七ツ純喫茶は、昼下がりの名残を淡く溜めこんでいた。
厨房からは、珈琲豆を挽く細かな響き。
偶さか皿の触れ合う音が、かちゃりと上がる。
熱気が去った後の薄い静けさの中、椿は窓辺の卓子で、番頭から帳簿の付け方を教わっていた。
ふと、人の近付く気配がして、鉛筆を置く。
霍成が、まっすぐ此方へ歩いて来ていた。
決意を張りつかせた顔だ。
番頭はそれを見るなり、何も聞かずに帳簿を閉じた。
それから、入れ替わるように席を外す。
「何か、ございましたか」
首を傾げながら訊ねると、霍成は返事の代わりのように一枚の料紙を卓子に置いた。
蔵人頭の花押がある。
「辞令だ」
言われた意味が、すぐには腑に落ちなかった。
「……辞令?」
「おまえを書司に上げる件、正式に通った」
椿は胸を衝かれた。
直ぐには手を伸ばせなかった。
ほんの一息分、見つめてから両手で受け取る。
文を見、霍成を見、それからもう一度、文を見た。
記された名は確かに自分のものだ。
なのに、どこか他人事のように思える。
「……わたくしが」
霍成は肯首した。
紙を持つ指先が、微かに顫える。
ずっと夢見続けてきたものだった。
「こんなに急に」
「急ではない。急がせた」
霍成は憮然とした顔で、向かいの長椅子に腰を下ろした。
「霍成さまが……?」
「他に誰がいる」
霍成は椿の前に広げられていた練習用の半端紙へ視線を落とし、淡々と続ける。
椿は辞令を霍成へ返すと、そっと手を袖口に隠した。
「どうしても宮中の蔵書を調べる必要がある」
椿は手を膝の上に揃えた。
それは以前から、椿も感じていたことだった。
禁中の奥には、未だ調べていない記録がある。
人の目を避けるように積み上げられた古文書の中に、魅了の源へ連なる手掛かりが残されているかもしれない。
和泉家の行く末も。
霍成の心の在り処も。
椿の不安も。
その謎を解かぬかぎり、何一つ定まらない。
ならば、行くしかない。
禁中の、さらに奥へ。
そう思ったところで、ふと記憶に引っかかるものがあった。
これまでなら、簡単に諾うはずのなかった大臣たち。
左大臣、右大臣、内大臣。
いずれも娘を帝に入内させている家である。
「……三大臣が、登殿をお許しになったのですか」
霍成は、そこでわずかに口元を歪めた。
手すさびなのか、照れ隠しなのか。
卓上の砂糖壺へ指を伸ばし、蓋の向きを直している。
「やけに、すんなりとな。……父である左大臣はともかくとして」
「それでは、皆さま……」
「右大臣も頷いた。むしろ都合がいいとさえ言った」
がちゃん、と不穏な音を立てて、蓋が噛み合った。
一体、どの大臣が主上に魅了を讒言したのだろう。
椿がどれほど正しく書いても、どれほど切実に願っても。
此れまで和泉家の力では、禁中の奥へ届かなかった。
言葉は人の心を揺らす。
だが、揺らした先で門が開くとは限らない。
その都度、異能でこじ開けるものでもない。
門には門番がいて、鍵を持つ者がいて、そこに触れるにはまた別の力が要る。
そして先へ先へと、引きも切らず門は連なっているのだ。
だからこそ、三大臣が諾ったことが不気味だった。
誰かが、椿を奥へ奥へと、引き入れるために門を開いたのだ
その先で、一体何をさせる心算なのか、と考えざるを得ない。
「椿」
名を呼ばれ、顔を上げる。
「お前はもう声に出せる。だが、言葉で何もかも通るとは限らん」
霍成の声音は低く、静かだった。
それは、ここ最近、椿の考えていたことだった。
言葉にしてしまえば壊れてしまう気持ちさえある。
何もかも全て会話にすればいいというものではないのだ。
逆に、どれほど心を尽くしても、相手が聞く耳を持たねば届かぬこともある。
