その冊子が見付かってから、数日後のことだ。
霍成が、和泉の屋敷を今一度検めたい、と切り出した。
相談というより、申し渡しに近い口ぶりだった。
椿を伴う必要はある。
だが、独りであの家へ帰す気はない。
その揺るぎない意思が、言葉の端々に滲んでいた。
確かめねばならぬことがある。
椿にも、それは判っていた。
あの和歌は、忽然と宮中に現出したのではない。
翌日の昼下がり。
門をくぐり、長い塀沿いに裏手へ回る。
庭木の梢を渡る風の音が、やけに耳についた。
人の気配も、女中たちの足音も遠い。
以前はただ堅苦しかった和泉邸が、今日は張りを失って空ろに見えた。
主人を欠いた家とは、こうも気配の据わらぬものか。
先触れもなく訪いを入れたのは、向こうに心構えをさせぬためでもあったのだろう。
だが、椿とて和泉の娘である。
しかも、半ば強引に連れ出された末の帰還だ。
いつ戻っても可笑しくはない。
そう言い立てられるだけの理屈は、此方にもある筈だった。
母と紬路との対面は、客殿の一階、かつての椿の居室の下にあたる一室で行われることになった。
其処へ通されるまで、椿は何とはなしに霍成の三歩後ろを歩いていた。
気付いたらしい霍成が、ほんの僅かに歩みを緩める。
振り返りはしない。
ただ、それだけで、置いてゆく心算はないのだと知れた。
離れは客殿を兼ねており、主屋より使用人の目が遠い。
込み入った話をするには向いている――そういう母の考えだろう。
通された部屋は、硝子窓から南庭がよく見えた。
刈り込まれた植え込みも、白い飛び石も、昼の明るみの中にくっきり浮かんでいる。
程なくして、紬路が先に姿を見せた。
相変わらず、何ごとにつけても人目を惹く娘である。
昼の光の中へ現れると、その身の近辺だけが、一際淡い彩を含んだように見えた。
よく似た容姿をしている筈なのに、その違いを言葉にするのは難しい。
躑躅は、蕾へ力を蓄え込む。
けれど機を得れば、驚くほど鮮やかに咲き満ちる花だ。
「まあ、霍成さま。お姉さまもご無事でいらして」
紬路は現れるなり、顔を綻ばせた。
いかにも愛らしい、年頃の娘である。
母が紬路ばかりを可愛がったにせよ、姉妹仲そのものがひどく悪かった訣ではない。
椿はただ、言挙げを慎むべき立場にあっただけだ。
「どうなさいましたの。お元気のご様子ね。お茶を運ばせましょうね」
主屋の客間ならば洋式だが、離れは古い家屋である。
先に座布団へ着いていた二人の向かいに、洋装の紬路がふわりと腰を下ろした。
「お召し物がよくお似合いだわ」
そう言いながらも、紬路の顔には何処か物足りなさが残っている。
綺麗になった姉の前で、自分が和装でないのが口惜まれるのだろう。
装いを見る目に長けた妹が褒めてくれたのは、霍成が見立ててくれた縞御召一揃いだった。
町娘めいた控えめな仕立てではある。
帯はすっきりと立て矢に結び、髪ははいから絹綬の半上げにしていた。
しゃり感のある生地には、張りのある艶がある。
動くたび、凝った襦袢の疋田絞りが袖口から僅かに覗いた。
地味に見えて、目を凝らせば手の込んだ身装である。
「洋装はすとんと被るだけ。あんまり工夫がないのですもの」
紬路はそう言って、悪役令嬢奇譚に出てくるような巻髪をふわりと揺らした。
椿のはいから絹綬を羨ましそうに見ている。
それでも、新しい洋装に似合う髪型を試すことにも、随分熱心らしい。
霍成はその嘆きを軽く聞き流し、挨拶もそこそこに話を切り出した。
「鑑賞会の日のことを訊く」
単刀直入だ。
無駄がない分、余計に逃げ場がない。
紬路は一度だけ、瞬きをした。
「鑑賞会の……? 桜花の宴かしら」
