ここ数日、霍成は妙に帰りが早かったり、かと思えば下で誰やらと話し込んでいたりした。
椿が首を傾げて蘭に訊ねると、お楽しみは取っておくものでございますにゃ、などと、にやにやするばかりで、ちっとも肝心なことを教えてくれない。
その日も、昼下がりの光が障子に淡く滲み始めた頃、霍成がふいに二階の部屋へ顔を出した。
「椿」
呼ばれて顔を上げると、霍成は少し口元を歪めていた。
一緒に過ごす時間が増えて判ったのだが、これは嬉しいときの霍成の癖らしい。
「来い」
短くそれのみを告げる。
椿は調べていた冊子を置き、素直に立ち上がった。
後について階段を下りる。急な段差も、もう足が覚えている。
店の帳場の脇を通ると、蘭が帳面から顔を上げ、堪えきれぬように噴き出した。
「いってらっしゃいにゃぁー」
椿はいよいよ訣が判らなくなり、前を行く霍成の背を見つめた。
やがて辿り着いたのは、七ツ蔵の並びのうち、これまで固く戸を閉ざしていた隣の蔵である。
白壁の前で足を止めると、霍成は懐から鍵を取り出した。
金具がかちりと鳴り、重い戸がゆっくりと開いていく。
ひやりとした空気が流れ出した。
椿は目を瞠った。
蔵の中には、棚が新しく設えられていた。
几帳面に並ぶ書棚。低い書見台が幾つか。小さな机。硯と筆を置く場所まである。
そして何より、その棚という棚に、見覚えのある書物がぎっしりと収まっていた。
和泉の家の蔵書だった。
宮中の姫の手記。
歌集。記録。古写本。和綴じの冊子。
巻子を納めた箱。
幼い頃から通った宮中の書庫で、あるいは屋敷の土蔵で、椿が手に取ったことのある本ばかりが、此方へ移されている。
息をするのも忘れて立ち尽くす椿の背後で、霍成が口を開いた。
「……暇になると、碌なことを考えんだろう」
照れを誤魔化すような言い方だった。
「冊子を読むなと言っても、どうせ何かしたがる。蘭の手伝いに出した処で……一番繁盛するのは、夜だしな」
そこまで言ってから、ふと口を閉ざす。
霍成は蔵の内を、ぐるりと見やった。
積まれた箱。空いた棚。まだ埃の匂いの残る板床。
「だから……まあ、その……お前用に、一つ空けさせた。……どうせ蔵など余っている」
お前用に。
その言葉を、椿は胸の内で繰り返した。
ただ本が運び込まれているのではない。
読めるように。
繙けるように。
手に取りやすいように。
椿が此処で長い時間を過ごすことを前提に、整えられている。
自分のための場所だ、と判った瞬間、喉の奥がきゅうと狭くなった。
だが、霍成はまだ言い訳めいた調子だった。
「和泉からはまだ全てではない。先ずは必要そうなものからだ。いずれは追って運ばせる。調査にも都合がいい……」
言葉が進むにつれて早口になる。
終いには、どこか歯切れが悪い。
照れているのだ、と椿は思った。
蘭ならきっと、この顔を見たら揶揄ったに違いない。
けれど今、此処には二人しかいない。
椿はそろそろと棚に歩み寄った。
指先で、背表紙を撫でる。
馴染みのある紙の感触。古い墨の匂い。箱の木肌。
ふと、棚の一角に、まだ新しい札が掛かっているのが目に入った。
そこには簡素な鉛筆書きで、
――椿蔵
と書かれていた。
誰が書いたものかなど、考えるまでもない。
癖のある、実務一辺倒な字。
飾り気のなさが、よく表れている。
霍成が、背後で低く言った。
「仮だ。棚ごとに書き替えて、其れは捨てていいぞ」
椿は頭を振った。
捨てるなど、とても考えられない。
胸がいっぱいで、うまく息ができない。
言葉を持たぬかわりに、椿はあわてて懐紙を探し、蔵に用意された筆を取った。
ありがとう、と書こうとして、手が止まる。
文字のみでは足りなかった。
これは、書いて済ませることではない。
ちゃんと声にしたい。
霍成が怪訝そうに眉を寄せる。
「……椿?」
名を呼ばれて、椿ははっと顔を上げた。
瞶め返してくるその目があまりに近く思えて、喉の奥がまたきゅっと縮む。
言わなければ。
今、言いたい。
椿は唇を開いた。
けれど最初に出たのは、微かな吐息のみだった。
「あ……」
自分でも驚くほど、小さな響きだった。
