川沿いに並ぶ蔵の中でも、それは一際戸の重たそうな古びた蔵だった。
扉の金具には長年の手垢が鈍く残り、軒下の木組みには古びた色が染み込んでいる。
椿はぼんやり、灰汁づくりは誰に引き継がれたのだろうと思った。
霍成が蔵番をしていた男に声を掛けると、重い戸がぎいと開かれた。
中から流れ出してきたのは、椿には馴染みの乾いた空気と古紙の匂いだ。
霍成は蔵番の男から古い目録らしき帳面を受け取り、慣れた様子で二、三言葉を交わす。
差し出された箇所へ署名をすると、蔵番はそれを胸に抱え、音を立てぬ足取りで奥へ退いた。
霍成はその後ろ姿を見送ってから、椿へ目で合図した。
それから自分でも棚へ向かい、冊子を一つ手に取る。
蔵には厚みも形も違う木箱が並んでいた。
蓋に筆で品目の記されたもの、紐で封じられたもの、棚に積み重ねられたもの。
ざっと見ただけでも、この蔵には巻子が多いらしいと知れる。
椿は棚の前へ進んだ。
常は書庫の整理をしてきた身である。
だが、こうして目当てのものを探しあてるのは、どこか知恵板遊びめいていて気持ちが浮き立つ。
これほど数があるのなら、自分ならきっと、別に冊子立ての目録を拵える。
先ず見るべき場所は自然と限られた。
書見台や机のあたりに積まれている、索引や控えの類の冊子から当たるべきだ。
重い桐箱に収められた巻子の類は、家ごとに伝わる系図だろう。
そうしたものは、後から纏めて調べればよい。
時折、外から蔵番たちの咳払いが聞こえて来る。
紙の擦れる音。
紐を解く音。
その静けさを裂くように、外から人の気配が差しこんだ。
「へい。お呼びとのことで」
顔を上げると、椿には見覚えのある顔が覗いていた。
七ツ純喫茶の帳場にいつも座っている、あの七番番頭だ。
霍成が振り返りもせずに言う。
「箱を作る。何か容れものを。……ある程度纏まったら、二階へ運び出してくれ」
「あいよッ」
番頭は威勢よく返事をして、早速蔵の外へ引き返した。
どうやら後で改めて吟味する書は、一旦純喫茶の二階へ移しておく腹積もりらしい。
程なくして、番頭は空箱を抱えて戻ってきた。
それを蔵の隅へ据え置くと、溜まりそうな頃また来やす、と短く言い残し、そのまま足早に引き上げていく。
後には、頁を繰る音だけが残った。
椿は一枚、また一枚と繰り進める。
ある箇所に差しかかったところで、指先が止まった。
近世の華族の成り立ちに関わる記述らしい、と見て取れたからだ。
見覚えのある姫たちの名が、紙面の端々に見えた。
今と変わらぬ機密事項である、宮中五舎の構えや局の名もある。
女官たちの手による、宮中の古い日録の類のようだ。
一度本を閉じ、改めて表紙を見た。
古びた表紙には指の油が染み、幾度も開かれたのであろう頁の角は、すっかり和らかくなっていた。
長い間、誰かがこの本を繙いてきたのだろう。
腰を据えて読むべきものだ。
そう判断して、椿はそれを番頭の用意した空箱へそっと収めた。
後ほど二階で調べる折、この本に名の挙がった巻子は、必要に応じて改めて探しに来ればよい。
やがて、一つの木箱の奥から、綴じの擦り切れた和歌集が姿を現した。
いつかの鑑賞会、もしくは歌会始で詠まれた歌の編纂だろうか。
椿は躊躇わず、それも同じ箱へ収めた。
箱の中には、霍成が選り分けた冊子も既に幾つか収まっている。
蘭の持たせてくれた昼食を挟みながら、午後いっぱい二人がかりで探したとしても、一日では済むまい。
けれど、おざなりにすることはできない。
椿は俄かに気を引き締めた。
一度宮中の鑑賞会に連なる冊子が見い出されれば、あとはその周辺を繰るだけだった。
校書殿や内御書所の手を経た、殆ど公式記録に近い類である。
私的な書き付けではなく、長い系譜の中で、佐伯家の誰かが役職を得て関わったものなのだろう。
椿はそれらを一つ一つ取り上げ、やがてまた一冊へ行き当たった。
整った和歌が並んでいる。
どの一首も、言葉の裏側に潜む気配が鮮やかだ。
そこにあった一首は、全文を読まずとも、最初の響きだけで胸の底に触れてきた。
あまりにも五七五七七の運びが見事で、口が、勝手に後を追いかねなかった。
霍成もまた、椿の視線の止まった先を見たのだろう。
横から差す光の中で、その目が細くなる。
「……覚えがあるか」
恰度下の句へ目を落としていた処へ声をかけられ、椿はすぐには頷けなかった。
これは自分の歌ではない。
もっと古い、もっと遠い昔の言葉だ。
それなのに、何かが近い。
何処かで同じ水脈に繋がっているように思えてならない。
ふりかへる 秋篠寺の 藪陰の
椿の花は みなもの言へり
頁の上に置いた指先が、微かに震えた。
指の触れている処から、其処だけ淡く発光しているかのようにさえ思われる。
わたしは、この一首を知っている。
――椿の花は、みな、よく物を言う。
――あなたは、どうなの……?