「――あの日、お前は、此の客殿の二階へ上がったのだろう」
紬路は僅かに躊躇い、頷いた。
「ええ。だって、お姉さまの部屋着の椿襲は、わたくしの紅つつじの蘇芳と表地が同じですもの。確認に、少し見せていただこうと思って」
「それだけか」
「……え?」
「ほかに、何処かへ寄らなかったかと訊いている」
紬路は一瞬、目を伏せた。
「その後、土蔵へも、少しだけ」
椿は座したまま、その顔を見る。
あの朝の居心地の悪さが、胸のうちに蘇った。
宮中へ初めて披露される妹と、それを黙って見送る自分。
「用向きは何だった」
霍成が問う。
「……お姉さまに会いに、よ。……見て頂きたくて」
その言い方は、昔と少しも変わらない。
自分が見せたいものを、姉なら黙って見てくれると信じている、甘えた調子だった。
椿は暫し、紬路を見つめた。
「ええ、……会ったわね」
そして、口を開いた。
短い返事だった。
だが、その一言は、紬路を驚愕させるのに十分だった。
姉が言葉を返せるようになっていたとは、知らなかったのだ。
霍成は、そこで殊更に追い詰めはしなかった。
一呼吸だけ置いてから、問いを継ぐ。
「その折、料紙のようなものを見なかったか」
ぴたりと、紬路の表情が止まった。
「……どうして、其のような」
「見たのか」
紬路の退く先が、音もなく失われてゆく。
霍成の一語ごとに、妹は追い詰められていた。
「あの日お前は、此処の二階で椿の和歌を見た。そうだな」
「見ましたわ。でも、ほんの少し……」
「その紙は、宮中へ運ばれている」
紬路の指先が、膝の上でぴくりと動いた。
まだ誰も、決定的なことは口にしていない。
それでも言葉の端々が、あの日の記憶の暗がりを一筋ずつ照らし始めていた。
やはり、そうなのだ。
あのとき既に、紬路は和歌を書きつけた料紙を手にしていた。
二階から持ち出し、おそらくは襟の合わせか袂に忍ばせて、何食わぬ顔で馬車に乗ったのである。
「……だって」
紬路は、暫く唇を顫わせていた。
それから、ようやく言葉を押し出す。
「だって、お姉さまのお和歌が、綺麗に光っていたのですもの」
言い終える頃には、その顔はもう泣き出しそうに歪んでいた。
咲きかけの花弁に、ふいに雨が触れたような崩れ方だった。
それが異能の光だと、思い当たらなかった筈はない。
ただ、否定したい心の方が長く強く、紬路の目を曇らせていたのだろう。
「姉に異能があることを知らなかった訣ではあるまい」
霍成の言葉には、同情の色が一欠片もなかった。
「その和歌には、魅了の力がある。知っていたか」
静かな語り口だった。
けれどその目には、信念めいた硬さがあり、確実に紬路を射抜いていた。
愛らしい顔から、みるみる色が失せていく。
その瞬間、椿にも判った。
紬路は、和歌に魅了の力があることなど知らなかった。
そして椿もまた、知らなかった。
聞かされていたのは、誰か大臣から讒言があったという、曖昧な話だけだ。
あの時、伏せられた言葉。
濁された経緯。
それらは、ただ椿を思いやっての沈黙ではなかったのだ。
ばらばらだったものが、胸の内で一つに繋がり始める。
大臣は知っていた。
あの和歌に、魅了の力があると。
あるいは、そう言い立てれば、椿や紬路を追い落とせると。
和泉の娘たちが異能を用いて、東宮の御心を紬路へ向けようとした。
大臣は、そのように讒言したのだ。
だから父は、疑いを受けている。
だから霍成は、その疑いを検めるために、和泉家へ遣わされた。
そして詮議に差し障る故、あえて椿へも伏せていたのかもしれない。
それでも、霍成を疑う気にはなれなかった。
彼はずっと、椿を守ると言い続けてくれている。
