椿は、霍成に連れて行ってもらった貸本屋を気に入っていた。
手擦れした表紙。
角の和らいだ頁。
幾人もの指が触れ、幾人もの夜を越えてきた紙の匂い。
何処の誰とも知れぬ娘が、夜具の中でこっそり泣きながら読んだのかもしれない。
あるいは店の隅で番頭の目を盗み、立ち読みのまま頁を繰った手代がいたのかもしれない。
そう思うだけで、書物の向こうに、知らない誰かの息づかいが点る気がした。
中でも好きだったのは、流行の時廻奇譚である。
輪廻転生の物語。
一度は取り落とした生を、別の名や別の時で拾い直す話だ。
あのときああしていれば。
あの人に出会えれば。
違う言葉を口にしていたなら。
悔いを抱えた娘たちが、二度目の生では前より強かに、より幸福になる。
落としたものが、巡り巡って、再び枝へ返るように。
華やかな花を付けながらも、どこか孤りで立つ椿の木のように。
一度目に経験した筋書きを誰にも話せないまま、娘たちは二度目の生で、自らの力を試していく。
椿の花は音もなく丸ごと落ち、首を落とす連想を誘う。
けれど、どうせ誰もがいつかは死ぬのなら、取り落とした花もまた、季節を巡って再び枝の上に重たい花を咲かせる――そんな物語があってもいい。
死の不吉さと美しさとが同居しながら、それでも何処かで挽回されていく。
そうしたものに、椿は読みながら自分を重ねていた。
頁を繰る度に、自分も言葉を失くしてきた時間を、何かの拍子に取り戻せるかもしれない。
そんな幻想に、しばし浸るのだ。
椿蔵には、流行りの物語が集まり始めていた。
心を砕き、少しずつ選り分けて揃えて来た蒐集本である。
聖乙女譚。
悪役令嬢奇譚。
遊戯界綺談。
閑日月暮し。
どれも、和泉の書蔵には決して並ばぬ本ばかりだった。
前世で取り落としたものを、別の時、別の場所で拾い直す話が多い。
椿は、そうした物語にどうしても惹かれてしまうのである。
けれど、まだ父のことがある。
気を入れて全て読み耽るには、胸に残る不安が大き過ぎた。
七ツ純喫茶で女給として働き始めてから、椿も少しばかりの金銭を得るようになった。
――とはいえ、実のところは霍成の猛反対により、専ら御膳周りの差配である。
客の卓子へ出ることは殆どない。
料理を運ぶのも、蘭の目が届く範囲のみ。
酒の入った客の席へ近付くなど、もっての外だった。
この頃では、勝手知ったる道を一人で出かけることもあった。
蘭の見様見真似で値の掛け合いまで覚え、古びた貸本を安く買い取れるようにもなっている。
もうすぐ店先から消えてしまうかもしれない。
二度と同じ本には巡り合えないかもしれない。
そう思うと、手をこまねいては居られなかった。
読書は、何も華族だけの特権ではない。
人々の識字率も高く、活版本も珍しいものではなかった。
高雅なものは高雅なままにある。
けれど、それに似た楽しみを、町の者たちも自分たちの手で調えていた。
本も同じだ。
珍しいのは活版本そのものではない。
その本が、まだ誰の手垢にも汚れず、ただ一人のために所有されていることの方だった。
もともと椿は、気弱一辺倒の娘ではない。
和泉の意地悪な使用人たちとも、長年渡り合ってきた。
ただ、言い返さなかっただけだ。
黙っていることと、負けていることは違う。
忍耐も機転も、椿はちゃんと持ち合わせている。
「綴じが傷んでおりますね。三十銭でしたら、頂きたいのですが」
「四十五銭の品ですよ」
「では、また次に」
あっさり踵を返しかけると、主人が周章てて呼び止める。
いつも大体、そういう段取りになる。
「待ちなッ。……三十五」
「頂きます。糸綴じは、自分で直しますもの」
冊子の綴じを繕うくらい、椿には造作もない。
人の手沢に馴れ、古びて頁の端が撚れた本ほど興味深い。
読み継がれてきた証であり、しかもそういう本に限って安く手に入る。
敷居の前の石段を上る足取りも軽い。
