳を踏みしめ、ふわりとした浮遊感は過ぎ去った。
門番の男が顔を上げた。
煤けた半纏の袖口で手汗を拭いながら、誰が来たのか値踏みするように目を細める。
幾棟かの蔵の前には木箱が積み上げられ、出入りする下男たちの動きが絶えない。
ここは物を蔵する場所であると同時に、絶えず金の動く場所でもあるのだろう。
七ツ蔵と呼ばれるには、畢竟、他に見えているのは一から六までの蔵なのだろう。
その一角、白壁の土蔵が連なる中に、一際異様な店があった。
軒から垂れた暖簾の上には、座してなお人の倍はあろうかという、巨大な猫娘の看板が掲げられていた。
尻を高く突き上げ、尾をこれ見よがしに反らし、猫目娘は狙った獲物を逃がさないとでも言うかのように、此方へ瞳を細く引き絞っている。
悪趣味すれすれの奇っ怪さを、堂々と掲げていた。
そこには、椿には意味の判らない言葉が記されていた。
「七ツ純喫茶」なる、丸みを帯びた子供じみた文字。
その下に小さく、カフェー・キャッツを意味する洋文字。
椿は家庭教師によって西洋教育を受けたので、難なく洋文字も読める。
だが、読めても意味が通らない。
Café Cats — Pretty Maids with Velvet Paws
天鵞絨の前足を持つ可愛い女給たち。
読めば読むほど、意味が遠のいていく。
店の奥から、帳場で算盤を弾く乾いた音が聞こえてくる。
引き戸はすべて開け放たれているが、人の気配は薄い。
まだ午前のことだ。清掃の最中かとも思ったが、帳場の男は、客など来ぬであろうこの時間に、黙々と帳簿を繰っている。
そもそも、此処は何の店なのだろう。
父に伴われて時折宮中へ日帰りの研修に出る外、屋敷の外を知らぬ椿には、皆目見当もつかなかった。
椿は知る由もなかったが、近ごろ繁華街には喫茶店なる店が増えている。
客に茶と茶菓子を振る舞い、女給を置く店だ。
上げ膳据え膳の殿様気分が味わえるとあって人気を博し、似通った店が雨後の筍のように乱立した。
そのうえ、今世風与喫茶店なる形態まで現れ、少しばかりいかがわしい給仕をさせるという。
そのため、健全な一般の店は「純喫茶」と表記するのが決まりであった。
あまりに煽情的な看板が表の道路へ投げかけている異様さに、椿は暫しその場に立ち尽くした。
蔵の白壁が続く一角に、そこだけが色彩を持ち、華やいだ悪遊戯のようにも見える。
猫娘の巨大な看板は、猶も此方を見下ろしていた。
――そう思った次の瞬間、その猫目が、嘲るようにすっと細まるほうへ切り替わった。
すわ、物の怪か妖か。
びくりと身を震わせた椿に、霍成がその視線の先を追う。
「気になるか」
問われて、椿はこくりと頷いた。
「あれは頃合いが来ると、回転板で絵が切り替わる仕掛けだ。舶来のぱたぱた式目覚まし時計の応用だ」
何のことやら判らず、椿は一頻困惑した。
けれど、かろうじて目覚まし時計という洋語の響きが理解の手がかりになった。
どうやら世には、こうした仕掛けもあるらしい。
「行くぞ」
霍成が半ば振り返る格好で、椿を待っていた。
低い声は、どこか面白がっているようでもある。
行く、とは。
まさか本当に、この中へ入るのだろうか。
躊躇がそのまま足を縫いとめていた。
けれど霍成は別段急かしもせず、ごく当然のように手を差し出す。
椿は、差し出された掌を瞶めた。
触れてよいものか判らぬまま、そっと指を重ねる。
すぐに引かれるまま一歩を踏み出し、石畳の上の両脚が、敷居を跨いだ。
開け放たれた引き戸の向こうで、空気が変わる。
外の土蔵と川風の匂いに代わって、甘い乳のような香りと、煎った豆の香ばしい匂い、それに鼻の奥をくすぐる薫香がふわりと寄ってきた。
出窓を彩っている洋蘭の鉢とは違う、幾らか油分を感じる香りだ。
磨かれた板床は朝の光を緩く照り返し、天井からは彩色硝子笠の洋灯が幾つも垂れている。
その更に上を、煤を含んだような黒い太梁が、店の奥までどっしりと渡っていた。
浪漫ちっく、とはこのことを言うのだろう。
壁際には深い樫木色の洋式の洋机と揃いの長椅子が並び、古い蔵を改築してある筈なのに、此処だけ異国の部屋を切り取ってきたようだった。
帳場にいる男が、ぱち、ぱち、と小気味よく弾いていた手を一旦止めて、霍成に目礼した。