その言葉だけは、疑いようもなく椿の側にあった。
――守る理由は、値打ちの外にある。
――大切にする。
――喋れなくても、俺には聞こえている。
――守りに、来たのだ。
初対面から、あのように口にしていたのも、同じ理由だったのだろう。
守るという言葉の始まりは、好意ですらなかったのかもしれない。
――お前の沈黙を、誰かの都合のいい答えにはさせない。
それでも、今更すべてが偽りだったとは思えなかった。
いつか真実を知った時、椿が壊れぬように。
霍成は、予め言葉を置いてくれていたのだ。
この人は、守ると言ったものを本当に守る人なのだろう。
そう思うと、胸の痛みは消えぬまま、どこか静かに据わった。
人の悪意は、いつも剥き出しの刃で来るとは限らない。
声を潜め、尤もらしい憂いを帯びる。
信を得た臣下の口から、真実らしい顔で奏上される。
そうして渡った先で噂が根を張れば、やがて花のように見えるものまで、毒に変わる。
紬路の血の気の引いた顔から、無邪気な光が完全に掻き消えていた。
薄い絹を一枚剥がされたように、その下から、隠し切れなかった狼狽えが剥き出しになる。
広く知れ渡れば、評判は傷つく。
入内は最早、覚束ないものとなる。
一番の望みを。
殆ど手の内にあった公算を。
自らの手で損ねてしまったと知る心地は、如何程のものだろう。
紬路は唇を強く噛み、涙を堪えていた。
椿もまた、泣きたい心地だった。
霍成は、ずっと椿の言葉を疑っていたのだ。
椿が口にするものの中に、魅了の力が紛れてはいないかと。
そう疑わねばならぬ立場に、初めから居たのだ、と。
「いいえ、……まさか。そこまで深く考えませんでした」
紬路は霍成を見、それから椿を見た。
助けを求めるような、心細い幼子のような目だった。
「ただ、お姉さまの代わりに……万の御守りになるかと」
室内の空気が、すっと冷えた。
椿の胸の内で何かが軋む。
「気が付いたら、落としておりましたの……」
言い訳めいた声は、尻すぼみに小さくなった。
「お姉さまは、言葉を発してはならないだけであって」
そこまで言って、紬路は苦しげに顔を歪める。
自分でも、言い訳にしか聞こえないのだろう。
「書いたものに、異能があるなどとは……深く、考えなかったの……」
紬路は、とうとう泣き出してしまった。
家庭教師を相手に、机へ向かう姉の姿を、幾度となく目にしていたのだろう。
母に無条件に可愛がられる小さな妹を、椿もまた、遠くから眺めてきた。
何一つ思うところがなかった訣ではない。
自分は沈黙し、紬路は明るく笑い、何も知らぬまま母の庇護の内にいた。
割り切れぬものは、胸の底に澱のように沈んでいた。
けれど。
今、目の前に泣いているのは、母の寵を受けて機嫌よく笑う妹ではなかった。
ただ怯え、縋るよりほかなくなった、一人の娘だった。
しかも紬路は、参内に際して、椿を頼みの綱にしてくれていた。
椿は一度も、妹に縋ったことなどなかったのに。
「お姉さま」
紬路が、ひどく素朴な調子で言った。
「……どうして、お話になっているの?」
詮議の空気を断ち切るほど、まっすぐな問いだった。
「だって、お姉さま、昔からあまりお喋りにならなかったでしょう。なのに、どうして」
まるで本当に、それが一番不思議だとでもいうように。
我が身の不始末よりも、余程気になるとでもいうように。
霍成が、僅かに顔を顰めた。
それでも、強く責めるような様子ではなかった。
「……紬路」
自分でも驚くほど、はっきりとした響きが出た。
細いながら迷いのない声に、紬路が此方を見る。
よく似た顔立ちが、涙で濡れていた。
