二人で静かに頁を繰る日々が始まった。
夜は川沿いの蔵から持ち帰った冊子を、長椅子に肩を並べて調べる。
昼には、霍成が唐突に言い出して、椿を右京の町へ連れ出すこともあった。
賑わう通りへ出て、着物を誂える。
貸本屋を覗く。
甘味屋の軒先で、同じ皿の団子を分け合う。
見世蔵を通り過ぎ、川面を眺める一時。
初めのうち、椿は遠慮した。
何から何まで世話になるのは心苦しい。
しかし霍成は、必要経費だと言って譲らなかった。
着物を受け取ってからは、機を見るたび椿を連れ出す。
断る隙などない。
行くぞ、と告げた時には、もう前を歩いている。
尤も、断ることなど、初めから椿にはできなかった。
右京の雑踏も、七ツ純喫茶へ戻る道も。
いつの間にか、椿の中で、恐ろしいものではなくなっていた。
霍成は佐伯家へ戻ることもあれば、宿直で不在にすることもあった。
けれど、自分の留守の間まで椿が冊子に齧り付いている必要はない、とまた言い張る。
仕事には仕事の刻限というものが有る。
休む時間も要る。
そうして、椿に自由な時間さえ与えた。
それでも、ただ日中待っているのみでは、椿には時間が余る。
食事は蘭が手ずから丹精を込めて調え、掃除洗濯は他の女給たちの受け持ちである。
算盤と帳簿のつけ方には大いに興味があったが、番頭たちはいつも忙しそうだった。
何かしていたい。
誰かの役に立ちたい。
椿の知らぬことだが、父への監視は既に緩められていた。
和泉家の体面に配慮され、宮中での務めも許されている。
ただし、実家への出入りだけは禁じられたままだ。
表向きは、宿直が続いていることになっていた。
娘の懐柔と監視が、首尾よく運んでいるものと見做されていたためである。
そんなことを知る由もなく、椿はただ、何かしていたかった。
もとより、手を動かしているほうが落ち着く性質だ。
そこで筆を取り、蘭の手伝いがしたい、と霍成に願い出た。
それを見た霍成は、あからさまに渋面になった。
七ツ純喫茶は、昼こそ珈琲や軽食を出すが、夜になれば酒も扱う。
女給が客をあしらい、笑い声や酔客の騒めきが満ちる、享楽と社交の場だ。
「酔った男が出入りする見世だぞ」
声を抑えて言い、霍成は暗い翳りを帯びた目で椿を見た。
まるで、話は終わりだとでも言いたげな目つきだった。
けれど椿は引かなかった。
かなり霍成の感情が読めるようにもなっていたのだ。
膝の上へ硯箱を寄せ、短冊を一枚引き寄せる。
さらさらと筆を走らせた。
――夜は出ません。
書きつけたそれを差し出す。
霍成は受け取って読み、眉間を寄せた。
「……愛想を振りまくような真似は、させたくない。昼でもだ」
すぐに返される。
椿はむっとして、もう一枚取った。
――蘭さんの傍に居ます。
――独りにはなりません。
――帳場のことでも、運ぶことでも、何かできます。
書いては見せ、また書いては見せる。
その度に霍成は目を通し、唸っては、短冊の端をつまんだまま黙り込んだ。
やがて、ふう、と息をつく。
「……お前は、そういうところだけ妙に頑固だな」
叱られた訣ではない。
呆れと困惑と、ほんの少しの甘さが混じった響きだった。
日陰に植えられても、まっすぐ幹を伸ばす椿の木。
嫋やかな赤さを持ちながら、毒も備えている。
椿は短冊を持つ手に、そっと力を込めた。
――誰かの役に立ちたい。
其れを書いて差し出したときだけ、霍成は直ぐには受け取らなかった。
椿の指先ごと見つめ、それから短冊を取る。
読み終えても、暫し何も言わない。
椿は落ち着かなくなって、正座した膝の上で指を揃え直した。
また駄目だと言われるだろうか。
そう思った矢先、霍成が不意に手を伸ばした。
少し覗いていた襦袢の袖を、一つ整える。
袖口に指をかけ、優しく押しやると、布はすとんと落ちた。
手首の内側に触れたのは、ほんの一瞬だった。
それなのに、その手つきは妙に丁寧だった。
