「右近衛少将、佐伯霍成だ」
青年は背筋を伸ばし、端的に名乗った。
名を告げると同時に軍帽を外し、小脇に収める。
決然として、無駄のない所作である。
その眼差しには、都の内外で幾多の有象無象を追捕してきた気配があった。
直線を描く鼻梁と引き結ばれた口元は精悍で、今話題の舞台とやらの上でも映えるだろう。
腰に佩いた軍刀が、微かに鞘鳴りを残す。
「奥方とお見受けする」
その一言に、母は応じかねていた。
命じられることに慣れていないのだ。
しかもこの若さで右近衛――。
相手が華族の子弟と知るなり、振る舞いを測りかねている。
あるいは間近で軍刀を見て、儀礼用の剣ではないと確信したのかもしれない。
放免たちは我関せずの態度で、にやにやと下卑た笑みを浮かべていた。
霍成には一応の敬意を装っているが、今は背後となり、監視下から外れている。
着古して糊の落ちた浴衣。
寝所から飛び出してきたままの女たち。
隠しきれぬ体つきを、役得とばかりに露骨な目で追っていた。
幾多の物の怪を相手取り対峙してきた青年が、なにゆえ朝一番に貴族の邸宅へ踏み込み、捕物騒ぎをしているのか。
宿直のため、未だ宮中にある父を直接尋問した方が早いはずだ。
そこで、椿は思い至った。
よもや父に、何かあったのではあるまいか。
使用人たちは主屋の前にも数人いたが、清掃途中であったのか、多くが北の台盤所や雪隠の前に立っている。
寝所から飛び出て来たばかりと見える者たちも、皆一様に委縮していた。
「もう一度訊く。邸の者は他にあるか」
反射的に、橋廊の屋根の下の紬路が小さな形のよい顎を震わせた。
平素は遅くまで寝ている紬路だが、母のように崩れた身繕いではない。
凝った縦型束髪や英吉利結びでこそないが、日頃の十八番の一つではある、はいから絹綬と呼ばれる半上げにしている。
ごく若い未婚女性のみに許される簡便な下し髪だ。
遅刻回避の必要に迫られ、これまでも自分で結うことがあったのだろう。
寝間着ではあまりにも面恥が過ぎた母は別として、紬路とて主屋前あたりに立つ下女たちとさして変わらぬ薄物姿だった。
それでも、此方からは如何にも嫋娜やかな令嬢然として見えた。
おそらく霍成からは、紬路の後頭の絹綬が見えないのだろう。
それは朝の僅かな風にも焦らすように揺れていた。
そこで母が、徐に一歩前に進み出た。
「宿直の大納言は、このことをご存知か」
おそらく紬路を庇うため、声を振り絞ったのだろう。
紬路は既に遅れて出て来るという失策を冒していた。
最初から中に隠れていれば良いものを。
「大納言殿は拘留中だ」
あっ、とどこかで声が上がった。
隠れるように家屋の中に引っ込んだ者もある。
「然るべき段取りの後、解かれるだろう。一時的なことであり、心配には及ばない」
手順が整っていないだけだと装っているに過ぎない。
疑いを払う材料が現れぬ限り、拘禁は粛々と続くだろう。
震え上がった一同に頓着せず、霍成は紬路へ歩み寄った。
一瞬とはいえ反応を見逃す筈もなかったのだ。
あるいは母の視線の先を辿ったのかもしれない。
「娘だな」
そのまま紬路の細い手首を掴もうとした時、横槍を入れる母の声が響いた。
「娘はもう一人おりますッ」
誰もが動きを止めた。
霍成でさえも。
人違いを警戒したのだろう。
「この者です」
母は椿の方へ手をかざし、霍成へ向き直った。
やにわに放免たちまで椿に注目する。
恥ずかしさに消えてなくなりたい、と椿は思った。
止める者は居ない。
止められない。
霍成が此方へやって来る。
椿の前に立ちはだかるなり、その手首を掴み上げた。
きつく握られたこぶしに目を走らせる。
次いで、脇に抱えていた軍帽を、控えていた放免の一人へ無造作に下げ渡した。
「書庫の蔵だな」
短く告げるや否や、椿を引き寄せる。
手近にある土蔵の重い扉を、片手で易々と押し開いた。
そのまま中へ連れ込まれた格好ではあったが、下卑た視線から切り離されたことに、椿はむしろ安堵を覚えた。
