あの瑠衣が、主上のおわす内裏へ、しかも正式に先んじて上がっていたなど。
そのことを知ったとき、椿はさすがに驚いた。
瑠衣という人は、つくづく一言では片付けがたい身の上をしている。
外つ国の要人の落とし胤とも囁かれるが、本人に話の水を向ければ、返ってくるのは決まってこんな調子だ。
「偉人と異人のお聞き間違えでは?」
「父の御名は明かせぬのです……だって、妾、知りませんものォ」
ふふっと当意即妙に返しながら、肝心なところだけは決して掴ませない。
受け流すでもなく、否むでもなく、するりと身を躱す。
さて、何れがいちばん面白うございましょう――
そう笑ってみせると、相手はそれ以上踏み込めなくなる。
気付けば話の芯は曖昧なまま、軽やかなやり取りだけが残っていた。
皮肉を交えた洒脱な会話に慣れた姿は、疑いようもなく遊戯に興じる貴人のそれである。
生まれ持っての才覚というより、身に染みついた華族の作法のようだった。
無論、和泉の家で椿の教育に当たるうち、身に付けた嗜みもあるだろう。
実際、椿の雷鳴壺入りは円滑だった。
他人の心に入り込み、顔を繋ぎ、噂を拾い、情報網を拵える。
退屈と暇を持て余した姫君たちの相手をしながら、隠密めいた立ち回りまで一手に引き受けていたのは瑠衣だった。
この程外つ国から頻繁に届くようになった書簡を読み解くのにも、重宝されていたらしい。
ある日のことである。
椿は外廷での勤めを終え、渡殿を一人で歩いていた。
夕暮れの宮中は、昼の華やぎが嘘のように静かである。
その静けさの中で、背後から掛けられた一語は、妙にはっきりと耳に届いた。
「椿姫」
振り返るより先に、心の何処かで小さな警鐘が鳴った。
油断すべきでない。
むしろ、身構えるべき相手だ、と。
「隣の凝華舎の梅壺が世話になっております」
椿とそう変わらぬ歳で、言葉も丁寧で、如何にも人当たりがよい。
柔らかな笑みを絶やさぬまま、ごく自然に椿の歩みを留めてみせる。
その調子が、如才なく整い過ぎていた。
後宮へ戻る間際のことだったので、あと少しで逃れられたものをと、椿は内心ほぞを噛んだ。
馴れ馴れしさも威圧もない。
ただ、こちらの逃げ道だけを先に塞ぐ巧妙さがあった。
「大納言家の姫は、お手跡もお和歌も美しいと伺っています」
そう言って差し出されたのは、外つ国へ送る書状の下書きだった。
異国の使節への献上品に添える挨拶文のように見える。
「雅びやかな文言を添えて送り出したいのです」
「わたくしに、務まりますでしょうか」
椿が遠慮がちに言うと、男は笑みを深くした。
雅語など、この男は生まれたときから息をするように触れてきただろうに。
「むしろ、あなたでなければ。……海の向こうへ渡っても、よき効き目を及ぼすよう」
その言い方は穏やかだった。
けれど椿は、どうも愛想よく受ける気になれない。
男の視線が、文才を量るというより、自分という人間そのものを値踏みしているように思われた。
効き目、と口にしたのも、椿の異能を知っているからではないか。
だが、断るには、あまりに表向きが整い過ぎていた。
国のためと言い、文案の頼み方にも下心を見せない。
「左大臣のご子息、右近衛の霍成どのと、縁付かれたそうですね」
何気ない世間話のように聞こえた。
だが、その名を出された途端、椿は僅かに怯んでしまう。
「ありがたく存じます」
「婿は座敷から貰え、嫁は灰小屋から貰え、と昔から申しますからねえ」
厭な喩えに、椿は顔を顰めた。
男はそれを見逃さぬまま、含みを持たせて微笑んでいる。
その眼差しには、以前から椿という存在を覚えていたのだと知れる光が、微かに宿っていた。
宮中の庭は、気配迄もが細やかに調えられている。
紫宸殿には桜がある。
先だって紬路も鑑賞会の折に見たその花は、今ではもう葉桜になっていた。
代わって、橘が見事に色付き始めている。
後宮の舎もまた、藤壺、梅壺、梨壺というように、庭の植木に因んで呼ばれていた。
名に従い、そこに満ちる気配までもが、自然と分けられてゆく。
雷鳴壺も、そうした舎の一つである。
広くはない前庭の片隅に、一度落雷に遭った黒く焼けた古木が立つ。
幹の半ばは裂け、今は葉もつけず、ただ焦げた肌を晒していた。
