和泉の家の座敷は、以前と少しも変わらぬ顔をしていた。
磨き上げられた床。
縁側から差す淡い陽。
青磁の細首には、季節の杜若がすらりと挿されている。
幼い頃より、椿が屏風の陰に息を殺して正座することを覚えさせられた部屋だった。
上座に母が座している。
背筋は少しも崩れず、満俺絣の裾にも乱れはない。
父はその傍らに控えていたが、置物のように黙したまま、ただ下を向いていた。
椿は下座へ進んだ。
髪は、はいから絹綬に結い上げてある。
それが霍成の一番喜ぶ形だと、もう判っていた。
隣には霍成が座した。
膝を揃え、正面を向いている。
その気配が傍らにあるだけで、椿は少しだけ息をしやすくなった。
向かい合う母は暫し、何も言わなかった。
ただ、椿を見ている。
家の奥へ閉じ込め、灰汁を扱わせ、墨を造らせてきた娘。
母の目には、今もそのように映っているのだろう。
やがて、母の唇が開いた。
「……誠に、大儀なことになりましたこと」
挨拶の形をした牽制だった。
霍成は、顔色一つ変えなかった。
「怪文書は、和泉家の名を利用し、宮中の疑いをそちらへ向けるための偽装でした」
淡々とした声で、あらかじめ整えられた筋書きが置かれてゆく。
父は料紙と筆跡の類似により、一時的に留め置かれた。
けれど詮議の結果、別物と判じられた。
椿の捜査協力は、真偽を見分ける手掛かりとなった。
嘘ではない。
けれど、真相でもなかった。
肝心なことは、何一つとして語られていない。
父もまた、ある程度真実を知りながら、口を挟まなかった。
初めから決められた筋書きであるかのように、座敷の時は進んでいく。
母だけが、いつもの冷えた面持ちでそれを聞いていた。
「分家筋にまで、口を利けぬと申していたのは、確かにわたくしです」
母は、すっと背を正した。
「そのことで、お前に恥をかかせたのであれば、謝ります」
謝ります。
その一語だけが、畳の上へ落ちた。
母の口からそんな言葉を聞く日が来るとは思わなかった。
けれど、椿の内側が温まることはなかった。
あまりに整い過ぎている。
謝罪というより、間違いを一つ訂正する務めを済ませたように聞こえる。
まるで先ほど、霍成が母にも呑み込みやすい形へ事実を整えたように。
「けれど、必要だったのです」
やはり、と椿は思った。
この人の言葉は、必ず家へ戻る。
椿ではなく、和泉へ。
娘ではなく、血筋へ。
心ではなく、理屈へ。
「必要……」
椿の唇から、僅かに音が漏れた。
母は気付かない。
否、気付いても気付かぬものとして扱うのだろう。
「余分な波を立てさせぬために」
「余分……」
「噂が広がり、要らぬ憶測を呼ぶでしょう。分家にまで異能の仔細を知らせる訣にはいかなかったのです」
余分。
その言葉が、椿の底へ沈んだ。
余分な言葉。
余分な友人。
余分な願い。
余分な椿の気持ち。
母にとって、椿の人生とは。
余分をどれほど削いで、有用に作り替えれば足りたのだろう。
「宮中は、人の口が人を殺す場です」
支離滅裂ながら、本当にそう判断したのだと判る母の理屈。
その言葉の裏に潜むものは、異常を来した何かだった。
「お前に能力の源泉を教える訣にはいかなかった。和歌を詠むという道を、擾りに開かせる訣にはいかなかったのです。女学校も同じ。人前で口を利き始めれば、いつ何を詠まされるか判らない」
丹念に女優髷を撫でつけた顔。
その上に、般若面の泥眼の幻視が重なって見えるようだ。
椿は、視線を落とした。
膝の上で指を重ねる。
灰汁に焼けて、荒れた自分の指。
墨に染まり、誰の前にも差し出せずにいた爪。
母の言うことには、確かに一理がある。
椿自身、今はもうそのことを知っている。
何せ予祝により、時にまで触れるほどの強大な異能である。
それでも隣の近衛武官だけは、椿の力を正しく見定めてくれた。
時間をかけて見守り、危うきを探り、短冊や墨の扱いにも工夫を凝らした。
椿が自由を取り戻す道を探り、ついにはその異能の在りようまで解き明かしてくれた。
両親は、見定めようともしなかった。
ただ禁じた。
閉じ込め、伏せ、椿を黙らせた。
椿が何を感じ、何を欲し、何を失ったのか。
一度たりとも問わなかった。
「紬路には異能がありません。あの娘は嫁ぐしか道がないのです。お前と違って」
母の口調は、謝罪を口にしても全く揺れていなかった。
その守ろうとした道は、紬路自らの手で消し去られている。
あるいは、異能によって唆した者の手によって――。
そのことさえも知らないようだ。
「お前は、異能の血を次代へ渡せればよかったのです」
