書物には、斯様に記されている。
華族の貴婦人の手は、白く細く、白魚のようでなくてはならない。
箸より重たいものなど持ったことがない――そう見えることこそが、嗜みだ、と。
異国の貴族の娘もまた、嫋やかな手を傷つけぬため、手袋を嵌めるのだという。
だが、そうした名目の奥には、別の訣も隠れているらしい。
手を取られ、甲へ接吻を落とされても、直に肌を許さぬために。
そしてまた、手を見れば、その者の身分が知れるともいう。
引き比べてみれば、椿の手は木灰に傷み、若い娘のものとは思えぬほど荒れていた。
指先の皮は薄く剥け、節には微かな赤みが残っている。
爪の際には、洗っても落ち切らぬ、灰と墨の名残が沈んでいた。
元の肌が白いだけに、その荒れは却って目立った。
この手は、椿が何を背負わされ、何を許されず、何処へ閉じ込められてきたかを、黙ったまま語っていた。
今の仕事といえば、詮議のために本を当たること。
それから、気晴らしのように身体を動かす純喫茶の手伝いくらいである。
それでも、此の荒れは容易には癒えない。
黄ばんだ着物を脱いでも、猶刻印のように残り続けていた。
霍成が、夜には決して同じ部屋へ留まらないのだと、椿が気付いたのは、ごく最近のことだった。
そういえば、ずっと前から、家だの宮中だのと理由をつけて、夜になると姿を消していた。
守るように近くへ置きながら、夜だけは必ず一線を引いている。
否、一度でも同じ部屋で眠ったことがあっただろうか。
記憶を繰っても判らない。
ただ、霍成に抱きしめられてからというもの、椿はふとした折に、自分の手へ目が行くようになっていた。
朝、手を洗うとき。
蘭に茶碗を渡すとき。
冊子の頁を繰るとき。
その度に、白くはあっても滑らかとは言い難い指先が目に入り、そっと袖の中へ隠したくなる。
自分でも可笑しいと思う。
これ迄だって、同じ手で暮らしてきたのに。
それなのに、一旦気付いてしまうと止まらない。
頁を繰る指先が、綺麗でないこと。
湯呑みや茶器を持つ手が、貴婦人のようには見えないこと。
もし、あのとき。
あるいは、その前にも。
霍成が見ていたなら――恥ずかしい。
傷跡を見られた筈の瞬間を思うと、胸の辺りがむず痒く、熱を帯びてくる。
――でも、抱きしめてくれた。
荒れた手を見られた筈の瞬間を思えば、確かに羞ずかしい。
けれど、どうしたことか、より多く蘇るのは抱擁の記憶のほうだった。
たった一度きりの。
そのせいで、以前より少しだけ、物を受け渡す手つきがぎこちなくなった。
冊子を渡そうとして、指先が触れそうになると緊張する。
短冊を差し出す時も、傷んだところが見えぬよう、つい持ち方を変えてしまう。
「……?」
ある日、硯箱の蓋を閉めたときだった。
霍成が怪訝そうに眉を顰める。
椿は、何故か見透かされたような気がした。
霍成は暫く椿の顔を見ていたが、やがて視線を落とし、その手を見る。
椿は思わず、指先を内側へ握り込んだ。
すると、霍成はごく自然に言った。
「また紙で切ったのか」
そうではないのだけれど、違うとも言えない。
椿は小さくかぶりを振った。
「気をつけろ。お前はすぐ無茶に頁を繰る」
霍成はそう言うと、直ぐに冊子へ目を戻した。
「ち、が……」
「血?」
違う、と言いたかっただけなのに。
「どれ、見せてみろ」
伸びてきた手に、椿は思わず指先を引っ込めた。
霍成の手が、宙で止まる。
その仕草に、自分で驚いた。
見られたくない。
差し出された手を拒んでしまった。
それなのに、何をそんなに隠したいのか、自分でも判らなかった。
きっと抱き締められる前なら、こんな風に手を隠したりはしなかった。
今の椿に解るのは、ただ、それだけだった。
椿が霍成の異能を知ったのは、七ツ純喫茶でのことだった。