初めて目にしたとき、椿はこれが舎の呼び名の由来なのだと納得した。
そのすぐ隣に、若い木が一本ある。
最初は、ただの植え込みだと思っていた。
細く、まだ幹も頼りない。
葉はつややかな緑で、春の名残を僅かに留めている。
ある日、庭を掃く千代が、箒を手に何げなく言った。
「それ、椿の木でございますよ。椿さま」
椿は足を止めた。
「……この木が?」
「はい。冬になると赤い花がつくそうです。まだ元気で若うございますけれど」
言われてよくよく見てみれば、幾度となく灰汁造りで扱った木肌に似ている。
葉に厚みと艶がある椿の若木に相違ない。
雷鳴壺の由来になった焼け木の隣に、椿の木。
それが何を意味するという訣でもなかった。
けれど、妙に気にかかった。
近頃は、椿も漸く内裏での勤めに馴染み始めていた。
どの道を通れば人目が少ないか。
どの刻限なら、余計な者に呼び止められにくいか。
そうしたことも、少しずつ身について来ている。
あの一件以来、椿は右大臣を、危険人物として覚えていた。
霍成と出世競争で拮抗しているらしい男だ。
物腰は丁重だったが、此方を測る目ばかりが気になった。
椿が何を知り、何を知らず、どこまで踏み込めば怯むのかを試すような目だった。
あの男は、近付いてはならない。
そう覚えてから、造墨の管理で外廷へ出る行き帰りにも、椿は必ず周囲へ目を配るようになった。
「椿さま」
ある晩、帰って来た瑠衣は、焼け木の見える廂の傍に腰を下ろしていた椿へ呼びかけた。
「例の大臣さま、お気をつけあそばして」
「……例の、とは」
「外交文書の補佐を頼みにいらしたという、お方ですわ。その方が右大臣ですのよ」
椿は、膝の上で組んでいた指を解いた。
遅れて、胸の底に小さな波が立つ。
あの男の目を思い出した。
丁重で、穏やかで、けれど此方の逃げ道を先に塞ぐような目。
「何故?」
「椿さまに書かせまして頂戴した文書のうち、行く先の違うものが混じっていても、少しも可怪しくはございませんもの」
片眼鏡の奥の目は、深い眼窩の陰に半ば沈んでいる。
「いつの間にやら、謀反を匂わせる文書に署名」
心臓が、ひやりと跳ねた。
次の瞬間には、胸の内で早鐘が打ち始める。
「あるいは、外つ国へ通じる文言を、椿さま自ら添えたことにされる。……なーんて筋書き、大変作り易うございます。あなた様は妾がお育て申し上げた通り、洋語の専門家なのですから」
血の気が、指先から引いていく心地がした。
庭の焼け木が闇に紛れてくろぐろと立ち、燃え残った炭のようだ。
すぐ傍に控えている筈の、滝口の武士の気配があることを、思わず確かめてしまう。
件の右大臣は、文官である。
一方、霍成は左大臣子息でありながら、武官だった。
年はさほど変わらない。
けれど霍成の家は、まだ代替わりしていない。
左大臣家の子息とはいえ、本人の立つ場所は政の文机ではなく、武の側にあった。
尤も、滝口の武士のように背へ弓を負い、内裏に常侍する類ではない。
都の内外、主に市井の取り締まりを司る。
そのため、内裏に詰めるより、外向きの軍服を着て動いていることの方が多かった。
「そろそろ、頃合いでしょうかねえ」
「……何の、ですか」
瑠衣はそこで調子を落とした。
「異能に纏わる書を、拝読しに参りましょう」
口ぶりはいつもどおり軽いのに、告げられた場所は意外なほど校書殿から近かった。
「どこか奥に秘された書庫では、ないのですね」
「書庫にございます訣、ないでしょう?」
さらりと言われ、椿は目を瞬いた。
禁書というものは、蔵の一番奥に仕舞いこまれているのだと、椿は勝手に思っていた。
結界札を貼った入口扉の階段を降りた地下だとか、幾重にも鍵のかかった奥殿だとか、そういうものを想像していたのである。
「禁書ですのよ。皆さまお口では厳重にお納めせよ、なんて仰言るけれど、本当に大事なのは、守ることではございませんの」
「では……」
「そっくりそのまま燃やせること、ですわ」
瑠衣が此方を見た。
片眼鏡の奥で、青い目が笑っている。
「いざとなれば、蔵ごと一思いに焚書にできるように。証拠も、伝承も、都合の悪い名も、みんな灰にしてしまえるように――そういう場所へ隔離してあるように見受けましたわ」
