灰かぶりの椿姫 〜封じられた言霊姫は、愛を魅了で歪めたくない〜

 和泉(いずみ)の家の座敷は、以前と少しも変わらぬ顔をしていた。

 磨き上げられた床。
 縁側から差す淡い陽。
 青磁の細首には、季節の杜若(かきつばた)がすらりと()されている。

 幼い頃より、椿が屏風の陰に息を殺して正座することを覚えさせられた部屋だった。

 上座に母が座している。
 背筋は少しも崩れず、満俺(マンガン)絣の裾にも乱れはない。
 父はその傍らに控えていたが、置物のように黙したまま、ただ下を向いていた。

 椿は下座へ進んだ。

 髪は、はいから(・・・・)絹綬(リボン)に結い上げてある。
 それが霍成(かくなり)の一番喜ぶ形だと、もう判っていた。

 隣には霍成(かくなり)が座した。
 膝を揃え、正面を向いている。

 その気配が傍らにあるだけで、椿は少しだけ息をしやすくなった。

 向かい合う母は(しば)し、何も言わなかった。

 ただ、椿を見ている。

 家の奥へ閉じ込め、灰汁(あく)を扱わせ、墨を造らせてきた娘。
 母の目には、今もそのように映っているのだろう。

 やがて、母の唇が開いた。

「……誠に、大儀なことになりましたこと」

 挨拶の形をした牽制だった。

 霍成(かくなり)は、顔色一つ変えなかった。

「怪文書は、和泉(いずみ)家の名を利用し、宮中の疑いをそちらへ向けるための偽装でした」

 淡々とした声で、あらかじめ整えられた筋書きが置かれてゆく。

 父は料紙と筆跡の類似により、一時的に留め置かれた。
 けれど詮議(せんぎ)の結果、別物と判じられた。
 椿の捜査協力は、真偽を見分ける手掛かりとなった。

 嘘ではない。
 けれど、真相でもなかった。
 肝心なことは、何一つとして語られていない。

 父もまた、ある程度真実を知りながら、口を挟まなかった。

 初めから決められた筋書きであるかのように、座敷の時は進んでいく。
 母だけが、いつもの冷えた面持ちでそれを聞いていた。

「分家筋にまで、口を利けぬと申していたのは、確かにわたくしです」

 母は、すっと背を正した。

「そのことで、お前に恥をかかせたのであれば、謝ります」

 謝ります。
 その一語だけが、畳の上へ落ちた。

 母の口からそんな言葉を聞く日が来るとは思わなかった。
 けれど、椿の内側が温まることはなかった。

 あまりに整い過ぎている。
 謝罪というより、間違いを一つ訂正する務めを済ませたように聞こえる。

 まるで先ほど、霍成(かくなり)が母にも呑み込みやすい形へ事実を整えたように。

「けれど、必要だったのです」

 やはり、と椿は思った。

 この人の言葉は、必ず家へ戻る。
 椿ではなく、和泉(いずみ)へ。
 娘ではなく、血筋へ。
 心ではなく、理屈へ。

「必要……」

 椿の唇から、(わず)かに音が漏れた。

 母は気付かない。
 (いや)、気付いても気付かぬものとして扱うのだろう。

「余分な波を立てさせぬために」
「余分……」
「噂が広がり、要らぬ憶測を呼ぶでしょう。分家にまで異能の仔細を知らせる(わけ)にはいかなかったのです」

 余分。
 その言葉が、椿の底へ沈んだ。

 余分な言葉。
 余分な友人。
 余分な願い。
 余分な椿の気持ち。

 母にとって、椿の人生とは。
 余分をどれほど()いで、有用に作り替えれば足りたのだろう。

宮中(きゅうちゅう)は、人の口が人を殺す場です」

 支離滅裂ながら、本当にそう判断したのだと判る母の理屈。
 その言葉の裏に(ひそ)むものは、異常を(きた)した何かだった。

「お前に能力の源泉を教える(わけ)にはいかなかった。和歌を詠むという道を、(みだ)りに開かせる(わけ)にはいかなかったのです。女学校も同じ。人前で口を()き始めれば、いつ何を詠まされるか判らない」