言葉に不自由はなくなりつつあり、此処にはちゃんと居場所がある。
椿はもう、純喫茶の二階での暮らしに、すっかり慣れ切っていた。
七ツ純喫茶では、とんかつやおむれつなどの御膳に使う中皿や小鉢を選び出すのが、いつの間にか椿の仕事となっていた。
これ以上、手を痛めたくない。
けれど、髪輪をつけた猫女給たちのように配膳はできない。
その代わり、椿は器の取り合わせに長けていた。
華族の旧家で膳の上げ下げを見、妹の紬路が血道をあげる着合わせを眺めて育ったからだろう。
最初にそれへ気付いたのは蘭だった。
湯気の立つ皿の脇へ、椿が何気なく藍鼠の小鉢と、縁に金泥の入った乳白の皿を添えたとき、蘭は配膳盆を抱えたまま、ぴたりと足を止めた。
「――にゃ」
髪輪の耳が、ぴんと立つ。
ついで、蘭は盆を置くのも忘れ、つかつかと寄って来た。
「椿さま、それ、いま、なんとなくで置きましたにゃ?」
「……なんとなく、ではないけれど」
「ほらやっぱり!」
蘭は皿と小鉢を見比べ、料理へ視線を落とし、更に一歩退いて全体を眺めた。
「とんかつの狐色が立って、きゃべつの緑が若く見えて、おむれつの黄身がうんと洒落て見えますにゃ……。ずっとずっとおいしそう!」
それからというもの、蘭は椿の見立てにすっかり心酔してしまった。
品書に加える新しい料理が完成すれば真っ先に見せに来るし、割れた小鉢の代わりを買いに行くにも椿を引っ張り出そうとする。
「あてしの拵えたものは、椿さまのお見立て皿にしか乗せませんにゃ!」
そう公言して憚らず、料理人の矜持全開である。
実際、蘭の拵える洋風創作料理は、椿の見立てた器へ盛られると、少し格が上がって見えた。
狐色の揚げ物には深い藍、玉子の黄には鈍い銀彩、煮込みの褐色には薄青磁。
角皿、木瓜皿、輪花皿、小鉢。
料理毎に器を替える趣向は、客たちにも殊の外評判がよかった。
紬路の襲色目ほど華やかではなくとも、皿の上でこそっと色を響かせ合うような取り合わせは、椿にも楽しかった。
初めて妹の気持ちが判ったような気さえした。
「ですから、椿さまはもう立派な器番ですにゃ。あてし専属の」
と、ぴしっと指を立て、蘭は勝手に任じたのである。
只でさえ、異人への配膳ともなれば椿だけが頼みとされる。
霍成も、そのことに限っては目を瞑っていた。
ある夜のこと。
椿と霍成は純喫茶の二階の長椅子に座り、互いの気配を傍らに感じながら、それぞれ冊子を繰っていた。
夜は更けていた。
外ではもう風が軒を微かに鳴らすばかりで、人の気配も遠い。
――この頃霍成さまは、夜ばかりお出でになる。
それが酔客事件以来のことなのか、それとも椿が口を開くようになった所為なのかは判らない。
すぐ傍らにある気配を、否が応にも意識してしまう。
古い仮名や崩し字を追う目が、時折意味を成さなくなって止まった。
そうして長く頁を繰っていた、その折だった。
ふいに、霍成の指が止まった。
椿も長椅子の隣近くへ座り直し、霍成の視線の先に目を留める。
紙面にあるのは、確かに探し求めていた名であった。
――和歌泉。
あるいは、その少し先には、若泉とも記されている。
けれど、それがただの書き揺れではないことは直ぐに知れた。
仮名のゆらぎに紛れていても、記された事どもはあまりに和泉家に符合し過ぎていたからである。
否、それは疑いようもなく、和泉家のことだった。
血を重ねるうち、その異能は次第に覆い隠された。
和歌泉――即ち本来の真名より少しずつ遠ざかるように、名を違えていったのだ。
「これは……和泉のことのように思います」
胸に何か冷たいものが、ひたりと居座る。
口にされた瞬間に力を帯びるものを、言霊と呼ぶ。
だからこそ名もまた、軽々しくは明かされない。
真にその者を指す名――真名は、魂の内側に触れる鍵だからである。
これまで遠く霞んでいた和泉家の封印してきた奥の暗がりが、一筋、紙の上から此方を覗き返してきたような心地がした。
