七ツ純喫茶は、昼下がりの名残を柔らかく溜めこんでいた。
厨房から珈琲豆を挽く細かな響きと、偶さか皿の触れ合う音がかちゃりと上がる。
熱気が去った後の薄い静けさの中、窓辺の卓で番頭から帳簿の付け方を教わっていた椿は、ふと人の近づく気配に鉛筆を置いた。
霍成が、まっすぐ此方へ歩いて来ていた。決意を張りつかせた顔だ。
番頭はそれを見て、入れ替わりに何処かへ発った。
「何か、ございましたか」
首を傾げながら訊ねると、霍成は返事の代わりのように一枚の料紙を卓に置いた。
蔵人頭の花押がある。
「辞令だ」
目の前に辞令の紙が差し出された。
言われた意味が、すぐには腑に落ちなかった。
「……辞令?」
「おまえを書司に上げる件、正式に通った」
椿は胸を衝かれた。
すぐには手を伸ばせなかった。
ほんの一息分、見詰めてから両手で受け取った。
椿は文を見、霍成を見、それからもう一度、文を見た。
そこに記された自分の名は見慣れているはずなのに、どこか他人のもののように思える。
「……わたくしが」
霍成は肯首した。
紙を持つ指先が、かすかに震える。
ずっと夢見続けてきたものだった。
「こんなに急に」
「急ではない。急がせた」
霍成は憮然とした顔で向かいの長椅子に腰を下ろした。
「霍成さまが……?」
「他に誰がいる」
霍成は椿の前に広げられていた練習用の半端紙へ視線を落とし、淡々と続ける。
椿は辞令を霍成へ返すと、そっと手を袖口に隠した。
「どうしても宮中の蔵書を調べる必要がある」
椿は手を膝の上に揃えた。
それは以前から、椿も感じていたことだった。
禁中の奥には、未だ調べていない記録がある。
人の目を避けるように積み上げられた古文書の中に、魅了の源へ連なる手掛かりが残されているかもしれない。
その謎を解かぬかぎり、和泉家の行く末も、霍成の胸の内も、ついぞ定まることがない。
だが、そこへ入るべき名目も、許される立場も、今の椿にはなかった。
折角落ち着いて来た処を、魅了のためと名目を立てることは憚られるのだ。
「……三大臣が、登殿をお許しになったのですか」
左大臣、右大臣、内大臣だ。
それぞれ娘を帝に入内させている。
ふと、引っかかる。
これ迄のことを思えば、そう簡単に諾う筈がない。
けれど霍成は、そこでほんの僅かに口元を歪めた。
手すさびなのか照れ隠しなのか、卓上の砂糖壺の蓋の合わせを直している。
「やけに、すんなりな。……父の左大臣はともかくとして」
「それで皆さま……」
「右大臣も頷いた。むしろ都合がいいとさえ言った」
がちゃんと不穏な音がして、蓋が符合した。
和泉家では、とても届かなかった場所だ。
どれほど正しく書き、どれほど切実に願っても、押し出す政治力が要ることを、椿はもう知っている。
言葉は人の心を揺らす。
だが、揺らした先で門が開くとは限らない。その都度、異能でこじ開けるものでもない。
門には門番がいて、鍵を持つ者がいて、そこに触れるにはまた別の力が要る。
そして先へ先へと、引きも切らず門は連なっているのだ。
「椿」
名を呼ばれ、顔を上げる。
「お前はもう声に出せる。だが、言葉で何もかも通るとは限らん」
霍成の声音は低く、静かだった。
それは、ここ最近、椿の考えていたことだった。
言葉にしてしまえば壊れてしまうものもある。
全て会話にすればいいというものでもない。
どれほど心を尽くしても、相手が聞く耳を持たねば届かぬこともある。
「よく聞け。嵌められることもあるかもしれない」
霍成の声は、腹立ちを押し殺したように硬かった。
警戒を露にしている。
「紬路は、落としたと言った。ならば、誰かがそれを機密文書に紛れ込ませたのだ。お前の妹の紬路には、畏れ多くも今上を魅了する意図はなかったと思う」
手違いなどではない。
誰かがわざわざ計略が成るように、挟み込んだということだ。
「だが、紬路に料紙を運ばせたこと自体、異能だった可能性が高いと見ている」
椿ははっと顔を上げた。
落とした瞬間から、既に仕組まれていたのだ。
いや、紬路に和歌を和泉から持ち出すよう操ったこと自体、最初から誰かの思惑だった可能性すらある。妹の将来をなりふり構わず潰す気だったのだ。敢わよくば、椿もろとも――
「あるいは、我が左大臣家との縁談――お前は摂家に名を連ねることになる。……此れよりは一層望まぬ妄執の目で一挙手一投足を監視される」
宮中は、表向きは雅やかな場所だ。
香の匂いが漂い、衣擦れが静かに重なり、誰もが上品に笑う。
だがその裏で、失脚も、失意も、あまりに静かな顔で行われる。
椿が辞令を見つめたまま黙り込んでいると、とん、と軽い足音が近づいて来た。
振り向く間もなく、ひょいと蘭が配膳盆を片手に顔を出す。
「なーんか、しめっぽい空気ですにゃあ」
気安い声と一緒に、甘い卵と微かな蜜の香りがふわりと広がった。
蘭は卓に茶器とかすていらを置きながら、椿と霍成の顔を順ぐりに見やる。
「おや。旦那さま、また椿さまを脅かしましたにゃ?」