母は、少しも声を荒げなかった。
「いずれ内裏へ上がる身。墨や料紙を扱えることも、お前自身を守る手立てでした。和泉は、椿に継がせる外ない家。だからこそ、お前は殊更に制しておかねばならぬ娘だったのです」
母は初めから、椿を次代へ血を渡すための器として見ていたのだ。
和歌を詠む口。
墨を扱う手。
和泉の名を継ぐ身体。
いずれ婿を迎え、異能を次へ繋ぐための娘。
そこに椿の心があるかどうかなど、母には初めから大きな問題ではなかったのだろう。
何を望み、恐れるのか。
誰と語り、どこへ行くか。
どんな風に生きて行きたいのか。
そうしたものは、母の秤には載らない。
ずっと娘を見る目などはなく、家の行く末を案ずる目だった。
その言葉を聞きながら、椿は漸く理解する。
母の中では、ずっと秤が一つだったのだ。
その軸に大した違いはない。
異能がある娘と、ない娘。
一本でも強い娘と、群生で守るべき娘。
値打ちのある娘と、婚姻で守るべき娘。
「あの娘に、宮中での評判を落とさせる訣にはいかなかったのです。その前日に鑑賞会で参内したばかり。見知った者も多い。少しでも付け入る隙があれば、紬路の評判は無きものとなっていたでしょう」
その理屈が、もう通じないことさえ、母は知らない。
紬路が内裏へ上がる筋は、最早ない。
父も知りながら、それを母には告げていないようだった。
この家では、誰も母の有り様を変えようとはしない。
ああ――もう駄目だ、と思った。
この人には、何を言っても届かないのかもしれない。
母はいつも、分家や和泉家の内でのみ力を揮い、自らの信ずるところを周囲へ強いてきた。
その外にある理には、目を向けようともしない。
だから誰も、本当のことを告げない。
話しても無駄だと、皆が知っているからだ。
見たくないものを見ぬまま押し伏せ、その果てに、椿の言葉まで奪った人。
母には、微細な言葉を重ねて、他人を理解しようとする姿勢などない。
だから今も猶、独り、お伽噺の世界に住んでいる。
母だけが正しく、母だけが家を守るという、都合のよい物語の中に。
口を、開かねばならない。
「わたくしは……守る必要のないものだったのですね」
辛うじて、言葉が形を得た。
椿のことは、守る必要がない。
なぜなら、人形だからだ。
何を羨んだか。
何を痛がったか。
何を夢見たか。
人形は思い通りになり、余分なことはしない。
好きな時に取り出し、好きな時に仕舞える。
感情を持たず、心を煩わせることもない。
母は、微動だにしなかった。
その沈黙が、答えだった。
とうとう口を利いた椿を前にしても、母にとっては、余分な口答えを始めた娘でしかない。
信じたくないものは見ない。
認めたくないものは、なかったことにする。
和歌でないのなら。
異能を次代へ渡すための言葉でないのなら。
母には、椿の言葉など、初めから用がなかったのだろう。
そんな程度のことで、椿は長く沈黙を強いられてきた。
人と語らうことは、本来なら許されてよかった筈なのだ。
和歌さえ詠まなければ害はないと、両親が見定めようとしてくれたなら。
椿は、言葉そのものを封じられずに、済んだかもしれない――。
「お前の心など、土御門と並び立つほど古き、神仙の巫女より続く和泉の血を継がせる上では、勘定には入りません」
父の膝に置かれた手が、一度だけ畳を掴むように強張った。
けれど、その指はすぐに解ける。
父は、やはり口を開かなかった。
「わ、わたくしは」
膝の上の指先が、ぶるぶると顫えた。
荒れた指。
言い表せないほどの火傷。
それでも言葉に集中したくて、椿はその指を見ながら続ける外なかった。
「わたくしは、ただ一度で良かったのです……」
口がわななく。
顫えて、顫えて、嗚咽をこらえながら。
「デ、デビュタントのように……綺麗に、晴れやかに」
最早、座っているのも苦しかった。
全身の震えに、身体の芯まで崩れそうになる。
隣から霍成の腕が伸びた。
黒い暖簾が垂れたような椿の肩へ、迷いなく差し伸べられる。
前にも、こんなことがあった。
出会ったときから、大切にすると約束してくれて。
あの日、運命が変わった。
この人が、全て変えてくれた。
「……心、など」
母は一つ息を継いだ。
その言葉を、椿は霍成の袖に顔を埋めながら聞いた。
「あの鑑賞会にも、行かせられなかった」
母は調子を落としている。
決して何人にも聞かれてはならない、椿の異能の話だったからだ。
「桜に因み、和歌の披露があるでしょう。……主上の御前で、お前が心情を籠めた和歌を詠めば何が起きるか……」
