遡って、桜花の宴の前夜のことだ。
椿は土蔵にほど近い離れの客殿、その二階の端に起臥している。
丹精込めて手入れしている小さな坪庭もあり気に入ってはいたが、何につけ主屋に比べれば旧式であり、隙間風も入る。
瓦斯灯もなく、近ごろ都の家々に普及しはじめた電灯が引かれるまでは、満足な灯りも備わっていなかった。
贅沢にも窓一面に嵌められた硝子は、客への見栄えとひきかえに冷気を伝えてくる。
利点といえば明かり窓になっているくらいだ。
椿は、使い慣れた燈台を一等好んでいた。
近付くほどに眩しさを増す電灯を一つ、瞬きをしながら落とす。
文机の奥へ押しやっていた燈台を引き寄せ、燈盞に椿油を満たしてやる。
火鉢から箸でつまみ上げた炭を以て点すと、温められた油が、ほのかに堅果にも似た香りを立てて鼻腔をくすぐる。
埋み火に炭を戻し、手元に灯りを寄せながら腰を下ろすと、その微かな熱に指先を温めた。
ゆらぐ火を眺めるうち、目が次第に慣れていく。
昼の抑えられた静けさとは異なる、本物の静穏が満ちる。
みるみると溶けるように輪郭を取り戻す、硝子の向こうの庭、通用門、身の回りの調度品。
離れに電灯が引かれてからというもの、対の屋前の灯籠は不要物と見做された。
いかに勤勉な和泉の使用人といえど、夜を前に灯しに来なくなったのである。
うち棄てられた離れから眺める灯籠は、渡殿のぼんやりとした灯に後ろから照らされ、ときに人影かと見紛うこともある。
それでも椿は、夜が好きだった。
この家に馴染んだすべては宵闇に溶け、畳の細かな傷も使い古した家具も、覆い隠されて魔法がかって見える。
手に少し残っていた椿油っ気を、愛用のつげの櫛に含ませる。
日中は引き詰めている髪を、頭皮を解すようにゆっくりと梳ると、僅かに強硬ばっていた身体が和らいでいった。椿の大好きな安らぐ匂いが沁みていく。
けれど、胸の内に溜まるものは口に上らせぬままだから、静かに積もっていく。
どれほど梳いても、梳いても、解ける気配はなかった。
――紬路のように、自分も女学校へ通いたかった。
そんな叶わなかった願いを、じくじくと痛む古傷を、ずっと胸の底に抱えていた。
思い立って手に余った椿油の残りを、手拭で拭い直す。
おもむろに抽斗から文箱を取り出し、言葉の流れを逃さぬよう逸る気持ちで墨を含ませ、垂直に立てた筆の穂先が静かに紙に触れた瞬間、するりと滑り出た見事な手跡には――
言の葉を
結ぶすべなく
胸に秘め
咲かぬ花にも
春は来るらむ
書き終えた、その刹那。
はっとして、椿は筆を置いた。
――これは、許されない。
誰かに見られるのも恥ずかしいが、それ以上に恐ろしいことがあった。
認めた紙を介してさえ、椿の強い思いから生まれた言葉にはどのような言霊が宿るか知れないのだ。粗末には扱うことはできない。
表面が乾くのを待って、羽織っていた襲の上掛けを脱ぎ、和歌の上からふんわりと覆いかけた。
表地は樺桜や紅つつじと同じく、やや年寄りじみた蘇芳。
とはいえ部屋着として使うもの故、作業に晒されることもなく、色褪せた気配はない。
隠した和歌をどう処すべきかと考えるうち、目蓋が重くなる。
上掛けを脱いだ肌に夜気がひやりと触れたので、敷かれていた褥に身を滑り込ませ、厚い夜着を被った。
ある年、庭の白椿が綻び始めた頃、試しに一首書いたことがあったことを思い出す。分家の者たちまで顔を揃えた、あの歌会始の折だったかもしれない。
居合わせた女中が、ぽろぽろと涙をこぼした。
たまたま居並んだ下男二人が、その日のうちに殴り合いを始めた。
分家から来ていた従姉妹同士まで、染めに出した反物を盗ったの盗られたの――この泥醜女が!と、しまいには袖を引き合う始末になった。
翌朝には、母が青ざめた顔で短冊を火に焼べていた。
そういえば、それからだった。