椿は頬を熱くしながら、もう一度、唇を動かす。
舌がうまく回らない。
ずっと胸の中にはある簡単な言葉が、どうしてこうも遠いのだろう。
恥ずかしさに下を向き、胸元で両拳を作る。
それでも足りず、霍成の方へ一歩出た。
「あ、り……がとう」
声が震える。
それでも霍成は急かさなかった。
ただ、息を殺すようにして椿を見ている。
椿は迷った末、その袖の端を、きゅ、とつまんだ。
「霍成、さま……」
それのみで、頬が熱くなる。
顔を上げられない。
「……おい」
霍成の声が、少しくぐもって聞こえた。
こんなに近くにいるのに。
近過ぎるせいで、却って音の輪郭がぼやけているのかもしれない。
自分の鼓動ばかりが、耳の内側で大きく響いていた。
「ああ、もう」
霍成が悪態を吐きながら、堪らないというように両の腕で椿を引き寄せた。
椿は思わず胸元の拳を解き、霍成の着物の胸に置き直す。
想念が過るより早く、気持ちが満ちていく。
息が詰まり、視界が滲んだ。
「……礼を言われる程のことじゃない」
霍成は、ふっと息をついて椿を放した。
「……そんなに喜ぶなら、正解だったな」
その声は、いつもより低かった。
不意に頭の上へ、温かな重みが落ちる。
霍成の手だった。
ほんの一瞬、躊躇うように髪へ触れ、また直ぐに離れる。
「好きに、使え」
素っ気なく言い置き、霍成は視線を逸らすなり、蔵の外へ出て行く。
「ただし、寝食を忘れるな。蔵に籠もるのも程々にしろよ」
外から掛かった言葉は、少し命令口調だった。
照れ隠しなのだろうか。
それが何だか嬉しくて、椿はこくりと大きく頷いた。
目の前の棚も、本も、机も、札も、皆本物なのだ。
長い間、人知れず抱えていた願いを、そのまま形にして差し出されたようだった。
いつか宮中で、仮初めに叶える夢だと思っていた。
和泉の書蔵でさえ、完全には自分のものだと思えなかったのに。
椿はもう一度、蔵の中を見渡した。
書物の匂いに満ちた静かな空間は、ひやりとしている。
それなのに、何故か明るく感じられた。
此処は、自分の居場所だ。
そう思えたことが、何よりの贈りものだった。
椿が首を傾げて蘭に訊ねると、お楽しみは取っておくものでございますにゃ、などと、にやにやするばかりで、ちっとも肝心なことを教えてくれない。
その日も、昼下がりの光が障子に淡く滲み始めた頃、霍成がふいに二階の部屋へ顔を出した。
「椿」
呼ばれて顔を上げると、霍成は少し口元を歪めていた。
一緒に過ごす時間が増えて判ったのだが、これは嬉しいときの霍成の癖らしい。
「来い」
短くそれのみを告げる。
椿は調べていた冊子を置き、素直に立ち上がった。
後について階段を下りる。急な段差も、もう足が覚えている。
店の帳場の脇を通ると、蘭が帳面から顔を上げ、堪えきれぬように噴き出した。
「いってらっしゃいにゃぁー」
椿はいよいよ訣が判らなくなり、前を行く霍成の背を見つめた。
やがて辿り着いたのは、七ツ蔵の並びのうち、これまで固く戸を閉ざしていた隣の蔵である。
白壁の前で足を止めると、霍成は懐から鍵を取り出した。
金具がかちりと鳴り、重い戸がゆっくりと開いていく。
ひやりとした空気が流れ出した。
椿は目を瞠った。
蔵の中には、棚が新しく設えられていた。
几帳面に並ぶ書棚。低い書見台が幾つか。小さな机。硯と筆を置く場所まである。
そして何より、その棚という棚に、見覚えのある書物がぎっしりと収まっていた。
和泉の家の蔵書だった。
宮中の姫の手記。
歌集。記録。古写本。和綴じの冊子。
巻子を納めた箱。
幼い頃から通った宮中の書庫で、あるいは屋敷の土蔵で、椿が手に取ったことのある本ばかりが、此方へ移されている。
息をするのも忘れて立ち尽くす椿の背後で、霍成が口を開いた。
「……暇になると、碌なことを考えんだろう」
照れを誤魔化すような言い方だった。
「冊子を読むなと言っても、どうせ何かしたがる。蘭の手伝いに出した処で……一番繁盛するのは、夜だしな」
そこまで言ってから、ふと口を閉ざす。
霍成は蔵の内を、ぐるりと見やった。
積まれた箱。空いた棚。まだ埃の匂いの残る板床。
