たちまち椿は、屈強な面構えの男たちに三方から取り巻かれた。
付かず離れずに進む囲みの中で、やむなく歩かされる。
あえなく連行される椿の背に、母の叫びが投げつけられた。
「その娘は口が利けないのよッ」
非難がましささえ滲むその言葉を、一行は歯牙にもかけなかった。
自動車へ達すると、椿の頭はこの時ばかりは幾分手荒に中へ押し込まれる。
椿の艶やかでしっとりした結髪は、とうとう全て解けてしまった。
霍成はその間、車の後ろへまわっていた。
やがて椿の隣席へ滑り込み、ばたんと扉を閉める。
閉ざされた空間に、再び二人きりになる。
尤も、今回も窓は換気のため、当初から半ば開け放たれたままだった。
椿の髪は、濡羽色の帳のように顔まわりへ垂れこめている。
見られぬよう、そっと俯いたまま涙を溜めていると、ふいに頭を軽く叩く感触があった。
どうやら霍成は、頭が高いと言わんばかりに押し潰した、彼らの乱暴狼藉を察したらしい。
「守る理由は、値打ちの外にある」
ぽん、と頭に手が置かれた。
何事かと顔を上げる間もなく、もう一度、ぽん、と掌が降る。
「だが」
ぽん。
すぐ傍で、低い響きが落ちた。
「大切にする」
ぽん。
その律動の合間に、囁きに近い言葉が続く。
「喋れなくても、俺には聞こえている」
ぽん。
指先の温度が、遅れて伝わる。
「守りに、来たのだ」
ぽん。
その一言一言が、胸の奥へ沁みていく。
言葉にならない何かが、解けるように。
値打ちではない。
和泉の家の跡取りであることでも、異能を持つことでもない。
では、この人は何を見て、そう言うのだろう。
判らぬまま、胸の奥にやんわりと熱だけが残った。
そこへ、任務を終えた男たちが、窓越しに霍成の軍帽を放り込んで寄越した。
硝子一枚を隔てて上長と分かたれたせいか、すっかり気が緩んでいるらしい。
確証はない。
だが、霍成は殆ど確信していた。
女の髪を解いたのだと。
しかも、その女は――自分の大切な花嫁になる筈の娘だ、ということを。
そこへ更に邪魔立てされるとは、重ねての非礼である。
さすがに機嫌を損ねたのだろう。
霍成は窓から金貨を投げ与え、犬でも払うように彼らを遠くへ追いやった。
これで用は済んだ、とでも言うような手つきだった。
どうやら彼らも、一時凌ぎの金のために働いただけらしい。
ころころと車道へ散った金貨を、元罪人たちは地べたを這うようにして、最後の一枚まで探しまわった。
轢かれる危うさも顧みず、尻を突き上げた醜態を晒している。
――どちらが無様な破落戸よ。
椿は、硝子越しにその姿を見下ろした。
霍成は、最早彼らへ目もくれない。
窓の外へ投げていた視線を前へ戻すと、短く命じた。
「出せ」
運転席へ向けた響きは、むしろ静かなほど落ち着いていた。
電動機の唸りが低く立ち上がる。
そうして椿は、慣れ親しんだ三条通の屋敷を後にした。
無論、母の言い分は嘘だった。
椿は、口が利けぬ訣ではない。
幼い頃は、母の叱責が恐ろしかった。
声を出そうとすれば、その前に喉が竦んだ。
和泉の女の言葉は、世を乱す。
擾りに口を開いてはならぬ。
そう言い聞かされるうち、沈黙は椿の身に染みついた。
けれど成長した今は、母の叱責丈で黙っているのではない。
椿自身も、もう知っている。
己の言葉には、力が宿る。
だから椿は、畏れていた。
母に怯えて口を閉ざしているのではない。
己の内に宿るものへ畏まり、擾りに言挙げせぬよう慎んでいる。
和歌を置いてきてしまった、と椿は思った。
誰か気の利いた者が、うまく処分してくれていればよいのだが。
愛用のつげの櫛もない。
蔵の管理は、坪庭は、どうなるのだろう。
よもや下女などに触らせて、目録の読み上げのみで済ませるのではあるまいか。
屋敷を離れたことで、そうした日々の務めからも、突然切り離されてしまった。
そして、大盤所のことも気にかかった。