土蔵の中は、ひんやりと静まり返っている。
二人きりだ。
霍成の腕は、まだ椿の手首を取っていた。
触れ合っている肩の薄い衣越しに、男の身体の硬さが伝わって来る。
土蔵の内は薄暗い。
外の騒めきは、厚い土壁に遮られて遠くなっていた。
その分、互いの息遣いと、衣の擦れる音ばかりが近くなる。
霍成は、椿が胸の前で握りしめていた手を、甲の裏から包むようにしてそっと開かせた。
包み込まれた掌には、昨夜の墨が残っている。
霍成の親指が、その跡を擦った。
不埒な手つきではない。
ただ、墨を検めているだけだ。
それなのに、指の腹が通ったところから、じんわりと熱が残る。
荒れて強ばった自分の手に、誰かの体温がこれほど深く染みるものだとは知らなかった。
薄物でしか隔てられていない胸の奥で、鼓動が一つ、轟いた。
その響きが肌を抜け、霍成の手の甲へ届いてしまう気がした。
触れられたところから、椿油の香がほのかに立つ。
昨夜の名残が、こんな時に限って息づいている。
今朝は水油を用意する間もなく、水髪のまま飛び出してきた。
結い目も、もう緩んでいるかもしれない。
髪筋は乱れていないだろうか。
灰と墨の匂いばかりが、先に立ってはいないだろうか。
そこまで思って、椿は自分で自分に驚いた。
軍の調査だという。
父に何かあったかもしれない。
自分は今、見知らぬ武官に土蔵の内へ連れ込まれている。
それなのに、髪のことなど気にしている。
椿は、指先で確かめられるままに身動ぎせず、ただ其処にいた。
いつもの蔵書に囲まれ、普段とは違う、只事ではない何かに巻き込まれている。
「この蔵を管理しているのはお前か」
霍成の視線が、真っ直ぐに向けられた。
さすがに目を合わせない訣にいかず、椿も見返した。
酷薄さを思わせる、色の薄い目だ。
「……昨夜、筆を取ったな」
椿は、答えられない。
頷くこともできない。
長い間意思表明する機会を奪われ、すっかり失念していた。
静止した沈黙が落ちた。
蔵の外から入る曙光に、浮かび上がった埃がきらきらと舞っている。
無様な娘だと、霍成の背後の誰かが吐き捨てるように呟いた。
霍成は、だが、それを聞き流した。
椿を見下ろしたまま伏せられた目は、見上げる椿の角度からしか見えぬものだった。
責める色はない。
ただ、椿の手の墨と、沈黙の奥にあるものとを、一息に見抜いたような目だった。
「……違うな」
誰にも聞こえぬほど低く、霍成は呟いた。
否、管理しているのは自分だ。
椿は、誇りを以て心のうちで唱えた。
けれど、すぐに気付く。
霍成が言った「違うな」は、蔵の管理についてではない。
詮議中の犯人について、そう呟いたのではないか。
「俺が聞きたいのは、和泉家の言葉ではない。……お前自身の言葉だ」
不思議なことに、もう怖れはなかった。
霍成の手は、椿を責めるために触れたのではない。
墨を検め、握りしめた指をほどき、外の下卑た目から切り離すために触れていた。
そう判るほどの触れ方だった。
「お前の沈黙を、誰かの都合のいい答えにはさせない」
霍成は、小脇に抱え込むようになっていた椿の身を、そっと放した。
その拍子に、ほつれた結髪の毛一筋が、はらりと落ちる。
頬の横を掠めたそれに、椿は遅れて気付いた。
直す手もないまま、霍成を見る。
だが彼は、それに気付かぬふうだった。
もう捜査の顔に戻っている。
未明に搬入されたばかりの未整理書物の山から一冊を取り上げ、そこに記された筆跡を確かめる。
一冊。
また一冊。
料紙の質、墨の滲み、筆運びの癖。
数冊を検めるうち、一本気な口元が、徐々に口角を歪めていった。
何かを掴んだ顔だった。
霍成は本を閉じ、徐に蔵の外へ出る。
「上の娘を」
一拍置く。
「この者を、連れて行く」
此方を振り返りもせず、誰にも否とは言わせない声音で宣言した。
椿は吃驚して、霍成に続いて外へ出た。
暗闇に慣れた目に、光がまばゆい。
居並ぶ一同は、息を呑んだ。