「よく聞け。嵌められることもあるかもしれない」
霍成の声は、腹立ちを押し殺したように硬かった。
「紬路は、落としたと言った。ならば、誰かがそれを機密文書に紛れ込ませたのだ。お前の妹には、畏れ多くも今上を魅了する意図はなかったと思う」
手違いなどではない。
誰かが、わざわざ計略が成るように挟み込んだということだ。
「紬路に料紙を運ばせたこと自体、異能だった可能性が高いと見ている。おそらくは傀糸か、透視だ」
椿は、はっと顔を上げた。
落としたのではない。
盗まれた上で、仕組まれたのだ。
否。
それどころか、異能を行使して紬路にあの和歌を和泉から持ち出させた。
妹の将来を、なりふり構わず潰す気だったのだ。
あわよくば、椿もろとも――。
「我が左大臣家との縁談――お前は摂家に名を連ねることになる。……此れよりは一層望まぬ妄執の目で、一挙手一投足を監視される」
宮中は、表向きは雅やかな場所だ。
香の匂いが漂い、衣擦れが静かに重なり、誰もが上品に笑う。
だがその裏で、失脚も、失意も、あまりに静かな顔で行われる。
椿が辞令を見つめたまま黙り込んでいると、とん、と軽い足音が近付いて来た。
振り向く間もなく、ひょいと蘭が配膳盆を片手に顔を出す。
「なーんか、しめっぽい空気ですにゃあ」
気安い声とともに、甘い卵と蜜の香りがふわりと広がった。
蘭が茶器とかすていらを卓子に置き、二人の顔を順に見る。
「おや。旦那さま、また椿さまを脅かしましたにゃ?」
「人聞きの悪いことを言うな」
「でも、大体合ってますにゃ」
悪びれもせず言って、蘭は椿の前へ茶器を寄せた。
牛乳を差した茶は、椿の好み通り、淡く白んでいる。
「蘭……」
「聞こえましたよう。宮中だの、嵌められるだの。そーんな難しい顔、することありませんにゃ」
蘭は胸を張った。
「だーいじょうぶですよおー」
あまりにあっけらかんと請け合われて、椿は思わず目を瞬く。
霍成は懐手のまま、呆れたように片眉を上げた。
「随分、軽い保証だな」
「軽くないですにゃ。椿さまは賢いし、旦那さまはお強いし、あてしは可愛い。これだけ揃えば負けませんにゃ」
椿の唇が、ふっと緩んだ。
「内裏のおひとたちは、表ではにこにこ、腹の中ではみーんな似たり寄ったりですにゃ。そういう匂いを嗅ぎ分けるの、蘭は得意ですよう」
「お前の得意は、大概ろくでもない方向に働くがな」
「今回は良い方へ働かせますにゃ」
蘭は椿へ身を屈め、内緒話のように囁いた。
「誰かが意地悪しても、あてしがちゃあんと嗅ぎつけます。だから椿さまは、成すべきことをなさればいいんですよう」
椿は茶器に添えた指先を見下ろした。
言葉だけでは足りない。
政治の力も、駆け引きも、用心も要る。
けれど、一人で背負うわけではない。
そう思うと、抱えていた重みが、少しだけ軽くなった気がした。
霍成が軽く往なすように笑った。
「……だそうだ」
「他人事のように仰言らないでくださいにゃ。旦那さまだって朝に夜に」
「蘭」
「はいはい、怖い怖い」
蘭は肩を竦めて笑い、それから改めて椿を見た。
「ですから、椿さま。胸を張って行ってらっしゃいませ。だーいじょうぶですよおー」
「本当であれば蘭を女房として付けたいところだ」
椿は膝の上で、指先をぎゅっと結んだ。
「蘭を……?」
「これは気も利くし、目も耳もいい。傍に置くには都合がいい」
「お褒めに預かりまーして」
確かに、蘭は人の機嫌や場の空気にも敏い。
口が軽そうに見えて、肝心要は外さない。
宮中であっても、そうした性質はむしろ役に立つだろう。
「だが、身の保証がない」
「……保証」