あそこには、椿を厄介者のように見る者も多い。
午後に煤を取りに行けば、どうにかして煤掃除を、主家の娘である椿に押しつけようとする者もいる。
和泉家の椿と紬路のどちらを好ましく思うかは、それぞれの使用人の好悪と性分にも拠るのだろう。
尤も、それは椿とて同じであった。
椿にもまた、好きな使用人と嫌いな使用人とがある。
大盤所の女中たちを、皆ひとまとめに憎んでいる訣ではない。
釜戸女中の千代は、椿と同じ歳まわりの娘だった。
煤を取りに行くたび、千代はいつも、前もって必要な量を取り分けておいてくれる。
嫌味を言うでもない。
主家の娘だからと大仰に畏まるでもない。
ただ、椿が来る頃合いを見計らって、使いやすい煤を小さな器に分けておいてくれる。
それだけのことが、椿にはありがたかった。
そろそろ嫁ぎ遅れになろうかという歳でありながら、千代は気立てのよい娘である。
だから椿も返礼に、拵えたばかりの、まだほんのり温かい灰汁を少しずつ分けてやっていた。
それは大盤所用に調合した特製で、柑子を少々混ぜ込んである。
煤を払ったあと、ほんの少し垂らすだけで、軽い焦げつきにはすこぶる効いた。
だが、最初から洗剤を頼みに横着して、まったく煤取りをしなかったところへ灰汁を混ぜ込めば、見る間に大きな灰色の小汚い石鹸が、竈の壁面いっぱいにべっとりと付く。
最早水をかけても水をかけても、ぬるぬるして為す術ない亜爾加里の塊ができてしまうだろう。
椿の木には毒性もある。
しかも夕餉の支度に入る前の時刻では、尚更性質が悪い。
当人は知らぬ顔で放っておき、何処ぞでおしゃべりに興じて、余計な始末だけを次の釜番へ押しつけるに決まっている。
これは掃除に係り合う椿の実感だが、怠けたがる性分に貴賤の別はない。
だから性根が悪く、下世話な話ばかりしている者には渡さないと決めている。
涙が漸く収まり、椿は車窓へ目を向けた。
見慣れた左京の、一目でそれと判る華族の邸宅は背後へ退き、車は大路の向こう、右京へ差しかかりつつあった。
先ず、道が広いと思った。
左京のように、築地塀と門構えばかりが続くのではない。
野晒しの車道の両脇に、人が溢れている。
荷を担ぎ振り売りする男。
子どもの手を引く女。
袖をまくった職人。
行き交う人々は、歩きながら声を交わし、傍道に並ぶ出店の前で足を止めては、値を聞き、品を見、また流れていく。
のべつ幕なしに、町が動いていた。
椿は思わず硝子窓に近付いた。
卵売り、麵麭、箒、竹細工、金物屋。
売るものも、店の構えも、値の付け方も、少しとして型どおりではない。
振り売りが声を張りながら歩き回る一方で、地べたへ腰を下ろし、ここが己が領分だとでも言いたげに、樽を幾つも並べている強者までいた。
もし、どこぞで都合のよい売り口上にころりと騙されたとしても、相手は尻に帆を掛けて逃げ去っているだろう。
抗議しようにも、二度と見付からぬに違いない。
霍成は左京を出るまで、横柄にも半分開けた窓の縁に二の腕を凭せ掛けていた。
だが右京へ入るなり、何も言わずに硝子窓を引き上げる。
ぴたり、と外の熱気が遮られた。
それで、椿にも少し判った。
この町では、車中でさえ安全とは限らないのだ。
盗人小僧がいつ何時、巫山戯半分に手を差し入れて来るかもしれない。
あるいは懸命に呼び声を上げる売り子の前で、人波に紛れた誰かが品を掴み取っていくことさえあるのかもしれない。
運転手の隣の座席には、羽織が無造作に置かれていた。
羽織紐の飾りには猫目石があしらわれている。
きっと霍成のもので高価に違いない。
地の色に溶け込むほどに薄く、風神雷神文の散らし模様が入っている。
軍服だけでなく、和装もなさるのだわ、と椿は思った。
不規則に、まるで生き物のように蠢く人熱れの中を、人力俥と馬車とが、人を避けながら進んでいる。
椿たち自身もその流れのうちにあったが、見渡す限り、他に電気自動車の姿は見当たらない。