日頃から椿は、ややもすれば紬路を凌ぐほどに美しい。
ただ、それは気品を帯びた凛然たる美であって、溌剌とした愛らしさを持ち味とする紬路とは、まるで趣が異なっていた。
花にたとえるなら、紬路は人の目を奪う春の盛り。
椿は、霜の朝に一輪だけ咲き残る花だった。
その椿が、今は灰に墨にと薄汚れた衣のまま、解れた髪を頬へ落としている。
いつもは人形のように端然としている娘だ。
表情を乱さず、言葉もなく、ただ書庫と釜場の間を行き来していた娘。
それが今、男に土蔵の奥へ連れ込まれた後、しどけない乱れ髪で現れた。
薄幸の色が、ふいにその身へ差したようだった。
嫦娥の天女が羽衣をもぎ取られ、下界へ落とされたなら、このように見えるのではないか。
誰もが、そうした残酷な美しさを椿の上に見て取ってしまった。
「よもや慰み者に……」
「羅紗緬の真似事なんぞ覚えるから……」
しッ、と間髪入れず誰かの叱責が飛ぶ。
荒くれ者どもに押し入られ、血筋を誇る家の威は、目に見えて揺らいでいる。
邪推や下種な勘繰りが口をついて出ても無理からぬことだ。
元より椿は、使用人たちに奇妙な娘と思われていた。
汚れて臭うくせに、洋語ばかり頭に詰め込みながら、物言わぬ娘。
あの者たちの頭では、怪文書は洋語で書かれているとでも考えているのかもしれない。
怪文書。
軍の調査。
連れて行かれる、物言わぬ長女。
その三つが結びつけば、人は銘々勝手に物語を作る。
「怪文書だなんて……分家の陰謀よ」
母が、絞り出すように言った。
誰に向けた言葉なのか、椿には判らなかった。
霍成たちへ向けた弁明か。
使用人たちへ聞かせるための取り繕いか。
それとも、自分自身を保つための言い訳か。
けれど次の瞬間、その目が椿を捉えた。
「まさか、……椿が何か書いたのではないわよね」
椿の言葉は、声であろうと墨であろうと危うい。
――昨夜、確かに書いた。
口にできなかった思いを、紙の上へ流した。
声ではないが、確かに書いたものはあった。
青年は背筋を伸ばし、端的に名乗った。
名を告げると同時に軍帽を外し、小脇に収める。
決然として、無駄のない所作である。
その眼差しには、都の内外で幾多の有象無象を追捕してきた気配があった。
直線を描く鼻梁と引き結ばれた口元は精悍で、今話題の舞台とやらの上でも映えるだろう。
腰に佩いた軍刀が、微かに鞘鳴りを残す。
「奥方とお見受けする」
その一言に、母は応じかねていた。
命じられることに慣れていないのだ。
しかもこの若さで右近衛――。
相手が華族の子弟と知るなり、振る舞いを測りかねている。
あるいは間近で軍刀を見て、儀礼用の剣ではないと確信したのかもしれない。
放免たちは我関せずの態度で、にやにやと下卑た笑みを浮かべていた。
霍成には一応の敬意を装っているが、今は背後となり、監視下から外れている。
着古して糊の落ちた浴衣。
寝所から飛び出してきたままの女たち。
隠しきれぬ体つきを、役得とばかりに露骨な目で追っていた。
幾多の物の怪を相手取り対峙してきた青年が、なにゆえ朝一番に貴族の邸宅へ踏み込み、捕物騒ぎをしているのか。
宿直のため、未だ宮中にある父を直接尋問した方が早いはずだ。
そこで、椿は思い至った。
よもや父に、何かあったのではあるまいか。
使用人たちは主屋の前にも数人いたが、清掃途中であったのか、多くが北の台盤所や雪隠の前に立っている。
寝所から飛び出て来たばかりと見える者たちも、皆一様に委縮していた。
「もう一度訊く。邸の者は他にあるか」
反射的に、橋廊の屋根の下の紬路が小さな形のよい顎を震わせた。
平素は遅くまで寝ている紬路だが、母のように崩れた身繕いではない。
凝った縦型束髪や英吉利結びでこそないが、日頃の十八番の一つではある、はいから絹綬と呼ばれる半上げにしている。
ごく若い未婚女性のみに許される簡便な下し髪だ。
遅刻回避の必要に迫られ、これまでも自分で結うことがあったのだろう。
