「軽々しく言葉を口にするものではありません」
母の躾は厳しかった。
和泉の血が流れていない身に、跡取り娘を育て上げる役目は重かった。
小言にとどまらず、幾分癇癪に近い叱責まで一人高まってから、息切れして終止するのが常だ。
椿は女学校へも行かせてもらえなかった。
人でひしめき合う四条通の往来が付帯するためだ。
然るべきときに婿養子を迎え、和泉の血を間違いなく継承させるため、『男女七歳にして席を同じゅうせず』の徹底が必定とされていた。
他方で紬路は成人の後、ときを移さずすみやかに他家へ嫁ぐことを望まれており、椿とは対照的に人間交際を通して豊かな世間知の蓄えを励行されていた。
両親がどちらをより可愛がっていたかは言うまでもない。
勉強するという行為に愛着を持っていた椿は、生得の権利として当たり前のように学び舎に籍を置いた妹をどこか羨ましく思っている。
紬路の卒業後もその気持ちがたまさかもたげてくる。
疾く、婚約が成ってしまえばいいのに——しかし両親、妹本人ともにすべからく帝への入内の道を手探りでもしているのか、生半可な求婚に肯うことはなかった。
幼いころから言霊の力の発現が顕著だった椿は、時期が来れば次の宣命使付きの宮内書庫係に内定している。
分家その他の追随をものともしないのに、他華族の、とりわけ男性と言葉を交わす必要など、椿には一切ないのだ——
和泉の言葉には力があり、女がみだりに言葉を弄すれば社会を乱す。
頑是ない子どもだったとき以来、椿はそのような薫陶を外国の風習に倣って特別に招聘された家庭教師から受け、口の端に乗せる言葉を持たない。
質素堅実を身上とするずたぼろ姿でもっぱら書物を管理し記録し、男子禁制が名目とはいえ一応の決まりである内裏にいずれ上がるべく、謙虚な求道者として生家の蔵の番に明け暮れている。
その実、帝の御前にまかり通るにはまだ早いと、都合よくお役目手習いの大義名分のもとに権力のある上奏者による人事は意図的に滞りを見せ、新手枕の交わす相手もいない嫁き遅れになるまで勅命すら忘れられた振りのまま生家に留め置かれているのだった——
もはや数多の女御、更衣、尚侍に好敵手とも見做されなくなる18歳ともなれば、通学も出仕もできない何か重大な欠陥を抱えているやもわからん年増の未通娘と、世間からは侮られている。
入内した娘可愛さゆえに、行く末が知れ渡っている大納言家の上の娘の椿でさえ警戒し、これほど各方面に牽制してまわっているのだ。
さぞかし本日の和泉の秘蔵娘、紬路《つつじ》のお目見えは、女学校に通う年頃の娘からの伝聞の術を持たない三大臣以下並み居る上達部を慌てふためかせたことだろう。中には身の程知らずにも新しく見初めた者もあるかもしれない。
今頃それぞれの邸への帰途方々にて、赤くなるやら青くなるやら従者どもを相手に紬路の機知に富んだ拝謁について語っていることだろう。
そんな宴の夜のことだ。
椿は家内の者たちとは別の、土蔵にほど近い客殿の二階に臥起している。
丹精込めて世話している自分だけの小造りな坪庭もあり、なかなか気に入ってはいたが何につけても母屋に比べ旧式で、ついにこのごろ家々のガス灯に取って代わった電灯が配線されるまで、まともな灯りすら用意されていなかった。
もとよりすきま風の入る家屋だったが、これまた普及し始めた窓硝子が贅沢にも全体にして採用されており、外からの見栄えと引き換えにやすやすと冷気を伝えてくる。利点としては、明かり取りになることくらいだった。
椿は灯りとしてどれか選べるのなら、使い慣れた高燈台を好んでいた。逆に蝋燭の嫌な匂いが最も苦手だ。
近づくほどにまぶしくなる電灯の灯りをひとつ、またたきしながら不慣れな手つきで落とす代わりに、長机の奥に押しやられていた高坏灯台を手繰り寄せ、対にしている椅子を引いて腰かけた。
燈盞に椿油を満たして火を点すと、温められてほのかに堅果に似た香りが鼻腔をくすぐる。手元を照らす灯台を再度引き寄せて手を温めた。
昼の抑えられた静けさとはまた違う、本物の静穏が充溢した闇。
ほんわかじわりとゆらぐ火を楽しむうちに目が慣れていく。溶明するように硝子向こうの庭や身の回りの調度品の輪郭が少しずつはっきりしてくる。