「いらーーっしゃいませませっ、旦那さま、お嬢さま!」
鈴を転がしたような声が、店の奥から跳ねて来た。
椿がはっとして顔を上げると、帳場の奥の暖簾から娘が一人、殆ど飛び出すように現れた。
否、娘――と言い切るには、あまりに看板そのままで小生意気くれていた。
頭の上に、ぴんと立った猫の耳。
流行の短髪風の短い外跳ね髪に、てっぺんの阿呆毛。
腰の後ろでは、白く長い絹綬が尻尾のように揺れている。
洋風の丈の短い給仕服は、黒と白を基調にしているくせに、妙に肌の見えるところが多い。
肩も、腕も、膝下も、椿の知る宮中の職業婦人――いわゆる女房の身なりから大きく外れていた。
とはいえ、下賤な下女たちとはまるで違う。
嬌色に取り紛れた悪遊戯を少々振りまき、胸元にはひらひらとした飾り布、腰には前掛、喉には鈴まであった。
歩く度、それがちり、と微かな音を立てる。
これがこの頃、新聞などで見かけるようになった「新しい女」というものなのだろうか。
椿が半ば感心し、半ば呆気に取られていると、娘は霍成の姿を見るなり、猫のように目を細めた。
「あらまあ。これはこれは、霍成さま。今日は一段と麗しいお連れさまで」
霍成の眉がぴくりと動いた。
椿の脳裡には、先ほど店先で目にした曰くありげな猫娘看板が、まだべったりと張りついている。
あれに怖れをなして手を繋ぐことになっただけよ、と胸の内でだけ言い訳して、直ぐに視線を戻した。
いずれも椿には見慣れた白塗り壁に屋根のついたものだ。
閉ざされた観音開きの扉には鉄の金具が鈍く光り、厳重な錠が下ろされている。
和泉の家では、警備が置かれるのは正門と通用門ばかりで、蔵の扉は殆ど開け放たれているのが常だった。
禁中から運び出され、理由あって和泉へ運び込まれる書物といえど、機密性がさほど高くないこともあるのだろう。
とはいえ、高貴なる手によるものであれば、焼き捨てることも、市井へ下げ渡すこともできない。
椿はそうした書物が好きだった。
入内した姫たちの気散じのような手記には、尊き御方からの夜の誘いを待ち、その寵愛を乞い、ときには他の女御に悋気を起こすほどの恋する気持ちが、余すところなく綴られていたからだ。
やがて自動車は、中央に据えられた長屋門の前で停まった。
椿は窓越しに、通りの幅を見た。
ここを行き交うのは、殆どが人力俥や荷車なのだろう。
砂埃をかぶった道に、機械仕掛けの黒い車体だけが場違いに浮いている。
先に降りた霍成が、異国の貴婦人を馬車から降ろす時のように、手を差し出した。
上向けられた掌を目にした瞬間、たとえよろけてもこの腕が抱きとめてくれる――そんな刹那の安心が過る。
次の瞬間、足裏が石畳を踏みしめ、ふわりとした浮遊感は過ぎ去った。
門番の男が顔を上げた。
煤けた半纏の袖口で手汗を拭いながら、誰が来たのか値踏みするように目を細める。
幾棟かの蔵の前には木箱が積み上げられ、出入りする下男たちの動きが絶えない。
ここは物を蔵する場所であると同時に、絶えず金の動く場所でもあるのだろう。
七ツ蔵と呼ばれるには、畢竟、他に見えているのは一から六までの蔵なのだろう。
その一角、白壁の土蔵が連なる中に、一際異様な店があった。
軒から垂れた暖簾の上には、座してなお人の倍はあろうかという、巨大な猫娘の看板が掲げられていた。
尻を高く突き上げ、尾をこれ見よがしに反らし、猫目娘は狙った獲物を逃がさないとでも言うかのように、此方へ瞳を細く引き絞っている。
悪趣味すれすれの奇っ怪さを、堂々と掲げていた。
そこには、椿には意味の判らない言葉が記されていた。
「七ツ純喫茶」なる、丸みを帯びた子供じみた文字。
その下に小さく、カフェー・キャッツを意味する洋文字。
椿は家庭教師によって西洋教育を受けたので、難なく洋文字も読める。
だが、読めても意味が通らない。
Café Cats — Pretty Maids with Velvet Paws
天鵞絨の前足を持つ可愛い女給たち。
読めば読むほど、意味が遠のいていく。
店の奥から、帳場で算盤を弾く乾いた音が聞こえてくる。
引き戸はすべて開け放たれているが、人の気配は薄い。