寝間着ではあまりにも面恥が過ぎた母は別として、紬路とて主屋前あたりに立つ下女たちとさして変わらぬ薄物姿だった。
それでも、此方からは如何にも嫋娜やかな令嬢然として見えた。
おそらく霍成からは、紬路の後頭の絹綬が見えないのだろう。
それは朝の僅かな風にも焦らすように揺れていた。
そこで母が、徐に一歩前に進み出た。
「宿直の大納言は、このことをご存知か」
おそらく紬路を庇うため、声を振り絞ったのだろう。
紬路は既に遅れて出て来るという失策を冒していた。
最初から中に隠れていれば良いものを。
「大納言殿は拘留中だ」
あっ、とどこかで声が上がった。
隠れるように家屋の中に引っ込んだ者もある。
「然るべき段取りの後、解かれるだろう。一時的なことであり、心配には及ばない」
手順が整っていないだけだと装っているに過ぎない。
疑いを払う材料が現れぬ限り、拘禁は粛々と続くだろう。
震え上がった一同に頓着せず、霍成は紬路へ歩み寄った。
一瞬とはいえ反応を見逃す筈もなかったのだ。
あるいは母の視線の先を辿ったのかもしれない。
「娘だな」
そのまま紬路の細い手首を掴もうとした時、横槍を入れる母の声が響いた。
「娘はもう一人おりますッ」
誰もが動きを止めた。
霍成でさえも。
人違いを警戒したのだろう。
「この者です」
母は椿の方へ手をかざし、霍成へ向き直った。
やにわに放免たちまで椿に注目する。
恥ずかしさに消えてなくなりたい、と椿は思った。
止める者は居ない。
止められない。
霍成が此方へやって来る。
椿の前に立ちはだかるなり、その手首を掴み上げた。
きつく握られたこぶしに目を走らせる。
次いで、脇に抱えていた軍帽を、控えていた放免の一人へ無造作に下げ渡した。
「書庫の蔵だな」
短く告げるや否や、椿を引き寄せる。
手近にある土蔵の重い扉を、片手で易々と押し開いた。
そのまま中へ連れ込まれた格好ではあったが、下卑た視線から切り離されたことに、椿はむしろ安堵を覚えた。
土蔵の中は、ひんやりと静まり返っている。
二人きりだ。
霍成の腕は、まだ椿の手首を取っていた。
触れ合っている肩の薄い衣越しに、男の身体の硬さが伝わって来る。
土蔵の内は薄暗い。
外の騒めきは、厚い土壁に遮られて遠くなっていた。
その分、互いの息遣いと、衣の擦れる音ばかりが近くなる。
霍成は、椿が胸の前で握りしめていた手を、甲の裏から包むようにしてそっと開かせた。
包み込まれた掌には、昨夜の墨が残っている。
霍成の親指が、その跡を擦った。
不埒な手つきではない。
ただ、墨を検めているだけだ。
それなのに、指の腹が通ったところから、じんわりと熱が残る。
荒れて強ばった自分の手に、誰かの体温がこれほど深く染みるものだとは知らなかった。
薄物でしか隔てられていない胸の奥で、鼓動が一つ、轟いた。
その響きが肌を抜け、霍成の手の甲へ届いてしまう気がした。
触れられたところから、椿油の香がほのかに立つ。
昨夜の名残が、こんな時に限って息づいている。
今朝は水油を用意する間もなく、水髪のまま飛び出してきた。
結い目も、もう緩んでいるかもしれない。
髪筋は乱れていないだろうか。
灰と墨の匂いばかりが、先に立ってはいないだろうか。
そこまで思って、椿は自分で自分に驚いた。
軍の調査だという。
父に何かあったかもしれない。
自分は今、見知らぬ武官に土蔵の内へ連れ込まれている。
それなのに、髪のことなど気にしている。
椿は、指先で確かめられるままに身動ぎせず、ただ其処にいた。
いつもの蔵書に囲まれ、普段とは違う、只事ではない何かに巻き込まれている。
「この蔵を管理しているのはお前か」
霍成の視線が、真っ直ぐに向けられた。
さすがに目を合わせない訣にいかず、椿も見返した。
酷薄さを思わせる、色の薄い目だ。
「……昨夜、筆を取ったな」
椿は、答えられない。
頷くこともできない。
長い間意思表明する機会を奪われ、すっかり失念していた。
静止した沈黙が落ちた。