自分だけが苦しかったのではないのかもしれない。
そう思った途端、長い間の蟠りが、少しだけ緩んだ。
椿は、冊子の記述を思い返す。
紬路がどこまで知っているのかは判らない。
けれど妹もまた、何の異能の発現もなく、何も知らされぬまま、ここまで来たのだろう。
「あなたには、まだ話せないことがあります」
「お姉さま……」
「けれど、お父さまをご無事で戻すわ。待っていて」
口にしてから、椿はそっと息を整えた。
許す、とはっきり言うものでもない。
たとえ言っても過去は取り返せない。
そんな免罪符のようなものはないのだ。
椿の辛かったこと、全てを水に流すことなど出来はしない。
焼けて痛んだものが元に戻ることがないように。
けれど、なかったことにしたまま、進むことはできるのかもしれない。
ほんの少し、目を逸らすようにして。
それでも足を止めぬようにして。
前を向いて歩くしかないのだ。
後ろに道がたくさん生ったとき、今を幸せと言えるように。
いつしか紬路と歩く未来があるように。
重ねた道だけが、やがて後々、自分で選択して歩いたと呼ばれるのだろうから。
だから、先ずはお父さまを戻す。
それしか言えない。
「その異能は、おそらく和歌にしか宿りはしない」
霍成が、援護するように口を挟んだ。
また一つ、椿の知らぬところで確かめられていた事実が増えた。
けれど、その役目を思えば、責めることもできない。
「発話で可怪しなことが起こったことはない」
言われてみれば、その通りだった。
「筆談でもない。墨や短冊を用いても、書くだけなら何もない。力を持つのは、和歌の形を取った時だけだ」
客間には、暫し沈黙が落ちた。
紬路のすすり泣く気配の外は、静かである。
障子の向こうで、風がまた軒を鳴らした。
幼い頃から聞き慣れた筈の音が、今日はひどく遠く聞こえていた。
霍成が、和泉の屋敷を今一度検めたい、と切り出した。
相談というより、申し渡しに近い口ぶりだった。
椿を伴う必要はある。
だが、独りであの家へ帰す気はない。
その揺るぎない意思が、言葉の端々に滲んでいた。
確かめねばならぬことがある。
椿にも、それは判っていた。
あの和歌は、忽然と宮中に現出したのではない。
翌日の昼下がり。
門をくぐり、長い塀沿いに裏手へ回る。
庭木の梢を渡る風の音が、やけに耳についた。
人の気配も、女中たちの足音も遠い。
以前はただ堅苦しかった和泉邸が、今日は張りを失って空ろに見えた。
主人を欠いた家とは、こうも気配の据わらぬものか。
先触れもなく訪いを入れたのは、向こうに心構えをさせぬためでもあったのだろう。
だが、椿とて和泉の娘である。
しかも、半ば強引に連れ出された末の帰還だ。
いつ戻っても可笑しくはない。
そう言い立てられるだけの理屈は、此方にもある筈だった。
母と紬路との対面は、客殿の一階、かつての椿の居室の下にあたる一室で行われることになった。
其処へ通されるまで、椿は何とはなしに霍成の三歩後ろを歩いていた。
気付いたらしい霍成が、ほんの僅かに歩みを緩める。
振り返りはしない。
ただ、それだけで、置いてゆく心算はないのだと知れた。
離れは客殿を兼ねており、主屋より使用人の目が遠い。
込み入った話をするには向いている――そういう母の考えだろう。
通された部屋は、硝子窓から南庭がよく見えた。
刈り込まれた植え込みも、白い飛び石も、昼の明るみの中にくっきり浮かんでいる。
程なくして、紬路が先に姿を見せた。
相変わらず、何ごとにつけても人目を惹く娘である。
昼の光の中へ現れると、その身の近辺だけが、一際淡い彩を含んだように見えた。
