灰かぶりの椿姫 〜封じられた言霊姫は、近衛武官の愛を魅了で歪めたくない〜

 突然の通り雨が降り出した。
 ただの天気の気まぐれとは思えなかった。

 おそらく、この男の異能(ちから)なのだろう。
 この右大臣の父は霍成(かくなり)の叔父でもあり、目の前の男と霍成(かくなり)は従兄弟同士でもある。
 ならば、似た系統の異能(ちから)を持っていたとしても不思議ではない。

 見る間に中庭は濡れそぼり、砂利も飛石も黒々と沈んでいった。
 渡殿(わたどの)から降りることは、もうできない。

 無理に飛び降りたところで、逃げ切れる(はず)がなかった。
 重い着物に雨水が(たちま)ち染み込み、裾を絡げるより早く足を取られる。
 逃げ道は開けたようでいて、閉ざされていた。

 しかも目の前には、張本人が立っている。

 口(もと)には笑みがあった。
 けれど目は、少しも笑っていない。

 一歩。
 脇へすり抜ければ、抜けられるかもしれない。

 そう思って身を(ひるがえ)した途端、男の手が伸びた。
 袖口を(かす)める。

「……っ!」

 息が漏れた。

 避け切れぬまま後ずさる。
 背が廊の柱に触れた。

 逃げ場が、消える。

 男は(なお)も表情を変えず、距離を詰めて来た。
 あと一歩。
 その一歩で、椿はあわや登華殿(とうかでん)の内へ引き()り込まれそうになる。

 雨脚はいよいよ強い。
 篠突く音が、外の世界を切り離してゆく。
 いつの間にか、一つの閉じた檻の内に追い込まれていた。

 と、そのときだった。

 激しい雨音を裂くように、一際甲高い呼び声が渡殿(わたどの)の向こうから響いた。

「椿さまーッ!」

 次の瞬間、(わらわ)随身に扮した小柄な影が、濡れた欄干の向こうから躍り込んで来る。
 浅葱の装束は雨にしっとり色を深めていたが、その身のこなしは驚くほど軽い。

 丸い目を(きっ)と吊り上げ、短髪(モガ)風に切り揃えた髪を振り乱している。
 腰には、不似合いなほど立派な太刀まで()いていた。
 その扮装(いでたち)は勇ましいというより、必死に勇ましくあろうとしているように見えた。

「助けに参りましたにゃーぁっ!」

 ――(らん)だ。

 愛らしさも胡乱(うろん)さもそのままに、当人ばかりが至極(しごく)真面目な顔で、ぜいぜい息を吐きながら胸を張る。
 首元の鈴が、破魔(はま)(れい)のようにちりりんと鳴った。

 その登場があまりにも唐突で、椿は呆気に取られた。
 目の前の男でさえ、(しば)し言葉を失っている。

 けれど次の瞬間、男は(いと)うように顔を背けた。
 椿と(らん)を残し、何処かへ消え去る。

「もう、だい、じょーぶ……」

 (らん)は肩で大きく息をしていた。
 ようやく間に合ったという安堵が、息切れの中へ少しずつ滲んでいく。

 雨は、降り出したときと同じように、ふいに上がった。

 ふと見れば、濡れた和歌が板敷の上に張りついている。

「あいつ、閉場の結界を……」

 (らん)は悔しげに、男の消えた辺りを睨んでいた。
 あと少し早ければ逃がさずに済んだのに、と顔に書いてあるようだった。



 雷鳴壺(かんなりのつぼ)の椿の局には、日頃から香の類が山ほど届けられる。

 練香。
 甘松末(かんしょうまつ)
 白檀(びゃくだん)の木片。

 日常使いに()くには惜しくなるほど、上等なものばかりだ。
 だが今宵に限っては、その贅沢がありがたかった。

 霍成(かくなり)が火鉢の縁へ、濡れて文字の(にじ)んだ和歌を寄せた。
 結局、椿を呼び立てた宣耀殿(せんようでん)には、いまだ女君(おんなぎみ)はおられぬらしい。