その日、夕方から夜へ移る刻になっても、椿は帳場脇の長台にいた。
蘭に頼まれた茶器を一つずつ拭き、布巾の上へ伏せていく。
灯りは控えめに落とされ、笑い声は含みを帯び、店には眠気にも似た気怠い淫蕩が漂い始めていた。
その中に、一人だけ、妙に声の大きな男がいる。
椿は聞かぬ振りをした。
よくある酔客の一人なのだろう。
蘭も他の女給たちも、こうした客には慣れているように見えた。
だが男は、度々こちらへ無遠慮な視線を投げてくる。
奥まった位置に控えていた椿は、ふと目が合ってしまった。
男はにやりと笑い、臆面もなく声を張る。
「おや、あっちにゃ、また格別の別嬪さんがおるじゃねぇか」
「うちは見世物小屋ではございませんにゃ、お客さま」
厨房側から、蘭がすかさず制した。
「見世物じゃねえなら、尚更呼んでみな。顔見せだけでいい」
「つれないのは生来でございますにゃ」
つん、と蘭は顎を上げてみせる。
「やはり、あっちの大人しそうなのがいい。あの澄ました顔で、一声啼くところを聞かせろ」
椿の肩がぴくりと揺れた。
ねばつくような視線が纏わりつき、今の言葉が自分へ向けられたものだと知る。
ぼつぼつ入り始めた常連客たちは、面白半分に眺めている。
酔客の無礼も酒の肴、夜の遊びのうちと思っているのだろう。
そのとき、入口の戸が開いた。
振り返るまでもない。
椿には判った。霍成だ。
今夜は帰りが遅くなると聞いていた筈だった。
けれど戸の隙間から、夜気が一筋流れ込む。
蘭が入口へちらりと目をやり、すぐ椿へ目配せした。
椿はほっとしたような、まずい場面を見られたような、相反する気持ちで身を強張らせる。
酔客の男は、霍成を見て、へらりと笑った。
「なんだい、旦那。あの娘の連れか」
「……」
霍成は答えなかった。
その沈黙には、遠雷の気配があった。
酔客は気付かぬまま、猶も笑う。
「いいじゃねえか、少し話すくらい。ああいう澄ましたのを擾すのが、一等面白い」
「止めなさいにゃー。これはお客様のためですよおー。あてし言いましたからね」
蘭は、いつもの軽い調子を崩さずに言った。
尾のような絹綬が、呆れたように揺れている。
他の女給たちまで、珍しく給仕の手を止めていた。
「なんだよ。触っちゃいねえよ。……まだな」
へへへ、と笑いながら、男が卓子を離れる。
足許は覚束ないのに、舐めるような視線だけは椿から離さない。
椿は反射的に一歩退いた。
蘭も制止しようとしたが、厨房からでは遠い。
その瞬間、男の手が伸びた。
境を踏み越えるように、やすやすと長台を越えてくる。
その指先が、椿の袖口に掛かった。
茶器を並べ終え、たすき掛けを解いたばかりだった。
下には、薄手の磁器が整然と並んでいる。
僅かな弾みでも、欠けてしまいそうなほど繊細だ。
男が引っかけた袖口を、指先だけで引いた。
払い除ければよかった。
そうするべきだと、頭のどこかでは判っている。
けれど椿の手は、直ぐには動かなかった。
目を瞠ったまま、人形のように固まってしまう。
声を上げることも、拒むことも、長く許されずに来た身体だった。
袖を引かれただけの、ほんの浅い接触に過ぎない。
それでも椿には、十分すぎた。
ぞっとして、悲鳴とも息ともつかぬものを、細く吸い込む。
次の瞬間、空気が変わった。
音より先に、肌が知る。
店の灯が、ふっと揺れた。
戸の隙間でもないのに、冷たい風がひゅうと吹き抜ける。
卓子の紙片がはためいた。
硝子笠がかたかた鳴った。
やがて、その揺れが、目に見えて大きくなる。
椿ははっとして、霍成を見る。
彼はまだ一歩も動いていない。
ただ、その目だけが違っていた。
黒雲の底に稲妻を孕んだような、暗い光。
「離せ」
雷鳴を押し殺したような、たった一言だった。