よく似た容姿をしている筈なのに、その違いを言葉にするのは難しい。
躑躅は、蕾へ力を蓄え込む。
けれど機を得れば、驚くほど鮮やかに咲き満ちる花だ。
「まあ、霍成さま。お姉さまもご無事でいらして」
紬路は現れるなり、顔を綻ばせた。
いかにも愛らしい、年頃の娘である。
母が紬路ばかりを可愛がったにせよ、姉妹仲そのものがひどく悪かった訣ではない。
椿はただ、言挙げを慎むべき立場にあっただけだ。
「どうなさいましたの。お元気のご様子ね。お茶を運ばせましょうね」
主屋の客間ならば洋式だが、離れは古い家屋である。
先に座布団へ着いていた二人の向かいに、洋装の紬路がふわりと腰を下ろした。
「お召し物がよくお似合いだわ」
そう言いながらも、紬路の顔には何処か物足りなさが残っている。
綺麗になった姉の前で、自分が和装でないのが口惜まれるのだろう。
装いを見る目に長けた妹が褒めてくれたのは、霍成が見立ててくれた縞御召一揃いだった。
町娘めいた控えめな仕立てではある。
帯はすっきりと立て矢に結び、髪ははいから絹綬の半上げにしていた。
しゃり感のある生地には、張りのある艶がある。
動くたび、凝った襦袢の疋田絞りが袖口から僅かに覗いた。
地味に見えて、目を凝らせば手の込んだ身装である。
「洋装はすとんと被るだけ。あんまり工夫がないのですもの」
紬路はそう言って、悪役令嬢奇譚に出てくるような巻髪をふわりと揺らした。
椿のはいから絹綬を羨ましそうに見ている。
それでも、新しい洋装に似合う髪型を試すことにも、随分熱心らしい。
霍成はその嘆きを軽く聞き流し、挨拶もそこそこに話を切り出した。
「鑑賞会の日のことを訊く」
単刀直入だ。
無駄がない分、余計に逃げ場がない。
紬路は一度だけ、瞬きをした。
「鑑賞会の……? 桜花の宴かしら」
「――あの日、お前は、此の客殿の二階へ上がったのだろう」
紬路は僅かに躊躇い、頷いた。
「ええ。だって、お姉さまの部屋着の椿襲は、わたくしの紅つつじの蘇芳と表地が同じですもの。確認に、少し見せていただこうと思って」
「それだけか」
「……え?」
「ほかに、何処かへ寄らなかったかと訊いている」
紬路は一瞬、目を伏せた。
「その後、土蔵へも、少しだけ」
椿は座したまま、その顔を見る。
あの朝の居心地の悪さが、胸のうちに蘇った。
宮中へ初めて披露される妹と、それを黙って見送る自分。
「用向きは何だった」
霍成が問う。
「……お姉さまに会いに、よ。……見て頂きたくて」
その言い方は、昔と少しも変わらない。
自分が見せたいものを、姉なら黙って見てくれると信じている、甘えた調子だった。
椿は暫し、紬路を見つめた。
「ええ、……会ったわね」
そして、口を開いた。
短い返事だった。
だが、その一言は、紬路を驚愕させるのに十分だった。
姉が言葉を返せるようになっていたとは、知らなかったのだ。
霍成は、そこで殊更に追い詰めはしなかった。
一呼吸だけ置いてから、問いを継ぐ。
「その折、料紙のようなものを見なかったか」
ぴたりと、紬路の表情が止まった。
「……どうして、其のような」
「見たのか」
紬路の退く先が、音もなく失われてゆく。
霍成の一語ごとに、妹は追い詰められていた。
「あの日お前は、此処の二階で椿の和歌を見た。そうだな」
「見ましたわ。でも、ほんの少し……」
「その紙は、宮中へ運ばれている」
紬路の指先が、膝の上でぴくりと動いた。
まだ誰も、決定的なことは口にしていない。
それでも言葉の端々が、あの日の記憶の暗がりを一筋ずつ照らし始めていた。
やはり、そうなのだ。
あのとき既に、紬路は和歌を書きつけた料紙を手にしていた。
