その冊子が見付かってから数日後のことだ。
霍成が、和泉の屋敷を今一度検めたい、と切り出した。
相談というより、申し渡しに近い口ぶりだったが、椿を伴う必要はあるにせよ独りであの家へ返すつもりはない――その揺るぎない意思が、はっきりと滲んだものだった。
確かめねばならぬことがある。
椿にも、それは解っていた。
あの和歌は、忽然と宮中に現出したのではない。
門をくぐり、長い塀沿いの裏手をまわる。
庭木の梢を渡る風の音が、微かに耳についた。
人の声も、女中たちの立ち働く足音も遠い。
以前は、ただ堅苦しかった和泉邸が、今日は張りを失って空ろに見えた。
主人を欠いた家とは、こうも気配の据わらぬものかと、椿は思った。
先触れもなく訪いを入れたのは、心構えなどさせぬためでもあったのだろう。
だが、椿とて和泉の娘である。しかも、半ば強引に連れ出された末の帰還だ。
いつ帰っても可怪しくはない理屈は有る筈だ。
母と紬路との対面は、客殿の一階、かつての椿の居室の下にあたる一室で行われることになった。
其処へ通されるまで、椿は何とはなしに霍成の三歩後ろを歩いていた。
気付いたらしい霍成が、ほんの僅かに歩みを緩める。振り返りはしない。
ただ、それだけで、置いてゆくつもりはないのだと知れた。
離れは客殿を兼ねており、本来は宿泊客のための建物だが、主屋より使用人の目が遠い。家内の込み入った話をするには向いている――そういう母の考えだろう。
通された部屋は、硝子窓からの南庭の眺めがよく、刈り込まれた植え込みも白い飛び石も、明るみの中にくっきり見えた。
程なくして、紬路が先に姿を見せた。
相変わらず、何ごとにつけても人目を惹く娘である。
昼の光の中へ現れると、その身の近辺だけが、一際淡い彩を含んだように見えた。よく似た容姿をしているのに不可解なことだが、その違いを言葉にするのは難しい。
躑躅という花は、普段は胸の内へ力をしまい込んでいるくせに、いざ機を得れば、驚くほど鮮やかに咲き満ちる。長く枝先に力を溜め、群れなす花ごと一斉に花開くのだ。
「まあ、霍成さま。お姉さまもご無事でいらして」
紬路は現れるなり、顔を綻ばせた。
いかにも愛らしく年頃の娘といった様子だ。
母が紬路をより可愛がる方へ露骨に肩入れしていたにせよ、椿には口を利けない理由があっただけで、もともと姉妹仲そのものがひどく悪いというわけではなかった。
「どうなさいましたの。お元気のご様子ね。お茶を運ばせましょうね」
主屋の客間ならば洋式だが、離れは古い家屋だ。
先に座布団へ着いていた二人の向かいに、洋装の紬路が、ふわりと優雅に腰を下ろした。
「お召し物がよくお似合いだわ」
そう言いながらも、紬路の顔にはどこか物足りなさが残っている。
綺麗になった姉の前で、和装でないのが歯噛みしたくなるほど口惜まれるのだろう。
見立てに長けた紬路が褒めてくれたのは、霍成があれこれと見立てて買ってくれたうちの、縞御召一揃いだった。
しゃり感のある生地に浮き出る絞は控えめだが、全体的に張りのある艶めきがある。町娘めいた地味な仕立てながら、凝った襦袢の地が袖から垣間見える。
そこへ帯もすっきりと立て矢に結び、髪はこのごろ椿もよく結ぶようになった、はいから絹綬の半上げに結っていた。
「洋装はすとんと被るだけ。あんまり工夫がないのですもの」
紬路は、悪役令嬢奇譚に現れてくるような縦に垂らした巻髪をふわりと揺らし、いかにも物欲しげな顔をした。それでも洋装に相応しい新しい髪型を試すことには、随分熱心らしい。
霍成は、その嘆きは軽く聞き流し、挨拶もそこそこに話を切り出す。
「鑑賞会の日のことを訊く」
単刀直入だ。無駄がない分、余計に逃げ場がない。
紬路は一度だけ、瞬きをした。
「鑑賞会の……? 桜花の宴かしら」
「――あの日、お前は、ここの二階へ上がったのだろう」
紬路は、僅かに躊躇ってから、頷いた。
