灰かぶりの椿姫 〜封じられた言霊姫は、近衛武官の愛を魅了で歪めたくない〜

 後宮十二司の書司(ふみのつかさ)になることは、椿の夢だった。

 別格の内侍司(ないしのつかさ)を除けば、書司(ふみのつかさ)薬司(くすりのつかさ)と並び、人気ある女官職の双璧を()している。

 椿は内廷(ないてい)(すなわ)ち後宮側に仕える女官だった。

 皇統()印章(おしるし)そのものの管理は、外廷(がいてい)に属する図書寮(ずしょりょう)の務めである。
 椿の手が直接そこへ及ぶことはない。

 だが、皇統()に用いる料紙や墨、また印章(おしるし)を捺すための朱墨には、女官の目が必要とされることもあった。
 血筋と名を後世へ残すもの(ゆえ)、紙も墨も、ただ書ければよいというものではない。

 椿は日中、図書寮(ずしょりょう)紙屋院(かみやいん)へ出る。
 そこで造墨手(ぞうぼくて)として、墨の製造と管理にも携わっていた。



 母は、この日のためにこそ、墨の調合の技を椿へ授けたのではないかとさえ思われた。

 (すずり)で濃く()り出す墨を好む姫もいらっしゃれば、薄墨(うすずみ)で風雅に書き散らす姫もいる。
 後宮の女君(おんなぎみ)たちの好みは様々で、その一つ一つに応えるため、また自らの異能の什器(じゅうき)としても、椿は墨の濃淡を自在に扱えるよう鍛え抜かれていた。

 若い姫の中には、鼻に付く(にかわ)の匂いを嫌い、清らかな香りを求める方もある。
 そのため薬司(くすりのつかさ)に教えを請い、後宮の庭を散策しては、皐月(さつき)(ふじ)のこぼれ房、(ほの)かに青い(たちばな)の葉などを、袖に受けてこっそり持ち帰ることを日課にしている。

 御溝水(みかわみず)には菖蒲(しょうぶ)があり、今の季節には細く尖った葉が、浅い流れの上に(おもて)(のぞ)かせていた。
 水はさらさらと走り、陽を受けた処がきらきらと閃く。
 庭土の湿りと混じってさえ、その匂いは清冽(せいれつ)だ。

 花の甘さではなく、水辺の冷たさを思わせる潔い香りを好む姫君もいらっしゃる。
 菖蒲(しょうぶ)はやや薬めいた向きもあるが、ごく(かす)かに移したなら、墨の内々に潜む青みとして、すっ(・・)と文字を引き締めるだろう。

 灰汁(あく)に花や葉の気を移し、()き清めた後の匂いまで調(ととの)えて来た要領で、墨にも香を忍ばせる。
 そうすると、後宮の姫君たちにはこの上なく喜ばれた。

 幼い頃より、墨の匂いと料紙の手触りに囲まれて育った。

 校書殿(きょうしょでん)の折目正しい言葉に触れ、手(なぐさ)みに気高い姫たちの手記が読めるなら、()れだけで満ち足りるものだろうと思って来た。

 この世の栄華を極めた絶世の美女たちが、ただ一夜、ただ一人の帝の寵を得ようとする胸中を(つづ)った恋の手記(しゅき)である。
 香に()()めて秘めた執着も、袖の下に忍ばせた涙も、誰にも見せぬ微笑の裏の焦がれるような(ねた)みも、全ては()宮中(きゅうちゅう)を舞台に繰り広げられる。

 一生涯、恋とは無縁だと思っていた頃は、実在の姫たちによる、そうした物語を読むだけで充分でいられた。
 手の届かぬものへの憧れも、心の底に(おり)のように沈む寂しさも、(ページ)()(あいだ)だけは薄らいだ。

 だから、辞令を受けたあの日は、胸が(ふる)えた。
 漸く(ようやく)、手の届くところまで来たのだと。

 けれど今、雷鳴壺(かんなりのつぼ)の局に一人腰を下ろしていても、心には(もや)がかかっている。

 体面を傷つけぬよう、連日の宿直(とのい)を命じられていたという体で宮中(きゅうちゅう)に留め置かれていた父も、既に和泉(いずみ)邸へ戻っていた。
 霍成(かくなり)紬路(つつじ)の将来にも差し障りの出ぬよう奔走してくれている。