「だから……まあ、その……お前用に、一つ空けさせた。……どうせ蔵など余っている」
お前用に。
その言葉を、椿は胸の内で繰り返した。
ただ本が運び込まれているのではない。
読めるように。
繙けるように。
手に取りやすいように。
椿が此処で長い時間を過ごすことを前提に、整えられている。
自分のための場所だ、と判った瞬間、喉の奥がきゅうと狭くなった。
だが、霍成はまだ言い訳めいた調子だった。
「和泉からはまだ全てではない。先ずは必要そうなものからだ。いずれは追って運ばせる。調査にも都合がいい……」
言葉が進むにつれて早口になる。
終いには、どこか歯切れが悪い。
照れているのだ、と椿は思った。
蘭ならきっと、この顔を見たら揶揄ったに違いない。
けれど今、此処には二人しかいない。
椿はそろそろと棚に歩み寄った。
指先で、背表紙を撫でる。
馴染みのある紙の感触。古い墨の匂い。箱の木肌。
ふと、棚の一角に、まだ新しい札が掛かっているのが目に入った。
そこには簡素な鉛筆書きで、
――椿蔵
と書かれていた。
誰が書いたものかなど、考えるまでもない。
癖のある、実務一辺倒な字。
飾り気のなさが、よく表れている。
霍成が、背後で低く言った。
「仮だ。棚ごとに書き替えて、其れは捨てていいぞ」
椿は頭を振った。
捨てるなど、とても考えられない。
胸がいっぱいで、うまく息ができない。
言葉を持たぬかわりに、椿はあわてて懐紙を探し、蔵に用意された筆を取った。
ありがとう、と書こうとして、手が止まる。
文字のみでは足りなかった。
これは、書いて済ませることではない。
ちゃんと声にしたい。
霍成が怪訝そうに眉を寄せる。
「……椿?」
名を呼ばれて、椿ははっと顔を上げた。
瞶め返してくるその目があまりに近く思えて、喉の奥がまたきゅっと縮む。
言わなければ。
今、言いたい。
椿は唇を開いた。
けれど最初に出たのは、微かな吐息のみだった。
「あ……」
自分でも驚くほど、小さな響きだった。
椿は頬を熱くしながら、もう一度、唇を動かす。
舌がうまく回らない。
ずっと胸の中にはある簡単な言葉が、どうしてこうも遠いのだろう。
恥ずかしさに下を向き、胸元で両拳を作る。
それでも足りず、霍成の方へ一歩出た。
「あ、り……がとう」
声が震える。
それでも霍成は急かさなかった。
ただ、息を殺すようにして椿を見ている。
椿は迷った末、その袖の端を、きゅ、とつまんだ。
「霍成、さま……」
それのみで、頬が熱くなる。
顔を上げられない。
「……おい」
霍成の声が、少しくぐもって聞こえた。
こんなに近くにいるのに。
近過ぎるせいで、却って音の輪郭がぼやけているのかもしれない。
自分の鼓動ばかりが、耳の内側で大きく響いていた。
「ああ、もう」
霍成が悪態を吐きながら、堪らないというように両の腕で椿を引き寄せた。
椿は思わず胸元の拳を解き、霍成の着物の胸に置き直す。
想念が過るより早く、気持ちが満ちていく。
息が詰まり、視界が滲んだ。
「……礼を言われる程のことじゃない」
霍成は、ふっと息をついて椿を放した。
「……そんなに喜ぶなら、正解だったな」
その声は、いつもより低かった。
不意に頭の上へ、温かな重みが落ちる。
霍成の手だった。
ほんの一瞬、躊躇うように髪へ触れ、また直ぐに離れる。
「好きに、使え」
素っ気なく言い置き、霍成は視線を逸らすなり、蔵の外へ出て行く。
「ただし、寝食を忘れるな。蔵に籠もるのも程々にしろよ」
外から掛かった言葉は、少し命令口調だった。
照れ隠しなのだろうか。
それが何だか嬉しくて、椿はこくりと大きく頷いた。
目の前の棚も、本も、机も、札も、皆本物なのだ。
長い間、人知れず抱えていた願いを、そのまま形にして差し出されたようだった。
いつか宮中で、仮初めに叶える夢だと思っていた。
和泉の書蔵でさえ、完全には自分のものだと思えなかったのに。
椿はもう一度、蔵の中を見渡した。
書物の匂いに満ちた静かな空間は、ひやりとしている。
それなのに、何故か明るく感じられた。
此処は、自分の居場所だ。
そう思えたことが、何よりの贈りものだった。