「内裏へ入れるには、素性と後ろ盾が要る。蘭にはそれが足りん。外では通らない」
才覚だけでは足りないのだ。
名と縁、そして、誰がその身を保証するか。
門を開くのは、言葉ではなく全て後ろ盾の力だ。
それを失えば、どれほど才があろうと門は閉じる。
だから、人は縁を断つために繋がりを陥れる。
たった一枚の料紙で名家の行く末を傾けられるなら、安いものなのだろう。
「あと、話し方がな」
霍成が、わざとらしく肩を竦めて笑う。
蘭は、にゃんですってえ、とでも言いたげに、拳を振り上げる真似をした。
喉許の鈴が、ちりんと不服そうに鳴る。
「それで、少し前から考えていた」
霍成は、何でもない采配を告げるように言った。
けれどその目には迷いがない。
椿の知らぬところで、必要な手を一つずつ打ってきた者の目だった。
「お前の家庭教師を連れて来た」
椿の指が、膝の上でぴくりと動く。
和泉の屋敷で宣言した通り、もう手配は済んでいたのだ。
「……では、あの方が」
「ああ。あれに聞いて、櫛のことが判った」
椿の胸に、小さな波が立った。
愛用の櫛を置いてきたことなど、霍成に知りようがない。
ならば彼は最初から、椿を返さぬつもりであの家へ赴いたのだろう。
そこまで思い至った途端、瑠衣の人を食ったような笑みが脳裡を掠めた。
見透かすような目つき。
冗談と本気の境の読めぬ物言い。
思えば、あの性格は蘭に勝るとも劣らず、宮中向きなのだった。
「それと芳という釜戸女中だ――女孺として」
「芳を!? 和泉から連れて来たのですか」
「着付けに人手が要るだろう。正式な和装で、暫し暮らす必要があるからな」
霍成は椅子の背にもたれた。
言っていることは、あくまで平易だった。
けれどこの時だけは、どこか機嫌がよい。
「後宮の七殿五舎のうち、雷鳴壺の詰所を下賜された」
「えっ……」
椿が目を丸くすると、霍成の口許が一層緩んだ。
雷鳴壺。
風神雷神の異能を持つ霍成に託けた采配なのだろう。
その名を告げる霍成は、どこか機嫌がよかった。
椿のための衣を、漸く堂々と整えられる。
そう思っているように見えた。
長着も、帯も、女官としての支度も。
きっと既に、彼の頭の中では椿に似合う色柄が幾つも並んでいるのだ。
霍成はそこで、殊更ににやりと笑ってみせた。
「以後、宮中では雷鳴の女官と称せよ、との仰せだ」
その日のうちに、霍成は椿を連れて町へ出た。
「支度をする」
そう言われた時、椿は雷鳴壺へ上がるための衣装や筆記具を揃えるのだと判った。
七ツ純喫茶の前に停められていたのは、人力俥ではなく、あの電気自動車である。
蘭は帳場から顔を出し、にやにや顔になっている。
「いってらっしゃいませえ。椿さま、今日は旦那さまのお財布を遠慮なく軽くしてお戻りくださいにゃ」
「蘭」
「怖ァーーいッ。けれど、天下の女官さまの初支度ですにゃ。けちけちしては霍成さまの名折れというもの」
椿は思わず霍成を見た。
しかし彼は、何でもない顔をしている。
むしろ当然のように、車の扉を開けていた。
「行くぞ」
短い一言だった。
差し出された手が、どこまでも自然だった。
椿はその掌へ、そっと指を重ねた。
右京の大通りは、夕暮れ前の光を抱いて賑わっていた。
軒先には色刷りの引札が揺れ、硝子戸の向こうには舶来の帽子や細い手袋が並んでいる。
人力俥が行き交い、振り売りの呼び込みが流れ、どこかの花屋から零れた花の匂いが混じった。
椿は暫し、車窓へ見入っていた。
ほんの少し前まで、こうした町の明るさは、自分とは無縁のものだった。
和泉の家の奥で、声も息も潜め、ただ季節が過ぎるのを聞いていた。
外の賑わいは、いつも障子の向こうを流れる遠い音でしかなかった。
