瑠衣が文机の上へ、ばたばたと巻物や文箱を広げてゆく。
霍成が椿の肩へそっと手を添え、硯の前へ座らせる。
それきり――椿は手を動かすことができないでいる。
何かが違う手順のように思われた。
まだ墨は磨られていない。
筆もまた、あるべき場所に置かれたままだ。
書くべき場の気配だけが整っていて、肝心の始まりを掴めないでいる。
「一つだけ、申し上げておきますわ」
瑠衣が珍しく、軽口を捨てている。
普段なら人を食ったような響きを潜ませ、くるくると表情を変えるのに、今はただ、椿を案じる翳りだけがその顔にあった。
「おそらく、ただ時を戻す術だけではございませんの」
その言葉に、椿は硯から顔を離した。
「……理を捻じ曲げた分、代償を取られます」
――代償。
瑠衣はかなり以前から、禁中蔵へ時折忍び込んでは、古い記録の類を読み漁っていた。
異能を損ねた者、家格を落とされた者、……其処に書き残された幾つもの顛末を読んだのだろう。
願いを果たしながら、別の何かを永く失った異能者たち――
霍成は、早くから何かを悟っていたようだ。
あるいは自らの思考の裡に漂っているのか、黙ったまま瑠衣を見ている。
「椿さまの異能が、失われるかもしれません」
静かな声だった。
「一度だけ。本当に一度きり、時間を押し戻すことはできるでしょう。けれど、その代わりに椿さまの異能は……封じられるかもしれません」
言葉は、よく聞き取れた。
聞き取れたのに、椿はすぐには反応できなかった。
異能を失う。
それは、和泉の娘としての価値を失うことだった。
和泉家が守り、利用し、恐れ、そして縛ってきたものを。
宮中へ上がった理由でさえ、半ばは其処にあった。
それを失えば、自分はただの娘になる。
せいぜい墨を造ることに長けているだけの。
長い間、言葉を封じられてきた。
ならば今更、異能まで封じられたところで――。
そう思いかけて、椿はふと気付く。
異能を失っても、気持ちは変わらずにいてくれるだろうか。
そっと霍成を見やると、その横顔には、決意の色が静かに張っていた。
「任務か、恋か。帝への忠誠と国の安定か。ひとりの娘との未来か。――そんなもの、武官なら迷うなと教えられてきた」
苦い声だった。
幼い頃から骨の髄まで叩き込まれてきた理との葛藤。
「だが、俺は迷っている。お前を手に入れることは、莫大な力を得ることだ」
霍成は隠さなかった。
耳あたりのよい言葉で飾り立てもしない。
椿を求めている、とただ甘く囁くだけでは済まぬ逡巡が、何度も独りで辿られたのだと解る言葉――
「言葉で人を動かし、心を扶け、時の理にまで触れる力だ。政にも、戦にも届く」
霍成は唇を引き結んだ。
目を逸らさず、まっすぐ椿を見ている。
椿は、胸の奥がひやりとするのを覚えた。
その価値を、彼は正しく知っている。
どれほどの利になるかも、どれほど人を狂わせるかも。
椿の異能は、魅了そのものではなかった。
けれど、ある意味では、魅了よりも強大だったのだ。
背かぬように、離れぬように、己だけを見つめるようにと願えば、その願いは容易く魅了としても立ってしまうだろう。
「だが、欲しいのは、それではない」
低い声だった。
独り言のようでもあり、言い聞かせるようでもあった。
「俺は、断じてお前の異能だけを欲しているのではない」
霍成は、異能を失えば何が零れ落ちるのかを知っている。
名も、立場も、和泉の娘として、椿がどのように家に繋ぎ止められて来たのかも。
「言っただろう。お前を守る理由は、値打ちではない」
逸らしもせず、飾りもなく、ただその言葉だけを椿に差し出すように――
それは、彼自身の真として落とされた言葉だった。
そうして、やにわに立ち上がると、武官の顔に戻った。
「瑠衣。千代を起こして和泉へ走らせてくれ。墨を取って来てほしい。その間に、椿は禊ぎを済ませていてくれ。俺は弓を探して来る」
その言葉で、漸く何が要るのか、椿の中にも形を結んだ。
時を押し戻すには、ただ異能だけでは足りない。
什器が要る。
白い足袋が汚れるのも構わず、椿は弾かれたように障子を開けて庭へ降りた。
殆ど駆け寄るように御溝水の傍へ屈み込む。
その刹那、下草の葉先に残った水の粒が目に留まった。
朝には光を反射して玉のように澄んでいる、その露が、なぜか墨の先を濡らすのに要るもののように思われた。
椿は、其処に生えている菖蒲の根元をそっと押さえ、帯の間から小さな鋏を引き抜いた。
刃を入れて葉元をいくつか断つと、たちまち手は濡れそぼり、細く鋭い葉が青い匂いを放った。
それから瑠衣に導かれて局の奥へ入った。
端に追い遣られていた古い御簾を引き、几帳を立て、小さな結界のような空間を作る。
そこへ、霍成に呼ばれた千代が、大盤所から湯気の立つ湯を角盥いっぱいに満たして運んできた。
冷めないうちに菖蒲を投げ込み、その青い気が湯へ移るのを待つ――効くと信じながら。
椿は衣を解き、褥に仰向けになると、まず髪を浸した。
すぐさま乾いた手拭で水気を取り、つげの櫛で静かに梳る。
次に別の手拭を浸し、首筋から腕、肩、足へと順に清拭した。