二階から持ち出し、おそらくは襟の合わせか袂に忍ばせて、何食わぬ顔で馬車に乗ったのである。
「……だって」
紬路は、暫く唇を顫わせていた。
それから、ようやく言葉を押し出す。
「だって、お姉さまのお和歌が、綺麗に光っていたのですもの」
言い終える頃には、その顔はもう泣き出しそうに歪んでいた。
咲きかけの花弁に、ふいに雨が触れたような崩れ方だった。
それが異能の光だと、思い当たらなかった筈はない。
ただ、否定したい心の方が長く強く、紬路の目を曇らせていたのだろう。
「姉に異能があることを知らなかった訣ではあるまい」
霍成の言葉には、同情の色が一欠片もなかった。
「その和歌には、魅了の力がある。知っていたか」
静かな語り口だった。
けれどその目には、信念めいた硬さがあり、確実に紬路を射抜いていた。
愛らしい顔から、みるみる色が失せていく。
その瞬間、椿にも判った。
紬路は、和歌に魅了の力があることなど知らなかった。
そして椿もまた、知らなかった。
聞かされていたのは、誰か大臣から讒言があったという、曖昧な話だけだ。
あの時、伏せられた言葉。
濁された経緯。
それらは、ただ椿を思いやっての沈黙ではなかったのだ。
ばらばらだったものが、胸の内で一つに繋がり始める。
大臣は知っていた。
あの和歌に、魅了の力があると。
あるいは、そう言い立てれば、椿や紬路を追い落とせると。
和泉の娘たちが異能を用いて、東宮の御心を紬路へ向けようとした。
大臣は、そのように讒言したのだ。
だから父は、疑いを受けている。
だから霍成は、その疑いを検めるために、和泉家へ遣わされた。
そして詮議に差し障る故、あえて椿へも伏せていたのかもしれない。
それでも、霍成を疑う気にはなれなかった。
彼はずっと、椿を守ると言い続けてくれている。
その言葉だけは、疑いようもなく椿の側にあった。
――守る理由は、値打ちの外にある。
――大切にする。
――喋れなくても、俺には聞こえている。
――守りに、来たのだ。
初対面から、あのように口にしていたのも、同じ理由だったのだろう。
守るという言葉の始まりは、好意ですらなかったのかもしれない。
――お前の沈黙を、誰かの都合のいい答えにはさせない。
それでも、今更すべてが偽りだったとは思えなかった。
いつか真実を知った時、椿が壊れぬように。
霍成は、予め言葉を置いてくれていたのだ。
この人は、守ると言ったものを本当に守る人なのだろう。
そう思うと、胸の痛みは消えぬまま、どこか静かに据わった。
人の悪意は、いつも剥き出しの刃で来るとは限らない。
声を潜め、尤もらしい憂いを帯びる。
信を得た臣下の口から、真実らしい顔で奏上される。
そうして渡った先で噂が根を張れば、やがて花のように見えるものまで、毒に変わる。
紬路の血の気の引いた顔から、無邪気な光が完全に掻き消えていた。
薄い絹を一枚剥がされたように、その下から、隠し切れなかった狼狽えが剥き出しになる。
広く知れ渡れば、評判は傷つく。
入内は最早、覚束ないものとなる。
一番の望みを。
殆ど手の内にあった公算を。
自らの手で損ねてしまったと知る心地は、如何程のものだろう。
紬路は唇を強く噛み、涙を堪えていた。
椿もまた、泣きたい心地だった。
霍成は、ずっと椿の言葉を疑っていたのだ。
椿が口にするものの中に、魅了の力が紛れてはいないかと。
そう疑わねばならぬ立場に、初めから居たのだ、と。
「いいえ、……まさか。そこまで深く考えませんでした」
紬路は霍成を見、それから椿を見た。
助けを求めるような、心細い幼子のような目だった。
「ただ、お姉さまの代わりに……万の御守りになるかと」