 書司(ふみのつかさ)女官(にょかん)として働く。
 千年もこの国が受け継いだものを、改竄(かいざん)されることのないよう守り、更に(つむ)いでゆく――誇りある仕事。

 夢が叶ったのだ。
 そう、叶った(はず)なのに。

 霍成(かくなり)も、(らん)も居ない。
 そのことが、思いの(ほか)、胸に空洞を作っていた。

 今はもう、姫たちの恋の顛末よりも、ただ霍成(かくなり)に逢いたかった。

 日参している父とは、外廷(がいてい)で行き違うことこそあれ、言葉を()わすことはない。
 千代は小間使いとして朝夕の身支度を手伝いに来てくれるが、日中は何処(どこ)かの大盤所へ下がってしまう。
 家庭教師(チューター)の瑠衣に至っては影も形も見えず、まだ出仕(しゅっし)していないらしかった。

 荷(ほど)きのため、木箱の結び紐を()き、(ふた)を開ける。
 文箱(ふばこ)(くし)、筆、数冊の本。
 その(あいだ)に、場違いなほど愛らしいものが二つ、ころんと収まっている。

 てでぃべあと文化人形だった。

 丸い耳に、つぶらな目。
 異国めいた姿をしているくせに、なぜだか妙に此方(こちら)を見守るような顔つきをしている。

 膝に抱え上げると、柔らかな首から小さな札が(のぞ)いた。

 ――椿蔵。

 けれど、椿はもう知っている。
 欲しいものを手に入れ、憧れの仕事に就くだけでは足りないのだ、と。

 もっと、霍成(かくなり)の心が欲しかった。
 魅了よりも、深く。
 魅了で選ばれるのは(いや)だと感じてしまうのだから、なんと欲深くなったのだろう。

 だが、(まこと)の心を()いたい程に、欲しくなる。

 恋というものは偽りを許さない。
 だからこそ、異能の全容を知らねばならない。

 指先で、札の文字をそっと(なぞ)る。
 (おご)りなく引かれたまっすぐな線に、霍成(かくなり)らしさが(にじ)んでいる。

 雷鳴壺(かんなりのつぼ)とは、滝口の武士の詰所にも近い一郭(いっかく)にある、人気のない舎だ。
 風神雷神の異能を持つ、大名華族の霍成(かくなり)(ちな)んで、(おそ)れ多くも半ば(たわむ)れに此方(こちら)の詰所を(たまわ)ったのだろう。

 主上(おかみ)(いき)なことをなさる。
 霍成(かくなり)許婚(いいなづけ)と周囲に知らしめる形でなければ、霍成(かくなり)自身もあれ程(まで)宮中(きゅうちゅう)入りを認めはしなかっただろう。

 幾重もの蔀戸(しとみど)遣戸(やりど)の奥にあるせいか、人の気配はどこか遠い。
 渡殿(わたどの)を渡る衣()れの音も、一枚隔てた彼方(あちら)のことのように響く。
 夕刻になれば、庭先の木々が風に鳴る音ばかりが耳についた。

 (にぎ)やかな、あの居場所。
 (なな)ツ蔵に居られないのであれば、静かな環境はむしろ書を開くのに好都合だ。

 そう思った矢先、廊下向かいの障子の向こうから、殊更(ことさら)(しな)を作った足音が近付いてきた。

「失礼(つかまつ)りますよう、姫さま。――瑠衣(るい)只今(ただいま)参上いたしました」

 椿は顔を上げた。

 この勿体(もったい)をつけた先触れ。
 やけに耳ざわりのよい響き。
 語尾の妙な(たわ)み、人を食ったような愛嬌。

 障子がすっと開く。
 来るのが誰かは判っていた(はず)なのに、やはり人目を(さら)う姿だ。

 衣は宮中(きゅうちゅう)向きに格段に整えてある。
 だが、襟の合わせも、袖の払い方も、どこか芝居がかって見える。

 実際、瑠衣(るい)花魁(おいらん)のように前帯を柳結びに作り、裾を左右へ流すように開いていた。
 襟もとは深く抜かれ、幾重にも重ねた裾の先が、歩く度に波のように揺れる。

