灰かぶりの椿姫 〜封じられた言霊姫は、近衛武官の愛を魅了で歪めたくない〜

「軽々しく、言葉を口にするものではありません」

 母の躾は厳しかった。

 大納言にして伯爵位を(いただ)く、和泉(いずみ)本家の跡取り娘を育て上げる。
 その役目の重さが、ときに母の内で行き場を失うのだろう。

 小言は、しまいには癇癪(かんしゃく)にも似た叱責へと独り勝手()(たか)ぶる。
 やがて息を切らして尻すぼみに終わるのが常であった。

 椿は口を()くことを禁じられている。
 口答えなど、できよう(はず)もないのだから。

 ――和泉(いずみ)の女には、言霊の力がある。
 みだりに言葉を弄すれば、世を乱す。

 幼い頃より繰り返し、そう教えられてきた。

 母の緊張は特に、家に客人を迎える折、並々ならぬものがあった。

 常ならぬ光景に、椿の気持ちがふと浮き立つ。
 つい客人へ微笑(ほほえ)みかけた、その刹那。

 ()ぐ脇に控える母が、畳の上へ音もなく膝を進めた。
 此方(こちら)を、()めつける。

 そんな場面ばかりが記憶に残っている。

 椿の(のど)はひゅっと閉じた。
 言葉の代わりに、白い指が(たもと)の内で丸まる。
 きつく握ると幼い爪が掌に食い込み、鈍い痛みが広がった。

 向かいに座る客人は、気付かぬ(てい)で茶を(すす)っている。
 けれど、その視線が鋭く、一度も椿の口(もと)から離れないのに、椿は気付いていた。

 父が話し、母が笑う。
 紬路(つつじ)が軽やかに駆け込んで来て、頑是(がんぜ)ない無邪気さで愛想よく振る舞えば、座はたちまち沸いた。

 椿はただ、いつも人形のように、そこへ()しているだけだった。

 椿は、十四になっても女学校へ通うことすら許されなかった。

 四条(どおり)の往来。
 人の多さ。
 それだけで、理由としては十分だった。

 和泉(いずみ)の血を確実に継承し、(しか)るべきときに釣り合う異能を持つ婿養子を迎える。
 そのため、『男女七歳にして席を同じうせず』は、殊更(ことさら)厳しく守られていた。

 とはいえ、教育の機会を奪われていた(わけ)ではない。
 異国の風習に(なら)い、住み込みの家庭教師(チューター)まで置かれていた。

 外へ出すことは拒みながら、外の言葉だけは屋敷の内へ持ち込む。
 むしろ洋語こそ、何より熱心に厳しく叩き込まれた。

 その上、身につけるべき仕事は尽きなかった。

 灰汁(あく)は、石鹸として用いられる。
 屋敷に仕える者たちの被服を洗うのは勿論、木造の天井や欄間(らんま)に施された繊細な意匠を損なうことなく清めるにも役立つ、まことに重宝な品であった。

 だが、それを作る工程は、過酷を極める。

 椿に作業場として与えられていたのは、土蔵(どぞう)近くの釜場の一角であった。
 石組みの井戸は北の大盤所の勝手口近くにあり、作業に要る水は、その(たび)ごとに手押し喞筒(ポンプ)で汲み上げ、運んで来なければならなかった。

 舞い上がる火の()に顔を汚しつつ、椿の生木(なまぎ)を焼く。
 その間に湯を沸かし、焼き上がった灰は(ふるい)にかける。
 そこへ熱い湯を注ぎ入れ、かき混ぜながら濃さを見て、更に()す。

 そうして、椿の木から灰汁(あく)を取るのである。

 皮膚は(こわ)ばり、爪も白く痛んでいた。
 木灰に含まれる強い亜爾加里(アルカリ)成分で表皮が溶けるのだ。

 全てが重労働であった。

 しかも、灰汁(あく)作りは、あくまで余技に過ぎない。

 和泉(いずみ)の家の女は代々、蔭襲(いんしゅう)によって書司(ふみのつかさ)(たまわ)ってきた。
 ゆえに椿の修業の本分は、墨の調(あつら)えにあった。

 造墨(ぞうぼく)もまた、灰汁(あく)作りとは異なる過酷さを容赦なく求めてくる。

 (すす)を集める。
 (にかわ)を温めて溶く。
 ただし煮立ててはならず、湯煎にかけて静かに戻さねばならない。

 それから粘り気を帯びた半成(はんせい)の墨玉を、冷えて硬く締まる前に、もみ板の上で力を込めて練り合わせてゆく。
 手もみで粒を潰し、丹念に、丹念に。

 ひどく根気の要る作業であった。

 (しか)して椿は、朝に書庫の整理を行い、午前は学びに()て、午後は灰汁(あく)作りと墨の調(あつら)えに奔走する。
 いずれの日も、夕刻に湯を使う(まで)には全てを終えねばならぬ。
 さもなくば、翌朝扱う大切な書物に汚れを移してしまう。