書庫と釜場と坪庭。
その間だけを行き来していれば、一日は過ぎた。
それなのに今は、霍成の隣に居るだけで、町の色が一つずつ目に入ってくる。
硝子戸の反射も、飾り窓に並ぶ帽子の羽根も、白手袋の貝釦も。
世界の縁が、少しずつ開いていくようだった。
「降りるぞ」
車が停まったのは、呉服と舶来小物を扱う大きな見世の前だった。
椿が見上げる間に、霍成は先に降り、いつものように手を差し出す。
その手を取って敷居を潜ると、店の中の空気が変わった。
畳の上には、反物が幾筋も広げられている。
布と香袋と新しい木箱の匂い。
奥には半襟、帯締め、絹綬、手袋、小さな簪まで並んでいた。
目に入るものの多さに、椿は一旦足を止めた。
「雷鳴の女官としての装いを整える」
霍成が告げた途端、店の者の目が変わった。
「承りました。――といち、といち!」
奥へ向けて符牒が飛ぶ。
見世の奥から、桐箱を抱えた若い者が次々と現れた。
畳の上に反物が広げられる。
淡い灰桜、青磁、白藍、薄藤。
光を含んだ絹が、椿の前で静かに花ひらいていく。
次々と広げられる色の中で、椿は目移りしてしまう。
「お好みはございますか」
店の女が尋ねる。
椿は答えかけて、言葉に迷った。
好み。
自分で選ぶ。
たったそれだけのことが、まだ椿には難しい。
すると、隣で霍成が低く言った。
「椿に似合うものを。だが、派手は無用だ。内裏で目立たせるためではない」
見世の女は、心得たように諾った。
その目が、ちらりと霍成の羽織へ走る。
薄く浮かぶ家紋を検めた瞬間、指先の動きが変わった。
御用向きは内裏へ上がる姫君のお仕度である。
しかも、後ろに控えるのは、気前のよさで右京でも名の通った佐伯家の若君だ。
ここで見立てを違えなければ、内裏御用達の道も開ける。
反物を繰る指先から、自然、気合の入り方が違って来ている。
厨房からは、珈琲豆を挽く細かな響き。
偶さか皿の触れ合う音が、かちゃりと上がる。
熱気が去った後の薄い静けさの中、椿は窓辺の卓子で、番頭から帳簿の付け方を教わっていた。
ふと、人の近付く気配がして、鉛筆を置く。
霍成が、まっすぐ此方へ歩いて来ていた。
決意を張りつかせた顔だ。
番頭はそれを見るなり、何も聞かずに帳簿を閉じた。
それから、入れ替わるように席を外す。
「何か、ございましたか」
首を傾げながら訊ねると、霍成は返事の代わりのように一枚の料紙を卓子に置いた。
蔵人頭の花押がある。
「辞令だ」
言われた意味が、すぐには腑に落ちなかった。
「……辞令?」
「おまえを書司に上げる件、正式に通った」
椿は胸を衝かれた。
直ぐには手を伸ばせなかった。
ほんの一息分、見つめてから両手で受け取る。
文を見、霍成を見、それからもう一度、文を見た。
記された名は確かに自分のものだ。
なのに、どこか他人事のように思える。
「……わたくしが」
霍成は肯首した。
紙を持つ指先が、微かに顫える。
ずっと夢見続けてきたものだった。
「こんなに急に」
「急ではない。急がせた」
霍成は憮然とした顔で、向かいの長椅子に腰を下ろした。
「霍成さまが……?」
「他に誰がいる」
霍成は椿の前に広げられていた練習用の半端紙へ視線を落とし、淡々と続ける。
椿は辞令を霍成へ返すと、そっと手を袖口に隠した。
「どうしても宮中の蔵書を調べる必要がある」
椿は手を膝の上に揃えた。
それは以前から、椿も感じていたことだった。
禁中の奥には、未だ調べていない記録がある。
人の目を避けるように積み上げられた古文書の中に、魅了の源へ連なる手掛かりが残されているかもしれない。
和泉家の行く末も。
霍成の心の在り処も。
椿の不安も。