手擦れした表紙。
角の和らいだ頁。
幾人もの指が触れ、幾人もの夜を越えてきた紙の匂い。
何処の誰とも知れぬ娘が、夜具の中でこっそり泣きながら読んだのかもしれない。
あるいは店の隅で番頭の目を盗み、立ち読みのまま頁を繰った手代がいたのかもしれない。
そう思うだけで、書物の向こうに、知らない誰かの息づかいが点る気がした。
中でも好きだったのは、流行の時廻奇譚である。
輪廻転生の物語。
一度は取り落とした生を、別の名や別の時で拾い直す話だ。
あのときああしていれば。
あの人に出会えれば。
違う言葉を口にしていたなら。
悔いを抱えた娘たちが、二度目の生では前より強かに、より幸福になる。
落としたものが、巡り巡って、再び枝へ返るように。
華やかな花を付けながらも、どこか孤りで立つ椿の木のように。
一度目に経験した筋書きを誰にも話せないまま、娘たちは二度目の生で、自らの力を試していく。
椿の花は音もなく丸ごと落ち、首を落とす連想を誘う。
けれど、どうせ誰もがいつかは死ぬのなら、取り落とした花もまた、季節を巡って再び枝の上に重たい花を咲かせる――そんな物語があってもいい。
死の不吉さと美しさとが同居しながら、それでも何処かで挽回されていく。
そうしたものに、椿は読みながら自分を重ねていた。
頁を繰る度に、自分も言葉を失くしてきた時間を、何かの拍子に取り戻せるかもしれない。
そんな幻想に、しばし浸るのだ。
椿蔵には、流行りの物語が集まり始めていた。
心を砕き、少しずつ選り分けて揃えて来た蒐集本である。
聖乙女譚。
悪役令嬢奇譚。
遊戯界綺談。
閑日月暮し。
どれも、和泉の書蔵には決して並ばぬ本ばかりだった。
前世で取り落としたものを、別の時、別の場所で拾い直す話が多い。
椿は、そうした物語にどうしても惹かれてしまうのである。
けれど、まだ父のことがある。
気を入れて全て読み耽るには、胸に残る不安が大き過ぎた。
七ツ純喫茶で女給として働き始めてから、椿も少しばかりの金銭を得るようになった。
――とはいえ、実のところは霍成の猛反対により、専ら御膳周りの差配である。
客の卓子へ出ることは殆どない。
料理を運ぶのも、蘭の目が届く範囲のみ。
酒の入った客の席へ近付くなど、もっての外だった。
この頃では、勝手知ったる道を一人で出かけることもあった。
蘭の見様見真似で値の掛け合いまで覚え、古びた貸本を安く買い取れるようにもなっている。
もうすぐ店先から消えてしまうかもしれない。
二度と同じ本には巡り合えないかもしれない。
そう思うと、手をこまねいては居られなかった。
読書は、何も華族だけの特権ではない。
人々の識字率も高く、活版本も珍しいものではなかった。
高雅なものは高雅なままにある。
けれど、それに似た楽しみを、町の者たちも自分たちの手で調えていた。
本も同じだ。
珍しいのは活版本そのものではない。
その本が、まだ誰の手垢にも汚れず、ただ一人のために所有されていることの方だった。
もともと椿は、気弱一辺倒の娘ではない。
和泉の意地悪な使用人たちとも、長年渡り合ってきた。
ただ、言い返さなかっただけだ。
黙っていることと、負けていることは違う。
忍耐も機転も、椿はちゃんと持ち合わせている。
「綴じが傷んでおりますね。三十銭でしたら、頂きたいのですが」
「四十五銭の品ですよ」
「では、また次に」
あっさり踵を返しかけると、主人が周章てて呼び止める。
いつも大体、そういう段取りになる。
「待ちなッ。……三十五」
「頂きます。糸綴じは、自分で直しますもの」
冊子の綴じを繕うくらい、椿には造作もない。
人の手沢に馴れ、古びて頁の端が撚れた本ほど興味深い。
読み継がれてきた証であり、しかもそういう本に限って安く手に入る。
敷居の前の石段を上る足取りも軽い。
言葉に不自由はなくなりつつあり、此処にはちゃんと居場所がある。
