霍成は清涼殿に至ると、倒れ伏していた帝を抱き起こしたという。
その折、殿内の有様は、ほんの数刻ばかり前へと書き換えられていたのだと、彼は言う。
お隠れ遊ばされたというのは、誇張された誤流言に過ぎぬ――人々はそう思い始め、騒ぎは少しずつ鎮まった。
あの夜を語る声も忙しさに取り紛れ、いつしか口をつぐみ、遠い出来事のように押しやられてゆく。
ともすれば椿自身も、巻き戻りは幻であったのではないかと思いかけた。
だが庭の木は、いまや裂け焦げた痕も裂かれた形跡もなく、何事もなかったかのように立っていた。やがては葉も付けるだろう。
まるで並んで植えられた木の復活を願う、椿の木の力が奇跡を及ぼしたようだった。
硯で摺ることもなく、直接に和歌を書きつけた痕も、やがて成長とともに消えてゆくのだろう。それでも、今はまだ微かに残っている。
されど、帝は春の残り香の尽きゆくがごとく、次第に玉体を損なわせられ、ついには病を御理由として御位を退かせられた。
程なくして新帝が践祚あそばされ、御代は静かに移ろった。
新たに立たれた皇子、即ち東宮は、紬路と同じ歳まわりであられる。
だが、刃を振るった者が、消えたはずもない。
成し遂げた手応えと、成し得なかった結果とを、胸の奥に澱のように抱えたまま、今も何処かに幽けき気配を潜めている筈だ。
霍成は、以前よりまめに姿を見せるようになった。
警戒というのは、確かに表向きの理由としてある。
だが実のところ、それだけではない。
あれは魅了ではないこと、自分の心が知らぬ間に奪われたわけでもないこと――椿を真実好いているのだと、何度でも言い含めるためでもあった。
雨上がりの夕刻、霍成は何でもない顔で現れた。
濡れた庭の匂いを僅かに纏ったまま、いつものように座につく。
「あら、霍成さま。さ、妾は――」
瑠衣は、如何にも心得た様子で、静かに半身を引いた。
霍成は空いた間へ自然に入り込み、椿のすぐ隣へ腰を落ち着ける。
「夕餉でもいただきに参りましょうかね」
そう言って、瑠衣は面白がるように目を細める。
そのままするりと席を外してゆき、後には静けさだけが残った。
椿は正座した膝の上に手を置いたまま、袖の内で指先をかすかに握りしめていた。
霍成はしばらく黙っていたが、やがて低く言う。
「嬉しそうな顔をしてくれないのか」
戯れでもなく、拗ねるでもなく、ただ静かに。
椿は嬉しさをどう表に出せばよいのか、まだ何も判らないので身を固くする。
「また考えているな」
椿の肩がぴくりと揺れた。
霍成は小さく息をつくと、椿の袖の上から手首のあたりをそっと押さえた。
荒くもなく、逃がすまいとするでもなく、ただそこに在るのだと教えるような手つきである。
「何度でも言うが、気の迷いではない」
疑いの入り込む隙を、一つずつ丁寧に塞いでゆくつもりなのだろう。
その目は落ち着き払っているのに、椿を手放す気のない熱だけが底で燃えていた。
「もう判っているだろう。大納言殿の聞き取り調査は自分が担当していた」
低い声が、淀みなく落ちる。
言葉は冷静なのに、その一つ一つが椿のために積み上げられているのだと思うと、胸の内がひどく甘く軋んだ。
「和泉家の話を聞くうちに浮かび上がってきたのは、毅然と運命に立ち向かう、孤独なお前の姿だった」
では父は直裁に話していたのか。
椿の和泉の家での暮らしぶりを――。
だが、両親は椿の異能の仔細までは知るまい。
見定めるより先に、普通の会話ごと、ただ全面的に禁じてしまったのだから。
わたしの力の在りようを、正しく見てくださったのは、ただ霍成さまだけだ。
その危うさを見極め、害なき形を見出し、そうして、わたしを自由にしてくれた。
「話に聞いただけで好意を持ったし、初めて会ったら会ったで、可憐にいじらしい姫がたちまち好きになってしまったのだ」
そこで霍成は、小袖越しに椿の手の上に軽く添えていた手を、ゆるやかに広げた。
初めて会ったときのように、手の甲から包み込まれる感じがする。
「だから、初めて目が合ったときより、以前からだ。……話を聞いて――守ってやりたいと、既に芽生えていたと思う」
離れの客殿の前。
みすぼらしい身なりのまま立ち尽くしていた自分。
誰の目にも取るに足らぬものとして映っていた姿を、確かに霍成は見たのだ。
「お前を知るごとに、あの和歌は恋を知る娘が詠んだものではないと解った」
霍成の声は少しも揺らがない。
折に触れて胸を過る疑いがあった。
霍成の慈しむような眼差しもまた、異能による魅了のためではないのか、と。