「人聞きの悪いことを言うな」
「でも、大体合ってますにゃ」
蘭は悪びれもせず言い切ると、椿の前へ茶器をそっと寄せた。
好みを覚えて牛乳を差してくれていたらしく、茶は淡く白んでいる。
「蘭……」
「聞こえましたよう。宮中だの、嵌められるだの。そーんな難しい顔、することありませんにゃ」
蘭は小ぶりな胸を張る。
小柄な身体に不釣り合いなほどの自信が、ころんとした声の端々から零れていた。
「だーいじょうぶですよおー」
あまりにあっけらかんと請け合われて、椿は思わず目を瞬く。
霍成は懐手のまま、呆れたように片眉を上げた。
「随分、軽い保証だな」
「軽くないですにゃ。椿さまは賢いし、旦那さまはお強いし、あてしは可愛い。これだけ揃って、そうそう負けませんにゃ」
椿の唇が、ふっとゆるむ。
蘭はそれを見逃さず、得意げに尻尾、もとい前掛の後ろに結んだ絹綬の端でも、手に取って振りまわしそうな顔をした。
「それに宮中のおひとたちって、表ではにこにこしてても、腹の中じゃみーんな似たり寄ったりですにゃ。そーいうの、蘭は得意ですよう?」
「お前の得意は、大概碌でもない方向に働くがな」
「失礼ですにゃあ。今回は椿さまのために、ちゃんと良い方へ働かせます」
そう言って蘭は椿へ身をかがめ、そっと内緒話のように囁いた。
「誰かが意地悪しても、あてしがこの鼻でちゃあんと嗅ぎつけます。だから椿さまは、椿さまのなさるべきことをなさればいいんですよう」
椿は茶器に添えた指先を見下ろした。
言葉だけでは足りない。政治の力も、駆け引きも、用心も要る。
けれど、一人で全てを背負うのではないと思うと、不思議に息がしやすくなった。
霍成が軽くいなすように笑った。
「……だそうだ」
「他人事のようにおっしゃらないでくださいにゃ。旦那さまだって朝に夜に」
「蘭」
「はいはい、怖い怖い」
蘭は肩を竦めて笑い、それから改めて椿を見た。
「ですから、椿さま。胸を張って行ってらっしゃいませ。だーいじょうぶですよおー」
「本当であれば蘭を女房として付けたいところだ」
椿は膝の上で指先をぎゅっと結んだ。
「蘭を……?」
「これは気も利くし、目も耳もいい。傍に置くには都合がいい」
「お褒めに預かりまーして」
確かに、と思う。
蘭は口が軽そうに見えて、肝心要は外さず、人の機嫌や場の空気にも敏い。
宮中であっても蘭の性質はむしろ役に立つだろう。
「だが、身の保証がない」
「……保証」
「宮中へ入れるには、素性と後ろ盾が要る。蘭にはそれが足りん。外では通らない」
畏れ多くも帝のおはします、あの内裏におかれましては、――重んじられるのは、名と縁と後ろ盾の数ばかりでございます、という訳だ。
半ば政治的生命を人質にされているようなもので、その後ろ盾の人物の権力の高さが物を言うのだ。
人柄や働きではなく、どこの誰で、誰がその身を保証するか、だからこそ陥れて断ち切るなどの権謀術数の暗躍の余地ばかり――
「あと、話し方がな」
わざとらしく肩をすくめて笑う霍成に、蘭はにゃんですってえ、とでも言いたげに、こぶしを振り上げる真似をした。
「それで、少し前から考えていた」
霍成は、まるで何でもない采配を口にするような顔で言葉を継いだ。だが、椿の知らぬ処で一つ一つ手を打って来た者が持つ確かさがあった。
「お前の家庭教師を連れて来た」
椿の指が、膝の上でぴくりと動いた。
和泉の屋敷で宣言した通り、もう手配が済んでいたらしい。
「……では、あの方が」
「ああ。あれに聞いて、櫛のことが分かった」
その一言で、疑問のうちに沈んでいたものが静かに波立った。
つげの櫛のことまで見越していたのなら、霍成は最初から、婚約話を念頭にあの家へ赴いたのだろう。
――そうだ。
愛用の櫛を置いて来たことなど、本来霍成さまに知りようがある筈もない。
そこまで思い至った途端、瑠衣の、あの人を食ったような笑い方が脳裏を掠めた。
見透かすような目つきも、どこまでが冗談でどこからが本気か測れぬ物言いも、思い返すに、あの性格は蘭に勝るとも劣らず宮中向きなのだった。
「それと千代という釜戸女中だ――女孺として」
「千代を!? 和泉から連れて来たのですか」
「着付けに人手が要るだろう。正式な和装で暫く暮らす必要があるからな」
霍成は椅子の背にもたれた。
あくまで平易な話しぶりなのに、どこか機嫌のよい気配がある。
「後宮の七殿五舎のうち、雷鳴壺の詰所を下賜された」
「えっ……」
椿が目を丸くするのを見て、霍成の口もとが一層緩む。
風神雷神の異能の使い手である霍成に託けての采配だからだ。
それに漸く堂々と、椿のためにあれこれ揃えてやれる――そんな嬉しさが隠そうとしても滲んでいた。
きっともう、帯も、女官向きの長着も、半襟も、髪飾りも、履物も、あれこれ見立てるつもりでいるのだろう。
椿に似合うものを惜しげもなく買い与える口実が、正式に手に入ったのだから。
そこで、霍成はにやりと笑ってみせた。
「以後、宮中では雷鳴の女官と称せよ、との仰せだ」

