「先にお姉さまに宮中入りされるなんてね」
振り向くと、斜め後ろで紬路が笑っていた。
あの日と同じ、花の開くような笑み。
けれど、今そこにあるのは、本心から祝ってくれている妹の顔だった。
そのことが、わたしにはまだ少し不思議だ。
自分も、妹も。
人の気持ちは変わる。
変わらぬと思っていたものでも、ある日ふと、違う色を帯びている。
初披露目を終えた華族の子女は、家のため、成婚のため、いつでも参内してよい許しを得ている。
けれど今日の会は、それとはまた別だった。
女官まで含めた宮廷人の役職を発表する正式な場で、新任のわたしは最後に呼ばれる筈だ。
「入内とは違うのよ。ただの加階の儀だわ」
そう言ってみせても、自分の響きが僅かに硬いのは判った。
紬路のような初披露目にはなれなかった。
けれど今日が、たぶん、わたしの初披露目なのだ。
いずれ劣らぬ綺羅びやかな和装の殿上人たちが、わたしたちの周りを取り囲んでいる。
小紋の染め。
織りの映え。
趣向を凝らした着合わせに、檜扇を持つ公卿や姫たち。
目を上げれば、皆一様に紫宸殿を仰ぎ、帝のお出ましを待っている。
しんとした姿の裏で、誰が誰を見、どの家を値踏みしているのか。
わたしはもう、知らぬふりはできなかった。
これからは、ここを舞台に生きていくのだ。
視線が、ふと袖口へ落ちる。
今日のためにどれほど丁寧に整えても、手は良くはならなかった。
灰汁に灼かれ、膠に触れ、冬を越すたび細かく裂けてきた指先。
香を焚き込み、油もはたいた。
それでも近くで見れば、隠しきれまい。
参列する女官たちも、見物の女御さまや更衣の姫君たちも、扇を支える手は白く、滑らかで、何も知らぬように輝いている。
わたしには、それがどれほど艶やかな衣よりも窈窕として見えた。
だから、わたしは扇の類を一切持たないことにしている。
「……和歌を、習わなくちゃね」
口をついて出た言葉に、紬路が肩を竦めた。
「お姉さまが? 今さら?」
「紬路はいいじゃない。女学校で習ったんだから」
妹はふっと息を吐いた。
睫毛の影が揺れて、それから、小さく零す。
「大嫌いだったのよ」
「和歌が?」
「ええ。お姉さまの洋語のほうが、余程わたしに合ってるわ」
思わず、笑いそうになる。
昔のわたしなら、この一言すら聞けなかっただろう。
妹が何を好み、何を厭うか。
その一つを正面から受け取ることもなかった。
受け取る前に、こちらの口が閉ざされていたからだ。
「それに、いつか本を書いてみたいわ。時間ができたらね」
紬路はわたしを見た。
衣装や髪の乱れを確かめるのではなく、もっと奥の、何か目に見えぬものを見ようとするように。
「……本当に、変わられましたのね」
長い間、言葉を封じられてきた。
今はただ、もっと気持ちを表す術を知りたい。
身のこなし。
まなざし。
表情。
言葉にならぬ間に相手へ届いてしまうもの。
その全てを。
自分の異能を知ってからは、いつでも行使できただろう。
無理を通すことも。
誰かの胸のうちへ、鋭く刺すことも。
けれど、結局、曲げられた者は怒るのだ。
押しつけられた者は、恨むのだ。
わたしはそれを、よく知っている。
だからこそ、わたしは自分の言葉で生きたい。
他人を捻じ伏せるためではなく、人と交わりながらも、わたしがわたしであるために。
「あーあ。わたしも洋語でも習おうかしら。どのみち将来の頼みはもう、なーんにもないわ」
そのとき、すぐ脇で、誰かの密やかな囁きが風に乗った。
全ては拾えない。
けれど耳に残る。
――菖蒲か、杜若か。
花になぞらえるのは、褒めているようでいて、たいていは品定めだ。
どちらがましだ。
どちらが目を引く。
どちらが先に摘まれる。
そうしたことを、美しい言葉で包んでいるに過ぎない。
それに、わたしたちはもとより、揃って樹木に咲く春の花なのだ。
「……いずれ菖蒲か杜若、などと言われているのが聞こえたぞ」
殿上に近い警護位置からこちらへ寄って来た霍成が、低く言った。