対の屋前にある灯篭はいかに勤勉な和泉の使用人たちといえど、離れにも電灯を導入してからは早々に点火されなくなった。
未だ慣れない照明配置では、ときたま人型と見間違えてしまう。
それでも生まれ育った家の馴染みのすべては宵闇に溶けて、使い古した家具の粗も魔法のように覆い隠してくれる。椿は夜が好きだった。
余した椿油を愛用のつげの櫛に染み込ませ、日中は引っ詰めた結髪にしている頭皮の血流を刺激するようにして下した長い髪を梳ると、ほんの少し強張った身体が和らいだ。
しかし胸の内に溜まるものは、口に上らせないから塵積もるばかり。
どんなに梳いても梳いても容易に出て行ってはくれない。
思い立って手についた椿油の残りを手拭で拭う。
おもむろに引き出しの筆記用具を取り出し、言葉の流れを感じながら筆を墨に浸し、垂直に立てた筆が紙に触れた瞬間、言えない代わりにするりと滑り出た見事な手跡には——
言の葉を
結ぶすべなく
胸に秘め
咲かぬ花にも
春は来るらむ
書き終えた瞬間、はっとして筆を止める。
これは——許されない。
誰かに見られるのも恥ずかしいが、それよりも気がかりなことがある。
口伝えでなくとも文字を認めた紙媒体を介してさえ、椿の強い思いから出た言葉には、どんな言霊が宿ってしまうかも判らない。
だが粗末な扱いにはしたくない。
広げた和紙を重ねて余分な墨を吸い取らせ、暫定的に上から長い絵巻で覆う。
羽織った上掛けを脱いで椅子の背に落として身軽にし、どう処分するべきか考えているうちにまぶたが重くなってきてしまった。
寝台に滑り込み月に一度のお焚き上げ会に次回は頼んで参加させてもらおうと、まどろみ考えながら眠りに落ちたのは、まだ夜更けにもならぬ夜四つだった。
翌々日の朝、暁七つ、寅の刻。
和泉の勤勉な使用人たちによる朝の清拭も済まないうちに、棟門がぎい、と大きく軋みつつ、無造作に開かれた。
物音に目覚めた椿が硝子越しに見やると、一台の人力俥が和泉邸の前に横付けされていた。検非違使が数人、まもなく降りて来ようとしている様子だ。
簡易な作業着を手早く身に着け、なるべく音を立てず階段を降り廊下を進んで、式台のある玄関の扉を横に引いた。
両手を身体の前でもみ合わせながら庭に歩み出ると、彼らはつくねんと所在なさげに誰かを待っているようだった。元罪人のうち裏社会に通じた者を選りすぐった、放免と呼ばれる衆なのかもしれない。無論、上に立つ者が注意して束ねる必要はあるが、ひとまず有用ではある。
耳を澄ますと、近づいて来る自動車の動力音が聞こえる。
幾許もなく彼らに次ぐ一台が鮮やかに現れ、見る間に門前にて停車した。
あまりにもなめらかなので、瓦斯倫車ではなく、大手電燈会社が新規開発したという電気自動車と察せられる。
三人の元無法者はそれを見るや否や、扉の前に従者さながらそろって整列した。
背筋を伸ばした立位姿勢を取って、天井をかいくぐって中から降車してくる男を迎えた。
中から出て来たのは、帯刀した青年だ。
軍人としては優男といっていい柔和な目鼻立ちに、庭の灯篭と見比べても恵まれた体躯。
一人離れて立っていた椿にちらりと視線を投げかけると、下女の一人と判断したのか、長髪をなびかせながら肩をそびやかした。
「軍の調査だ。この屋敷を——検める」
なめらかでよく通る、命令することに慣れている声だった。
すでに庭に集まっていた使用人たちが互いに顔を見合わせていた。
通常、母と紬路の朝は遅い。
「この邸の者はあるか」
続けざまの追求に、屋敷の空気が一瞬で変わる。
そこへ母を伴って母屋から遅れてまろび出てきた紬路が現れ、青年を見て息を呑んだ。
——と、おもむろに母が前に進み出た。
たとえ大納言の職にあっても、宿直を自ら買る忠義者の父が昨夜から不在だったからだ。
「我が家がどのような家か、お分かりでしょう」
急いで自ら着付けたと見え、母のお太鼓はやや不出来な形だった。
髪はいつもの女優髷ですらなく、片側に流した三つ編みの、いかにも寝起きという有りさまである。
「承知している。だから来た」
母を一瞥すると、長身の美丈夫はにべもなく放言した。