まだ午前のことだ。清掃の最中かとも思ったが、帳場の男は、客など来ぬであろうこの時間に、黙々と帳簿を繰っている。
そもそも、此処は何の店なのだろう。
父に伴われて時折宮中へ日帰りの研修に出る外、屋敷の外を知らぬ椿には、皆目見当もつかなかった。
椿は知る由もなかったが、近ごろ繁華街には喫茶店なる店が増えている。
客に茶と茶菓子を振る舞い、女給を置く店だ。
上げ膳据え膳の殿様気分が味わえるとあって人気を博し、似通った店が雨後の筍のように乱立した。
そのうえ、今世風与喫茶店なる形態まで現れ、少しばかりいかがわしい給仕をさせるという。
そのため、健全な一般の店は「純喫茶」と表記するのが決まりであった。
あまりに煽情的な看板が表の道路へ投げかけている異様さに、椿は暫しその場に立ち尽くした。
蔵の白壁が続く一角に、そこだけが色彩を持ち、華やいだ悪遊戯のようにも見える。
猫娘の巨大な看板は、猶も此方を見下ろしていた。
――そう思った次の瞬間、その猫目が、嘲るようにすっと細まるほうへ切り替わった。
すわ、物の怪か妖か。
びくりと身を震わせた椿に、霍成がその視線の先を追う。
「気になるか」
問われて、椿はこくりと頷いた。
「あれは頃合いが来ると、回転板で絵が切り替わる仕掛けだ。舶来のぱたぱた式目覚まし時計の応用だ」
何のことやら判らず、椿は一頻困惑した。
けれど、かろうじて目覚まし時計という洋語の響きが理解の手がかりになった。
どうやら世には、こうした仕掛けもあるらしい。
「行くぞ」
霍成が半ば振り返る格好で、椿を待っていた。
低い声は、どこか面白がっているようでもある。
行く、とは。
まさか本当に、この中へ入るのだろうか。
躊躇がそのまま足を縫いとめていた。
けれど霍成は別段急かしもせず、ごく当然のように手を差し出す。
椿は、差し出された掌を瞶めた。
触れてよいものか判らぬまま、そっと指を重ねる。
すぐに引かれるまま一歩を踏み出し、石畳の上の両脚が、敷居を跨いだ。
開け放たれた引き戸の向こうで、空気が変わる。
外の土蔵と川風の匂いに代わって、甘い乳のような香りと、煎った豆の香ばしい匂い、それに鼻の奥をくすぐる薫香がふわりと寄ってきた。
出窓を彩っている洋蘭の鉢とは違う、幾らか油分を感じる香りだ。
磨かれた板床は朝の光を緩く照り返し、天井からは彩色硝子笠の洋灯が幾つも垂れている。
その更に上を、煤を含んだような黒い太梁が、店の奥までどっしりと渡っていた。
浪漫ちっく、とはこのことを言うのだろう。
壁際には深い樫木色の洋式の洋机と揃いの長椅子が並び、古い蔵を改築してある筈なのに、此処だけ異国の部屋を切り取ってきたようだった。
帳場にいる男が、ぱち、ぱち、と小気味よく弾いていた手を一旦止めて、霍成に目礼した。
「いらーーっしゃいませませっ、旦那さま、お嬢さま!」
鈴を転がしたような声が、店の奥から跳ねて来た。
椿がはっとして顔を上げると、帳場の奥の暖簾から娘が一人、殆ど飛び出すように現れた。
否、娘――と言い切るには、あまりに看板そのままで小生意気くれていた。
頭の上に、ぴんと立った猫の耳。
流行の短髪風の短い外跳ね髪に、てっぺんの阿呆毛。
腰の後ろでは、白く長い絹綬が尻尾のように揺れている。
洋風の丈の短い給仕服は、黒と白を基調にしているくせに、妙に肌の見えるところが多い。
肩も、腕も、膝下も、椿の知る宮中の職業婦人――いわゆる女房の身なりから大きく外れていた。
とはいえ、下賤な下女たちとはまるで違う。
嬌色に取り紛れた悪遊戯を少々振りまき、胸元にはひらひらとした飾り布、腰には前掛、喉には鈴まであった。
歩く度、それがちり、と微かな音を立てる。
これがこの頃、新聞などで見かけるようになった「新しい女」というものなのだろうか。
椿が半ば感心し、半ば呆気に取られていると、娘は霍成の姿を見るなり、猫のように目を細めた。
「あらまあ。これはこれは、霍成さま。今日は一段と麗しいお連れさまで」
霍成の眉がぴくりと動いた。
椿の脳裡には、先ほど店先で目にした曰くありげな猫娘看板が、まだべったりと張りついている。
あれに怖れをなして手を繋ぐことになっただけよ、と胸の内でだけ言い訳して、直ぐに視線を戻した。



