二人で静かに頁を繰る日々が始まった。
夜は川沿いの蔵から持ち帰った冊子を、長椅子に肩を並べて調べる。
椿の知らぬことだが、父の監視は既に緩められていた。
和泉家の体面に配慮され、宮中での務めも許されている。
ただし、実家への出入りのみは禁じられ、表向きは宿直が続いていた。
椿の懐柔と監視が首尾よく運んでいるものと見做されていたためだった。
霍成が昼にふいに言い出して椿を伴い、賑わう右京の町へ出て、着物を誂えたり貸本屋を見てまわる日もあった。
初めのうち椿は遠慮していたが、必要経費だと言い張って少しも譲らぬので、日々の暮らしに要るだけの着物を頂戴くこととなり、すると機を見ては椿を連れ出し、断る隙も与えぬまま前に立って歩き出すことが増えたのだ。
――尤も、断ることなど、初めから出来なかったのも椿である。
霍成は佐伯家へ戻ることもあれば、宿直で不在にすることもあったが、自分の留守の間まで椿が冊子に齧り付いている必要はない、とまた言い張り、仕事には仕事の刻限というものが有るのだから休む時間は要る――と、椿に自由な時間さえ与えた。
だが、ただ日中待っているばかりでは椿には時間が余る。
食事は蘭が手ずから丹精を込めて調え、掃除洗濯は他の女給たちの受け持ちである。
算盤と帳簿のつけ方には大いに興味があったが、番頭たちは何かといつも忙しそうなのだ。
何かしていたい。誰かの役に立ちたい。
椿はもとより、手を動かしているほうが落ち着く性質だ。
椿は筆をとり、蘭の手伝いがしたい、と霍成に願い出た。
それを見た霍成は、あからさまに渋面になった。
七ツ純喫茶は、昼は珈琲や軽食を出すが、夜になれば酒も扱う。
女給が客のあしらいをし、笑い声や酔客の騒めきが満ちる、享楽と社交の場だ。
「酔った男が出入りする見世だぞ」
低い声でそう言って、霍成は暗い翳りを帯びた目で椿を見た。
まるで、話は終わりだとでも言いたげな目つきだった。
けれど椿は引かなかった。
かなり霍成の感情が読めるようにもなっていたのだ。
膝の上へ硯箱を寄せ、短冊を一枚ひきよせると、さらさらと筆を走らせる。
――夜は出ません。
書きつけたそれを差し出す。
霍成は受け取って読み、眉間を寄せる。
「……愛想を振りまくような真似は、させたくない。昼でもだ」
すぐに返される。
椿はむっとして、もう一枚取る。
――蘭さんの傍に居ます。
――独りにはなりません。
――帳場のことでも、運ぶことでも、何かできます。
書いては見せ、書いては見せる。
その度に霍成は受け取って目を通し、唸っては短冊の端を指でつまんだまま、黙りこんだ。
やがて、ふう、と息をつく。
「……お前は、そういうところだけ妙に頑固だな」
叱られたわけではない。
むしろ、呆れと困惑と、ほんの少しの甘さが混じったような声だった。
日陰に植えられても、まっすぐ幹を伸ばす椿の木。
嫋やかな赤さを持ちながら、毒性も備える強さもある。
椿は短冊を持つ手に、そっと力を込める。
――誰かの役に立ちたい。
其れを書いて差し出したときだけ、霍成はすぐには受け取らなかった。
椿の指先ごと見詰めて、それから漸く短冊を取る。
読み終えても、暫く何も言わない。
椿は落ち着かなくなって、正座した膝の上で指を揃え直した。
また駄目だと言われるだろうか。
そう思った矢先、霍成が不意に手を伸ばした。
やや襦袢のはみ出た袖を、一つ、整える。
袖口に指をかけ、指先で優しく軽く押しやり、すとんと重力に任せるがままに――
手首の内側に触れたのはほんの一瞬だったのに、その手つきは妙に丁寧だった。
顔を見やれば、艶を含んだ伏し目である。
「……役に立つとか立たないとか、そういう話じゃない」
低く落ちた声に、椿はどきりとする。
ふいに襦袢に包まれている身体が意識された。