 新帝の践祚(せんそ)に伴う慌ただしさの中で、命令の経緯も曖昧になっている。
 どの女房(にょうぼう)の言い出したことかを、これ以上辿ることはできなかった。

 (らん)胡坐(あぐら)の中に、香炉を抱え込んでいた。
 (ふた)を外してみたり、透かし彫りを(のぞ)き込んでみたりしている。

 その様子を見て、椿はふと思った。
 (らん)は、こうした香炉を見慣れていない育ちなのかもしれない。

 霍成(かくなり)が火鉢の熾に、和歌の端をそっと()べる。
 紙の焼ける匂いは白檀(びゃくだん)の香に()まれ、判じがたいものへ変わってゆく。

「これで、もう証は残りませんにゃ」

 (らん)は香炉を抱えたまま、ぽつりと言った。
 その口振りには、安堵よりもまだ怒りが残っている。

「魅了などと讒言(ざんげん)して、椿さまを陥れようなどと……」

 小さな猫のような顔に、不服ばかりが満ちていた。

 椿は火に()まれていく歌を見つめた。
 あの男の手にあったものが、こうして燃えて黒くなる。
 自分と紬路(つつじ)、ひいては霍成(かくなり)を陥れようとした誰かがいるのは、もう間違いなかった。

「……でも、目的は見えているわ」

 瑠衣(るい)が口を開く。
 香煙の向こうで、その眼差しは冴えていた。

「帝をついに弑虐(しいぎゃく)した――そう思ったのでしょうね。ところが、謎の光が走って、時間が戻った」

 そこで一度言葉を切り、瑠衣(るい)は片眼鏡を指先で押し上げる。
 濡れた唇をひと舐めしてから、低く続けた。

「それを椿さまの異能(ちから)と結びつけるのは、容易(たやす)いことよ。いちばん筋の通る答えでもあるもの」
「筋の通る答え、か」

 霍成(かくなり)が低く繰り返す。
 火に照らされた横顔は静まり返っていたが、その底には冷えたものが沈んでいた。

「外交文書が海の向こうへ渡ってもよき効き目を及ぼすよう、と言ったのですわね。紙に異能を持たせることができると、知っていたのは確実ですわ」
「……無事でよかった」
「問題は、どなたに罪をなすり付ける算段だったか、ね。……まあ、大納言さまでしょうね。三大臣はまず疑われない。それぞれ娘が入内していたから」

 その姫たちも御代が(うつ)った今では、すでに内裏(だいり)から下がっている。
 それでも、かつて娘を入内(じゅだい)させていたという事実は残る。
 帝に近い家ほど疑われぬという理屈が、(かえ)って誰かを守る盾になるのだ。