「全く、油断も隙もない」
わたしは少し可笑しくなって、思わず笑ってしまう。
この人は、巡廻に立つ振りをしてまで隣へ移ってきたのだ。
番犬だの囲い込みだのと揶揄していた瑠衣と蘭の言い種を思い出すと、ますます可笑しい。
許婚の成ったことは、この狭い宮中に知れ渡っている。
だが、それとて安らかな約束ではない。
家と家が結ばれるとき、そこには必ず利が絡む。
血と血寄り添えば、その継ぎ目を暴こうとする者が出る。
官位が一つ上がれば、祝う顔の裏で、次に追い落とす段取りを数える者もいる。
人は祝言の影にさえ、次の計略を忍ばせる。
救われた娘が、ただ高い家へ迎えられて終わる甘い物語などないのだ。
これからは、わたしも霍成さまの世界に列する。
名を借りるためではなく、わたし自身の名で、その場へ上がるために。
守られるためではなく、できうる限りの全てでお支えし、隣に並び立つために。
二度と狭い処へ閉じ込められて、歪になったわたしにはならない。
たとえ宮中で腹背に政敵を受けることになろうとも。
たとえ婚姻を、女の救済と値踏みする者たちが、扇の陰で笑おうとも。
そのとき、霍成さまの手が、袖越しにわたしへ触れた。
握るのではない。
引き上げるのでもない。
同じ場所に立っていると、告げるような触れ方だった。
直には触れない。
けれど、その温もりだけで、わたしは一人ではないのだと判った。
「……手が荒れているのが気になるなら」
低く、わたしにだけ届く響き。
「袖の上からにする」
何を言われているのか理解した瞬間、顔にかあっと熱が集まった。
こんな場所で、こんな時に、よくもまあそういうことを言えるものだ。
「異国の姫のように、手袋越しでもいい」
「い、今は……そのような」
言葉が乱れる。
「しっかりしているようで、意外に泣き虫で、感受性が強い。今は赤くなった」
彼は、ほんの僅かに口元を緩めた。
声を上げず、口の端を上げる、あの、いつもの笑みで。
「本当にお前は可愛いな」
「霍成さま……」
「捕まえていないと、天女の住まう楼閣ごと消えてしまいそうでな」
胸が、どうしようもなく熱くなる。
気付いていたのだ。
わたしが、荒れた手を気にしていることを。
一を聞いて十を知る霍成さまだからこそ、わたしを見出してくれたのではある。
けれど、その有能さには未だに時折舌を巻かずにはいられない。
拙い和歌でありながら異能の光を放つ。
書物の蔵に閉じ込められるように暮らしていた娘。
最初から、お前しかあるまいと当たりを付けていた――。
いつか、そう告げられた。
けれど、和歌は香と共に焼べられ、もう効力はない。
ならば今、こうして隣に立つ熱も、袖越しの手も、わたしを瞶めるまなざしも。
真に、霍成さま自身のものなのだ。
兵部省からの発表が終わった。
霍成さまたち武官の人事が済む。
空気が変わる。
一息のうちに、場が鎮まった。
前方で、式部省の官人の呼び上げが響く。
名を取り次ぐ、よく通る響き。
もうすぐの筈だ。
わたしは息を吸った。
袖の内で指をそっと折り、皹の入った節を押さえる。
痛みはある。
けれど、その痛みごと、わたしのものだ。
「次――」
呼び上げが、場を裂く。
「新書司――和泉家当主、和泉椿」
名が、呼ばれた。
場が騒めく。
わたしの名。
女の身で初めて、襲爵が正式に認められた名。
足を踏み出す。
その刹那、霍成さまの手が、袖越しにわたしの背を押した。
強くはない。
けれど、行け、と告げるには充分だった。
衣擦れが、光の中へ解けてゆく。
もう誰の囁きも聞こえない。
進む度、一つずつ過去が背へ落ちてゆく気がした。
土蔵の匂い。
灰汁の沁みた指。
黴の立つ梅雨。
母の叱責。
人の嘲笑。
飲み込んできた言葉。
そのどれもが、いまのわたしを形づくっている。
だけど、もう俯かない。
和泉家を継ぐ。
書司として仕える。
霍成さまの隣で、わたしの言葉で、生きる。
春の光が、紫宸殿の白砂に満ちていた。
わたしはそのただ中へ、まっすぐに進み出た。