蔵の外から入る曙光に、浮かび上がった埃がきらきらと舞っている。
無様な娘だと、霍成の背後の誰かが吐き捨てるように呟いた。
霍成は、だが、それを聞き流した。
椿を見下ろしたまま伏せられた目は、見上げる椿の角度からしか見えぬものだった。
責める色はない。
ただ、椿の手の墨と、沈黙の奥にあるものとを、一息に見抜いたような目だった。
「……違うな」
誰にも聞こえぬほど低く、霍成は呟いた。
否、管理しているのは自分だ。
椿は、誇りを以て心のうちで唱えた。
けれど、すぐに気付く。
霍成が言った「違うな」は、蔵の管理についてではない。
詮議中の犯人について、そう呟いたのではないか。
「俺が聞きたいのは、和泉家の言葉ではない。……お前自身の言葉だ」
不思議なことに、もう怖れはなかった。
霍成の手は、椿を責めるために触れたのではない。
墨を検め、握りしめた指をほどき、外の下卑た目から切り離すために触れていた。
そう判るほどの触れ方だった。
「お前の沈黙を、誰かの都合のいい答えにはさせない」
霍成は、小脇に抱え込むようになっていた椿の身を、そっと放した。
その拍子に、ほつれた結髪の毛一筋が、はらりと落ちる。
頬の横を掠めたそれに、椿は遅れて気付いた。
直す手もないまま、霍成を見る。
だが彼は、それに気付かぬふうだった。
もう捜査の顔に戻っている。
未明に搬入されたばかりの未整理書物の山から一冊を取り上げ、そこに記された筆跡を確かめる。
一冊。
また一冊。
料紙の質、墨の滲み、筆運びの癖。
数冊を検めるうち、一本気な口元が、徐々に口角を歪めていった。
何かを掴んだ顔だった。
霍成は本を閉じ、徐に蔵の外へ出る。
「上の娘を」
一拍置く。
「この者を、連れて行く」
此方を振り返りもせず、誰にも否とは言わせない声音で宣言した。
椿は吃驚して、霍成に続いて外へ出た。
暗闇に慣れた目に、光がまばゆい。
居並ぶ一同は、息を呑んだ。
日頃から椿は、ややもすれば紬路を凌ぐほどに美しい。
ただ、それは気品を帯びた凛然たる美であって、溌剌とした愛らしさを持ち味とする紬路とは、まるで趣が異なっていた。
花にたとえるなら、紬路は人の目を奪う春の盛り。
椿は、霜の朝に一輪だけ咲き残る花だった。
その椿が、今は灰に墨にと薄汚れた衣のまま、解れた髪を頬へ落としている。
いつもは人形のように端然としている娘だ。
表情を乱さず、言葉もなく、ただ書庫と釜場の間を行き来していた娘。
それが今、男に土蔵の奥へ連れ込まれた後、しどけない乱れ髪で現れた。
薄幸の色が、ふいにその身へ差したようだった。
嫦娥の天女が羽衣をもぎ取られ、下界へ落とされたなら、このように見えるのではないか。
誰もが、そうした残酷な美しさを椿の上に見て取ってしまった。
「よもや慰み者に……」
「羅紗緬の真似事なんぞ覚えるから……」
しッ、と間髪入れず誰かの叱責が飛ぶ。
荒くれ者どもに押し入られ、血筋を誇る家の威は、目に見えて揺らいでいる。
邪推や下種な勘繰りが口をついて出ても無理からぬことだ。
元より椿は、使用人たちに奇妙な娘と思われていた。
汚れて臭うくせに、洋語ばかり頭に詰め込みながら、物言わぬ娘。
あの者たちの頭では、怪文書は洋語で書かれているとでも考えているのかもしれない。
怪文書。
軍の調査。
連れて行かれる、物言わぬ長女。
その三つが結びつけば、人は銘々勝手に物語を作る。
「怪文書だなんて……分家の陰謀よ」
母が、絞り出すように言った。
誰に向けた言葉なのか、椿には判らなかった。
霍成たちへ向けた弁明か。
使用人たちへ聞かせるための取り繕いか。
それとも、自分自身を保つための言い訳か。
けれど次の瞬間、その目が椿を捉えた。
「まさか、……椿が何か書いたのではないわよね」
椿の言葉は、声であろうと墨であろうと危うい。
――昨夜、確かに書いた。
口にできなかった思いを、紙の上へ流した。
声ではないが、確かに書いたものはあった。