 丹念に女優(まげ)()でつけた顔。
 その上に、般若(はんにゃ)面の泥眼(でいがん)の幻視が重なって見えるようだ。

 椿は、視線を落とした。
 (ひざ)の上で指を重ねる。

 灰汁(あく)に焼けて、荒れた自分の指。
 墨に染まり、誰の前にも差し出せずにいた爪。

 母の言うことには、確かに一理がある。
 椿自身、今はもうそのことを知っている。

 何せ予祝(よしゅく)により、時にまで触れるほどの強大な異能である。

 それでも隣の近衛武官だけは、椿の力を正しく見定めてくれた。
 時間をかけて見守り、危うきを探り、短冊や墨の扱いにも工夫を凝らした。

 椿が自由を取り戻す道を探り、ついにはその異能(ちから)の在りようまで()()かしてくれた。

 両親は、見定めようともしなかった。

 ただ禁じた。
 閉じ込め、伏せ、椿を黙らせた。

 椿が何を感じ、何を欲し、何を失ったのか。
 一度(いちど)たりとも問わなかった。

紬路(つつじ)には異能がありません。あの娘は嫁ぐしか道がないのです。お前と違って」

 母の口調は、謝罪を口にしても全く揺れていなかった。

 その守ろうとした道は、紬路(つつじ)自らの手で消し去られている。
 あるいは、異能によって(そそのか)した者の手によって――。
 そのことさえも知らないようだ。

「お前は、異能の血を次代へ渡せればよかったのです」

 母は、少しも声を荒げなかった。

「いずれ内裏(だいり)へ上がる身。墨や料紙を扱えることも、お前自身を守る手立てでした。和泉(いずみ)は、椿に継がせる(ほか)ない家。だからこそ、お前は殊更に制しておかねばならぬ娘だったのです」

 母は初めから、椿を次代へ血を渡すための器として見ていたのだ。

 和歌(うた)を詠む口。
 墨を扱う手。
 和泉(いずみ)の名を継ぐ身体。

 いずれ婿を迎え、異能を次へ繋ぐための娘。

 そこに椿の心があるかどうかなど、母には初めから大きな問題ではなかったのだろう。

 何を望み、恐れるのか。
 誰と語り、どこへ行くか。
 どんな風に生きて行きたいのか。

 そうしたものは、母の(はかり)には載らない。

 ずっと娘を見る目などはなく、家の行く末を案ずる目だった。

 その言葉を聞きながら、椿は(ようや)く理解する。

 母の中では、ずっと(はかり)が一つだったのだ。
 その軸に大した違いはない。

 異能(ちから)がある娘と、ない娘。
 一本でも強い娘と、群生で守るべき娘。
 値打ちのある娘と、婚姻で守るべき娘。

「あの娘に、宮中(きゅうちゅう)での評判を落とさせる(わけ)にはいかなかったのです。その前日に鑑賞会(かんしょうえ)参内(さんだい)したばかり。見知った者も多い。少しでも付け入る隙があれば、紬路(つつじ)の評判は無きものとなっていたでしょう」