それは確かにそうなのだ。
椿にも、その危うさはもう判っている。
判るところまで、来られたのだ。
椿は顔を上げ、姿勢を直した。
母は、一切を禁じた。
だから椿は、己の異能が何であるのかを知る機会さえ奪われた。
そこを、霍成だけが、手を尽くして椿にとっての最善を考えてくれた。
椿を思うが故に、できるかぎり尊重し、見守るべき時はそうしてくれた。
たとえ、女給仕事のような、彼自身が快く思わぬことであっても。
止めるのではなく、見守る。
閉じ込めるのではなく、外へ出す。
黙らせるのではなく、言葉を取り戻させる。
それらは全て、椿を自由にする為に、霍成が選んでくれた手立てだった。
「女学校も同様。紬路と教育を分けたのは、お前を和歌から遠ざけるためです」
奪われたものはあまりに多かったが、母の中では最初から一つの軸だったのだ。
椿も、紬路が持つような女学校の友人たちが欲しかった。
母になかったのは、椿の気持ちへの配慮だ。
母が大切にして来たのは、椿自身ではない。
「灰汁や墨のことは、必要だと思って任せていたのです」
必要。
その言葉が、また椿の内側を浅く刺した。
灰汁を扱う手も、墨を練る指も、たしかに椿の一部ではあった。
けれど母が見ていたのは、いつもその手で何ができるかばかりだった。
そうしたもの以外は、母の目には映らない。
「……灰汁を扱うことも、墨を練ることも、厭ではありませんでした。――けれど、それしか許されなかったことは、厭でした」
絞り出すたびに、喉が掠れて熱くなる。
「役に立つからではなく、椿だから大切だと。そう言われたかったのです」
こんなことを口にしたところで、母に届くとは限らない。
届いたところで、過ぎた日々は戻らない。
それでも、今ここで言わなければ、椿はまた自分の言葉を母の前へ置き去りにしてしまう。
それだけは、もう厭だった。
「わたくしは、人形ではありません」
座敷の空気が、薄く張り詰めた。
それは、椿が母へ差し向けた、初めての反抗だった。
「口を利きたかったのです。人と話したかった。瑠衣と、もっと早く言葉を交わしたかった。女学校へも行きたかった。友を持ちたかった。紬路と一緒に、晴れやかな場へ出てみたかった。……たとえ失敗しても、誰かに嗤われても、わたくし自身の失敗として受け取りたかった」
父が息を呑む気配がした。
母は僅かに目を伏せる。
そして、再び。
「ごめん……なさい」
その響きには、先程の謝罪よりも人間らしい滲みがあった。
母が深々と、自ら頭を垂れている。
椿は、もう俯かなかった。
今度は、確かにそこにある謝罪だ。
けれど、何を言われても、過ぎた日々は戻らない。
椿は、その言葉を受け取るとも、拒むとも言えなかった。
ただ、顔を上げたまま、母を見ていた。
客間に長い沈黙が落ちる。
「……お前を嗤った使用人は、全員、推薦状なしに即刻解雇なさい」
その声には、長く沈んでいた怒りが、底を割って噴き出したような響きがあった。
「外で何を吹聴するか、判ったものではありません」
椿へ向けられたものではない。
跡取り娘を愚弄してきた下賤どもへの、女主人としての苛烈な怒りだった。
「和泉の家で、そのような使用人を輩出したなど、世間の恥です」
刃のような一言が、畳へ突き立つ。
分家や使用人のことは、母の理解の及ぶ数少ない領分なのだ。
自らの手で裁けることでもあるからこそ、今、唐突にそこへ意識が向いたのだろう。
少なくとも、母の矜持のどこかには触れたのだ。
「お前は何度も、その卑しい顔を目蓋に焼き付けて来た筈です。名を挙げなさい。一人残らず」
椿は母を見つめた。
誰が、どの場で、どんな目つきで嗤ったのか。
勿論、覚えている。
忘れたことなどない。
慰み者。
羅紗緬。
家畜の匂い。
穢れた日。
その一つ一つが、亜爾加里に焼かれて皹割れ、ささくれ立った手の膚に残る痛みのように、いつまでも薄れない記憶だ。
母は知っていたのだ。
知っていて、止めなかった。
見えていて、椿に耐えさせた。
「長い時間をかけて、和泉から膿を出した。人を見る目を養ったと、そう思いなさい。和泉を率いて上に立つ者には、必要な資質です」
母は本気で、跡取り娘が嗤われて来た日々を、和泉から膿を出すための機会だったと捉えていたのだ。
厳しく、酷薄で、勝手な理屈だった。
どこまでも、個人より和泉家なのだ。
けれどそれが、椿に家督を継がせるための、この人なりの狂気じみた贈り物であることも、判ってしまった。
此の異様な偏執性が椿に、灰汁と墨の秘伝調合の技を叩き込んだ。
