俄かに、蔵の外が騒がしくなった。
最初は、ただ遠くで人が走る気配がしただけである。
けれど次の瞬間、それははっきりとした音となって渡殿の板を震わせた。
複数の足音が、打ち鳴らすように近付いては離れ、また別の方向から重なる。
椿は顔を上げた。
「……何か」
瑠衣も巻物から目を離し、片眼鏡の奥で目を細める。
「これは、只事ではございませんわねえ」
声はまだ軽い。
だが、さすがに口許の笑みは消えていた。
蔵の戸の向こうの中庭を、鞘鳴りの気配が駆け抜ける。
すぐ傍らの渡殿を、文官たちが直衣の裾を跳ね上げる勢いで走ってゆく。
武官も文官も、押し並べて一人や二人ではない。
椿の背に、ひやりとしたものが走った。
「瑠衣」
「ええ。見て参ります」
瑠衣は巻物を元に戻し、するりと戸のほうへ向かった。
椿は灯りを抱くようにして、その背を見送り、とりも直さず腰を下ろし、身を縮こまらせた。
このまま禁書蔵で夜盗と間違われたら、大事になる。
夜気が、戸の隙間から細く入り込む。
蔵の中には、埃と古紙と木箱の乾いた匂いが、長く閉ざされていた気配のままに満ちている。その空気に自分の呼吸ひとつ混ぜるのさえ恐ろしくて、椿は息を殺した。
灯りを見つめるうち、やがて、瑠衣が戻ってきた。
息は乱れていない。
だが、もとより白い顔は、さらに血の気を失っていた。
「……瑠衣」
「雷鳴壺へ戻りましょう」
椿は弾かれるように立ち上がって、瑠衣に駆け寄る。
「何が――」
「主上が」
瑠衣の、常ならば淀みなく出る筈の口上が遅れている。
「……弑された、と」
椿は、その場で凍りついた。
灯りの炎が、ふ、と揺れた。
意味が胸に落ちるまでに、一拍、二拍とかかった。
「……そんな」
「武官を一人呼び止めて、聞き出しました」
瑠衣の声は、らしからぬ低さだった。
男のように野太く響かぬよう細やかに気を配っている筈のその声が、繕うことさえ忘れている。
「弑逆、とは……では、誰かが……」
「ええ。人の手で、でございます」
瑠衣が後ろ手に戸を閉める。
つい先刻まで、禁書の蔵で、おとぎ話めいた始祖興隆の系譜を辿っていた。
だが、気が付けば、こんな現し世の底へ、いきなり叩き落とされている。
「ここにいては危のうございます。騒ぎが広がれば、禁書蔵への出入りも検められます。疾く雷鳴壺へ」
椿と瑠衣は、何事かと物音に誘われて出てきた女官のような表情を被って、渡殿へ出た。
夜の宮中は、最早先程までの静けさを失っていた。
行き交う足音、押し殺した怒声、遠くで鋭く鳴る呼子笛。
誰も彼もが外へと急いでいた。
その流れに逆らうようにして、椿と瑠衣だけが後宮の北へ引き返してゆく。
雷鳴壺へ戻る道すがら、椿は一度も口を開かなかった。
やがて、焼け木の見える廂へ辿り着く。
千代は眠っているのか、それともまだ大盤所から戻らぬのか、人の気配がなかった。
辿り着いて程なく、局へ近付いて来る足音があった。
他の武官たちのような慌ただしさを帯びながら、それでも足取りには、ぶれぬ芯が一本通っている。
まっすぐ、迷いなく此方へ向かってくるその気配に、椿の胸がどくんと打った。
戸が開いた。
現れたのは、霍成だった。
夜気を纏い、軍服のまま、肩で浅く息をしている。
「無事か」
低く短い、その一言だった。
けれど椿にとっては、それだけで充分だった。
その声を聞いた瞬間、椿はもう一歩を踏み出していた。
胸の奥で必死に張りつめていたものが、ほどけるより先に、霍成のもとへ向かっていたのだ。
「霍成さま……!」
姿を認めた途端、辛うじて保っていたものが、内側から音もなく崩れた。
大丈夫でいなければと支えていた力が、指の間から水のように零れ落ちてゆく。
膝から折れそうになった椿を、霍成は咄嗟に抱きとめた。
その腕に受け止められた途端、漸く自分がどれほど怖かったのかを知る。
今さらのように震えが込み上げ、椿は霍成の胸もとへ縋るよりほかなかった。
「聞いたか」
「瑠衣が聞き込みまして」
「そうか」
霍成は短く答えると、すぐに背後へ目をやった。
追っ手も、聞き耳もないことを見極めるように。
それから障子の戸を閉め、椿と瑠衣のほうへ向き直る。
「誰が何処まで噛んでいるか判らん」
「……誰が、こんなことを」
問うた声は震えていた。
だが、恐れよりも、先に怒りが立っていた。
腕の中で、椿は僅かに身を起こし、霍成を見上げた。
「帝を弑するなど……そんなこと」
椿は、袖の下で拳を握った。
握りしめた指が、白くなる。
「歌も、書も、木も庭も、御代も、……皆が積み重ねてきたものです。帝室千年、どれほどの歴史が。それを――」