「お前が、酔っ払いに絡まれるような場所に立つのが気に入らん」
あまりに直截に言われて、椿の呼吸が僅かに乱れた。
手首に触れられた感覚が、遅れて広がっていく。
気に入らない。
それは命令でも叱責でもなく、感情そのものだった。
椿は、けれど、持て余す時間を思うと引き下がれずに、また筆を取った。
――夜は出ません。
――昼だけ。
――蘭と一緒に。
――必ず、霍成さまの言うことを聞きます。
最後の一行を書いてから、椿は一瞬、手を止めた。
それでも消さずに、勢いのまま差し出す。
霍成は読み、今度ははっきりと顔をしかめた。
だが、それは怒っている顔ではなく、困ったような、どこか照れを押し隠すようだった。
「……そういう書き方は卑怯だな」
椿は喉を意識しながら、細く呼吸をする。
脈が速まり、熱が遅れて身の内に広がっていく。
霍成は短冊を折り、指の間で軽く叩いた。
「分かった。昼だけだ。夜営業には絶対に出るな。客の席に無暗に近づくな。帳場か厨房の奥で、蘭の目の届く処に居ろ」
椿の顔が、ぱっと明るくなる。
「それから」
念を押すように言って、霍成は少し身を屈めた。
胡坐を崩さぬまま、椿と視線の高さを合わせる。
「何かあったら、すぐ逃げろ。蘭を呼べ。俺が居るときなら俺を呼べ。……いいな」
その声があまりに真剣で、椿は胸の奥がじんと熱くなるのを覚えた。
こくり、と大きく頷く。
「あり……がとう」
その瞬間、霍成の目が見開かれた。
ほんの一息分だけ、時が止まったようになる。
やがて彼は、何でもないことのように肩の力を抜いた。
耳のあたりに僅かな熱が差したようにも見える。
しかし直ぐに視線を逸らし、口にできぬ言葉が胸に残ったままに不服そうな顔になって、椿の手もとの短冊へ目を落とした。
「全く……」
ぼそりとそう呟いてから、また向き直って椿の書いた最後の一行を指先で軽く叩く。
「……そんな風に言われたら、許さない訳にいかんだろう」
頬が熱い。
それなのに、少しも厭ではない。
柔らかい気持ちの何かが、そっとくすぐられたように甘く疼く。
この頃には椿も漸く、ふとした折に微笑みを浮かべ、ありがとうと口にできるようになっていた。
七ツ純喫茶の女給の身なりは、ひどく軽やかだ。
洋装で袖は短く、襟もとも緩く動きやすいようにすっきりとしている。
しかし、和服もまた端然として見えるくせに、案外と隙の多いものだ。
ふとした乱れが、却って男のみだらな想像を誘う被服なのである。
袂のあしらい一つで、思いもよらぬ処に気の緩みが生まれる。
裾捌きは歩みの拍子に、ふと現れる脚の形の気配が見る者の想像を誘う。股立は動きに伴い、腰まわりから人の意識を逸らし難くする。後ろ姿に至っては、抜き襟、と尚油断ならないのである。
其処へ酔客の無遠慮が加われば、たちまち狼藉するも容易く、女の方はなす術もない。
「昼だけでも、今の格好では駄目だ」
其処から先は、思いの外、長い談義になった。
蘭まで加わって、ああでもないこうでもないと案が出る。
女給らしい愛らしさは欲しい、けれど軽すぎる装いは論外。
動きやすさも必要だが、椿に無理を強いるのも違う。
霍成は終始、渋い顔を崩さなかった。
蘭は蘭で、もう少しくらい夢があっても……と、唇を尖らせる。
兎角、大胆な発想をしがちで、一度椿が顔を赤くして俯くと、それ以上は強く意見しなくなった。
結局、折り合いの付いたのは、小紋に前掛を合わせる姿だった。
更にたすき掛けにして、無防備な袂と身八つ口を雁字搦めに縛り上げる形だ。
髪は下してうなじを隠せ、はいから絹綬にしろ、低い位置でも二つ目をゆるく結わえろ、飲食店だからな、と小煩い。
霍成はそれでも安心しきれぬらしく、普段使いの腰紐で間に合わせるなど論外、何が男の妄想を掻き立てるか判らんとして、新しい専用をわざわざ買い揃える始末だった。