今は、その疑念すらまるで異能に操られていたのではないかと思う程、椿の迷いは消えている。
「忍恋より、もっと自由になりたい、とでもいうような根源的で切実な願いだと。……その強く願った思いが、和泉からお前を連れ出し、この運命を引き寄せたのかもしれん。あるいは俺を和泉に引き寄せたのだ。――だが、それは異能だったとしても、魅了とは全く別の異能だ」
きっぱりと言い切る。
逃げ道を与えぬほど明瞭で繰り返し説く声には、揺らぎも押しつけがましさもない。
「だから違う。惑わされているのではない」
椿が伏せかけた視線を、霍成は逃がさない。
「お前を真に好いている。それだけだ」
小袖越しの手に僅かに力が籠ったのが感じられた。
椿が驚くより早く、二人の距離が緩やかに解けるように縮まっていく。
触れた唇は、思いの外静かだった。
奪うようでも、確かめるようでもなく、ただそこに在るものを、漸く受け取るような口づけだった。
静かに離れても、吐息はすぐには消えない。
近くにある霍成の眼差しに、椿は眩しさを覚えるように睫毛を伏せた。
そうした折のこと、椿は不意に呼び立てられた。
先帝に仕えていた女御、更衣、尚侍は悉く改められ、いまや新帝の御代である。
その宣耀殿に仕える更衣さまよりのお召しと聞けば、軽んじることはできなかった。
椿は、渡殿を静かに進む。
後宮の北に位置すれば、昼なおほの暗く、吹き抜ける風が密やかに衣の裾を揺らしていた。
弘徽殿と登華殿とを結ぶ、そのあわい。
ふと、気配が途切れた。
人の声も、足音も、どこか遠くへ退いたかのように、しんと静まり返る。
振り返れば、来たはずの道は、既に閉ざされている。
可怪しい、と思ったときには遅かった。
目の前の遣戸が、ひっそりと閉ざされる。
「お独りとは、珍しい」
前方から、声が継がれた。
男の気配がある。
「これは、そなたのものだろう」
下から差し出されたのは、見覚えのある料紙だった。
確かめるまでもない。
蛇腹折りの形跡があるそれは、椿の和歌である。
思わず前へ気を取られた、そのときだった。
微かな軋みがして、続いて背後の渡殿で、切馬道を外す鈍い音が響く。
いつの間にか、一つの閉じた空間へと変わっている。
中庭へ飛び降りて逃げるなら、更衣さまのもとへ赴く頃には、裾が泥に塗れているに違いない。
先へ進むことも、引き返すことも適わなかった。
ただ、どこかから窺われているような気配だけが、肌の上に薄く纏わりつく。
――籠められた。
その理解だけが、遅れて静かに胸の底へ沈んでいった。
「このような処で独りでいらっしゃいますと、悪いことが起きますよ」
生まれ育ちの良さを思わせる、静かな声音。
大声を張り上げずとも、あからさまに脅さずとも、人を従わせてきたのだろうと思わせる響きだった。
だが、その静けさのまま、逃げ場を塞ぐように言葉を先回りさせてくる。
――あなたが閉じ込めたのでしょう。
椿は、ゆっくりと息を整えた。
確かめねばならぬことがあった。
言葉を弄してでも、この華族の口から証拠を引きずり出さねばならない。
「わたくし、知ってるのよ……」
声に出してみれば、喉は震えてはいなかった。
内心、怖れてはいる。
だが、素振りにも見せない覚悟を決める。
「あの夜に、何があったか」
言い切らない。
名を挙げない。
ただ、あの夜、とだけ置く。
それで足りる。
男の気配が止んだ。
あの夜、という言葉には無限の解釈がある。
男は答えない。不利になるかもしれないからだ。思案しているのだろう。
「……さて」
ようやく、声が動いた。
調子だけを聞けば、気安い冗談でも言い出しそうな軽さである。
けれど、その軽さの下で何かが静かに定まっているのが感じられる。
椿をどう扱うか、どこまで追いこめばよいか、もう量り終えている者の気配だった。
「いっそのこと、その異能ごと、霍成殿ではなく、自分のものにしてしまいましょうかねえ」
椿の背に、冷たいものが走る。
無理を無理と思わぬまま、自然に手を伸ばしてくる者の声色だった。
目の前の遣戸が、すい、と開いた。
光が細く差し込み、閉ざされていた板敷の上に淡い筋を引く。
「そうなれば、その夜の話も、ゆっくり伺える」
やはり、右大臣子息だった。
口元には穏やかな笑みを、安心させるための形で浮かべている。
戯れではなく、選び取る者の余裕だ。
「魅了の乙女が我がものになるのは、さぞ気分が良かろう。すぐに乙女ではなくなるがな……!」
不意に、雨の匂いがした、と思った次の瞬間だった。
ぽつり、ぽつりと落ち始めた雫は、あっという間に音を増し、渡殿の外を白く煙らせてゆく。