「ええ。だって、お姉さまの部屋着の椿襲は、わたくしの紅つつじの蘇芳と表地が同じですもの。確認に少し見せていただこうと思って」
「それだけか」
「……え?」
「ほかに、何処かへ寄らなかったかと訊いている」
紬路は一瞬、目を伏せた。
「その後、土蔵へも、少しだけ」
椿は座したまま、その顔を見た。
あの朝の、居心地の悪い一幕が胸のうちに蘇る。
宮中へ初めて披露される妹と、それを黙って見送る自分。
「何をしに」
「……お姉さまに会いに、よ。……見て頂きたくて」
「ええ、……会ったわね」
紬路の目が驚愕に見開かれた。
姉が言葉を返せるようになっていたとは、知らなかったのだ。
霍成は、そこで殊更に追い詰めはしなかった。
ただ、一呼吸だけ置いてから、静かに問いを継ぐ。
「その折、何か紙のようなものを見なかったか」
ぴたりと紬路の表情が止まる。
「……どうして、其のような」
「見たのか」
霍成の発言、一語ごとに、紬路の退く先ばかりが、音もなく失われてゆく。
「あの日お前は、此処の二階で椿の和歌を見た。そうだな」
「見ましたわ。でも、ほんの少し……」
「その紙は、宮中へと運ばれている」
紬路の指先が、膝の上でぴくりと動いた。
まだ誰も、決定的なことは口にしていない。
それでも、今この場で交わされている言葉の端々が、あの日の記憶の暗がりを一筋ずつ照らしはじめていた。
やはり、そうなのだ。
あのとき既に、紬路は和歌を書きつけた料紙を手にしていた。
二階から持ち出し、おそらくは襟の合わせか袂に忍ばせ、そして何食わぬ顔で馬車に身を預けたのである。
「……だって」
紬路は、暫く声にならぬまま唇を震わせていた。
それからようやく、言葉を押し出すように口を開いた。
「だって、お姉さまのお和歌が、綺麗に光っていたのですもの」
言い終える頃には、その顔はもう泣き出しそうに歪んでいた。
咲きかけの花弁へ、ふいに雨の気配が触れたような、あえかな崩れ方だった。
それが異能の発した光だと、妹が思い当たらなかったはずはない。
ただ否定する心の方が長く強く、紬路の目を曇らせ、それはついに決壊したのだ。
「姉に異能があることを知らなかったわけではあるまい」
霍成の言葉には、同情の色が一欠けらもなかった。
紬路は、冷たい雨に突然打たれたように目を見開いている。
「その和歌には、魅了の力がある。知っていたか」
その一言は、鋭く落ちた。
静かな語り口ではあったが、霍成の目に込められた信念めいたものが、重さを伴って逃げ場なく椿を射抜いていた。
紬路の顔から、みるみる色が失せていった。
紬路は無論のこと、――椿もまた、何も知らされてはいなかった。
七ツ純喫茶の二階で耳にしたのは、誰か大臣からの讒言があったという曖昧な話だけである。
けれど今、ばらばらだったものが胸の内で一つに繋がった。
あのとき伏せられた言葉も、濁された経緯も、ただの思いやりだけではない。
誰かが知っていた。
誰かが、わざわざそれを口にした。
そして霍成もまた、捜査のために、あえて椿へ伏せていたのかもしれない。
やはり、あれは魅了の力だったのだ。
東宮の御心を紬路へ向けるよう、異能を用いて計略を謀ったのだと――そう言い立てる者があっても、もはや不思議ではない。
いや、違う。
不思議ではないどころか、すでに誰かがそう囁いたからこそ、霍成が和泉家に遣わされたのだ。
人の悪意は、いつも剥き出しの刃で来るとは限らない。
声を潜め、尤もらしい憂いを帯び、信を得た臣下から真実らしい顔をして奏上される。
そうして渡った先で噂が根を張れば、やがて花のように見えるものまで、毒に変わる。
紬路の血の気の引いた顔から、無邪気な光が完全に掻き消えている。
まるで薄い絹を一枚剥がされたように、その下から、隠しきれなかった狼狽えが剥き出しになる。
それを見て、椿は理解した。
広く知れ渡れば、評判は傷つき、入内はもはや覚束ないものとなるのだと。
一番の望みを、公算を、自らの手で損ねてしまった思いは、如何程のものだろうと椿は思った。