女学校へ行かせない代わりに、一流の師だけは金に飽かせて引きも切らず呼び付けた。
ある意味では、そのことに感謝の気持ちが全くないと言えば嘘になる。
だが、やはり本気でそう考えて来ていたのだ、とは。
判りたくはなかったのに。
――厭なのに。
「とうとう内裏へ上がったのでしょう」
母は言った。
「この屋敷は、もう、跡取り娘であるあなたのものです」
父が、その時初めて顔を上げた。
何かを言うかと思われた。
けれど父は、最後まで言葉を選ばなかった。
ただ一度、ゆっくり頷き、それが、この家の決定となった。
「霍成さまと、好きに使いなさい。わたくしは隠居します」
椿は息を呑んだ。
そんな言葉が母の口から出るとは思わなかった。
好きにしろ、と。
勝手にしろ、都合が良いようにしろ、とは違う。
好きにしろ、は感情のままに振る舞え、という意味だ。
異能こそ価値という強烈な信念を抱く母。
娘を選別し、制し、守り、自分の思う型の裡へ閉じ込めた。
歪み、狂っていたとしても、それがこの人の信念だったのだ。
苛烈ではあったが、母なりの方法で和泉家を妄執的に尽くして来た心算なのだろう。
「……お母さま」
母がこちらを見る。
「謝罪は、受け取ります。けれど、許すとは申しません」
母の表情が僅かに歪んだ。
それでも、言い返してはこなかった。
許す、と言うことはできなかった。
その言葉に、何の意味もないことを、椿はもう知っている。
なかったことにもできない。
幼い日の痛みも、投げつけられた言葉も、長く閉ざされてきた道も、消えはしない。
けれど、その代わりに。
辛いときには、何も言わずとも察して抱きとめてくれる霍成がいる。
話し合い、必要とあれば譲歩してくれる、その確かさもある。
「使用人の解雇も、必ずお願い致します。後ほど名を挙げます。家司にも任せず、わたくしが最後まで確かめます」
「よろしいわ」
母は短く諾った。
椿は、両親へ向き直る。
膝の上で重ねた指は、もう顫えていなかった。
「霍成さまと二人で、和泉家を継ぎます」
母の目に映るのは、和泉とその分家、そして使用人ばかりだ。
分家や使用人や娘たちに高圧的に接するのが習い性で、半ば生き甲斐になっている人。
だとしたら、母にとっては此れが一番の罰になるのだ。
椿は息を吸い、先を続けた。
「ただし、わたくしは、たとえ襲爵することになっても、この家の中のみで生きる当主にはなりません。内裏へ上がり、外を見ます。人と話します。必要なものを学び、選びます」
分家との付き合いのみで閉じた、母のような世界に生きる心算はなかった。
たとえ陰謀が渦巻いていようとも、内裏で意味のある務めを果たす。
そのためにこそ長い間、灰汁と膠に手を灼かれてきたのだ。
「どんなに危険でも、霍成さまの詮議を陰からお手伝いします。御身に危うきことが及ぶなら、わたくしの異能を尽くしてでもお守りします。……わたくしの言葉を閉じることを、もう誰にも命じさせません」
家の外の世界で生きるのだ。
これまで機会を奪われてきた分まで。
怯えて全てを捨て去ることこそ、一番間違った選択なのだと、椿はもう知っている。
母は何かを言いかけた。
けれど、何も言わなかった。
その沈黙を、椿は初めて勝ち取ったものとして受け取った。
二人で和泉家の客間を辞する頃、この屋敷はもう、椿を閉じ込める檻ではなくなっていた。
これからは、隠居する母とはできうる限り距離を置き、椿自身の手で和泉家を切り盛りしていく。
必要なことは伝える。
ただ、心までは差し出さない。
たとえ肉親でも、相手によって態度を変えることを学ぶ。
それでもう、良いことにする。
言葉を奪われた娘は、もう居ない。
ここに居るのは、言葉で家を継ぐと告げた、次の和泉家の当主だった。
廊へ出ると、霍成が僅かに歩を緩めた。
待たれていたのだと判って、椿もその隣に並ぶ。
「あの時戻しのとき、異能を失っても構わない覚悟でした」
それを失えば、椿の値打ちは崩れ落ちるのかもしれない。
それでも、失わずに済むものがあると、今は判っている。
「あなたをお慕いしています、と告げるには、もう自分の言葉だけで足りるのです」
霍成が、驚いたように椿を見た。
どのようなことが起ころうとも、この人はきっと隣にいてくれる。
勝手に当主宣言をしても、驚くでも咎めるでもなく、受け止めてくれる。
言葉にして確かめ合わずとも、二人の間だけに通う暗黙の申し合わせがある。
長い年月の内に、屋敷の奥で失くしてきた機会は多い。
けれど取り戻した言葉と、霍成への信頼だけは、この先も絶対に手放すことはない。