一方、椿が初めて目にした路面電車は、二条に並んだ鉄軌の上を、重さを感じさせずにゆっくりと滑ってゆく。
線路はどこまでも長く劃していた。
「珍しいか?」
椿が目を瞠っているのに気付いたのだろう。
霍成は、此方に視線を向けていた。
椿は、こくりと頭を縦に振った。
見るもの全てが新しかった。
霍成は、眉を動かした。
――初めて、はっきりした意思表示を見せたぞ、この娘は。
守ると言った時でさえ、ただ目を丸くしているばかりだったのに。
尤も、宮中の勝手も、その内に潜む気配も、まだ何一つ知らぬのだから無理もない。
「右京は昔、誰も住めない湿地だった。軟泥に細かい石を混ぜ込んで、十分な強度の埋め立て地にしたんだ。目敏い者たちがあっという間に移り住んで、斯様になった」
椿は、雑多な知識には明るいほうだった。
鍋釜の湯で膠を湯煎する端仕事の隙にも、汚しても構わない本をわざわざ選び出しては読んできたのである。
けれど、右京のこととなると、どうにも様子が違った。
つい近々のこと故か、まだ書物に著されてはいないらしい。
もっと話を聞きたい。
そんな気持ちを込めて、やや上目遣いで霍成を瞶める格好になった。
微かにその口元が歪む。
――この人の癖なのかもしれない、と椿は思った。
「もうすぐ土手蔵に差し掛かる。七ツ蔵だ」
あたりを見れば、特徴的な長屋門が彼方此方に見え、既に蔵屋敷町に入っているらしい。
どうやら目的地は、川沿いにあるようだった。
「佐伯家の家財やらを押し込んでいるんだが」
そこまで言って、霍成はなぜか一度言葉を切った。
視線を逸らし、それから、思い出したように続ける。
「……まぁ、楽しみだな。なんだ、そのう……、椿、と呼んでいいか」
なぜか和泉の土蔵の中で感じたように、心の臓がとくん、と跳ねた。
椿は、素直にこくんと肯首した。
名前を呼ばれるのが厭ではない。
むしろ嬉しいと思ったのは、初めてだった。
付かず離れずに進む囲みの中で、やむなく歩かされる。
あえなく連行される椿の背に、母の叫びが投げつけられた。
「その娘は口が利けないのよッ」
非難がましささえ滲むその言葉を、一行は歯牙にもかけなかった。
自動車へ達すると、椿の頭はこの時ばかりは幾分手荒に中へ押し込まれる。
椿の艶やかでしっとりした結髪は、とうとう全て解けてしまった。
霍成はその間、車の後ろへまわっていた。
やがて椿の隣席へ滑り込み、ばたんと扉を閉める。
閉ざされた空間に、再び二人きりになる。
尤も、今回も窓は換気のため、当初から半ば開け放たれたままだった。
椿の髪は、濡羽色の帳のように顔まわりへ垂れこめている。
見られぬよう、そっと俯いたまま涙を溜めていると、ふいに頭を軽く叩く感触があった。
どうやら霍成は、頭が高いと言わんばかりに押し潰した、彼らの乱暴狼藉を察したらしい。
「守る理由は、値打ちの外にある」
ぽん、と頭に手が置かれた。
何事かと顔を上げる間もなく、もう一度、ぽん、と掌が降る。
「だが」
ぽん。
すぐ傍で、低い響きが落ちた。
「大切にする」
ぽん。
その律動の合間に、囁きに近い言葉が続く。
「喋れなくても、俺には聞こえている」
ぽん。
指先の温度が、遅れて伝わる。
「守りに、来たのだ」
ぽん。
その一言一言が、胸の奥へ沁みていく。
言葉にならない何かが、解けるように。
値打ちではない。
和泉の家の跡取りであることでも、異能を持つことでもない。
では、この人は何を見て、そう言うのだろう。
判らぬまま、胸の奥にやんわりと熱だけが残った。
そこへ、任務を終えた男たちが、窓越しに霍成の軍帽を放り込んで寄越した。
硝子一枚を隔てて上長と分かたれたせいか、すっかり気が緩んでいるらしい。
確証はない。
だが、霍成は殆ど確信していた。
女の髪を解いたのだと。
しかも、その女は――自分の大切な花嫁になる筈の娘だ、ということを。