 その理屈が、もう通じないことさえ、母は知らない。

 紬路(つつじ)内裏(だいり)へ上がる筋は、最早(もはや)ない。
 父も知りながら、それを母には告げていないようだった。

 この家では、誰も母の有り様を変えようとはしない。

 ああ――もう駄目だ、と思った。

 この人には、何を言っても届かないのかもしれない。

 母はいつも、分家や和泉(いずみ)家の内でのみ力を(ふる)い、自らの信ずるところを周囲へ強いてきた。
 その外にある(ことわり)には、目を向けようともしない。

 だから誰も、本当のことを告げない。
 話しても無駄だと、皆が知っているからだ。

 見たくないものを見ぬまま押し伏せ、その果てに、椿の言葉まで奪った人。
 母には、微細(びさい)な言葉を重ねて、他人を理解しようとする姿勢などない。

 だから今も(なお)、独り、お(とぎ)(ばなし)の世界に住んでいる。
 母だけが正しく、母だけが家を守るという、都合のよい物語の中に。

 口を、開かねばならない。

「わたくしは……守る必要のないものだったのですね」

 辛うじて、言葉が形を得た。

 椿のことは、守る必要がない。
 なぜなら、人形だからだ。

 何を羨んだか。
 何を痛がったか。
 何を夢見たか。

 人形は思い通りになり、余分なことはしない。
 好きな時に取り出し、好きな時に仕舞える。
 感情を持たず、心を(わずら)わせることもない。

 母は、微動だにしなかった。

 その沈黙が、答えだった。

 とうとう口を()いた椿を前にしても、母にとっては、余分な口答えを始めた娘でしかない。

 信じたくないものは見ない。
 認めたくないものは、なかったことにする。

 和歌でないのなら。
 異能を次代へ渡すための言葉でないのなら。
 母には、椿の言葉など、初めから用がなかったのだろう。

 そんな程度のことで、椿は長く沈黙を強いられてきた。

 人と語らうことは、本来なら許されてよかった(はず)なのだ。
 和歌さえ詠まなければ害はないと、両親が見定めようとしてくれたなら。

 椿は、言葉そのものを封じられずに、済んだかもしれない――。

「お前の心など、土御門(つちみかど)と並び立つほど古き、神仙(しんせん)の巫女より続く和泉(いずみ)の血を継がせる上では、勘定には入りません」

 父の膝に置かれた手が、一度だけ畳を掴むように強張(こわば)った。
 けれど、その指はすぐに(ほど)ける。
 父は、やはり口を開かなかった。

「わ、わたくしは」

 (ひざ)の上の指先が、ぶるぶると(ふる)えた。
 荒れた指。
 言い表せないほどの火傷。
 それでも言葉に集中したくて、椿はその指を見ながら続ける(ほか)なかった。

「わたくしは、ただ一度で良かったのです……」

 口がわななく。
 (ふる)えて、(ふる)えて、嗚咽(おえつ)をこらえながら。

「デ、デビュタントのように……綺麗に、晴れやかに」

 最早(もはや)、座っているのも苦しかった。
 全身の震えに、身体の芯まで崩れそうになる。

 隣から霍成(かくなり)の腕が伸びた。
 黒い暖簾(のれん)が垂れたような椿の肩へ、迷いなく差し伸べられる。

 前にも、こんなことがあった。

 出会ったときから、大切にすると約束してくれて。
 あの日、運命が変わった。
 この人が、全て変えてくれた。

「……心、など」

 母は一つ息を継いだ。
 その言葉を、椿は霍成(かくなり)の袖に顔を埋めながら聞いた。

「あの鑑賞会(かんしょうえ)にも、行かせられなかった」

 母は調子を落としている。
 決して何人(なんぴと)にも聞かれてはならない、椿の異能(ちから)の話だったからだ。

「桜に(ちな)み、和歌の披露があるでしょう。……主上(おかみ)御前(おんまえ)で、お前が心情を()めた和歌(うた)を詠めば何が起きるか……」

 それは確かにそうなのだ。

 椿にも、その危うさはもう判っている。
 判るところまで、来られたのだ。

 椿は顔を上げ、姿勢を直した。

 母は、一切を禁じた。
 だから椿は、己の異能が何であるのかを知る機会さえ奪われた。

 そこを、霍成(かくなり)だけが、手を尽くして椿にとっての最善を考えてくれた。
 椿を思うが(ゆえ)に、できるかぎり尊重し、見守るべき時はそうしてくれた。
 たとえ、女給(メイド)仕事のような、彼自身が快く思わぬことであっても。

 止めるのではなく、見守る。
 閉じ込めるのではなく、外へ出す。
 黙らせるのではなく、言葉を取り戻させる。

 それらは全て、椿を自由にする(ため)に、霍成(かくなり)が選んでくれた手立てだった。

「女学校も同様。紬路(つつじ)と教育を分けたのは、お前を和歌から遠ざけるためです」

 奪われたものはあまりに多かったが、母の中では最初から一つの軸だったのだ。

 椿も、紬路(つつじ)が持つような女学校の友人たちが欲しかった。
 母になかったのは、椿の気持ちへの配慮だ。
 母が大切にして来たのは、椿自身ではない。

灰汁(あく)や墨のことは、必要だと思って任せていたのです」

 必要。

 その言葉が、また椿の内側を浅く刺した。

 灰汁(あく)を扱う手も、墨を練る指も、たしかに椿の一部ではあった。
 けれど母が見ていたのは、いつもその手で何ができるかばかりだった。
 そうしたもの以外は、母の目には映らない。

「……灰汁(あく)を扱うことも、墨を練ることも、(いや)ではありませんでした。――けれど、それしか許されなかったことは、(いや)でした」

 絞り出すたびに、喉が(かす)れて熱くなる。

「役に立つからではなく、椿だから大切だと。そう言われたかったのです」

 こんなことを口にしたところで、母に届くとは限らない。
 届いたところで、過ぎた日々は戻らない。

 それでも、今ここで言わなければ、椿はまた自分の言葉を母の前へ置き去りにしてしまう。

 それだけは、もう(いや)だった。

「わたくしは、人形ではありません」

 座敷の空気が、薄く張り詰めた。

 それは、椿が母へ差し向けた、初めての反抗だった。

「口を利きたかったのです。人と話したかった。瑠衣(るい)と、もっと早く言葉を交わしたかった。女学校へも行きたかった。友を持ちたかった。紬路(つつじ)と一緒に、晴れやかな場へ出てみたかった。……たとえ失敗しても、誰かに(わら)われても、わたくし自身の失敗として受け取りたかった」