その謎を解かぬかぎり、何一つ定まらない。
ならば、行くしかない。
禁中の、さらに奥へ。
そう思ったところで、ふと記憶に引っかかるものがあった。
これまでなら、簡単に諾うはずのなかった大臣たち。
左大臣、右大臣、内大臣。
いずれも娘を帝に入内させている家である。
「……三大臣が、登殿をお許しになったのですか」
霍成は、そこでわずかに口元を歪めた。
手すさびなのか、照れ隠しなのか。
卓上の砂糖壺へ指を伸ばし、蓋の向きを直している。
「やけに、すんなりとな。……父である左大臣はともかくとして」
「それでは、皆さま……」
「右大臣も頷いた。むしろ都合がいいとさえ言った」
がちゃん、と不穏な音を立てて、蓋が噛み合った。
一体、どの大臣が主上に魅了を讒言したのだろう。
椿がどれほど正しく書いても、どれほど切実に願っても。
此れまで和泉家の力では、禁中の奥へ届かなかった。
言葉は人の心を揺らす。
だが、揺らした先で門が開くとは限らない。
その都度、異能でこじ開けるものでもない。
門には門番がいて、鍵を持つ者がいて、そこに触れるにはまた別の力が要る。
そして先へ先へと、引きも切らず門は連なっているのだ。
だからこそ、三大臣が諾ったことが不気味だった。
誰かが、椿を奥へ奥へと、引き入れるために門を開いたのだ
その先で、一体何をさせる心算なのか、と考えざるを得ない。
「椿」
名を呼ばれ、顔を上げる。
「お前はもう声に出せる。だが、言葉で何もかも通るとは限らん」
霍成の声音は低く、静かだった。
それは、ここ最近、椿の考えていたことだった。
言葉にしてしまえば壊れてしまう気持ちさえある。
何もかも全て会話にすればいいというものではないのだ。
逆に、どれほど心を尽くしても、相手が聞く耳を持たねば届かぬこともある。
「よく聞け。嵌められることもあるかもしれない」
霍成の声は、腹立ちを押し殺したように硬かった。
「紬路は、落としたと言った。ならば、誰かがそれを機密文書に紛れ込ませたのだ。お前の妹には、畏れ多くも今上を魅了する意図はなかったと思う」
手違いなどではない。
誰かが、わざわざ計略が成るように挟み込んだということだ。
「紬路に料紙を運ばせたこと自体、異能だった可能性が高いと見ている。おそらくは傀糸か、透視だ」
椿は、はっと顔を上げた。
落としたのではない。
盗まれた上で、仕組まれたのだ。
否。
それどころか、異能を行使して紬路にあの和歌を和泉から持ち出させた。
妹の将来を、なりふり構わず潰す気だったのだ。
あわよくば、椿もろとも――。
「我が左大臣家との縁談――お前は摂家に名を連ねることになる。……此れよりは一層望まぬ妄執の目で、一挙手一投足を監視される」
宮中は、表向きは雅やかな場所だ。
香の匂いが漂い、衣擦れが静かに重なり、誰もが上品に笑う。
だがその裏で、失脚も、失意も、あまりに静かな顔で行われる。
椿が辞令を見つめたまま黙り込んでいると、とん、と軽い足音が近付いて来た。
振り向く間もなく、ひょいと蘭が配膳盆を片手に顔を出す。
「なーんか、しめっぽい空気ですにゃあ」
気安い声とともに、甘い卵と蜜の香りがふわりと広がった。
蘭が茶器とかすていらを卓子に置き、二人の顔を順に見る。
「おや。旦那さま、また椿さまを脅かしましたにゃ?」
「人聞きの悪いことを言うな」
「でも、大体合ってますにゃ」
悪びれもせず言って、蘭は椿の前へ茶器を寄せた。
牛乳を差した茶は、椿の好み通り、淡く白んでいる。
「蘭……」
「聞こえましたよう。宮中だの、嵌められるだの。そーんな難しい顔、することありませんにゃ」
蘭は胸を張った。
「だーいじょうぶですよおー」