窓に、ぽつ、と一滴の雨が落ちた。
天井はある。
戸も閉じている。
それなのに、雨の匂いが店内に立ち込め始めた。
酔客も、さすがに其処で顔色を変えた。
椿から手を離す。
霍成がつかつかと歩み寄る。
その足許では、床板の上を風が先に走った。
袖が翻る。
薄い風神雷神文が、彩色硝子の洋灯の下で、一瞬だけ生き物のようにうねった。
「二度と言わせるな」
怒鳴ってはいない。
なのに、颶風に荒れ狂う雷鳴の、落ちる寸前のようだった。
耳の鼓膜まで、びりびりと顫える。
酔客はとうとう青ざめた。
椅子にぶつかりながら後ずさり、くるりと背を向けると、一目散に外へ駆け出した。
「はいはい、お客さま。本日の興行はおしまいにゃ」
蘭が、わざとらしいほど明るい声を出す。
「命あっての色遊び、ですよおー」
「さ、お注ぎしますね」
他の女給たちも加勢し、それで周囲もはっと我に返る。
杯を差し出されるまま、客たちは意識を酒へ引き戻されていった。
やがて、霍成が一つ息を吐く。
それと共に、雨の気配がゆるゆると去って行った。
感情が昂った折、知らず異能が噴き出す――いわゆる暴現なのだろう。
振り返った霍成の眉根は、まだ寄っていた。
知らぬ男の手が椿に触れたことへの、怒りとも、苛立ちともつかぬものが、その目に残っている。
けれど、それが椿を責めるものではないことだけは、痛いほど解った。
「こ、怖……かっ」
ほっとした拍子に、言葉が零れた。
霍成は何か言いかけ、しかし飲み込む。
そのまま長台の内側へ入り、羽織を脱いで、椿の肩へ掛けた。
袖口を確かめるように身を屈める。
そして羽織の陰で、素早く、触れられた袖へ接吻を落とした。
椿にしか見えぬ角度だった。
いまのは夢か、幻か。
それとも、自分の思い違いだったのか。
「もう奥へ行け」
霍成は名残りを断つように身を引き、背を向けた。
華族の貴婦人の手は、白く細く、白魚のようでなくてはならない。
箸より重たいものなど持ったことがない――そう見えることこそが、嗜みだ、と。
異国の貴族の娘もまた、嫋やかな手を傷つけぬため、手袋を嵌めるのだという。
だが、そうした名目の奥には、別の訣も隠れているらしい。
手を取られ、甲へ接吻を落とされても、直に肌を許さぬために。
そしてまた、手を見れば、その者の身分が知れるともいう。
引き比べてみれば、椿の手は木灰に傷み、若い娘のものとは思えぬほど荒れていた。
指先の皮は薄く剥け、節には微かな赤みが残っている。
爪の際には、洗っても落ち切らぬ、灰と墨の名残が沈んでいた。
元の肌が白いだけに、その荒れは却って目立った。
この手は、椿が何を背負わされ、何を許されず、何処へ閉じ込められてきたかを、黙ったまま語っていた。
今の仕事といえば、詮議のために本を当たること。
それから、気晴らしのように身体を動かす純喫茶の手伝いくらいである。
それでも、此の荒れは容易には癒えない。
黄ばんだ着物を脱いでも、猶刻印のように残り続けていた。
霍成が、夜には決して同じ部屋へ留まらないのだと、椿が気付いたのは、ごく最近のことだった。
そういえば、ずっと前から、家だの宮中だのと理由をつけて、夜になると姿を消していた。
守るように近くへ置きながら、夜だけは必ず一線を引いている。
否、一度でも同じ部屋で眠ったことがあっただろうか。
記憶を繰っても判らない。
ただ、霍成に抱きしめられてからというもの、椿はふとした折に、自分の手へ目が行くようになっていた。
朝、手を洗うとき。
蘭に茶碗を渡すとき。
冊子の頁を繰るとき。
その度に、白くはあっても滑らかとは言い難い指先が目に入り、そっと袖の中へ隠したくなる。
自分でも可笑しいと思う。
これ迄だって、同じ手で暮らしてきたのに。