椿はもう、客間の方を振り返らなかった。
磨き上げられた床。
縁側から差す淡い陽。
青磁の細首には、季節の杜若がすらりと挿されている。
幼い頃より、椿が屏風の陰に息を殺して正座することを覚えさせられた部屋だった。
上座に母が座している。
背筋は少しも崩れず、満俺絣の裾にも乱れはない。
父はその傍らに控えていたが、置物のように黙したまま、ただ下を向いていた。
椿は下座へ進んだ。
髪は、はいから絹綬に結い上げてある。
それが霍成の一番喜ぶ形だと、もう判っていた。
隣には霍成が座した。
膝を揃え、正面を向いている。
その気配が傍らにあるだけで、椿は少しだけ息をしやすくなった。
向かい合う母は暫し、何も言わなかった。
ただ、椿を見ている。
家の奥へ閉じ込め、灰汁を扱わせ、墨を造らせてきた娘。
母の目には、今もそのように映っているのだろう。
やがて、母の唇が開いた。
「……誠に、大儀なことになりましたこと」
挨拶の形をした牽制だった。
霍成は、顔色一つ変えなかった。
「怪文書は、和泉家の名を利用し、宮中の疑いをそちらへ向けるための偽装でした」
淡々とした声で、あらかじめ整えられた筋書きが置かれてゆく。
父は料紙と筆跡の類似により、一時的に留め置かれた。
けれど詮議の結果、別物と判じられた。
椿の捜査協力は、真偽を見分ける手掛かりとなった。
嘘ではない。
けれど、真相でもなかった。
肝心なことは、何一つとして語られていない。
父もまた、ある程度真実を知りながら、口を挟まなかった。
初めから決められた筋書きであるかのように、座敷の時は進んでいく。
母だけが、いつもの冷えた面持ちでそれを聞いていた。
「分家筋にまで、口を利けぬと申していたのは、確かにわたくしです」
母は、すっと背を正した。
「そのことで、お前に恥をかかせたのであれば、謝ります」
謝ります。
その一語だけが、畳の上へ落ちた。
母の口からそんな言葉を聞く日が来るとは思わなかった。
けれど、椿の内側が温まることはなかった。
あまりに整い過ぎている。
謝罪というより、間違いを一つ訂正する務めを済ませたように聞こえる。
まるで先ほど、霍成が母にも呑み込みやすい形へ事実を整えたように。
「けれど、必要だったのです」
やはり、と椿は思った。
この人の言葉は、必ず家へ戻る。
椿ではなく、和泉へ。
娘ではなく、血筋へ。
心ではなく、理屈へ。
「必要……」
椿の唇から、僅かに音が漏れた。
母は気付かない。
否、気付いても気付かぬものとして扱うのだろう。
「余分な波を立てさせぬために」
「余分……」
「噂が広がり、要らぬ憶測を呼ぶでしょう。分家にまで異能の仔細を知らせる訣にはいかなかったのです」
余分。
その言葉が、椿の底へ沈んだ。
余分な言葉。
余分な友人。
余分な願い。
余分な椿の気持ち。
母にとって、椿の人生とは。
余分をどれほど削いで、有用に作り替えれば足りたのだろう。
「宮中は、人の口が人を殺す場です」
支離滅裂ながら、本当にそう判断したのだと判る母の理屈。
その言葉の裏に潜むものは、異常を来した何かだった。
「お前に能力の源泉を教える訣にはいかなかった。和歌を詠むという道を、擾りに開かせる訣にはいかなかったのです。女学校も同じ。人前で口を利き始めれば、いつ何を詠まされるか判らない」
丹念に女優髷を撫でつけた顔。
その上に、般若面の泥眼の幻視が重なって見えるようだ。
椿は、視線を落とした。
膝の上で指を重ねる。
灰汁に焼けて、荒れた自分の指。
墨に染まり、誰の前にも差し出せずにいた爪。
母の言うことには、確かに一理がある。
椿自身、今はもうそのことを知っている。
何せ予祝により、時にまで触れるほどの強大な異能である。
それでも隣の近衛武官だけは、椿の力を正しく見定めてくれた。
時間をかけて見守り、危うきを探り、短冊や墨の扱いにも工夫を凝らした。
椿が自由を取り戻す道を探り、ついにはその異能の在りようまで解き明かしてくれた。
両親は、見定めようともしなかった。
ただ禁じた。
閉じ込め、伏せ、椿を黙らせた。
椿が何を感じ、何を欲し、何を失ったのか。
一度たりとも問わなかった。
「紬路には異能がありません。あの娘は嫁ぐしか道がないのです。お前と違って」
母の口調は、謝罪を口にしても全く揺れていなかった。
その守ろうとした道は、紬路自らの手で消し去られている。
あるいは、異能によって唆した者の手によって――。
そのことさえも知らないようだ。
「お前は、異能の血を次代へ渡せればよかったのです」
母は、少しも声を荒げなかった。