あまりにあっけらかんと請け合われて、椿は思わず目を瞬く。
霍成は懐手のまま、呆れたように片眉を上げた。
「随分、軽い保証だな」
「軽くないですにゃ。椿さまは賢いし、旦那さまはお強いし、あてしは可愛い。これだけ揃えば負けませんにゃ」
椿の唇が、ふっと緩んだ。
「内裏のおひとたちは、表ではにこにこ、腹の中ではみーんな似たり寄ったりですにゃ。そういう匂いを嗅ぎ分けるの、蘭は得意ですよう」
「お前の得意は、大概ろくでもない方向に働くがな」
「今回は良い方へ働かせますにゃ」
蘭は椿へ身を屈め、内緒話のように囁いた。
「誰かが意地悪しても、あてしがちゃあんと嗅ぎつけます。だから椿さまは、成すべきことをなさればいいんですよう」
椿は茶器に添えた指先を見下ろした。
言葉だけでは足りない。
政治の力も、駆け引きも、用心も要る。
けれど、一人で背負うわけではない。
そう思うと、抱えていた重みが、少しだけ軽くなった気がした。
霍成が軽く往なすように笑った。
「……だそうだ」
「他人事のように仰言らないでくださいにゃ。旦那さまだって朝に夜に」
「蘭」
「はいはい、怖い怖い」
蘭は肩を竦めて笑い、それから改めて椿を見た。
「ですから、椿さま。胸を張って行ってらっしゃいませ。だーいじょうぶですよおー」
「本当であれば蘭を女房として付けたいところだ」
椿は膝の上で、指先をぎゅっと結んだ。
「蘭を……?」
「これは気も利くし、目も耳もいい。傍に置くには都合がいい」
「お褒めに預かりまーして」
確かに、蘭は人の機嫌や場の空気にも敏い。
口が軽そうに見えて、肝心要は外さない。
宮中であっても、そうした性質はむしろ役に立つだろう。
「だが、身の保証がない」
「……保証」
「内裏へ入れるには、素性と後ろ盾が要る。蘭にはそれが足りん。外では通らない」
才覚だけでは足りないのだ。
名と縁、そして、誰がその身を保証するか。
門を開くのは、言葉ではなく全て後ろ盾の力だ。
それを失えば、どれほど才があろうと門は閉じる。
だから、人は縁を断つために繋がりを陥れる。
たった一枚の料紙で名家の行く末を傾けられるなら、安いものなのだろう。
「あと、話し方がな」
霍成が、わざとらしく肩を竦めて笑う。
蘭は、にゃんですってえ、とでも言いたげに、拳を振り上げる真似をした。
喉許の鈴が、ちりんと不服そうに鳴る。
「それで、少し前から考えていた」
霍成は、何でもない采配を告げるように言った。
けれどその目には迷いがない。
椿の知らぬところで、必要な手を一つずつ打ってきた者の目だった。
「お前の家庭教師を連れて来た」
椿の指が、膝の上でぴくりと動く。
和泉の屋敷で宣言した通り、もう手配は済んでいたのだ。
「……では、あの方が」
「ああ。あれに聞いて、櫛のことが判った」
椿の胸に、小さな波が立った。
愛用の櫛を置いてきたことなど、霍成に知りようがない。
ならば彼は最初から、椿を返さぬつもりであの家へ赴いたのだろう。
そこまで思い至った途端、瑠衣の人を食ったような笑みが脳裡を掠めた。
見透かすような目つき。
冗談と本気の境の読めぬ物言い。
思えば、あの性格は蘭に勝るとも劣らず、宮中向きなのだった。
「それと芳という釜戸女中だ――女孺として」
「芳を!? 和泉から連れて来たのですか」
「着付けに人手が要るだろう。正式な和装で、暫し暮らす必要があるからな」
霍成は椅子の背にもたれた。
言っていることは、あくまで平易だった。
けれどこの時だけは、どこか機嫌がよい。
「後宮の七殿五舎のうち、雷鳴壺の詰所を下賜された」
「えっ……」
椿が目を丸くすると、霍成の口許が一層緩んだ。
