夜の御所は、昼とはまるで違う顔を見せていた。
昼には人の衣擦れや気配が絶えぬ渡殿も、今は長い板敷の先まで、雲間から差し込む月光に白く漂っている。
遠くには、宿直の者たちが夜を見回る気配があった。
椿は角燈を袖で覆うように持ち、瑠衣の一歩後ろを歩いていく。
御所の夜は、人の気配が絶える訣ではない。
むしろ夜更けになるほど、往来は密やかに増えていく。
下男たちが、忍ぶように女房のもとへ通うのだ。
無論、入内したやんごとなき姫の周りには、昼夜問わず十数人もの女房が控えている。
容易に近付くことなど叶わず、高貴なる姫への夜這いなど、夢のまた夢に過ぎない。
女人禁制も、あくまで建前だ。
後宮の中庭まで武官が馬で乗り入れることさえ可能な造りになっている。
この有様が成り立っているのは、一重に治政の賢明さゆえだろう。
だからこそ、瑠衣のような者でさえ参内を許される。
「こちらですの」
瑠衣は振り返りもせず、小さく告げた。
いつものように軽く、夜の宮中にそぐわぬほど気楽である。
案内された先は、後宮中心の廻廊から少し外れた、渡殿の折れた先に建つ古びた建物だった。
板壁は月を浴びて青白く、庇の下には蜘蛛の糸が淡く張っている。
さり気なさを装って、うち棄てられたかのような家屋。
「こんな処に……」
「えぇ。みすぼらしいですけど」
先導に立っていた瑠衣は、椿に自分の角燈を渡し、戸口に手をかけた。
鍵すら掛かっていない。
姫たちの先祖について記した書など、然して人の興味を引くものでもないのだろう。
そもそも各家がどのような異能を受け継いでいるか、その大筋くらいは互いに承知している。
問題は、子女一人一人にどのように発現するかだった。
そればかりは血筋の記録を辿ったところで、杳として知れない。
まして、直ぐに書物に記されるものでもなかった。
ぎ、と乾いた音を立てて戸が開く。
内側から、閉じた紙と古木の匂いがふわりと流れ出た。
中は思いのほか広かった。
棚は壁に沿って幾つも並び、箱や巻物が積まれている。
どれも豪奢な装丁ではなく、題簽すら簡素だ。
「人の口は閉ざせても、紙は残りますよっと」
瑠衣はどこか浮き立った調子で言った。
禁書の匂いを前にすると、この人は隠す気もなく機嫌がよくなるらしい。
慣れた手つきで、箱の札を一つずつ検めていく。
その横顔を灯りが照らすと、淡い髪は殆ど白金に近く見えた。
外つ国の血を引くその容貌は、夜の気の中ではますます現し世の人間らしくない。
「左大臣家のものは先に見ましたの。おおむね血の濃さと婚姻の記録ばかり。右の大臣家は自慢話が多すぎて、読む価値が薄うございます」
「また、瑠衣はそんなことを言って」
「事実ですもの。自慢のための筆ほど退屈なものはございませんわ」
瑠衣は少し奥の棚に手を伸ばした。
「けれど、和歌泉の名が出るものは少し別でした」
椿は、反射的に身体を硬くした。
自分の家の名を、このような場所で聞くのは妙に落ち着かない。
「……ありましたの?」
「えぇ。しかも、各家より余程古いものでした」
瑠衣は細長い桐箱を取り出した。
箱そのものは飾り気がなく、角も少し擦れている。
長らく触れられずにいたのか、蓋には細かな塵が潜んでいた。
「こういうもの、開ける前が一番胸が鳴りますわね」
瑠衣は、ふふっと吐息を漏らす。
「しかも椿さまとご一緒となれば、尚更ですわ」
言うが早いか、瑠衣はあっさり蓋を開けた。
おそらく閑暇に任せて、一度は目を通しているのだろう。
中には巻物が三巻、布に包まれて納められていた。
その一つを取り上げる手つきに、躊躇いはない。
巻き紐を解き、するすると紙面を広げる。
角燈の許へ傾けると、古びた紙肌に淡い灯りが乗った。
随分古いものらしく、紙の色は所々で変わっている。
それでも文字は、まだ読めた。
流れるような筆致で、神事の記録らしいことが記されている。
椿は近付き、息を潜めて覗き込んだ。
初めのほうは、祭祀の日取りや供物の記録ばかりである。
けれど途中から、文の調子が少し変わっていた。
「天候やら……」
「ここから急に、昔語りめいてまいりますの」
瑠衣の調子が弾んでいる。
もともと本好きであるこの人は、どんな危うい記録の中にも、物語の匂いを嗅ぎ取るのだろう。