「いずれ内裏へ上がる身。墨や料紙を扱えることも、お前自身を守る手立てでした。和泉は、椿に継がせる外ない家。だからこそ、お前は殊更に制しておかねばならぬ娘だったのです」
母は初めから、椿を次代へ血を渡すための器として見ていたのだ。
和歌を詠む口。
墨を扱う手。
和泉の名を継ぐ身体。
いずれ婿を迎え、異能を次へ繋ぐための娘。
そこに椿の心があるかどうかなど、母には初めから大きな問題ではなかったのだろう。
何を望み、恐れるのか。
誰と語り、どこへ行くか。
どんな風に生きて行きたいのか。
そうしたものは、母の秤には載らない。
ずっと娘を見る目などはなく、家の行く末を案ずる目だった。
その言葉を聞きながら、椿は漸く理解する。
母の中では、ずっと秤が一つだったのだ。
その軸に大した違いはない。
異能がある娘と、ない娘。
一本でも強い娘と、群生で守るべき娘。
値打ちのある娘と、婚姻で守るべき娘。
「あの娘に、宮中での評判を落とさせる訣にはいかなかったのです。その前日に鑑賞会で参内したばかり。見知った者も多い。少しでも付け入る隙があれば、紬路の評判は無きものとなっていたでしょう」
その理屈が、もう通じないことさえ、母は知らない。
紬路が内裏へ上がる筋は、最早ない。
父も知りながら、それを母には告げていないようだった。
この家では、誰も母の有り様を変えようとはしない。
ああ――もう駄目だ、と思った。
この人には、何を言っても届かないのかもしれない。
母はいつも、分家や和泉家の内でのみ力を揮い、自らの信ずるところを周囲へ強いてきた。
その外にある理には、目を向けようともしない。
だから誰も、本当のことを告げない。
話しても無駄だと、皆が知っているからだ。
見たくないものを見ぬまま押し伏せ、その果てに、椿の言葉まで奪った人。
母には、微細な言葉を重ねて、他人を理解しようとする姿勢などない。
だから今も猶、独り、お伽噺の世界に住んでいる。
母だけが正しく、母だけが家を守るという、都合のよい物語の中に。
口を、開かねばならない。
「わたくしは……守る必要のないものだったのですね」
辛うじて、言葉が形を得た。
椿のことは、守る必要がない。
なぜなら、人形だからだ。
何を羨んだか。
何を痛がったか。
何を夢見たか。
人形は思い通りになり、余分なことはしない。
好きな時に取り出し、好きな時に仕舞える。
感情を持たず、心を煩わせることもない。
母は、微動だにしなかった。
その沈黙が、答えだった。
とうとう口を利いた椿を前にしても、母にとっては、余分な口答えを始めた娘でしかない。
信じたくないものは見ない。
認めたくないものは、なかったことにする。
和歌でないのなら。
異能を次代へ渡すための言葉でないのなら。
母には、椿の言葉など、初めから用がなかったのだろう。
そんな程度のことで、椿は長く沈黙を強いられてきた。
人と語らうことは、本来なら許されてよかった筈なのだ。
和歌さえ詠まなければ害はないと、両親が見定めようとしてくれたなら。
椿は、言葉そのものを封じられずに、済んだかもしれない――。
「お前の心など、土御門と並び立つほど古き、神仙の巫女より続く和泉の血を継がせる上では、勘定には入りません」
父の膝に置かれた手が、一度だけ畳を掴むように強張った。
けれど、その指はすぐに解ける。
父は、やはり口を開かなかった。
「わ、わたくしは」
膝の上の指先が、ぶるぶると顫えた。
荒れた指。
言い表せないほどの火傷。
それでも言葉に集中したくて、椿はその指を見ながら続ける外なかった。
「わたくしは、ただ一度で良かったのです……」
口がわななく。
顫えて、顫えて、嗚咽をこらえながら。
「デ、デビュタントのように……綺麗に、晴れやかに」
最早、座っているのも苦しかった。
全身の震えに、身体の芯まで崩れそうになる。
隣から霍成の腕が伸びた。
黒い暖簾が垂れたような椿の肩へ、迷いなく差し伸べられる。
前にも、こんなことがあった。
出会ったときから、大切にすると約束してくれて。
あの日、運命が変わった。
この人が、全て変えてくれた。
「……心、など」
母は一つ息を継いだ。
その言葉を、椿は霍成の袖に顔を埋めながら聞いた。
「あの鑑賞会にも、行かせられなかった」
母は調子を落としている。
決して何人にも聞かれてはならない、椿の異能の話だったからだ。
「桜に因み、和歌の披露があるでしょう。……主上の御前で、お前が心情を籠めた和歌を詠めば何が起きるか……」
それは確かにそうなのだ。