雷鳴壺。
風神雷神の異能を持つ霍成に託けた采配なのだろう。
その名を告げる霍成は、どこか機嫌がよかった。
椿のための衣を、漸く堂々と整えられる。
そう思っているように見えた。
長着も、帯も、女官としての支度も。
きっと既に、彼の頭の中では椿に似合う色柄が幾つも並んでいるのだ。
霍成はそこで、殊更ににやりと笑ってみせた。
「以後、宮中では雷鳴の女官と称せよ、との仰せだ」
その日のうちに、霍成は椿を連れて町へ出た。
「支度をする」
そう言われた時、椿は雷鳴壺へ上がるための衣装や筆記具を揃えるのだと判った。
七ツ純喫茶の前に停められていたのは、人力俥ではなく、あの電気自動車である。
蘭は帳場から顔を出し、にやにや顔になっている。
「いってらっしゃいませえ。椿さま、今日は旦那さまのお財布を遠慮なく軽くしてお戻りくださいにゃ」
「蘭」
「怖ァーーいッ。けれど、天下の女官さまの初支度ですにゃ。けちけちしては霍成さまの名折れというもの」
椿は思わず霍成を見た。
しかし彼は、何でもない顔をしている。
むしろ当然のように、車の扉を開けていた。
「行くぞ」
短い一言だった。
差し出された手が、どこまでも自然だった。
椿はその掌へ、そっと指を重ねた。
右京の大通りは、夕暮れ前の光を抱いて賑わっていた。
軒先には色刷りの引札が揺れ、硝子戸の向こうには舶来の帽子や細い手袋が並んでいる。
人力俥が行き交い、振り売りの呼び込みが流れ、どこかの花屋から零れた花の匂いが混じった。
椿は暫し、車窓へ見入っていた。
ほんの少し前まで、こうした町の明るさは、自分とは無縁のものだった。
和泉の家の奥で、声も息も潜め、ただ季節が過ぎるのを聞いていた。
外の賑わいは、いつも障子の向こうを流れる遠い音でしかなかった。
書庫と釜場と坪庭。
その間だけを行き来していれば、一日は過ぎた。
それなのに今は、霍成の隣に居るだけで、町の色が一つずつ目に入ってくる。
硝子戸の反射も、飾り窓に並ぶ帽子の羽根も、白手袋の貝釦も。
世界の縁が、少しずつ開いていくようだった。
「降りるぞ」
車が停まったのは、呉服と舶来小物を扱う大きな見世の前だった。
椿が見上げる間に、霍成は先に降り、いつものように手を差し出す。
その手を取って敷居を潜ると、店の中の空気が変わった。
畳の上には、反物が幾筋も広げられている。
布と香袋と新しい木箱の匂い。
奥には半襟、帯締め、絹綬、手袋、小さな簪まで並んでいた。
目に入るものの多さに、椿は一旦足を止めた。
「雷鳴の女官としての装いを整える」
霍成が告げた途端、店の者の目が変わった。
「承りました。――といち、といち!」
奥へ向けて符牒が飛ぶ。
見世の奥から、桐箱を抱えた若い者が次々と現れた。
畳の上に反物が広げられる。
淡い灰桜、青磁、白藍、薄藤。
光を含んだ絹が、椿の前で静かに花ひらいていく。
次々と広げられる色の中で、椿は目移りしてしまう。
「お好みはございますか」
店の女が尋ねる。
椿は答えかけて、言葉に迷った。
好み。
自分で選ぶ。
たったそれだけのことが、まだ椿には難しい。
すると、隣で霍成が低く言った。
「椿に似合うものを。だが、派手は無用だ。内裏で目立たせるためではない」
見世の女は、心得たように諾った。
その目が、ちらりと霍成の羽織へ走る。
薄く浮かぶ家紋を検めた瞬間、指先の動きが変わった。
御用向きは内裏へ上がる姫君のお仕度である。
しかも、後ろに控えるのは、気前のよさで右京でも名の通った佐伯家の若君だ。
ここで見立てを違えなければ、内裏御用達の道も開ける。
反物を繰る指先から、自然、気合の入り方が違って来ている。