 雨が降れば、翌日の負担は重くなる。

 休んだ分、湿気を吸った椿の生木(なまぎ)は、火に()べれば、ぱん、と爆ぜる。
 墨もまた、吸湿のため炭を配置するなど、乾燥状態に目を配らねばならない。

 ともすれば中の乾燥だけ進まず、表面からひび割れてしまう。
 梅雨(つゆ)のような長雨が続けば、やがては腐り、(かび)を呼び、()えた匂いまで立ち始める。

 ただし、月のものの折は別である。

 その間は物()みとされ、墨には一切触れることを許されない。
 まるで(けが)れを(おそ)れるように、道具一つ手に取ることさえきつく禁じられた。

 椿にとっては手持ち無沙汰であると同時に、墨の乾燥工程に心配の募る日々でもあった。
 それに、使用人に悟られる気配も(わずら)わしい。

 風呂は女中が湯を沸かすし、洗濯そのものも下女の仕事だった。
 それがどれほど有難いことか、椿は身に染みて知っている。

 それでも、(ろく)な娯楽も持たぬ下女の中には、「(ほこり)、灰、(すす)の三重苦」などと(はや)して面白がる者もいた。

「黄ばんだ方のお嬢様」
灰汁(あく)令嬢」

 それが椿の(あだ)名だった。

 ――しッ、黄ばみが来たわよ。
 ――(にかわ)臭ッ。やだ、今日も(ケモノ)みたい。
 ――あら、今はお(さわ)りねェ。珍しく匂わない。

 そんな風に、忍び笑いまじりの悪意さえある。

 灰汁(あく)が跳ねて輪状に(にじ)んだ跡。
 ところどころの黄変(おうへん)
 ()えた異臭を放つ姿は、滑稽(こっけい)なほどに(みじ)めであった。

 その上、裾や袖口には乾いた(にかわ)がまだらにこびりついている。

 粗末な船底袖に、半幅帯の貝の口。
 その上から腰布を巻いた姿は、どう見ても華族の姫ではない。

 町娘だって、もっとましなものを着ているわ――。

 和泉(いずみ)の訓練された使用人たちでさえ、時折(ときおり)その姿に失笑した。

 一方で、紬路(つつじ)は成人すれば時を(かわ)さず他家へ嫁ぐことを望まれ、人との(まじ)わりの中で世間を知ることを励行(れいこう)されていた。

 所謂(いわゆる)人間(じんかん)交際だ。

 椿とは、まるで別の道である。
 どちらがより人々に愛されているかなど、考えるだけ意味は薄い。

 それでも、生得(しょうとく)の権利のように学び舎へ通った妹を、どこか羨ましく思っている自分が居る。
 紬路(つつじ)が卒業した今も、その屈折した感情は、ふとした折に顔をのぞかせた。

 いっそ、早く婚約が()ってしまえば――。

 だが両親も妹自身も、入内(じゅだい)の道を探っているらしく、生半可な求婚に応じる気配はなかった。

 椿は、幼い頃より言霊(ことだま)の発現も顕著(けんちょ)であった。
 後宮十二司の書司(ふみのつかさ)の女官として、いずれ内裏(だいり)に上がることも定められていた。

 母に至っては、料紙(りょうし)()き方まで師を探し出しかねぬほどの意気込みである。

 しかし、より上位の権勢(けんせい)(ふる)う大臣たちは、椿をやすやすと宮中(きゅうちゅう)(しょう)じ入れようとはしなかった。

 椿の異能の強さは、母がいかに否定しようとも、(なお)も人々の陰で(ささや)かれている。
 既に娘を帝妃として上げた家々にとって、椿は危うすぎた。

 万が一にも、他家から更なる入内(じゅだい)の道が開かれることは、避けねばならない。
 それが、娘を後宮へ送った大臣たちの利害だった。

 最早(もはや)十八ともなれば、好敵手(ライバル)とすら見做(みな)されない。
 通学も出仕(しゅっし)(かな)わぬ欠陥を抱えた未通娘(おぼこ)として、世間には(あなど)られている。

 行く末の定まった長女の椿でさえ、()くも警戒され、四方より牽制を張り巡らされていた。

 ならば本日の、和泉(いずみ)の秘蔵娘――紬路(つつじ)のお目見えは、さぞかし三大臣以下、並み居る上達部(かんだちめ)周章(あわ)てさせたに違いない。

 和歌や(そう)など、高雅な趣向の数々が披露(たてまつ)られる席で、紬路(つつじ)は一等席近くに着座するだろう。
 自らより上位の姫たちは、既に軒並み女御として上がっている。
 視界が開けていた(はず)だ。

 そこへ、和泉(いずみ)小姫(こひめ)の方が現れた。

 よく笑い、よく話し、自分の名の色を身に咲かせる紬路(つつじ)が。

 その才気と愛らしさに心を奪われ、身の程を忘れて見()める者すら、新たに現れたかもしれない。

 今頃は、帰途につく方々(ほうぼう)の名家の車中で、従者(ずさ)を相手に赤くなるやら青くなるやら、紬路(つつじ)の初拝謁のことが語られているだろう。