顔を見やれば、艶を含んだ伏し目である。
「……役に立つとか立たないとか、そういう話じゃない」
押し殺した怒気を含んだ声音に、椿はどきりとした。
ふいに、襦袢に包まれている身体が意識される。
「お前が、酔っ払いに絡まれるような場所に立つのが気に入らん」
あまりに直截に言われて、椿の呼吸が僅かに乱れた。
手首に触れられた感覚が、遅れて広がっていく。
――夜は出ません。
――昼のみ。
――蘭と一緒に。
――必ず、霍成さまの言うことを聞きます。
最後の一行を書いてから、椿は一瞬、手を止めた。
それでも消さず、勢いのまま差し出す。
霍成は読み、今度ははっきりと顰め面になった。
だがそれは怒りではなく、困ったような、どこか照れを押し隠すような表情だった。
「……そういう書き方は卑怯だな」
椿は喉を意識しながら、細く息をした。
脈が速まり、遅れて熱が身の内に広がっていく。
霍成は短冊を折り、指の間でとん、と叩いた。
「判った。昼のみだ。夜営業には絶対に出るな。客の席に無暗に近づくな。――帳場か厨房の奥で、蘭の目の届く処に居ろ」
椿の顔が、ぱっと明るくなる。
「それから」
念を押すように言って、霍成は少し身を屈めた。
胡坐を崩さぬまま、椿と視線の高さを合わせる。
「何かあったら、すぐ逃げろ。蘭を呼べ。俺が居るときなら俺を呼べ。……いいな」
その真剣さに、胸がじんと熱くなった。
椿はこくりと大きく頷く。
「あり……がとう」
その瞬間、霍成の目が見開かれた。
一息分だけ、時が止まったようになる。
やがて霍成は、何でもないことのように肩の力を抜いた。
耳のあたりに、僅かな熱が差したようにも見える。
けれど直ぐに視線を逸らし、不服そうな顔で短冊へ目を落とした。
「全く……」
そう零してから、椿の書いた最後の一行を指先でとんと叩く。
「……そんな風に言われたら、許さん訣にいかんだろう」
頬が熱い。
それなのに、少しも厭ではない。
甘いものが、喉のあたりをそっと擽ぐるように疼いた。
椿は短冊を胸に抱え、微かに笑った。
「あり……がとう」
今度は、先程よりも少しだけ、はっきり声になった。
七ツ純喫茶の女給の身装は、ひどく軽やかだ。
洋装で袖は短く、襟もとも緩く、動きやすい。
しかし、和服もまた端然として見えるくせに、案外と隙の多いものだ。
ふとした乱れが、却って男の擾らな想像を誘う被服なのである。
袂のあしらい一つで、手の動きにも目を誘う揺れが生まれる。
裾捌きは歩みの拍子に、脚の気配を覗かせる。
抜き襟に至っては、後ろ姿でさえ油断ならない。
其処へ酔客の無遠慮が加われば、たちまちの狼藉も容易い。
「昼のみでも、今の格好では駄目だ」
其処から先は、思いの外、長い談義になった。
蘭まで加わって、ああでもないこうでもないと案が出る。
女給らしい愛らしさは欲しい。
けれど軽すぎる装いは論外。
動き易く、なおかつ椿に無理のないもの。
霍成は終始、渋い顔を崩さなかった。
蘭は、もう少しくらい夢があってもよろしいのに、と唇を尖らせる。
だが、椿が一度顔を赤くして俯くと、それ以上は強く押さなかった。
茶化すようでいて、踏み越えてはならぬところは心得ているらしい。
結局、折り合いが付いたのは、小紋に前掛を合わせる姿だった。
さらにたすき掛けにして、無防備な袂と身八つ口を、これでもかと守る形である。
「髪は下ろせ。項を隠せ」
「はいから絹綬ですにゃ?」
「低い位置なら許す。だが二つ目をゆるく結べ。飲食店だからな」
「……二つ目」
「動くたびに髪が崩れる。崩れた髪を直す仕草が、また余計な目を引く」
蘭は、まあまあ、と笑っていた。
椿はどこを見ればよいのかも判らず、二人の会話に口を差し挟めない。
「普段使いの腰紐で間に合わせるのも論外だ」
「腰紐まででございますかにゃ」
「何が男の妄想を掻き立てるか判らん。新しい専用のものを買う」
霍成は、少しも冗談を言っている顔ではなかった。