そこへ更に邪魔立てされるとは、重ねての非礼である。
さすがに機嫌を損ねたのだろう。
霍成は窓から金貨を投げ与え、犬でも払うように彼らを遠くへ追いやった。
これで用は済んだ、とでも言うような手つきだった。
どうやら彼らも、一時凌ぎの金のために働いただけらしい。
ころころと車道へ散った金貨を、元罪人たちは地べたを這うようにして、最後の一枚まで探しまわった。
轢かれる危うさも顧みず、尻を突き上げた醜態を晒している。
――どちらが無様な破落戸よ。
椿は、硝子越しにその姿を見下ろした。
霍成は、最早彼らへ目もくれない。
窓の外へ投げていた視線を前へ戻すと、短く命じた。
「出せ」
運転席へ向けた響きは、むしろ静かなほど落ち着いていた。
電動機の唸りが低く立ち上がる。
そうして椿は、慣れ親しんだ三条通の屋敷を後にした。
無論、母の言い分は嘘だった。
椿は、口が利けぬ訣ではない。
幼い頃は、母の叱責が恐ろしかった。
声を出そうとすれば、その前に喉が竦んだ。
和泉の女の言葉は、世を乱す。
擾りに口を開いてはならぬ。
そう言い聞かされるうち、沈黙は椿の身に染みついた。
けれど成長した今は、母の叱責丈で黙っているのではない。
椿自身も、もう知っている。
己の言葉には、力が宿る。
だから椿は、畏れていた。
母に怯えて口を閉ざしているのではない。
己の内に宿るものへ畏まり、擾りに言挙げせぬよう慎んでいる。
和歌を置いてきてしまった、と椿は思った。
誰か気の利いた者が、うまく処分してくれていればよいのだが。
愛用のつげの櫛もない。
蔵の管理は、坪庭は、どうなるのだろう。
よもや下女などに触らせて、目録の読み上げのみで済ませるのではあるまいか。
屋敷を離れたことで、そうした日々の務めからも、突然切り離されてしまった。
そして、大盤所のことも気にかかった。
あそこには、椿を厄介者のように見る者も多い。
午後に煤を取りに行けば、どうにかして煤掃除を、主家の娘である椿に押しつけようとする者もいる。
和泉家の椿と紬路のどちらを好ましく思うかは、それぞれの使用人の好悪と性分にも拠るのだろう。
尤も、それは椿とて同じであった。
椿にもまた、好きな使用人と嫌いな使用人とがある。
大盤所の女中たちを、皆ひとまとめに憎んでいる訣ではない。
釜戸女中の千代は、椿と同じ歳まわりの娘だった。
煤を取りに行くたび、千代はいつも、前もって必要な量を取り分けておいてくれる。
嫌味を言うでもない。
主家の娘だからと大仰に畏まるでもない。
ただ、椿が来る頃合いを見計らって、使いやすい煤を小さな器に分けておいてくれる。
それだけのことが、椿にはありがたかった。
そろそろ嫁ぎ遅れになろうかという歳でありながら、千代は気立てのよい娘である。
だから椿も返礼に、拵えたばかりの、まだほんのり温かい灰汁を少しずつ分けてやっていた。
それは大盤所用に調合した特製で、柑子を少々混ぜ込んである。
煤を払ったあと、ほんの少し垂らすだけで、軽い焦げつきにはすこぶる効いた。
だが、最初から洗剤を頼みに横着して、まったく煤取りをしなかったところへ灰汁を混ぜ込めば、見る間に大きな灰色の小汚い石鹸が、竈の壁面いっぱいにべっとりと付く。
最早水をかけても水をかけても、ぬるぬるして為す術ない亜爾加里の塊ができてしまうだろう。
椿の木には毒性もある。
しかも夕餉の支度に入る前の時刻では、尚更性質が悪い。
当人は知らぬ顔で放っておき、何処ぞでおしゃべりに興じて、余計な始末だけを次の釜番へ押しつけるに決まっている。
これは掃除に係り合う椿の実感だが、怠けたがる性分に貴賤の別はない。
だから性根が悪く、下世話な話ばかりしている者には渡さないと決めている。
涙が漸く収まり、椿は車窓へ目を向けた。
見慣れた左京の、一目でそれと判る華族の邸宅は背後へ退き、車は大路の向こう、右京へ差しかかりつつあった。