椿が古びた文字を追う間、瑠衣は横から、まるで子どもに夜話を聞かせるように、噛んで含めて語って聞かせた。
幼い頃、洋文字や他の学問を仕込まれたときのように。
「昔々、と申すほど可愛らしくはございませんけれど。あるとき下男が、宮中に仕える内掌典と契りを結んだ――と、そうございますわ」
「内掌典と……」
「ほほほ、下男よ、下男。大胆ねぇ。あの大納言さまのご先祖が!」
言ってしまってから気が付いたのか、瑠衣は口元を長い袖で覆った。
しかし幾ら昔の人々がそうした事柄に伸びやかであったにせよ、不可侵の巫女を手籠めにするとは、何とも好きものな下男なのは事実である。
「あら失礼。椿さまのご先祖でもいらっしゃる方ですね」
内掌典。
神前に仕え、祭祀をつかさどる女官。
巫女にも似た、清浄で、どこか人から遠い存在だ。
今も精進潔斎の上、内廷の何処かに務めている筈なのに、椿はその姿を見た覚えがなかった。
「えぇ。此処から先が面白いのです」
瑠衣は気を取り直して紙面を押さえ、楽しそうに口許を緩める。
「その女は、和歌を詠めば風が止み、祈れば雨脚が鈍り、涙を落とせば花が色を濃くした、とございます」
「そんな……」
「おとぎ話でしょう? けれど禁書蔵に残っている。根気よく通い、探し出せるのなら、ですけれど」
異能といえど、自然の摂理全てに抗えるほど強く高く発現するものは滅多にない。
山と積まれた書物は、千年にも及ぶ記録の重み、その証左のように見えた。
椿は再び、巻物へ視線を戻す。
其処には、書き残すことや表現を躊躇った気配がある。
幾度か消しかけ、猶も消しきれずに上から書き直したような、淡い滲みが散見された。
幾つかの寓話や次代への継承など、改竄とも違う何かが見て取れる。
「それが、和歌泉の祖。歌に人の心を揺らす力が宿った――と」
瑠衣はそう結ぶと、片眼鏡の位置を直した。
「随分と美しい話でございましょう? 少なくとも、男が権勢を得るために神託を偽った、とかいう話よりは余程」
口調は軽い。
青い目には、冷えた光が一筋走っていた。
言っているのは、何か右大臣家の動きに関することだろう。
密かに嫌疑を向けてしまうくらい腹に一物ある男だと、椿も薄々感じていた。
昼には人の衣擦れや気配が絶えぬ渡殿も、今は長い板敷の先まで、雲間から差し込む月光に白く漂っている。
遠くには、宿直の者たちが夜を見回る気配があった。
椿は角燈を袖で覆うように持ち、瑠衣の一歩後ろを歩いていく。
御所の夜は、人の気配が絶える訣ではない。
むしろ夜更けになるほど、往来は密やかに増えていく。
下男たちが、忍ぶように女房のもとへ通うのだ。
無論、入内したやんごとなき姫の周りには、昼夜問わず十数人もの女房が控えている。
容易に近付くことなど叶わず、高貴なる姫への夜這いなど、夢のまた夢に過ぎない。
女人禁制も、あくまで建前だ。
後宮の中庭まで武官が馬で乗り入れることさえ可能な造りになっている。
この有様が成り立っているのは、一重に治政の賢明さゆえだろう。
だからこそ、瑠衣のような者でさえ参内を許される。
「こちらですの」
瑠衣は振り返りもせず、小さく告げた。
いつものように軽く、夜の宮中にそぐわぬほど気楽である。
案内された先は、後宮中心の廻廊から少し外れた、渡殿の折れた先に建つ古びた建物だった。
板壁は月を浴びて青白く、庇の下には蜘蛛の糸が淡く張っている。
さり気なさを装って、うち棄てられたかのような家屋。
「こんな処に……」
「えぇ。みすぼらしいですけど」
先導に立っていた瑠衣は、椿に自分の角燈を渡し、戸口に手をかけた。
鍵すら掛かっていない。
姫たちの先祖について記した書など、然して人の興味を引くものでもないのだろう。
そもそも各家がどのような異能を受け継いでいるか、その大筋くらいは互いに承知している。
問題は、子女一人一人にどのように発現するかだった。
そればかりは血筋の記録を辿ったところで、杳として知れない。
まして、直ぐに書物に記されるものでもなかった。
ぎ、と乾いた音を立てて戸が開く。
内側から、閉じた紙と古木の匂いがふわりと流れ出た。
中は思いのほか広かった。
棚は壁に沿って幾つも並び、箱や巻物が積まれている。
どれも豪奢な装丁ではなく、題簽すら簡素だ。
「人の口は閉ざせても、紙は残りますよっと」
瑠衣はどこか浮き立った調子で言った。