 父が息を()む気配がした。

 母は(わず)かに目を伏せる。

 そして、再び。

「ごめん……なさい」

 その響きには、先程の謝罪よりも人間らしい(にじ)みがあった。
 母が深々と、自ら(こうべ)を垂れている。

 椿は、もう(うつむ)かなかった。

 今度は、確かにそこにある謝罪だ。
 けれど、何を言われても、過ぎた日々は戻らない。

 椿は、その言葉を受け取るとも、拒むとも言えなかった。
 ただ、顔を上げたまま、母を見ていた。

 客間に長い沈黙が落ちる。

「……お前を(わら)った使用人は、全員、推薦状なしに即刻解雇なさい」

 その声には、長く沈んでいた怒りが、底を割って噴き出したような響きがあった。

「外で何を吹聴するか、判ったものではありません」

 椿へ向けられたものではない。
 跡取り娘を愚弄してきた下賤どもへの、女主人としての苛烈な怒りだった。

和泉(いずみ)の家で、そのような使用人を輩出()したなど、世間の恥です」

 刃のような一言が、畳へ突き立つ。

 分家や使用人のことは、母の理解の及ぶ数少ない領分なのだ。
 自らの手で(さば)けることでもあるからこそ、今、唐突にそこへ意識が向いたのだろう。

 少なくとも、母の矜持のどこかには触れたのだ。

「お前は何度も、その(いや)しい顔を目蓋(まぶた)に焼き付けて来た(はず)です。名を挙げなさい。一人残らず」

 椿は母を見つめた。

 誰が、どの場で、どんな目つきで(わら)ったのか。

 勿論、覚えている。
 忘れたことなどない。

 (なぐさ)み者。
 羅紗緬(らしゃめん)
 家畜の匂い。
 (けが)れた日。

 その一つ一つが、亜爾加里(アルカリ)に焼かれて(ひび)割れ、ささくれ立った手の(はだ)に残る痛みのように、いつまでも薄れない記憶だ。

 母は知っていたのだ。

 知っていて、止めなかった。
 見えていて、椿に耐えさせた。

「長い時間をかけて、和泉(いずみ)から(うみ)を出した。人を見る目を養ったと、そう思いなさい。和泉(いずみ)(ひき)いて上に立つ者には、必要な資質です」

 母は本気で、跡取り娘が(わら)われて来た日々を、和泉(いずみ)から(うみ)を出すための機会だったと捉えていたのだ。

 厳しく、酷薄で、勝手な理屈だった。
 どこまでも、個人より和泉(いずみ)家なのだ。

 けれどそれが、椿に家督を継がせるための、この人なりの狂気じみた贈り物であることも、判ってしまった。

 ()の異様な偏執性が椿に、灰汁(あく)と墨の秘伝調合の技を叩き込んだ。
 女学校へ行かせない代わりに、一流の師だけは金に飽かせて引きも切らず呼び付けた。

 ある意味では、そのことに感謝の気持ちが全くないと言えば嘘になる。
 だが、やはり本気でそう考えて来ていたのだ、とは。

 判りたくはなかったのに。
 ――(いや)なのに。

「とうとう内裏(だいり)へ上がったのでしょう」

 母は言った。

「この屋敷は、もう、跡取り娘であるあなたのものです」

 父が、その時初めて顔を上げた。

 何かを言うかと思われた。
 けれど父は、最後まで言葉を選ばなかった。

 ただ一度、ゆっくり(うなず)き、それが、この家の決定となった。

霍成(かくなり)さまと、好きに使いなさい。わたくしは隠居(いんきょ)します」

 椿は息を()んだ。

 そんな言葉が母の口から出るとは思わなかった。
 好きにしろ、と。

 勝手にしろ、都合が良いようにしろ、とは違う。
 好きにしろ、は感情のままに振る舞え、という意味だ。

 異能こそ価値という強烈な信念を抱く母。
 娘を選別し、制し、守り、自分の思う型の(うち)へ閉じ込めた。

 (ゆが)み、狂っていたとしても、それがこの人の信念だったのだ。
 苛烈ではあったが、母なりの方法で和泉(いずみ)家を妄執的に尽くして来た心算(つもり)なのだろう。