椿の声を、人前へ出してはならぬと言われたのは。
分家の者たちが物見高く泊まりに来ては、古い屏風越しに椿の口許ばかり窺って帰るようになったのも。
どうしても避けられない祝いの席では末座に退けられ、弔いの場には近づけられず、西洋式教育が始まったのもその頃だったと思われる。
火鉢は埋み火だったし、大丈夫な筈だ。
次の焚き上げの折に、和歌を持ち寄ろう。一緒に祈祷を受けられる。
そうすれば、きっと。
まどろみの中でそう思いながら、椿は眠りに落ちた。
夜はまだ、深まりきる前だった。
桜花の宴の翌日の朝。
まだ和泉の使用人たちが、朝の清めに取りかかるよりも前の、早い刻限――
棟門が、ぎい、と大きく軋み、無造作に押し開かれた。
その音で目を覚ました椿は、硝子越しに庭先を見やる。
和泉邸の通用門前に、一台の人力俥が横付けされていた。
白い狩衣の検非違使が数人、今にも降り立とうとしている。
椿は小袖を纏い、結髪を手早く整え、音を忍ばせて階を降り、廊下を進み玄関の引き戸を開けた。
両手を前に揃え、庭へ歩み出る。
彼らは、つくねんと立ち尽くし、誰かを待っているようであった。
元罪人の中から選ばれた放免の類か――。
裏に通じる者を束ねるには、上に立つ者の手綱が要る。
よく見れば、白いお仕着せの狩衣の首から上は、焼けた浅黒い肌が雁首を揃えていた。
耳を澄ますと、近付いてくる自動車の音がした。
やがて一台が、彼らに続いて門前に滑り込む。
あまりに滑らかで、瓦斯倫車ではなく、新式の電気自動車であろうと知れた。
三人の元無法者は、それを見るや否や、従者のごとく整列する。
背筋を正して微動だにせず、車から降り立つ者を迎えた。
現れたのは、帯刀した青年である。
軍人としては優男といってよい、柔和な目鼻立ち。
だが、その体躯は、庭の灯籠と比してもなお大きく、均整が取れていた。
門をくぐり抜けて、渡殿越しに椿へ、ちらりと視線を投げた。
下女と見做したのか、すぐに肩をそらす。
軍規より長いだろうと思われる髪が、歩みに合わせて静かに揺れている。
主屋のほうへ向かっているようだ。
「軍の調査だ。この屋敷を――検める」
命じることに慣れた、よく通る声だった。
庭に出ていた使用人たちは、互いに顔を見合わせる。
誰か応じるべきか、誰か前へ出るべきか。
何しろ母と紬路の朝は遅い。
「この邸の者はあるか」
重ねての問いに、屋敷の空気が一瞬で張りつめた。
そこへ、主屋の橋廊の端から紬路が遅れてまろび出てきた。
騒ぎに気付き、何事かと様子を窺いに来たのだろう。
だが、青年の姿を認めるや、ぴたりと足を止めた。
――と、主屋の玄関前に立っていた母が、一歩前へ出る。
たとえ大納言の要職にあろうとも、普通なら武官の務めである宿直まで自ら買って出るほどの忠義者――その父は生憎、昨夜から不在であった。
「我が家が、如何なる家かお判りでしょう」
急ぎ整えたのだろう、母のお太鼓は横から見ても歪んでいた。
髪もまた、いつもの女優髷ではない。片側へ流したお下げ髪が、あちこち解れている。
それでも声だけは、見咎めるように硬かった。
「承知済みだ。任務のため、――入る。御免」
長身の男は、にべもなく言い放ち、母の方へ向く。
その一言で、敷居の内も外も、丸ごと踏み越えて来るようだった。
「宮中に、怪文書が参った」
大股で歩きながら、矢継ぎ早に重ねる。
「出処は――和泉と思わしきものだ」
その瞬間、夜明け前の和泉邸を満たしていた座敷の空気が変わった。
怪文書。
宮中。
そして、和泉。
それは華族の家一つを、一夜で潰しかねない言葉だった。
取り繕えそうにもない。母の歪んだ帯の後姿が震えている。
「……な、何を、仰います」
ようやく絞り出した声は、先ほどまでの鋭さを失っていた。
男は答えない。
ただ冷たい目で母を見下ろしている。