冗談めかした口ぶりだったが、言っていることは少しも冗談ではない。
そのことを知ったとき、椿はさすがに驚いた。
瑠衣という人は、つくづく一言では片付けがたい身の上をしている。
外つ国の要人の落とし胤とも囁かれるが、本人に話の水を向ければ、返ってくるのは決まってこんな調子だ。
「偉人と異人のお聞き間違えでは?」
「父の御名は明かせぬのです……だって、妾、知りませんものォ」
ふふっと当意即妙に返しながら、肝心なところだけは決して掴ませない。
受け流すでもなく、否むでもなく、するりと身を躱す。
さて、何れがいちばん面白うございましょう――
そう笑ってみせると、相手はそれ以上踏み込めなくなる。
気付けば話の芯は曖昧なまま、軽やかなやり取りだけが残っていた。
皮肉を交えた洒脱な会話に慣れた姿は、疑いようもなく遊戯に興じる貴人のそれである。
生まれ持っての才覚というより、身に染みついた華族の作法のようだった。
無論、和泉の家で椿の教育に当たるうち、身に付けた嗜みもあるだろう。
実際、椿の雷鳴壺入りは円滑だった。
他人の心に入り込み、顔を繋ぎ、噂を拾い、情報網を拵える。
退屈と暇を持て余した姫君たちの相手をしながら、隠密めいた立ち回りまで一手に引き受けていたのは瑠衣だった。
この程外つ国から頻繁に届くようになった書簡を読み解くのにも、重宝されていたらしい。
ある日のことである。
椿は外廷での勤めを終え、渡殿を一人で歩いていた。
夕暮れの宮中は、昼の華やぎが嘘のように静かである。
その静けさの中で、背後から掛けられた一語は、妙にはっきりと耳に届いた。
「椿姫」
振り返るより先に、心の何処かで小さな警鐘が鳴った。
油断すべきでない。
むしろ、身構えるべき相手だ、と。
「隣の凝華舎の梅壺が世話になっております」
椿とそう変わらぬ歳で、言葉も丁寧で、如何にも人当たりがよい。
柔らかな笑みを絶やさぬまま、ごく自然に椿の歩みを留めてみせる。
その調子が、如才なく整い過ぎていた。
後宮へ戻る間際のことだったので、あと少しで逃れられたものをと、椿は内心ほぞを噛んだ。
馴れ馴れしさも威圧もない。
ただ、こちらの逃げ道だけを先に塞ぐ巧妙さがあった。
「大納言家の姫は、お手跡もお和歌も美しいと伺っています」
そう言って差し出されたのは、外つ国へ送る書状の下書きだった。
異国の使節への献上品に添える挨拶文のように見える。
「雅びやかな文言を添えて送り出したいのです」
「わたくしに、務まりますでしょうか」
椿が遠慮がちに言うと、男は笑みを深くした。
雅語など、この男は生まれたときから息をするように触れてきただろうに。
「むしろ、あなたでなければ。……海の向こうへ渡っても、よき効き目を及ぼすよう」
その言い方は穏やかだった。
けれど椿は、どうも愛想よく受ける気になれない。
男の視線が、文才を量るというより、自分という人間そのものを値踏みしているように思われた。
効き目、と口にしたのも、椿の異能を知っているからではないか。
だが、断るには、あまりに表向きが整い過ぎていた。
国のためと言い、文案の頼み方にも下心を見せない。
「左大臣のご子息、右近衛の霍成どのと、縁付かれたそうですね」
何気ない世間話のように聞こえた。
だが、その名を出された途端、椿は僅かに怯んでしまう。
「ありがたく存じます」
「婿は座敷から貰え、嫁は灰小屋から貰え、と昔から申しますからねえ」
厭な喩えに、椿は顔を顰めた。
男はそれを見逃さぬまま、含みを持たせて微笑んでいる。
その眼差しには、以前から椿という存在を覚えていたのだと知れる光が、微かに宿っていた。
宮中の庭は、気配迄もが細やかに調えられている。
紫宸殿には桜がある。
先だって紬路も鑑賞会の折に見たその花は、今ではもう葉桜になっていた。
代わって、橘が見事に色付き始めている。
後宮の舎もまた、藤壺、梅壺、梨壺というように、庭の植木に因んで呼ばれていた。
名に従い、そこに満ちる気配までもが、自然と分けられてゆく。
雷鳴壺も、そうした舎の一つである。
広くはない前庭の片隅に、一度落雷に遭った黒く焼けた古木が立つ。
幹の半ばは裂け、今は葉もつけず、ただ焦げた肌を晒していた。
初めて目にしたとき、椿はこれが舎の呼び名の由来なのだと納得した。