振り向くと、斜め後ろで紬路が笑っていた。
あの日と同じ、花の開くような笑み。
けれど、今そこにあるのは、本心から祝ってくれている妹の顔だった。
そのことが、わたしにはまだ少し不思議だ。
自分も、妹も。
人の気持ちは変わる。
変わらぬと思っていたものでも、ある日ふと、違う色を帯びている。
初披露目を終えた華族の子女は、家のため、成婚のため、いつでも参内してよい許しを得ている。
けれど今日の会は、それとはまた別だった。
女官まで含めた宮廷人の役職を発表する正式な場で、新任のわたしは最後に呼ばれる筈だ。
「入内とは違うのよ。ただの加階の儀だわ」
そう言ってみせても、自分の響きが僅かに硬いのは判った。
紬路のような初披露目にはなれなかった。
けれど今日が、たぶん、わたしの初披露目なのだ。
いずれ劣らぬ綺羅びやかな和装の殿上人たちが、わたしたちの周りを取り囲んでいる。
小紋の染め。
織りの映え。
趣向を凝らした着合わせに、檜扇を持つ公卿や姫たち。
目を上げれば、皆一様に紫宸殿を仰ぎ、帝のお出ましを待っている。
しんとした姿の裏で、誰が誰を見、どの家を値踏みしているのか。
わたしはもう、知らぬふりはできなかった。
これからは、ここを舞台に生きていくのだ。
視線が、ふと袖口へ落ちる。
今日のためにどれほど丁寧に整えても、手は良くはならなかった。
灰汁に灼かれ、膠に触れ、冬を越すたび細かく裂けてきた指先。
香を焚き込み、油もはたいた。
それでも近くで見れば、隠しきれまい。
参列する女官たちも、見物の女御さまや更衣の姫君たちも、扇を支える手は白く、滑らかで、何も知らぬように輝いている。
わたしには、それがどれほど艶やかな衣よりも窈窕として見えた。
だから、わたしは扇の類を一切持たないことにしている。
「……和歌を、習わなくちゃね」
口をついて出た言葉に、紬路が肩を竦めた。
「お姉さまが? 今さら?」
「紬路はいいじゃない。女学校で習ったんだから」
妹はふっと息を吐いた。
睫毛の影が揺れて、それから、小さく零す。
「大嫌いだったのよ」
「和歌が?」
「ええ。お姉さまの洋語のほうが、余程わたしに合ってるわ」
思わず、笑いそうになる。
昔のわたしなら、この一言すら聞けなかっただろう。
妹が何を好み、何を厭うか。
その一つを正面から受け取ることもなかった。
受け取る前に、こちらの口が閉ざされていたからだ。
「それに、いつか本を書いてみたいわ。時間ができたらね」
紬路はわたしを見た。
衣装や髪の乱れを確かめるのではなく、もっと奥の、何か目に見えぬものを見ようとするように。
「……本当に、変わられましたのね」
長い間、言葉を封じられてきた。
今はただ、もっと気持ちを表す術を知りたい。
身のこなし。
まなざし。
表情。
言葉にならぬ間に相手へ届いてしまうもの。
その全てを。
自分の異能を知ってからは、いつでも行使できただろう。
無理を通すことも。
誰かの胸のうちへ、鋭く刺すことも。
けれど、結局、曲げられた者は怒るのだ。
押しつけられた者は、恨むのだ。
わたしはそれを、よく知っている。
だからこそ、わたしは自分の言葉で生きたい。
他人を捻じ伏せるためではなく、人と交わりながらも、わたしがわたしであるために。
「あーあ。わたしも洋語でも習おうかしら。どのみち将来の頼みはもう、なーんにもないわ」
そのとき、すぐ脇で、誰かの密やかな囁きが風に乗った。
全ては拾えない。
けれど耳に残る。
――菖蒲か、杜若か。
花になぞらえるのは、褒めているようでいて、たいていは品定めだ。
どちらがましだ。
どちらが目を引く。
どちらが先に摘まれる。
そうしたことを、美しい言葉で包んでいるに過ぎない。
それに、わたしたちはもとより、揃って樹木に咲く春の花なのだ。
「……いずれ菖蒲か杜若、などと言われているのが聞こえたぞ」
殿上に近い警護位置からこちらへ寄って来た霍成が、低く言った。
「全く、油断も隙もない」