「今夜、あの方がわたくしの前に現れたのは……」

 言いかけて、椿は唇を閉じた。

 考えれば考えるほど、腹の底に煮えるような怒りが湧き上がる。
 あの男は、偶然そこに居合わせたのではない。

 だが、その先を(らん)が、ずずいと身を乗り出して(さえぎ)った。

「確かめるためでしょうにゃ。椿さまが、誰にどこまで話したか。そこを嗅ぎに来たんですにゃ」
「ええ」

 瑠衣(るい)(うなず)く。

 いつもの人を食った笑みは薄れていた。
 片眼鏡の奥の目は、香の煙越しにも冷えて見える。

「口ぶりからして、椿さまを探りに来たのでしょう。(おび)えて何か漏らせば尚よし、というところね」

 火鉢の中で、和歌の一節が赤く反り返った。
 紙の端が炭のように(もろ)く固まり、やがて形を失っていく。

 証は消えている(はず)なのに、胸の内に残った不穏は少しも薄れなかった。

「それに、椿さまの異能(ちから)がどうなったのかも見たかったのでしょうね」

 瑠衣(るい)の唇が皮肉げに(ゆが)む。

 危機に陥れれば、その片鱗でも現れるかもしれない。
 そのためなら、相手は椿を傷付けることも躊躇(ためら)わない――言外に、そう含ませていた。

「その上、痛めつけたい相手を痛めつける手にも使える。許婚(いいなづけ)が解消されれば(なお)よし、というところでしょう」

 相変わらず、遠回しな物言いだった。
 だが、何を指しているかは判る。

 椿を汚し、霍成(かくなり)を傷付ける。
 ついでに和泉(いずみ)家と佐伯家の結びつきまで揺らす。

 一つの暴挙で、幾つもの縁を断とうとしたのだ。

「……一挙両得どころではないな」

 霍成(かくなり)は短く言った。
 怒りを押し殺した横顔は、(かえ)って冷静な無表情に見える。

「だが、証拠は何もない」

 ただし、その目には剣呑な光があった。
 証がないなら、証を作らせる迄だと言いたげな目だった。

「盤の上で遊んでる心算(つもり)なんでしょうにゃ。政治って、やーな感じですにゃあ」
「……あら、得意だとおっしゃっていませんでした?」
「椿さまも、おっしゃるようになりましたにゃあー」

 (らん)は猫目を弓なりにして、喉(もと)の鈴をちりんと鳴らした。
 茶化すようでいて、どこか嬉しそうでもある。

「遊びですらあるまい」

 霍成(かくなり)は冷ややかに言う。
 吐き捨てるでもなく、ただ見切ったような響きだった。

「選んで並べて、要らなくなれば捨てる。ただそれだけだ」
「……わたくし、手駒になどなりません」

 それは取り乱した勢いでも、意地を張った物言いでもなかった。
 胸の深いところに沈んでいたものが、(ようや)く言葉を得たような(つぶや)きだった。

 甘松末(かんしょうまつ)の重たく甘い匂いの上に、白檀(びゃくだん)の澄んだ香りが重なる。

 椿は、隣の霍成(かくなり)の手から火箸を受け取った。
 火箸は熱に温められ、(わず)かに熱を帯びている。

 和歌だった文字が浮かんでいる黒い紙片を、そっと突く。

 かさり、と音を立てて崩れた。
 最早(もはや)、紙の形すら留めていない。

 椿はそれを、満足げに眺めた。

 瑠衣(るい)が、にやにやと笑っている。
 面白がるようでいて、その実、随分(ずいぶん)と気をよくしている顔だった。

 (らん)は、その意気ですにゃ、とでも言いたげに小さく拳を握っている。
 今にも囃し立てそうな様子に、椿もくすりと笑みを(こぼ)した。

「まあ、宮中(きゅうちゅう)とは斯様(かよう)な場所ではある。……大納言殿のように、登殿(とうでん)を日参なり隔日なりにしてしまってもよいのだぞ。墨など和泉(いずみ)で造り、付け届ければよい」

 霍成(かくなり)は思案顔でそう言った。
 内裏(だいり)から三条の和泉(いずみ)までは目と鼻の先だ。

(ほとん)ど番犬の発想ねえ」

 瑠衣(るい)が、揶揄(からか)うように笑う。

「違いますッ。囲い込みの手口(てぐち)ですにゃっ!」

 (らん)はどこか嬉しげだった。
 ぴしりと、得意げに指を立てる。

 何しろ(さら)うように椿を(なな)ツ蔵に連れ去った霍成(かくなり)だ。
 無実とは言えない。
 むしろ前科があると言っていい。

 ――この面々となら、この先に何が待っていようと、きっと大丈夫だ。

 あとは調査完了を各方面に報告するだけだ。
 椿は三人の顔を見渡しながら、思わず笑みを深める。

「わぁ……! 椿さまが満面の笑みになりましたにゃ!」