そのすぐ隣に、若い木が一本ある。
最初は、ただの植え込みだと思っていた。
細く、まだ幹も頼りない。
葉はつややかな緑で、春の名残を僅かに留めている。
ある日、庭を掃く千代が、箒を手に何げなく言った。
「それ、椿の木でございますよ。椿さま」
椿は足を止めた。
「……この木が?」
「はい。冬になると赤い花がつくそうです。まだ元気で若うございますけれど」
言われてよくよく見てみれば、幾度となく灰汁造りで扱った木肌に似ている。
葉に厚みと艶がある椿の若木に相違ない。
雷鳴壺の由来になった焼け木の隣に、椿の木。
それが何を意味するという訣でもなかった。
けれど、妙に気にかかった。
近頃は、椿も漸く内裏での勤めに馴染み始めていた。
どの道を通れば人目が少ないか。
どの刻限なら、余計な者に呼び止められにくいか。
そうしたことも、少しずつ身について来ている。
あの一件以来、椿は右大臣を、危険人物として覚えていた。
霍成と出世競争で拮抗しているらしい男だ。
物腰は丁重だったが、此方を測る目ばかりが気になった。
椿が何を知り、何を知らず、どこまで踏み込めば怯むのかを試すような目だった。
あの男は、近付いてはならない。
そう覚えてから、造墨の管理で外廷へ出る行き帰りにも、椿は必ず周囲へ目を配るようになった。
「椿さま」
ある晩、帰って来た瑠衣は、焼け木の見える廂の傍に腰を下ろしていた椿へ呼びかけた。
「例の大臣さま、お気をつけあそばして」
「……例の、とは」
「外交文書の補佐を頼みにいらしたという、お方ですわ。その方が右大臣ですのよ」
椿は、膝の上で組んでいた指を解いた。
遅れて、胸の底に小さな波が立つ。
あの男の目を思い出した。
丁重で、穏やかで、けれど此方の逃げ道を先に塞ぐような目。
「何故?」
「椿さまに書かせまして頂戴した文書のうち、行く先の違うものが混じっていても、少しも可怪しくはございませんもの」
片眼鏡の奥の目は、深い眼窩の陰に半ば沈んでいる。
「いつの間にやら、謀反を匂わせる文書に署名」
心臓が、ひやりと跳ねた。
次の瞬間には、胸の内で早鐘が打ち始める。
「あるいは、外つ国へ通じる文言を、椿さま自ら添えたことにされる。……なーんて筋書き、大変作り易うございます。あなた様は妾がお育て申し上げた通り、洋語の専門家なのですから」
血の気が、指先から引いていく心地がした。
庭の焼け木が闇に紛れてくろぐろと立ち、燃え残った炭のようだ。
すぐ傍に控えている筈の、滝口の武士の気配があることを、思わず確かめてしまう。
件の右大臣は、文官である。
一方、霍成は左大臣子息でありながら、武官だった。
年はさほど変わらない。
けれど霍成の家は、まだ代替わりしていない。
左大臣家の子息とはいえ、本人の立つ場所は政の文机ではなく、武の側にあった。
尤も、滝口の武士のように背へ弓を負い、内裏に常侍する類ではない。
都の内外、主に市井の取り締まりを司る。
そのため、内裏に詰めるより、外向きの軍服を着て動いていることの方が多かった。
「そろそろ、頃合いでしょうかねえ」
「……何の、ですか」
瑠衣はそこで調子を落とした。
「異能に纏わる書を、拝読しに参りましょう」
口ぶりはいつもどおり軽いのに、告げられた場所は意外なほど校書殿から近かった。
「どこか奥に秘された書庫では、ないのですね」
「書庫にございます訣、ないでしょう?」
さらりと言われ、椿は目を瞬いた。
禁書というものは、蔵の一番奥に仕舞いこまれているのだと、椿は勝手に思っていた。
結界札を貼った入口扉の階段を降りた地下だとか、幾重にも鍵のかかった奥殿だとか、そういうものを想像していたのである。
「禁書ですのよ。皆さまお口では厳重にお納めせよ、なんて仰言るけれど、本当に大事なのは、守ることではございませんの」
「では……」
「そっくりそのまま燃やせること、ですわ」
瑠衣が此方を見た。
片眼鏡の奥で、青い目が笑っている。
「いざとなれば、蔵ごと一思いに焚書にできるように。証拠も、伝承も、都合の悪い名も、みんな灰にしてしまえるように――そういう場所へ隔離してあるように見受けましたわ」
冗談めかした口ぶりだったが、言っていることは少しも冗談ではない。