そう囁かれた気がした。
ずっと以前から胸の底に沈んでいたものを、今思いがけず掬い上げられたように。
霍成はそれ以上急かさず、横で黙って歌集の表紙を見つめていた。
薄暗い蔵の中で、椿は古い言葉の息づかいに耳を澄ませていた。
扉の金具には長年の手垢が鈍く残り、軒下の木組みには古びた色が染み込んでいる。
椿はぼんやり、灰汁づくりは誰に引き継がれたのだろうと思った。
霍成が蔵番をしていた男に声を掛けると、重い戸がぎいと開かれた。
中から流れ出してきたのは、椿には馴染みの乾いた空気と古紙の匂いだ。
霍成は蔵番の男から古い目録らしき帳面を受け取り、慣れた様子で二、三言葉を交わす。
差し出された箇所へ署名をすると、蔵番はそれを胸に抱え、音を立てぬ足取りで奥へ退いた。
霍成はその後ろ姿を見送ってから、椿へ目で合図した。
それから自分でも棚へ向かい、冊子を一つ手に取る。
蔵には厚みも形も違う木箱が並んでいた。
蓋に筆で品目の記されたもの、紐で封じられたもの、棚に積み重ねられたもの。
ざっと見ただけでも、この蔵には巻子が多いらしいと知れる。
椿は棚の前へ進んだ。
常は書庫の整理をしてきた身である。
だが、こうして目当てのものを探しあてるのは、どこか知恵板遊びめいていて気持ちが浮き立つ。
これほど数があるのなら、自分ならきっと、別に冊子立ての目録を拵える。
先ず見るべき場所は自然と限られた。
書見台や机のあたりに積まれている、索引や控えの類の冊子から当たるべきだ。
重い桐箱に収められた巻子の類は、家ごとに伝わる系図だろう。
そうしたものは、後から纏めて調べればよい。
時折、外から蔵番たちの咳払いが聞こえて来る。
紙の擦れる音。
紐を解く音。
その静けさを裂くように、外から人の気配が差しこんだ。
「へい。お呼びとのことで」
顔を上げると、椿には見覚えのある顔が覗いていた。
七ツ純喫茶の帳場にいつも座っている、あの七番番頭だ。
霍成が振り返りもせずに言う。
「箱を作る。何か容れものを。……ある程度纏まったら、二階へ運び出してくれ」
「あいよッ」
番頭は威勢よく返事をして、早速蔵の外へ引き返した。
どうやら後で改めて吟味する書は、一旦純喫茶の二階へ移しておく腹積もりらしい。
程なくして、番頭は空箱を抱えて戻ってきた。
それを蔵の隅へ据え置くと、溜まりそうな頃また来やす、と短く言い残し、そのまま足早に引き上げていく。
後には、頁を繰る音だけが残った。
椿は一枚、また一枚と繰り進める。
ある箇所に差しかかったところで、指先が止まった。
近世の華族の成り立ちに関わる記述らしい、と見て取れたからだ。
見覚えのある姫たちの名が、紙面の端々に見えた。
今と変わらぬ機密事項である、宮中五舎の構えや局の名もある。
女官たちの手による、宮中の古い日録の類のようだ。
一度本を閉じ、改めて表紙を見た。
古びた表紙には指の油が染み、幾度も開かれたのであろう頁の角は、すっかり和らかくなっていた。
長い間、誰かがこの本を繙いてきたのだろう。
腰を据えて読むべきものだ。
そう判断して、椿はそれを番頭の用意した空箱へそっと収めた。
後ほど二階で調べる折、この本に名の挙がった巻子は、必要に応じて改めて探しに来ればよい。
やがて、一つの木箱の奥から、綴じの擦り切れた和歌集が姿を現した。
いつかの鑑賞会、もしくは歌会始で詠まれた歌の編纂だろうか。
椿は躊躇わず、それも同じ箱へ収めた。
箱の中には、霍成が選り分けた冊子も既に幾つか収まっている。
蘭の持たせてくれた昼食を挟みながら、午後いっぱい二人がかりで探したとしても、一日では済むまい。
けれど、おざなりにすることはできない。
椿は俄かに気を引き締めた。
一度宮中の鑑賞会に連なる冊子が見い出されれば、あとはその周辺を繰るだけだった。
校書殿や内御書所の手を経た、殆ど公式記録に近い類である。
私的な書き付けではなく、長い系譜の中で、佐伯家の誰かが役職を得て関わったものなのだろう。
椿はそれらを一つ一つ取り上げ、やがてまた一冊へ行き当たった。
整った和歌が並んでいる。
どの一首も、言葉の裏側に潜む気配が鮮やかだ。
そこにあった一首は、全文を読まずとも、最初の響きだけで胸の底に触れてきた。
あまりにも五七五七七の運びが見事で、口が、勝手に後を追いかねなかった。
霍成もまた、椿の視線の止まった先を見たのだろう。
横から差す光の中で、その目が細くなる。
「……覚えがあるか」
恰度下の句へ目を落としていた処へ声をかけられ、椿はすぐには頷けなかった。
これは自分の歌ではない。
もっと古い、もっと遠い昔の言葉だ。
それなのに、何かが近い。
何処かで同じ水脈に繋がっているように思えてならない。
ふりかへる 秋篠寺の 藪陰の
椿の花は みなもの言へり
頁の上に置いた指先が、微かに震えた。
指の触れている処から、其処だけ淡く発光しているかのようにさえ思われる。
わたしは、この一首を知っている。
――椿の花は、みな、よく物を言う。
――あなたは、どうなの……?
そう囁かれた気がした。
ずっと以前から胸の底に沈んでいたものを、今思いがけず掬い上げられたように。
霍成はそれ以上急かさず、横で黙って歌集の表紙を見つめていた。
薄暗い蔵の中で、椿は古い言葉の息づかいに耳を澄ませていた。