椿はもう、純喫茶の二階での暮らしに、すっかり慣れ切っていた。
七ツ純喫茶では、とんかつやおむれつなどの御膳に使う中皿や小鉢を選び出すのが、いつの間にか椿の仕事となっていた。
これ以上、手を痛めたくない。
けれど、髪輪をつけた猫女給たちのように配膳はできない。
その代わり、椿は器の取り合わせに長けていた。
華族の旧家で膳の上げ下げを見、妹の紬路が血道をあげる着合わせを眺めて育ったからだろう。
最初にそれへ気付いたのは蘭だった。
湯気の立つ皿の脇へ、椿が何気なく藍鼠の小鉢と、縁に金泥の入った乳白の皿を添えたとき、蘭は配膳盆を抱えたまま、ぴたりと足を止めた。
「――にゃ」
髪輪の耳が、ぴんと立つ。
ついで、蘭は盆を置くのも忘れ、つかつかと寄って来た。
「椿さま、それ、いま、なんとなくで置きましたにゃ?」
「……なんとなく、ではないけれど」
「ほらやっぱり!」
蘭は皿と小鉢を見比べ、料理へ視線を落とし、更に一歩退いて全体を眺めた。
「とんかつの狐色が立って、きゃべつの緑が若く見えて、おむれつの黄身がうんと洒落て見えますにゃ……。ずっとずっとおいしそう!」
それからというもの、蘭は椿の見立てにすっかり心酔してしまった。
品書に加える新しい料理が完成すれば真っ先に見せに来るし、割れた小鉢の代わりを買いに行くにも椿を引っ張り出そうとする。
「あてしの拵えたものは、椿さまのお見立て皿にしか乗せませんにゃ!」
そう公言して憚らず、料理人の矜持全開である。
実際、蘭の拵える洋風創作料理は、椿の見立てた器へ盛られると、少し格が上がって見えた。
狐色の揚げ物には深い藍、玉子の黄には鈍い銀彩、煮込みの褐色には薄青磁。
角皿、木瓜皿、輪花皿、小鉢。
料理毎に器を替える趣向は、客たちにも殊の外評判がよかった。
紬路の襲色目ほど華やかではなくとも、皿の上でこそっと色を響かせ合うような取り合わせは、椿にも楽しかった。
初めて妹の気持ちが判ったような気さえした。
「ですから、椿さまはもう立派な器番ですにゃ。あてし専属の」
と、ぴしっと指を立て、蘭は勝手に任じたのである。
只でさえ、異人への配膳ともなれば椿だけが頼みとされる。
霍成も、そのことに限っては目を瞑っていた。
ある夜のこと。
椿と霍成は純喫茶の二階の長椅子に座り、互いの気配を傍らに感じながら、それぞれ冊子を繰っていた。
夜は更けていた。
外ではもう風が軒を微かに鳴らすばかりで、人の気配も遠い。
――この頃霍成さまは、夜ばかりお出でになる。
それが酔客事件以来のことなのか、それとも椿が口を開くようになった所為なのかは判らない。
すぐ傍らにある気配を、否が応にも意識してしまう。
古い仮名や崩し字を追う目が、時折意味を成さなくなって止まった。
そうして長く頁を繰っていた、その折だった。
ふいに、霍成の指が止まった。
椿も長椅子の隣近くへ座り直し、霍成の視線の先に目を留める。
紙面にあるのは、確かに探し求めていた名であった。
――和歌泉。
あるいは、その少し先には、若泉とも記されている。
けれど、それがただの書き揺れではないことは直ぐに知れた。
仮名のゆらぎに紛れていても、記された事どもはあまりに和泉家に符合し過ぎていたからである。
否、それは疑いようもなく、和泉家のことだった。
血を重ねるうち、その異能は次第に覆い隠された。
和歌泉――即ち本来の真名より少しずつ遠ざかるように、名を違えていったのだ。
「これは……和泉のことのように思います」
胸に何か冷たいものが、ひたりと居座る。
口にされた瞬間に力を帯びるものを、言霊と呼ぶ。
だからこそ名もまた、軽々しくは明かされない。
真にその者を指す名――真名は、魂の内側に触れる鍵だからである。
これまで遠く霞んでいた和泉家の封印してきた奥の暗がりが、一筋、紙の上から此方を覗き返してきたような心地がした。