室内の空気が、すっと冷えた。
椿の胸の内で何かが軋む。
「気が付いたら、落としておりましたの……」
言い訳めいた声は、尻すぼみに小さくなった。
「お姉さまは、言葉を発してはならないだけであって」
そこまで言って、紬路は苦しげに顔を歪める。
自分でも、言い訳にしか聞こえないのだろう。
「書いたものに、異能があるなどとは……深く、考えなかったの……」
紬路は、とうとう泣き出してしまった。
家庭教師を相手に、机へ向かう姉の姿を、幾度となく目にしていたのだろう。
母に無条件に可愛がられる小さな妹を、椿もまた、遠くから眺めてきた。
何一つ思うところがなかった訣ではない。
自分は沈黙し、紬路は明るく笑い、何も知らぬまま母の庇護の内にいた。
割り切れぬものは、胸の底に澱のように沈んでいた。
けれど。
今、目の前に泣いているのは、母の寵を受けて機嫌よく笑う妹ではなかった。
ただ怯え、縋るよりほかなくなった、一人の娘だった。
しかも紬路は、参内に際して、椿を頼みの綱にしてくれていた。
椿は一度も、妹に縋ったことなどなかったのに。
「お姉さま」
紬路が、ひどく素朴な調子で言った。
「……どうして、お話になっているの?」
詮議の空気を断ち切るほど、まっすぐな問いだった。
「だって、お姉さま、昔からあまりお喋りにならなかったでしょう。なのに、どうして」
まるで本当に、それが一番不思議だとでもいうように。
我が身の不始末よりも、余程気になるとでもいうように。
霍成が、僅かに顔を顰めた。
それでも、強く責めるような様子ではなかった。
「……紬路」
自分でも驚くほど、はっきりとした響きが出た。
細いながら迷いのない声に、紬路が此方を見る。
よく似た顔立ちが、涙で濡れていた。
自分だけが苦しかったのではないのかもしれない。
そう思った途端、長い間の蟠りが、少しだけ緩んだ。
椿は、冊子の記述を思い返す。
紬路がどこまで知っているのかは判らない。
けれど妹もまた、何の異能の発現もなく、何も知らされぬまま、ここまで来たのだろう。
「あなたには、まだ話せないことがあります」
「お姉さま……」
「けれど、お父さまをご無事で戻すわ。待っていて」
口にしてから、椿はそっと息を整えた。
許す、とはっきり言うものでもない。
たとえ言っても過去は取り返せない。
そんな免罪符のようなものはないのだ。
椿の辛かったこと、全てを水に流すことなど出来はしない。
焼けて痛んだものが元に戻ることがないように。
けれど、なかったことにしたまま、進むことはできるのかもしれない。
ほんの少し、目を逸らすようにして。
それでも足を止めぬようにして。
前を向いて歩くしかないのだ。
後ろに道がたくさん生ったとき、今を幸せと言えるように。
いつしか紬路と歩く未来があるように。
重ねた道だけが、やがて後々、自分で選択して歩いたと呼ばれるのだろうから。
だから、先ずはお父さまを戻す。
それしか言えない。
「その異能は、おそらく和歌にしか宿りはしない」
霍成が、援護するように口を挟んだ。
また一つ、椿の知らぬところで確かめられていた事実が増えた。
けれど、その役目を思えば、責めることもできない。
「発話で可怪しなことが起こったことはない」
言われてみれば、その通りだった。
「筆談でもない。墨や短冊を用いても、書くだけなら何もない。力を持つのは、和歌の形を取った時だけだ」
客間には、暫し沈黙が落ちた。
紬路のすすり泣く気配の外は、静かである。
障子の向こうで、風がまた軒を鳴らした。
幼い頃から聞き慣れた筈の音が、今日はひどく遠く聞こえていた。