椿にも、その危うさはもう判っている。
判るところまで、来られたのだ。
椿は顔を上げ、姿勢を直した。
母は、一切を禁じた。
だから椿は、己の異能が何であるのかを知る機会さえ奪われた。
そこを、霍成だけが、手を尽くして椿にとっての最善を考えてくれた。
椿を思うが故に、できるかぎり尊重し、見守るべき時はそうしてくれた。
たとえ、女給仕事のような、彼自身が快く思わぬことであっても。
止めるのではなく、見守る。
閉じ込めるのではなく、外へ出す。
黙らせるのではなく、言葉を取り戻させる。
それらは全て、椿を自由にする為に、霍成が選んでくれた手立てだった。
「女学校も同様。紬路と教育を分けたのは、お前を和歌から遠ざけるためです」
奪われたものはあまりに多かったが、母の中では最初から一つの軸だったのだ。
椿も、紬路が持つような女学校の友人たちが欲しかった。
母になかったのは、椿の気持ちへの配慮だ。
母が大切にして来たのは、椿自身ではない。
「灰汁や墨のことは、必要だと思って任せていたのです」
必要。
その言葉が、また椿の内側を浅く刺した。
灰汁を扱う手も、墨を練る指も、たしかに椿の一部ではあった。
けれど母が見ていたのは、いつもその手で何ができるかばかりだった。
そうしたもの以外は、母の目には映らない。
「……灰汁を扱うことも、墨を練ることも、厭ではありませんでした。――けれど、それしか許されなかったことは、厭でした」
絞り出すたびに、喉が掠れて熱くなる。
「役に立つからではなく、椿だから大切だと。そう言われたかったのです」
こんなことを口にしたところで、母に届くとは限らない。
届いたところで、過ぎた日々は戻らない。
それでも、今ここで言わなければ、椿はまた自分の言葉を母の前へ置き去りにしてしまう。
それだけは、もう厭だった。
「わたくしは、人形ではありません」
座敷の空気が、薄く張り詰めた。
それは、椿が母へ差し向けた、初めての反抗だった。
「口を利きたかったのです。人と話したかった。瑠衣と、もっと早く言葉を交わしたかった。女学校へも行きたかった。友を持ちたかった。紬路と一緒に、晴れやかな場へ出てみたかった。……たとえ失敗しても、誰かに嗤われても、わたくし自身の失敗として受け取りたかった」
父が息を呑む気配がした。
母は僅かに目を伏せる。
そして、再び。
「ごめん……なさい」
その響きには、先程の謝罪よりも人間らしい滲みがあった。
母が深々と、自ら頭を垂れている。
椿は、もう俯かなかった。
今度は、確かにそこにある謝罪だ。
けれど、何を言われても、過ぎた日々は戻らない。
椿は、その言葉を受け取るとも、拒むとも言えなかった。
ただ、顔を上げたまま、母を見ていた。
客間に長い沈黙が落ちる。
「……お前を嗤った使用人は、全員、推薦状なしに即刻解雇なさい」
その声には、長く沈んでいた怒りが、底を割って噴き出したような響きがあった。
「外で何を吹聴するか、判ったものではありません」
椿へ向けられたものではない。
跡取り娘を愚弄してきた下賤どもへの、女主人としての苛烈な怒りだった。
「和泉の家で、そのような使用人を輩出したなど、世間の恥です」
刃のような一言が、畳へ突き立つ。
分家や使用人のことは、母の理解の及ぶ数少ない領分なのだ。
自らの手で裁けることでもあるからこそ、今、唐突にそこへ意識が向いたのだろう。
少なくとも、母の矜持のどこかには触れたのだ。
「お前は何度も、その卑しい顔を目蓋に焼き付けて来た筈です。名を挙げなさい。一人残らず」
椿は母を見つめた。
誰が、どの場で、どんな目つきで嗤ったのか。
勿論、覚えている。
忘れたことなどない。
慰み者。
羅紗緬。
家畜の匂い。
穢れた日。
その一つ一つが、亜爾加里に焼かれて皹割れ、ささくれ立った手の膚に残る痛みのように、いつまでも薄れない記憶だ。
母は知っていたのだ。
知っていて、止めなかった。
見えていて、椿に耐えさせた。
「長い時間をかけて、和泉から膿を出した。人を見る目を養ったと、そう思いなさい。和泉を率いて上に立つ者には、必要な資質です」
母は本気で、跡取り娘が嗤われて来た日々を、和泉から膿を出すための機会だったと捉えていたのだ。
厳しく、酷薄で、勝手な理屈だった。
どこまでも、個人より和泉家なのだ。
けれどそれが、椿に家督を継がせるための、この人なりの狂気じみた贈り物であることも、判ってしまった。
此の異様な偏執性が椿に、灰汁と墨の秘伝調合の技を叩き込んだ。
女学校へ行かせない代わりに、一流の師だけは金に飽かせて引きも切らず呼び付けた。