夜は川沿いの蔵から持ち帰った冊子を、長椅子に肩を並べて調べる。
昼には、霍成が唐突に言い出して、椿を右京の町へ連れ出すこともあった。
賑わう通りへ出て、着物を誂える。
貸本屋を覗く。
甘味屋の軒先で、同じ皿の団子を分け合う。
見世蔵を通り過ぎ、川面を眺める一時。
初めのうち、椿は遠慮した。
何から何まで世話になるのは心苦しい。
しかし霍成は、必要経費だと言って譲らなかった。
着物を受け取ってからは、機を見るたび椿を連れ出す。
断る隙などない。
行くぞ、と告げた時には、もう前を歩いている。
尤も、断ることなど、初めから椿にはできなかった。
右京の雑踏も、七ツ純喫茶へ戻る道も。
いつの間にか、椿の中で、恐ろしいものではなくなっていた。
霍成は佐伯家へ戻ることもあれば、宿直で不在にすることもあった。
けれど、自分の留守の間まで椿が冊子に齧り付いている必要はない、とまた言い張る。
仕事には仕事の刻限というものが有る。
休む時間も要る。
そうして、椿に自由な時間さえ与えた。
それでも、ただ日中待っているのみでは、椿には時間が余る。
食事は蘭が手ずから丹精を込めて調え、掃除洗濯は他の女給たちの受け持ちである。
算盤と帳簿のつけ方には大いに興味があったが、番頭たちはいつも忙しそうだった。
何かしていたい。
誰かの役に立ちたい。
椿の知らぬことだが、父への監視は既に緩められていた。
和泉家の体面に配慮され、宮中での務めも許されている。
ただし、実家への出入りだけは禁じられたままだ。
表向きは、宿直が続いていることになっていた。
娘の懐柔と監視が、首尾よく運んでいるものと見做されていたためである。
そんなことを知る由もなく、椿はただ、何かしていたかった。
もとより、手を動かしているほうが落ち着く性質だ。
そこで筆を取り、蘭の手伝いがしたい、と霍成に願い出た。
それを見た霍成は、あからさまに渋面になった。
七ツ純喫茶は、昼こそ珈琲や軽食を出すが、夜になれば酒も扱う。
女給が客をあしらい、笑い声や酔客の騒めきが満ちる、享楽と社交の場だ。
「酔った男が出入りする見世だぞ」
声を抑えて言い、霍成は暗い翳りを帯びた目で椿を見た。
まるで、話は終わりだとでも言いたげな目つきだった。
けれど椿は引かなかった。
かなり霍成の感情が読めるようにもなっていたのだ。
膝の上へ硯箱を寄せ、短冊を一枚引き寄せる。
さらさらと筆を走らせた。
――夜は出ません。
書きつけたそれを差し出す。
霍成は受け取って読み、眉間を寄せた。
「……愛想を振りまくような真似は、させたくない。昼でもだ」
すぐに返される。
椿はむっとして、もう一枚取った。
――蘭さんの傍に居ます。
――独りにはなりません。
――帳場のことでも、運ぶことでも、何かできます。
書いては見せ、また書いては見せる。
その度に霍成は目を通し、唸っては、短冊の端をつまんだまま黙り込んだ。
やがて、ふう、と息をつく。
「……お前は、そういうところだけ妙に頑固だな」
叱られた訣ではない。
呆れと困惑と、ほんの少しの甘さが混じった響きだった。
日陰に植えられても、まっすぐ幹を伸ばす椿の木。
嫋やかな赤さを持ちながら、毒も備えている。
椿は短冊を持つ手に、そっと力を込めた。
――誰かの役に立ちたい。
其れを書いて差し出したときだけ、霍成は直ぐには受け取らなかった。
椿の指先ごと見つめ、それから短冊を取る。
読み終えても、暫し何も言わない。
椿は落ち着かなくなって、正座した膝の上で指を揃え直した。
また駄目だと言われるだろうか。
そう思った矢先、霍成が不意に手を伸ばした。
少し覗いていた襦袢の袖を、一つ整える。
袖口に指をかけ、優しく押しやると、布はすとんと落ちた。
手首の内側に触れたのは、ほんの一瞬だった。
それなのに、その手つきは妙に丁寧だった。
顔を見やれば、艶を含んだ伏し目である。