それなのに、一旦気付いてしまうと止まらない。
頁を繰る指先が、綺麗でないこと。
湯呑みや茶器を持つ手が、貴婦人のようには見えないこと。
もし、あのとき。
あるいは、その前にも。
霍成が見ていたなら――恥ずかしい。
傷跡を見られた筈の瞬間を思うと、胸の辺りがむず痒く、熱を帯びてくる。
――でも、抱きしめてくれた。
荒れた手を見られた筈の瞬間を思えば、確かに羞ずかしい。
けれど、どうしたことか、より多く蘇るのは抱擁の記憶のほうだった。
たった一度きりの。
そのせいで、以前より少しだけ、物を受け渡す手つきがぎこちなくなった。
冊子を渡そうとして、指先が触れそうになると緊張する。
短冊を差し出す時も、傷んだところが見えぬよう、つい持ち方を変えてしまう。
「……?」
ある日、硯箱の蓋を閉めたときだった。
霍成が怪訝そうに眉を顰める。
椿は、何故か見透かされたような気がした。
霍成は暫く椿の顔を見ていたが、やがて視線を落とし、その手を見る。
椿は思わず、指先を内側へ握り込んだ。
すると、霍成はごく自然に言った。
「また紙で切ったのか」
そうではないのだけれど、違うとも言えない。
椿は小さくかぶりを振った。
「気をつけろ。お前はすぐ無茶に頁を繰る」
霍成はそう言うと、直ぐに冊子へ目を戻した。
「ち、が……」
「血?」
違う、と言いたかっただけなのに。
「どれ、見せてみろ」
伸びてきた手に、椿は思わず指先を引っ込めた。
霍成の手が、宙で止まる。
その仕草に、自分で驚いた。
見られたくない。
差し出された手を拒んでしまった。
それなのに、何をそんなに隠したいのか、自分でも判らなかった。
きっと抱き締められる前なら、こんな風に手を隠したりはしなかった。
今の椿に解るのは、ただ、それだけだった。
椿が霍成の異能を知ったのは、七ツ純喫茶でのことだった。
その日、夕方から夜へ移る刻になっても、椿は帳場脇の長台にいた。
蘭に頼まれた茶器を一つずつ拭き、布巾の上へ伏せていく。
灯りは控えめに落とされ、笑い声は含みを帯び、店には眠気にも似た気怠い淫蕩が漂い始めていた。
その中に、一人だけ、妙に声の大きな男がいる。
椿は聞かぬ振りをした。
よくある酔客の一人なのだろう。
蘭も他の女給たちも、こうした客には慣れているように見えた。
だが男は、度々こちらへ無遠慮な視線を投げてくる。
奥まった位置に控えていた椿は、ふと目が合ってしまった。
男はにやりと笑い、臆面もなく声を張る。
「おや、あっちにゃ、また格別の別嬪さんがおるじゃねぇか」
「うちは見世物小屋ではございませんにゃ、お客さま」
厨房側から、蘭がすかさず制した。
「見世物じゃねえなら、尚更呼んでみな。顔見せだけでいい」
「つれないのは生来でございますにゃ」
つん、と蘭は顎を上げてみせる。
「やはり、あっちの大人しそうなのがいい。あの澄ました顔で、一声啼くところを聞かせろ」
椿の肩がぴくりと揺れた。
ねばつくような視線が纏わりつき、今の言葉が自分へ向けられたものだと知る。
ぼつぼつ入り始めた常連客たちは、面白半分に眺めている。
酔客の無礼も酒の肴、夜の遊びのうちと思っているのだろう。
そのとき、入口の戸が開いた。
振り返るまでもない。
椿には判った。霍成だ。
今夜は帰りが遅くなると聞いていた筈だった。
けれど戸の隙間から、夜気が一筋流れ込む。
蘭が入口へちらりと目をやり、すぐ椿へ目配せした。
椿はほっとしたような、まずい場面を見られたような、相反する気持ちで身を強張らせる。
酔客の男は、霍成を見て、へらりと笑った。
「なんだい、旦那。あの娘の連れか」
「……」
霍成は答えなかった。
その沈黙には、遠雷の気配があった。
酔客は気付かぬまま、猶も笑う。