わたしは少し可笑しくなって、思わず笑ってしまう。
この人は、巡廻に立つ振りをしてまで隣へ移ってきたのだ。
番犬だの囲い込みだのと揶揄していた瑠衣と蘭の言い種を思い出すと、ますます可笑しい。
許婚の成ったことは、この狭い宮中に知れ渡っている。
だが、それとて安らかな約束ではない。
家と家が結ばれるとき、そこには必ず利が絡む。
血と血寄り添えば、その継ぎ目を暴こうとする者が出る。
官位が一つ上がれば、祝う顔の裏で、次に追い落とす段取りを数える者もいる。
人は祝言の影にさえ、次の計略を忍ばせる。
救われた娘が、ただ高い家へ迎えられて終わる甘い物語などないのだ。
これからは、わたしも霍成さまの世界に列する。
名を借りるためではなく、わたし自身の名で、その場へ上がるために。
守られるためではなく、できうる限りの全てでお支えし、隣に並び立つために。
二度と狭い処へ閉じ込められて、歪になったわたしにはならない。
たとえ宮中で腹背に政敵を受けることになろうとも。
たとえ婚姻を、女の救済と値踏みする者たちが、扇の陰で笑おうとも。
そのとき、霍成さまの手が、袖越しにわたしへ触れた。
握るのではない。
引き上げるのでもない。
同じ場所に立っていると、告げるような触れ方だった。
直には触れない。
けれど、その温もりだけで、わたしは一人ではないのだと判った。
「……手が荒れているのが気になるなら」
低く、わたしにだけ届く響き。
「袖の上からにする」
何を言われているのか理解した瞬間、顔にかあっと熱が集まった。
こんな場所で、こんな時に、よくもまあそういうことを言えるものだ。
「異国の姫のように、手袋越しでもいい」
「い、今は……そのような」
言葉が乱れる。
「しっかりしているようで、意外に泣き虫で、感受性が強い。今は赤くなった」
彼は、ほんの僅かに口元を緩めた。
声を上げず、口の端を上げる、あの、いつもの笑みで。
「本当にお前は可愛いな」
「霍成さま……」
「捕まえていないと、天女の住まう楼閣ごと消えてしまいそうでな」
胸が、どうしようもなく熱くなる。
気付いていたのだ。
わたしが、荒れた手を気にしていることを。
一を聞いて十を知る霍成さまだからこそ、わたしを見出してくれたのではある。
けれど、その有能さには未だに時折舌を巻かずにはいられない。
拙い和歌でありながら異能の光を放つ。
書物の蔵に閉じ込められるように暮らしていた娘。
最初から、お前しかあるまいと当たりを付けていた――。
いつか、そう告げられた。
けれど、和歌は香と共に焼べられ、もう効力はない。
ならば今、こうして隣に立つ熱も、袖越しの手も、わたしを瞶めるまなざしも。
真に、霍成さま自身のものなのだ。
兵部省からの発表が終わった。
霍成さまたち武官の人事が済む。
空気が変わる。
一息のうちに、場が鎮まった。
前方で、式部省の官人の呼び上げが響く。
名を取り次ぐ、よく通る響き。
もうすぐの筈だ。
わたしは息を吸った。
袖の内で指をそっと折り、皹の入った節を押さえる。
痛みはある。
けれど、その痛みごと、わたしのものだ。
「次――」
呼び上げが、場を裂く。
「新書司――和泉家当主、和泉椿」
名が、呼ばれた。
場が騒めく。
わたしの名。
女の身で初めて、襲爵が正式に認められた名。
足を踏み出す。
その刹那、霍成さまの手が、袖越しにわたしの背を押した。
強くはない。
けれど、行け、と告げるには充分だった。
衣擦れが、光の中へ解けてゆく。
もう誰の囁きも聞こえない。
進む度、一つずつ過去が背へ落ちてゆく気がした。
土蔵の匂い。
灰汁の沁みた指。
黴の立つ梅雨。
母の叱責。
人の嘲笑。
飲み込んできた言葉。
そのどれもが、いまのわたしを形づくっている。
だけど、もう俯かない。
和泉家を継ぐ。
書司として仕える。
霍成さまの隣で、わたしの言葉で、生きる。
春の光が、紫宸殿の白砂に満ちていた。
わたしはそのただ中へ、まっすぐに進み出た。