「……役に立つとか立たないとか、そういう話じゃない」
押し殺した怒気を含んだ声音に、椿はどきりとした。
ふいに、襦袢に包まれている身体が意識される。
「お前が、酔っ払いに絡まれるような場所に立つのが気に入らん」
あまりに直截に言われて、椿の呼吸が僅かに乱れた。
手首に触れられた感覚が、遅れて広がっていく。
――夜は出ません。
――昼のみ。
――蘭と一緒に。
――必ず、霍成さまの言うことを聞きます。
最後の一行を書いてから、椿は一瞬、手を止めた。
それでも消さず、勢いのまま差し出す。
霍成は読み、今度ははっきりと顰め面になった。
だがそれは怒りではなく、困ったような、どこか照れを押し隠すような表情だった。
「……そういう書き方は卑怯だな」
椿は喉を意識しながら、細く息をした。
脈が速まり、遅れて熱が身の内に広がっていく。
霍成は短冊を折り、指の間でとん、と叩いた。
「判った。昼のみだ。夜営業には絶対に出るな。客の席に無暗に近づくな。――帳場か厨房の奥で、蘭の目の届く処に居ろ」
椿の顔が、ぱっと明るくなる。
「それから」
念を押すように言って、霍成は少し身を屈めた。
胡坐を崩さぬまま、椿と視線の高さを合わせる。
「何かあったら、すぐ逃げろ。蘭を呼べ。俺が居るときなら俺を呼べ。……いいな」
その真剣さに、胸がじんと熱くなった。
椿はこくりと大きく頷く。
「あり……がとう」
その瞬間、霍成の目が見開かれた。
一息分だけ、時が止まったようになる。
やがて霍成は、何でもないことのように肩の力を抜いた。
耳のあたりに、僅かな熱が差したようにも見える。
けれど直ぐに視線を逸らし、不服そうな顔で短冊へ目を落とした。
「全く……」
そう零してから、椿の書いた最後の一行を指先でとんと叩く。
「……そんな風に言われたら、許さん訣にいかんだろう」
頬が熱い。
それなのに、少しも厭ではない。
甘いものが、喉のあたりをそっと擽ぐるように疼いた。
椿は短冊を胸に抱え、微かに笑った。
「あり……がとう」
今度は、先程よりも少しだけ、はっきり声になった。
七ツ純喫茶の女給の身装は、ひどく軽やかだ。
洋装で袖は短く、襟もとも緩く、動きやすい。
しかし、和服もまた端然として見えるくせに、案外と隙の多いものだ。
ふとした乱れが、却って男の擾らな想像を誘う被服なのである。
袂のあしらい一つで、手の動きにも目を誘う揺れが生まれる。
裾捌きは歩みの拍子に、脚の気配を覗かせる。
抜き襟に至っては、後ろ姿でさえ油断ならない。
其処へ酔客の無遠慮が加われば、たちまちの狼藉も容易い。
「昼のみでも、今の格好では駄目だ」
其処から先は、思いの外、長い談義になった。
蘭まで加わって、ああでもないこうでもないと案が出る。
女給らしい愛らしさは欲しい。
けれど軽すぎる装いは論外。
動き易く、なおかつ椿に無理のないもの。
霍成は終始、渋い顔を崩さなかった。
蘭は、もう少しくらい夢があってもよろしいのに、と唇を尖らせる。
だが、椿が一度顔を赤くして俯くと、それ以上は強く押さなかった。
茶化すようでいて、踏み越えてはならぬところは心得ているらしい。
結局、折り合いが付いたのは、小紋に前掛を合わせる姿だった。
さらにたすき掛けにして、無防備な袂と身八つ口を、これでもかと守る形である。
「髪は下ろせ。項を隠せ」
「はいから絹綬ですにゃ?」
「低い位置なら許す。だが二つ目をゆるく結べ。飲食店だからな」
「……二つ目」
「動くたびに髪が崩れる。崩れた髪を直す仕草が、また余計な目を引く」
蘭は、まあまあ、と笑っていた。
椿はどこを見ればよいのかも判らず、二人の会話に口を差し挟めない。
「普段使いの腰紐で間に合わせるのも論外だ」
「腰紐まででございますかにゃ」
「何が男の妄想を掻き立てるか判らん。新しい専用のものを買う」
霍成は、少しも冗談を言っている顔ではなかった。