「いいじゃねえか、少し話すくらい。ああいう澄ましたのを擾すのが、一等面白い」
「止めなさいにゃー。これはお客様のためですよおー。あてし言いましたからね」
蘭は、いつもの軽い調子を崩さずに言った。
尾のような絹綬が、呆れたように揺れている。
他の女給たちまで、珍しく給仕の手を止めていた。
「なんだよ。触っちゃいねえよ。……まだな」
へへへ、と笑いながら、男が卓子を離れる。
足許は覚束ないのに、舐めるような視線だけは椿から離さない。
椿は反射的に一歩退いた。
蘭も制止しようとしたが、厨房からでは遠い。
その瞬間、男の手が伸びた。
境を踏み越えるように、やすやすと長台を越えてくる。
その指先が、椿の袖口に掛かった。
茶器を並べ終え、たすき掛けを解いたばかりだった。
下には、薄手の磁器が整然と並んでいる。
僅かな弾みでも、欠けてしまいそうなほど繊細だ。
男が引っかけた袖口を、指先だけで引いた。
払い除ければよかった。
そうするべきだと、頭のどこかでは判っている。
けれど椿の手は、直ぐには動かなかった。
目を瞠ったまま、人形のように固まってしまう。
声を上げることも、拒むことも、長く許されずに来た身体だった。
袖を引かれただけの、ほんの浅い接触に過ぎない。
それでも椿には、十分すぎた。
ぞっとして、悲鳴とも息ともつかぬものを、細く吸い込む。
次の瞬間、空気が変わった。
音より先に、肌が知る。
店の灯が、ふっと揺れた。
戸の隙間でもないのに、冷たい風がひゅうと吹き抜ける。
卓子の紙片がはためいた。
硝子笠がかたかた鳴った。
やがて、その揺れが、目に見えて大きくなる。
椿ははっとして、霍成を見る。
彼はまだ一歩も動いていない。
ただ、その目だけが違っていた。
黒雲の底に稲妻を孕んだような、暗い光。
「離せ」
雷鳴を押し殺したような、たった一言だった。
窓に、ぽつ、と一滴の雨が落ちた。
天井はある。
戸も閉じている。
それなのに、雨の匂いが店内に立ち込め始めた。
酔客も、さすがに其処で顔色を変えた。
椿から手を離す。
霍成がつかつかと歩み寄る。
その足許では、床板の上を風が先に走った。
袖が翻る。
薄い風神雷神文が、彩色硝子の洋灯の下で、一瞬だけ生き物のようにうねった。
「二度と言わせるな」
怒鳴ってはいない。
なのに、颶風に荒れ狂う雷鳴の、落ちる寸前のようだった。
耳の鼓膜まで、びりびりと顫える。
酔客はとうとう青ざめた。
椅子にぶつかりながら後ずさり、くるりと背を向けると、一目散に外へ駆け出した。
「はいはい、お客さま。本日の興行はおしまいにゃ」
蘭が、わざとらしいほど明るい声を出す。
「命あっての色遊び、ですよおー」
「さ、お注ぎしますね」
他の女給たちも加勢し、それで周囲もはっと我に返る。
杯を差し出されるまま、客たちは意識を酒へ引き戻されていった。
やがて、霍成が一つ息を吐く。
それと共に、雨の気配がゆるゆると去って行った。
感情が昂った折、知らず異能が噴き出す――いわゆる暴現なのだろう。
振り返った霍成の眉根は、まだ寄っていた。
知らぬ男の手が椿に触れたことへの、怒りとも、苛立ちともつかぬものが、その目に残っている。
けれど、それが椿を責めるものではないことだけは、痛いほど解った。
「こ、怖……かっ」
ほっとした拍子に、言葉が零れた。
霍成は何か言いかけ、しかし飲み込む。
そのまま長台の内側へ入り、羽織を脱いで、椿の肩へ掛けた。
袖口を確かめるように身を屈める。
そして羽織の陰で、素早く、触れられた袖へ接吻を落とした。
椿にしか見えぬ角度だった。
いまのは夢か、幻か。
それとも、自分の思い違いだったのか。
「もう奥へ行け」
霍成は名残りを断つように身を引き、背を向けた。