「……お母さま」

 母がこちらを見る。

「謝罪は、受け取ります。けれど、許すとは申しません」

 母の表情が(わず)かに(ゆが)んだ。
 それでも、言い返してはこなかった。

 許す、と言うことはできなかった。
 その言葉に、何の意味もないことを、椿はもう知っている。

 なかったことにもできない。
 幼い日の痛みも、投げつけられた言葉も、長く閉ざされてきた道も、消えはしない。

 けれど、その代わりに。
 辛いときには、何も言わずとも察して抱きとめてくれる霍成(かくなり)がいる。
 話し合い、必要とあれば譲歩してくれる、その確かさもある。

「使用人の解雇も、必ずお願い致します。後ほど名を挙げます。家司にも任せず、わたくしが最後まで確かめます」
「よろしいわ」

 母は短く(うべな)った。

 椿は、両親へ向き直る。
 膝の上で重ねた指は、もう(ふる)えていなかった。

霍成(かくなり)さまと二人で、和泉(いずみ)家を継ぎます」

 母の目に映るのは、和泉(いずみ)とその分家、そして使用人ばかりだ。
 分家や使用人や娘たちに高圧的に接するのが習い(しょう)で、半ば生き甲斐になっている人。

 だとしたら、母にとっては()れが一番の罰になるのだ。

 椿は息を吸い、先を続けた。

「ただし、わたくしは、たとえ襲爵(しゅうしゃく)することになっても、この家の中のみで生きる当主にはなりません。内裏(だいり)へ上がり、外を見ます。人と話します。必要なものを学び、選びます」

 分家との付き合いのみで閉じた、母のような世界に生きる心算(つもり)はなかった。

 たとえ陰謀が渦巻いていようとも、内裏(だいり)で意味のある務めを果たす。
 そのためにこそ長い(あいだ)灰汁(あく)(にかわ)に手を()かれてきたのだ。

「どんなに危険でも、霍成(かくなり)さまの詮議(せんぎ)を陰からお手伝いします。御身(おんみ)に危うきことが及ぶなら、わたくしの異能(ちから)を尽くしてでもお守りします。……わたくしの言葉を閉じることを、もう誰にも命じさせません」

 家の外の世界で生きるのだ。

 これまで機会を奪われてきた分まで。

 (おび)えて全てを捨て去ることこそ、一番間違った選択なのだと、椿はもう知っている。

 母は何かを言いかけた。
 けれど、何も言わなかった。

 その沈黙を、椿は初めて勝ち取ったものとして受け取った。

 二人で和泉(いずみ)家の客間を辞する頃、この屋敷はもう、椿を閉じ込める檻ではなくなっていた。

 これからは、隠居する母とはできうる限り距離を置き、椿自身の手で和泉(いずみ)家を切り盛りしていく。

 必要なことは伝える。
 ただ、心までは差し出さない。

 たとえ肉親でも、相手によって態度を変えることを学ぶ。
 それでもう、良いことにする。

 言葉を奪われた娘は、もう居ない。
 ここに居るのは、言葉で家を継ぐと告げた、次の和泉(いずみ)家の当主だった。

 廊へ出ると、霍成(かくなり)(わず)かに歩を緩めた。
 待たれていたのだと判って、椿もその隣に並ぶ。

「あの時戻しのとき、異能(ちから)を失っても構わない覚悟でした」

 それを失えば、椿の値打ちは崩れ落ちるのかもしれない。

 それでも、失わずに済むものがあると、今は判っている。

「あなたをお慕いしています、と告げるには、もう自分の言葉だけで足りるのです」

 霍成(かくなり)が、驚いたように椿を見た。

 どのようなことが起ころうとも、この人はきっと隣にいてくれる。

 勝手に当主宣言をしても、驚くでも(とが)めるでもなく、受け止めてくれる。
 言葉にして確かめ合わずとも、二人の(あいだ)だけに通う暗黙の申し合わせがある。

 長い年月の内に、屋敷の奥で失くしてきた機会は多い。
 けれど取り戻した言葉と、霍成(かくなり)への信頼だけは、この先も絶対に手放すことはない。

 椿はもう、客間の方を振り返らなかった。