 女御よりも余程派手な装いで目立って来たことだろう。

「……瑠衣(るい)

 椿が名を呼ぶと、瑠衣(るい)は扇子を開き、胸に当てた。

「まあ、お忘れでなくて? 嬉しゅう存じます。椿さまの家庭教師(チューター)、哀れなる羅紗緬(らしゃめん)の子にして、半端者の瑠衣にございます」

 言いながら、瑠衣(るい)は長い裾を静かに引いた。
 畳の上に指を揃え、すっと三つ指を突く。
 その仕草は妙に正確で、無駄がなく、指先の白さが際立っている。

 (ゆる)やかに顔を上げる。
 異様なまでに白い肌。
 通りの高い鼻梁。
 深く影を落とす目許。
 そして、此方(こちら)を射るように見据える、青い瞳。

 やはり椿には苦手だった。

 異国の高貴な血を引き、洋語に明るい。
 性別すら曖昧にしてしまうような、闊達(かつたつ)な空気。

 異人は生き血を吸う、などという莫迦(ばか)げた誤謬(デマ)さえものともせず、母はいつの間にかこの瑠衣(るい)を見つけ出し、椿の家庭教師(チューター)として(そば)に置いたのである。

 (もっと)も、母は瑠衣(るい)を誰よりも(ひど)く嫌っていた。
 そのため二人は離れの二階へ押し込められるようにして学ばされ、瑠衣(るい)もまた書物好きだったから、随分(ずいぶん)大量の本と共に引き籠っていた。

 霍成(かくなり)瑠衣(るい)を探し当て、椿の傍に置いた理由も判らぬではなかった。

 父と同じく殿上人に(れっ)し、更に武官として警備を()べる職にあっても、後宮において四六時中付き添ってまわる(わけ)にはいかないのだ。

 瑠衣(るい)は一応は男であるから、いざとなれば女官より腕力もある。
 如才なさと頭の回りようは、下町商売の(らん)といい勝負だろう。

 当の本人は、椿の視線を受けてふっと肩を(すく)めた。

(いや)ァね! その辛気(しんき)臭いお顔」

 金に近い淡い髪はまず見ぬ色合いで、光の加減によっては白くも見える。
 片側を耳の後ろへ流し、鼻梁には細い金具の片眼鏡をひっかけている。

 顔立ちはすっきりと整っているのに、男らしいと呼ぶにはどこか線が優美で、口もとには、わざとらしいほど愛嬌のある笑みが浮かんでいた。

「まあ瑠衣(るい)、ご挨拶ね」

 少し口が回るようになっただけで、丁々(ちょうちょう)発止(はっし)の婉曲表現が出るのが自分でも可笑しい。
 やはり自分も、華族の育ちなのだろう。
 耳だけは、こういう応酬に馴染んでいる。

「あらァ、(こわ)ーい。お久し振りですのにね」

 片眼鏡の奥で、瑠衣(るい)がいたずらっぽく片目を細める。
 口ぶりも身振りも、昔と少しも変わらない。

 椿は(わず)かに唇を(とが)らせた。

「お話しできるようになりまして、本当に良かったこと」

 そう言われると、何やら(くす)ぐったい。
 この人こそ、母に代わって椿を育てたと言ってよかった。

「……大体は、霍成(かくなり)さまより聞き及んでおります」

 瑠衣(るい)は軽く肩を(すく)め、何もかもお見通しだと言わんばかりに微笑んだ。
 もう、霍成(かくなり)とのことも知っているのだろう。

 仕草は女めいている。
 けれど、指の節や肩の骨ばりには、どうしたって男の名残が透けた。

 瑠衣は、そのことを人一倍(きら)っている。

 己に与えられた身体を、丸きり好いてはいない。
 身体はそう生まれついた。
 けれど心は、()うに別の場所へ置いてきたような顔をする。

「ご安心なさって、椿さま」

 瑠衣(るい)はすいと椿の(つぼね)へ入り、片眼鏡の位置を指先で直した。

「ご到着になってすぐ参上しませんで済みませんでした。……でも」

 瑠衣(るい)はふふ、と喉の奥で笑った。
 その笑みは優美で、けれど少し冷たい。

(わたくし)、各華族の異能に関わる禁書の在りか、目処(めど)をつけて参りましたわ」