菖蒲の香りが、通ってゆく。
と、慌ただしい足音が渡殿の方から近付いて来た。
「椿さま、失礼致しますわよッ」
御簾の外から景気よく飛び込んでくる声。
日頃の嬌娜かさもどこへやら、瑠衣が戻って来たようだ。
「内掌典の巫女装束、かっぱらって参りましたわよッ」
「かっぱらって……。とり敢えず、其処へ置いてくださる?」
今にも御簾を払いかねない勢いに、椿はぎょっとして身を強張らせた。
「厭ですわねえ、人聞きの悪い」
瑠衣は悪びれもせずそう言いながら、衣紋掛けから衣を外し、御簾の外に立てた几帳へそっと掛ける。
「少々借り受けてきただけですの」
妾、心は女ですのよ――と、此方の狼狽などどこ吹く風で、軽やかに言い添えた。
椿は御簾を僅かに持ち上げ、内側から腕を伸べ、その几帳に掛かった衣を受け取る。
その間に瑠衣は、何も言わず手拭を何処からか取り出し、几帳の端へ掛け足した。
それは確かに巫女装束だった。
白を基調とした清らかな衣に、神前の務めにふさわしい簡素な紐飾りが付いている。
十二単のように人手を要するものではない。
椿は息を整え、まだ湿りの残る身を丁寧に拭うと、一人で袖を通した。
「お手伝いしたいのは山々ですけれど、さすがに遠慮いたしますわ」
御簾越しに瑠衣が言う。
ただ案じて待つことを選んだ者の、包むに似た優しい響きだった。
「着替え終えました」
瑠衣がそっと御簾の中へ入って来る。
中の几帳へ男物らしい衣を掛けると、手にしていた細い神紐を取り上げた。
もとは巫女の髪を結うための、清められた紐なのだろう。
「御髪なら、妾でも」
瑠衣は椿の後ろへ回った。
その指が、濡れた黒髪のあいだをひと筋ずつ滑ってゆく。
やがて髪をひとつにまとめると、細い神紐で静かに結わえた。
その仕草はやさしく、どこか祈るようでもあった。
「……お似合いになりますわ。今夜ばかりは、本物の内掌典にも負けません。……もともと巫女様の末裔、神域に近い家の姫君でいらっしゃいますものね」
ふ、と小さく笑ったそのとき、表で戸が開く音がした。
先に駆け込んで来たのは千代だった。
その腕には、急ぎ持ち出された箱が抱えられている。
板敷を一歩踏む毎に中の墨がぶつかり合い、かたかたと鳴った。
和泉の煤と膠で仕立てた、椿の家の墨だ。
その後ろから遅れるようにして、霍成が姿を見せた。
その手には弓と榊を携えている。
鳴弦によって魔を祓うための弓で、木肌は古く、弦には使い込まれた艶があった。
常緑の榊の葉は、局の燈台の灯りを弾いて閃めかせ、夜気の中で冴えている。
「揃ったな」
椿に榊を渡しながら、霍成は一瞬だけ目を留めた。
御簾内の椿は、巫女装束の白のせいばかりではなく、人の世から半歩退いたような神気を纏っている。
その異様な清らかさを目の当たりにしたのは、ほんの一瞬のことだった。
すぐに霍成は目を据え直し、武官の顔に戻る。
「弓は校書殿の弓場殿にあった。案外すんなり手に入った。早いほうがいいと思ってな、千代に案内させて和泉まで馬で駆けた。――始めるぞ」
「霍成さま、宿直所に直衣がございましたので、失敬して参りました」
そう言って瑠衣は、几帳に掛けた衣を示した。
霍成は頷くと、それを手早く受け取る。
焼け木の傍らでは、まだ若い椿の木が、夜風に葉を鳴らしていた。
霍成が直衣を着付けている間、椿は尚も腹を決めかねたまま、受け取った墨を前に文机へ向かっていた。
この墨をただ硯で摺り出してしまえば、肝心の効力まで薄れてしまう気がして、筆を取る手がどうしても躊躇われるのである。
和歌は、理を呼び戻すためのもの。
失われるはずだった刻を、もう一度引き寄せるためのもの。
ふいに椿は立ち上がった。
この墨は、和泉そのものだ。
ただ摺ってしまうのではなく、もっと直に、今此処に在るものへ触れさせなければならない。
そう思った途端、もう迷いは消えていた。
霍成の脇をすり抜け、椿は再び、白い足袋が汚れるのも厭わず庭へ降りた。
夜気を含んだ土の冷えが、ひやりとした土の気が足裏に伝わった。
御溝水のほとりに屈み込み、菖蒲の葉先に宿った夜露を墨の端へそっと含ませた。
それから若い椿の木へ駆け寄ると、枝先を押さえ、墨を幹へ直接当てるようにして走らせた。
瑠衣は息を潜め、千代は墨箱を抱えたまま見守っている。
背後では、霍成が鳴弦を始めた。
びょう、と空気を裂く音が、夜の庭を清め、魔を祓ってゆく。
椿は夢中で書いた。
夜露を吸った、濃いままの固形の墨で、力いっぱい幹に書きつける。
文字は木肌へ吸いこまれるように定着し、和歌は枝葉を伝って、夜の底へ密かに滲んでゆく。
――言霊の助くる国ぞ ま幸くあらば
最後の一字を書き終えた瞬間、先祝る風が立つ。
隣の焼け木が、ぎしりと鳴る。
黒々と死んでいたはずの幹に、微かな潤みが戻り、裂けた枝の先にまで、若い気が走るのが見えた。
椿の木は長い間ずっと、雷に撃たれる前の、傍らの枯れ木を忘れずに在ったのだろう。
次の瞬間、主上の御寝あそばす舎、その一郭が眩い光に包まれた。
道が開いたと知るや、霍成は白光の方へ、躊躇いなく駆け出した。