ある意味では、そのことに感謝の気持ちが全くないと言えば嘘になる。
だが、やはり本気でそう考えて来ていたのだ、とは。
判りたくはなかったのに。
――厭なのに。
「とうとう内裏へ上がったのでしょう」
母は言った。
「この屋敷は、もう、跡取り娘であるあなたのものです」
父が、その時初めて顔を上げた。
何かを言うかと思われた。
けれど父は、最後まで言葉を選ばなかった。
ただ一度、ゆっくり頷き、それが、この家の決定となった。
「霍成さまと、好きに使いなさい。わたくしは隠居します」
椿は息を呑んだ。
そんな言葉が母の口から出るとは思わなかった。
好きにしろ、と。
勝手にしろ、都合が良いようにしろ、とは違う。
好きにしろ、は感情のままに振る舞え、という意味だ。
異能こそ価値という強烈な信念を抱く母。
娘を選別し、制し、守り、自分の思う型の裡へ閉じ込めた。
歪み、狂っていたとしても、それがこの人の信念だったのだ。
苛烈ではあったが、母なりの方法で和泉家を妄執的に尽くして来た心算なのだろう。
「……お母さま」
母がこちらを見る。
「謝罪は、受け取ります。けれど、許すとは申しません」
母の表情が僅かに歪んだ。
それでも、言い返してはこなかった。
許す、と言うことはできなかった。
その言葉に、何の意味もないことを、椿はもう知っている。
なかったことにもできない。
幼い日の痛みも、投げつけられた言葉も、長く閉ざされてきた道も、消えはしない。
けれど、その代わりに。
辛いときには、何も言わずとも察して抱きとめてくれる霍成がいる。
話し合い、必要とあれば譲歩してくれる、その確かさもある。
「使用人の解雇も、必ずお願い致します。後ほど名を挙げます。家司にも任せず、わたくしが最後まで確かめます」
「よろしいわ」
母は短く諾った。
椿は、両親へ向き直る。
膝の上で重ねた指は、もう顫えていなかった。
「霍成さまと二人で、和泉家を継ぎます」
母の目に映るのは、和泉とその分家、そして使用人ばかりだ。
分家や使用人や娘たちに高圧的に接するのが習い性で、半ば生き甲斐になっている人。
だとしたら、母にとっては此れが一番の罰になるのだ。
椿は息を吸い、先を続けた。
「ただし、わたくしは、たとえ襲爵することになっても、この家の中のみで生きる当主にはなりません。内裏へ上がり、外を見ます。人と話します。必要なものを学び、選びます」
分家との付き合いのみで閉じた、母のような世界に生きる心算はなかった。
たとえ陰謀が渦巻いていようとも、内裏で意味のある務めを果たす。
そのためにこそ長い間、灰汁と膠に手を灼かれてきたのだ。
「どんなに危険でも、霍成さまの詮議を陰からお手伝いします。御身に危うきことが及ぶなら、わたくしの異能を尽くしてでもお守りします。……わたくしの言葉を閉じることを、もう誰にも命じさせません」
家の外の世界で生きるのだ。
これまで機会を奪われてきた分まで。
怯えて全てを捨て去ることこそ、一番間違った選択なのだと、椿はもう知っている。
母は何かを言いかけた。
けれど、何も言わなかった。
その沈黙を、椿は初めて勝ち取ったものとして受け取った。
二人で和泉家の客間を辞する頃、この屋敷はもう、椿を閉じ込める檻ではなくなっていた。
これからは、隠居する母とはできうる限り距離を置き、椿自身の手で和泉家を切り盛りしていく。
必要なことは伝える。
ただ、心までは差し出さない。
たとえ肉親でも、相手によって態度を変えることを学ぶ。
それでもう、良いことにする。
言葉を奪われた娘は、もう居ない。
ここに居るのは、言葉で家を継ぐと告げた、次の和泉家の当主だった。
廊へ出ると、霍成が僅かに歩を緩めた。
待たれていたのだと判って、椿もその隣に並ぶ。
「あの時戻しのとき、異能を失っても構わない覚悟でした」
それを失えば、椿の値打ちは崩れ落ちるのかもしれない。
それでも、失わずに済むものがあると、今は判っている。
「あなたをお慕いしています、と告げるには、もう自分の言葉だけで足りるのです」
霍成が、驚いたように椿を見た。
どのようなことが起ころうとも、この人はきっと隣にいてくれる。
勝手に当主宣言をしても、驚くでも咎めるでもなく、受け止めてくれる。
言葉にして確かめ合わずとも、二人の間だけに通う暗黙の申し合わせがある。
長い年月の内に、屋敷の奥で失くしてきた機会は多い。
けれど取り戻した言葉と、霍成への信頼だけは、この先も絶対に手放すことはない。
椿はもう、客間の方を振り返らなかった。