紬路は唇を強く噛み、涙を堪えているようだ。
「いいえ、……まさか。そこまで深く考えませんでした」
紬路は霍成を見、それから椿を見た。
助けを求めるようでもあり、心細い幼子のようである。
「ただ、お姉さまの代わりに……万よく御守になるか、と」
室内の空気がすっと冷える。
椿の胸の奥で何かが軋んだ。
「気が付いたら、落としてしまいましたの……」
言い訳めいた声は、尻すぼみに小さくなる。
「お姉さまは言葉を発してはならないのであって」
そこまで言って、紬路はますます苦しげになる。
言い訳めいた響きになるのを、自分でも判っているのだろう。
「書いたものに、異能があるなどとは……深く、考えなかったの……」
紬路はとうとう泣き出してしまった。
家庭教師につき従って、机に向かって文字を手習う姉の姿を、幾度となく目の当たりにしていたのだろう。
椿には、母に無条件に可愛がられる小さな妹を、遠くから眺めて来た日々がある。
紬路に対して、何一つ思うところがなかったわけではない。
自分は沈黙し、紬路は明るく笑い、何も知らぬまま母の庇護下にいた――そう思えば、割り切れぬものが胸の底に澱のように沈んでいた。
けれど、それでも。
目の前の顔は、いつも母の寵を受けて機嫌の良かった妹のものではなく、ただ怯え、縋るよりほかなくなった一人の娘の顔だった。
そして参内に際して自分を頼みの綱にしてくれていた。
自分は、紬路に拠ったことはなかった――
「お姉さま」
紬路が、ひどく素朴な声で言った。
「……どうして、お話になっているの?」
詰問の流れを断ち切るほどまっすぐな問いだった。
「だって、お姉さま、あまり喋らないでしょう。昔から……。なのに、どうして」
まるで本当に、それが一番不思議だとでもいうように。
我が身の不始末よりも、余程気になるとでもいうように。
霍成が僅かに顔を顰めた。
だが、責めるような響きではなかった。
「……紬路」
自分でも驚くほど、はっきりとした声が出た。
細いながら迷いのない声に、紬路が此方を見る。
よく似た顔立ちが涙で濡れていた。
自分だけが苦しかったのではないのかもしれない――そう思った途端、胸のうちで固くなっていたものが、少し緩むのを感じた。
椿は、冊子の記述を思い返す。
紬路がどこまで知っているのか判らないが、紬路は紬路なりに、何の異能の発現もなく、何も知らされぬままここまで来たのだという気がした。
「あなたには、まだ話せないことがあります」
「お姉さま……」
「けれど、お父さまをご無事で戻すわ、待っていて」
口にしてから、椿は自分の胸の内を静かに探った。
許す、とはっきり言うものでもない。
たとえ言っても過去は取り返せない。そんな免罪符のようなものはないのだ。
安心させるためだけに言うのでもなく、自分の心が伴うとしたら――相応しい言葉は一体何であろう。
椿の辛かったこと、全てを水に流すことなど出来はしない。
焼けて痛んだ筈のものが元に戻ることがないように。
けれど、なかったことにしたまま、進むことは、できるのかもしれない。
ほんの少し、目を逸らすようにして。
それでも足を止めぬようにして。
前を向いて歩くしかないのだ。
後ろに道がたくさん生ったとき、今を幸せと言えるように。
いつしか紬路と歩く未来があるように。誰もが、そうしてきたように。
重ねた道だけが、やがて後々、自分で選択して歩いたと呼ばれるのだろうから。
だから、まずはお父さまを戻す。
それしか言えない。
「その異能は、おそらく和歌にしか宿りはしない」
霍成が口を挟んだ。
「発話で可怪しなことが起こったことはない。筆談でもない。墨や短冊を使用しても何もない、ただ、和歌の形だけだ」
言われてみれば、その通りだった。
客間にはしばし沈黙が落ちた。
紬路のすすり泣く声が聞こえる外は、静かだ。
障子の向こうで、風がまた軒を鳴らした。
幼い頃から聞き慣れたはずの音が、今日は遠く聞こえる。