禁書の匂いを前にすると、この人は隠す気もなく機嫌がよくなるらしい。
慣れた手つきで、箱の札を一つずつ検めていく。
その横顔を灯りが照らすと、淡い髪は殆ど白金に近く見えた。
外つ国の血を引くその容貌は、夜の気の中ではますます現し世の人間らしくない。
「左大臣家のものは先に見ましたの。おおむね血の濃さと婚姻の記録ばかり。右の大臣家は自慢話が多すぎて、読む価値が薄うございます」
「また、瑠衣はそんなことを言って」
「事実ですもの。自慢のための筆ほど退屈なものはございませんわ」
瑠衣は少し奥の棚に手を伸ばした。
「けれど、和歌泉の名が出るものは少し別でした」
椿は、反射的に身体を硬くした。
自分の家の名を、このような場所で聞くのは妙に落ち着かない。
「……ありましたの?」
「えぇ。しかも、各家より余程古いものでした」
瑠衣は細長い桐箱を取り出した。
箱そのものは飾り気がなく、角も少し擦れている。
長らく触れられずにいたのか、蓋には細かな塵が潜んでいた。
「こういうもの、開ける前が一番胸が鳴りますわね」
瑠衣は、ふふっと吐息を漏らす。
「しかも椿さまとご一緒となれば、尚更ですわ」
言うが早いか、瑠衣はあっさり蓋を開けた。
おそらく閑暇に任せて、一度は目を通しているのだろう。
中には巻物が三巻、布に包まれて納められていた。
その一つを取り上げる手つきに、躊躇いはない。
巻き紐を解き、するすると紙面を広げる。
角燈の許へ傾けると、古びた紙肌に淡い灯りが乗った。
随分古いものらしく、紙の色は所々で変わっている。
それでも文字は、まだ読めた。
流れるような筆致で、神事の記録らしいことが記されている。
椿は近付き、息を潜めて覗き込んだ。
初めのほうは、祭祀の日取りや供物の記録ばかりである。
けれど途中から、文の調子が少し変わっていた。
「天候やら……」
「ここから急に、昔語りめいてまいりますの」
瑠衣の調子が弾んでいる。
もともと本好きであるこの人は、どんな危うい記録の中にも、物語の匂いを嗅ぎ取るのだろう。
椿が古びた文字を追う間、瑠衣は横から、まるで子どもに夜話を聞かせるように、噛んで含めて語って聞かせた。
幼い頃、洋文字や他の学問を仕込まれたときのように。
「昔々、と申すほど可愛らしくはございませんけれど。あるとき下男が、宮中に仕える内掌典と契りを結んだ――と、そうございますわ」
「内掌典と……」
「ほほほ、下男よ、下男。大胆ねぇ。あの大納言さまのご先祖が!」
言ってしまってから気が付いたのか、瑠衣は口元を長い袖で覆った。
しかし幾ら昔の人々がそうした事柄に伸びやかであったにせよ、不可侵の巫女を手籠めにするとは、何とも好きものな下男なのは事実である。
「あら失礼。椿さまのご先祖でもいらっしゃる方ですね」
内掌典。
神前に仕え、祭祀をつかさどる女官。
巫女にも似た、清浄で、どこか人から遠い存在だ。
今も精進潔斎の上、内廷の何処かに務めている筈なのに、椿はその姿を見た覚えがなかった。
「えぇ。此処から先が面白いのです」
瑠衣は気を取り直して紙面を押さえ、楽しそうに口許を緩める。
「その女は、和歌を詠めば風が止み、祈れば雨脚が鈍り、涙を落とせば花が色を濃くした、とございます」
「そんな……」
「おとぎ話でしょう? けれど禁書蔵に残っている。根気よく通い、探し出せるのなら、ですけれど」
異能といえど、自然の摂理全てに抗えるほど強く高く発現するものは滅多にない。
山と積まれた書物は、千年にも及ぶ記録の重み、その証左のように見えた。
椿は再び、巻物へ視線を戻す。
其処には、書き残すことや表現を躊躇った気配がある。
幾度か消しかけ、猶も消しきれずに上から書き直したような、淡い滲みが散見された。
幾つかの寓話や次代への継承など、改竄とも違う何かが見て取れる。
「それが、和歌泉の祖。歌に人の心を揺らす力が宿った――と」
瑠衣はそう結ぶと、片眼鏡の位置を直した。
「随分と美しい話でございましょう? 少なくとも、男が権勢を得るために神託を偽った、とかいう話よりは余程」
口調は軽い。
青い目には、冷えた光が一筋走っていた。
言っているのは、何か右大臣家の動きに関することだろう。
密かに嫌疑を向けてしまうくらい腹に一物ある男だと、椿も薄々感じていた。