一夜で、その蓄積が断たれたのだ。
喉が熱くなる。
奥でせり上がったものが、とうとう堰を切ったように溢れた。
「それを、たかが人の欲で、無理やりにねじ曲げるなど……! 文化を、伝統を、流れそのものを、人の手で折り曲げるなど……っ」
声が上ずった。
怒っているのか、泣きそうなのか、もう自分でも解らない。
ただ、許せないという思いばかりが、言葉より先に胸を灼いていた。
長い間、椿自身もまた、誰かの都合や思惑一つで、行く先を勝手に決められてきた。
どこへ置かれるか、誰に渡されるか、何を黙って受け入れるべきか。そうして人の手に捻じ曲げられるばかりだったものを、ここへ来てやっと自分の足で取り戻しかけていたのだ。
だから尚更、許せなかった。
千年の積み重ねすら、たった一代の欲で歪めようとするなど。
それは歴史への冒瀆であり、書物への凌辱であり、人の心と、その先に連なる運命と連綿と連なっていく子々孫々を、力ずくの魅了で改めようとする所業でもあった。
それらが混然一体となって椿の胸の内で渦を巻き、何に対する怒りなのか、何が悲しいのか、もう自分でも解らなくなる。ただ、許せないという思いだけが、濁流のように噴き上げていた。
「そんな改竄紛いのこと、許される筈がありません……っ」
泣きじゃくるようにこぼした椿を、瑠衣が片眼鏡の奥から静かに見詰めていた。
慰めるでも、遮るでもない。
激情の底にあるものを、見守るような眼差しだった。
霍成は何も言わない。
椿の激昂を持て余しているのではなく、ただまっすぐ受け止めている。
しばしの間、誰も口を開かなかった。
椿の荒い呼吸だけが、静まり返った局に微かに響いた。
やがて霍成が、低く言った。
「手は、ある」
短い一言だった。
椿は濡れた睫毛のまま顔を上げた。
「椿、――転時。ほら、蔵に本があっただろう」
それは唐突で、いっそ不謹慎な抜け道の提案だった。
霍成と頁を繰ったあの本――伝承と呼ぶには、あまりにも市井の男たちの欲望が生々しく詰まり過ぎていた書を、椿は思い出した。
椿には、到底好きになれぬ話だった。
だが、人々の耳目を浚う筆致が鮮やかで一世を風靡したのだ。
此れのように惹きつけるものがいつか書けたならと、記憶の底に残していた本だ。
「古い時廻奇譚の一種だ。……時間を巻き戻す」
雷鳴壺の外で、焼け木が、かさ、と鳴った。
焼けて朽ち、葉も持たぬ木だ。
隣の椿の枝葉でも触れたのかもしれない。
椿の代わりに瑠衣が問い直す。
「……時間を、でございますか」
「ああ」
霍成の顔は真剣そのものだった。
冗談を言っている気配はない。
「椿の異能は和歌に宿る。だが、帝に奉ったものは魅了ではない、自由意思を持つことを扶翼せん形で発動しただけだ」
椿は、はっと顔を上げた。
確かにあの和歌は、頷き、話し、自由に振る舞うことを願って詠んだものだった。
では、魅了と定まった異能ではないのか。
詠み、そこへ込めた思いそのものを、予祝にして発する力なのか。
先程瑠衣と読んだ一節が浮かび上がる。
――和歌を詠めば風が止み、祈れば雨脚が鈍り、涙を落とせば花が色を濃くした。
あれは、人の心を惑わせるためのものではなかったのだ。
願いに応じて、現世の有り様へ触れる力――
では、霍成は魅了に堕ちたのではないのだ。
欲しいと言ったことも。
手を伸ばしたことも。
執着も、あの迷いのなさも。
そのすべてが、異能の力に呑まれた果てではなく、霍成自身の意志だったのだ。
椿の自由への希いを扶翼したい――ただその一念を、霍成に作用したに過ぎない。
否、まだ判らない。
でも時廻が成就したのなら、その異能は魅了ではないと証明される。
「お前が和歌に願うことは真になる。あり得ぬことを、そのまま捻じ伏せて現にするのではない。もともとこの世にある筋、まだ断たれておらぬ可能性を、言葉で引き寄せるものだ」
そこで一息つく。
「弑逆の前へ戻るには、ただ詠めばよいというものではない。道をつなぐための楔が要る。時を跨ぐに足るだけの、縁と、器と、徴が」
霍成は色の薄い優しい目で見下ろしている。
「……やります」
声は震えていた。
けれど、言葉そのものは揺れなかった。
「わたくし、こんな夜を、なかったことにしたい」
霍成は頷いた。
瑠衣もまた、必ず力になると請け合った。
前庭では、焼け木が黒々と立ち尽くし、その隣で若い椿の木が夜の底に葉を沈めていた。
すべてがまだ燃え尽きる前に。
すべてが灰になる前に。
失われた刻へ踏み戻ろう、と。