先ず、道が広いと思った。
左京のように、築地塀と門構えばかりが続くのではない。
野晒しの車道の両脇に、人が溢れている。
荷を担ぎ振り売りする男。
子どもの手を引く女。
袖をまくった職人。
行き交う人々は、歩きながら声を交わし、傍道に並ぶ出店の前で足を止めては、値を聞き、品を見、また流れていく。
のべつ幕なしに、町が動いていた。
椿は思わず硝子窓に近付いた。
卵売り、麵麭、箒、竹細工、金物屋。
売るものも、店の構えも、値の付け方も、少しとして型どおりではない。
振り売りが声を張りながら歩き回る一方で、地べたへ腰を下ろし、ここが己が領分だとでも言いたげに、樽を幾つも並べている強者までいた。
もし、どこぞで都合のよい売り口上にころりと騙されたとしても、相手は尻に帆を掛けて逃げ去っているだろう。
抗議しようにも、二度と見付からぬに違いない。
霍成は左京を出るまで、横柄にも半分開けた窓の縁に二の腕を凭せ掛けていた。
だが右京へ入るなり、何も言わずに硝子窓を引き上げる。
ぴたり、と外の熱気が遮られた。
それで、椿にも少し判った。
この町では、車中でさえ安全とは限らないのだ。
盗人小僧がいつ何時、巫山戯半分に手を差し入れて来るかもしれない。
あるいは懸命に呼び声を上げる売り子の前で、人波に紛れた誰かが品を掴み取っていくことさえあるのかもしれない。
運転手の隣の座席には、羽織が無造作に置かれていた。
羽織紐の飾りには猫目石があしらわれている。
きっと霍成のもので高価に違いない。
地の色に溶け込むほどに薄く、風神雷神文の散らし模様が入っている。
軍服だけでなく、和装もなさるのだわ、と椿は思った。
不規則に、まるで生き物のように蠢く人熱れの中を、人力俥と馬車とが、人を避けながら進んでいる。
椿たち自身もその流れのうちにあったが、見渡す限り、他に電気自動車の姿は見当たらない。
一方、椿が初めて目にした路面電車は、二条に並んだ鉄軌の上を、重さを感じさせずにゆっくりと滑ってゆく。
線路はどこまでも長く劃していた。
「珍しいか?」
椿が目を瞠っているのに気付いたのだろう。
霍成は、此方に視線を向けていた。
椿は、こくりと頭を縦に振った。
見るもの全てが新しかった。
霍成は、眉を動かした。
――初めて、はっきりした意思表示を見せたぞ、この娘は。
守ると言った時でさえ、ただ目を丸くしているばかりだったのに。
尤も、宮中の勝手も、その内に潜む気配も、まだ何一つ知らぬのだから無理もない。
「右京は昔、誰も住めない湿地だった。軟泥に細かい石を混ぜ込んで、十分な強度の埋め立て地にしたんだ。目敏い者たちがあっという間に移り住んで、斯様になった」
椿は、雑多な知識には明るいほうだった。
鍋釜の湯で膠を湯煎する端仕事の隙にも、汚しても構わない本をわざわざ選び出しては読んできたのである。
けれど、右京のこととなると、どうにも様子が違った。
つい近々のこと故か、まだ書物に著されてはいないらしい。
もっと話を聞きたい。
そんな気持ちを込めて、やや上目遣いで霍成を瞶める格好になった。
微かにその口元が歪む。
――この人の癖なのかもしれない、と椿は思った。
「もうすぐ土手蔵に差し掛かる。七ツ蔵だ」
あたりを見れば、特徴的な長屋門が彼方此方に見え、既に蔵屋敷町に入っているらしい。
どうやら目的地は、川沿いにあるようだった。
「佐伯家の家財やらを押し込んでいるんだが」
そこまで言って、霍成はなぜか一度言葉を切った。
視線を逸らし、それから、思い出したように続ける。
「……まぁ、楽しみだな。なんだ、そのう……、椿、と呼んでいいか」
なぜか和泉の土蔵の中で感じたように、心の臓がとくん、と跳ねた。
椿は、素直にこくんと肯首した。
名前を呼ばれるのが厭ではない。
むしろ嬉しいと思ったのは、初めてだった。



