帰りの電気自動車の中で、椿は殆どものを言わなかった。
夕刻の気配に騒ぐ筈の町が、どこか遠い。
膝の上には、つげの櫛があった。
手入れよく黄みを帯びた木肌は、古びてはいるが使い込まれたものにしか出ぬ艶を持っている。歯の細かな並びは乱れておらず、片端にひっそり施された彫りも、却って品がある。
櫛と言わずに、簪と呼んだ。
行く末の吉兆を願いながら、男が女へ言霊に配慮しながら装飾品を指すことの意味。
敢えてそう呼んだ処に、一つの覚悟が宿っている――
新しい贈り物なら、霍成には幾らでも誂えられただろう。
それでも椿が、微かに甘い香りの染み込んだこの愛用品を惜しんでいることを、誰かに渡りをつけて耳に入れ、取り戻してくれたのだ。
椿は指先で、そっと櫛の歯を撫でた。
つるりとした感触が、指の腹へ冷たく返る。
父は、解放されるらしい。
まずは胸のいちばん底で、ふっと力が抜けるのを感じる。
けれど気持ちは何処か晴れ切らないものがある。
和泉家は、とりも直さず家の体裁を保つ。
紬路の不手際も、椿の言葉の芽生えも、母に伏せられたまま、何事もなかったように覆い隠されるだろう。
霍成もまた、誰も口にせずとも疾うに気づいていたのだろう。
その上で、敢えて触れずにいてくれた。つくづく敏く、有能な武官だと思う。
そして自分は、最早あの家へ、使い勝手のいい娘として戻されはしない。
調査はこれで終わるのだろうか。
これからは、許婚として生きるのか。
途端に頬がかっと熱を帯びる。…… 許婚。
たったそれだけの呼び名が、どうしてこうも甘く、どうしてこうも居たたまれないのか。
羞恥に頬が染まるようだ。
そもそも椿は、和歌に宿った魅了の力を巡る一件のために、半ば強引にあの家から連れ出されたのである。
異能の出処を見定め、誰が何を知っているのかを探る――そのための、いわば仮の保護であった筈だ。
今や父は解放され、自分はお役御免の筈なのに、なお霍成の傍らにある。
――俺が欲しいのは椿だ。
思い出しただけで、胸がじんわり温まる。
欲しい、と。
必要だ、ではなく。
役に立つ、でもなく。
便利だから、でもなく。
ただ、欲しい、と。
そんな風に言われたことなど、これ迄あっただろうか。
――守る理由は、値打ちの外にある。
和泉家にとって必要な娘であるとは思う。
だが、椿そのものを望まれたことは、どれ程あっただろうか。
胸のうちに、ひどく甘く、ひどく心細いものまで広がって来る心地がする。
椿は、櫛を握る指先へ、そっと力を込めた。
無骨で不器用で、かなり強引で、此方の意思を確かめもしなかった求婚。
困る。
それなのに、好きなのだ。
好きであるのは、否定しようがない。
けれど思い返してみれば、椿の意思は、まるきり置き去りにされていた訳でもない。
霍成は、ずっと以前から、椿の無言の了承を受け取り続けて来たのかもしれない。
手を取られても振りほどかなかったこと。
隣に居るのを、当然のように受け入れていたこと。
言葉なく差し出される気遣いを、拒まずに受け取ってきたこと。
そうした一つ一つの沈黙の裡に、もう答えは渡されていたのだろう。
求婚の言葉こそなかったが、言葉にせずとも伝わるものが、二人の間には確かに長く在った。
だから、厭ではない。
意思を訊かれなかったからと、今更それに腹を立て、言い立て、咎める気にもなれなかった。
肝心なところで躊躇わず、椿が言葉にできぬまま抱えていたものまで、いつも勝手に掬い上げてしまう。それが、いかにも霍成らしいとさえ思えた。
許婚となることも。
簪だの言い始めて、まるで我が物顔のように隣に正座し、母と対峙したことも。
厭ではないどころか、嬉しい。
――そこまで思って、椿ははた、と気が付いてしまった。
がたん、と電気自動車が石畳の継ぎ目に差しかかり、小さく車体を震わせた。
その揺れとともに、胸の奥へ、嫌な予感のようなものが滑り落ちてくる。
魅了。
自分の和歌に宿る、あの力。
椿にとっても、未だ得体の知れぬままの異能である。
誰かの心を揺らし、理屈ではなく惹きつけてしまう。
何処まで届くのか判らない、意図して揮ってはいけないもの。
それは知っている。実際、宮中で騒ぎを起こしたのだ。
ならば。
霍成が自分を欲しいと言ったのも、もしや――
椿はぶるりと小さく身を震わせた。
まさか、と思う。
思いたい。
けれど、まさかと言い切るには、椿は自分の異能のことを知らなさ過ぎた。
霍成が、最初に和歌を見たとき。
あるいはその後、幾度か椿の筆を目にしたとき。
自分でも気付かぬうちに、何かが働いていたとしたら。
もし、口を開いただけで……
「……厭だったか」
いつの間にか、車は着いていた。
椿は言葉を失った。前には運転手がいる。
何もかも聞こえてしまいそうで返事に窮する。
椿は胸もとの櫛を握りしめた。
狭い車内では、隣の霍成の声が近い。
もう停まっているのだ、長く留まる理由もない。
「ち、が……います……」
答えた声は、自分でも驚くほど小さい。
「では、何だ」
「それは……」
言えない。好きだからこそ、尚更。
霍成が向けてくる強引さも、執着も、欲しいと言い切る迷いのなさも、本当は自分の異能のせいかもしれない――偽りの心を疑っているなどと、どうして口にできよう。
魅了とは、愛を信じられなくする異能だ――。
運転手が先に降りたために車が小さく揺れ、椿の肩が震えた。
だけど、誤解されるのもどうしても厭で、それこそがもっと厭なのかもしれなかった。
「婚約が、……厭なのでは、ありません」
だが、これを言ってしまうと胸の内を伝えたも同然、しかも願いの通りになってしまうかもしれないのだ。それでも――
「ただ……もし、それが……わたくしの異能のせいでしたら」
ぽたり、と一滴、膝の上に落ちた。
涙だと気づいて、椿はあわてて目元を押さえる。
けれど、この思いは伝えなければならなかった。
誤解されたくなかったから。
「厭、……なのです」
もし、霍成が間違っていたら。
口を開けば、必ず意のままに操れるとしたら。
「好きになっていただくなら……魅了などではなく、ただ椿を見て、そうなって欲しいのです」
言いきった途端、霍成が身を乗り出した。
一瞬の躊躇もなく椿の手を掴み、握る。
霍成の手は大きく、骨ばって、節くれ立っていた。刀を握り、馬を駆り、外気に晒されてきた手だ。
椿は、はっと息を呑んだ。
姫君らしい、嫋やかな手ではなかった。
灰汁仕事で荒れた指先は細かなひびに硬くなり、爪の際も滑らかではない。
霍成の掌の中で、その情けなさばかりが際立つ気がして、椿は思わず指を引こうとした。
けれど、霍成は放さない。
やはり、このときも言葉は役に立たないのだ。
姫らしい手に喜んで欲しいなど、と――恥ずかしくてとても言える筈もない。

