――声が欲しい。
それすら叶わぬまま……
わたしはこの家で、人形のように生きている。
和泉邸は静けさに包まれていた。
家司の目が行き届き、屋敷は隅々まで整えられ、檜の板廊下は磨き上げられている。
襖は乱れず、空気さえも整えられているようだった。
庭には、鬼門を預る低木と、鹿威し。
乾いた音が、ときおり静寂に落ちる。
由緒正しく、清雅――
その在りようは、この家そのものだった。
その庭の片隅にある、土蔵の書庫にて――
椿は作業に没頭していた。
ただ一心に、つま先を揃え、若芽のようにすっと背筋を伸ばしている。
その上半身だけが、本棚の前で忙しなく動いていた。
指先は休まない。
必要とあれば、巻物と和綴じの別なく、文脈棚を設け直す。巻物のめくれを整え、冊子の背表紙を揃え、ときに数え、記し、一つ一つを確かめていく。
すべてを終えて、ようやく床を掃き清める。
それが早朝の日課であった。
古びた紙と墨の匂い。
埃と混じりあった空気を逃がすため、重い扉は外へ向けて開け放たれている。
「お姉さま、また斯様なところに」
軽やかな声が、ふいに静寂を破った。
振り向けば、紬路が白塗り壁にもたれて立っている。
春めいた装いが、目にまぶしい。
椿は、視線を落とした。
「朝からご精が出ますのね……黄ばんだお着物で」
棘はある。
けれど、それは無邪気な域を出ない。
椿は、わずかに顔を上げた。
聞こえている、というだけの証。
そして、すぐに視線を書物の山に戻す。
――今、忙しいの。
と示すための仕草だ。
なぜなら、椿は母に口を利くことを禁じられていた。
妹も当然ながら知っている。
……なのに、今日は絡んで来ている。
明けきらぬうちに運び込まれ、毎朝うず高く積み上げられる貴重な書物を整えるのが、椿の朝の仕事だった。
紬路が着物の虫干しに心を砕く娘であるなら、書物に囲まれている自分は、さしずめ本の虫といったところか。
――声が欲しい。
否、本の虫ともいえない。
声が欲しい、意思が欲しい。
たった此れだけのことすら、誰にも伝える術がない。
人の容貌をしただけの人形だ……。
まだ春も浅い。
冷えた空気が、二人の間に静かに横たわっていた。
「まあ、よろしいわ。わたくし出かけますの。これから宮中ですのよ」
ふふ、と悪戯めいた笑みを残し、紬路は踵を返した。
どうやら半ば自慢がてら、着合わせのもたらす印象を確かめに来たらしい。
椿が目を丸くするようであれば、華美に過ぎる――そういった見極め、そのための揶揄いだろう。
木造の離れの裏手を抜けて通用門へ向かう後ろ姿を、椿は黙ったまま見送る。
遠ざかる襲色目は、紅つつじ。
自らの名を冠する、往昔からの色の規定。
幾度となく着こなしてきた、その自分の色を生かす趣味のよさが際立っている。
使用人たちが掃除の手を止めて、会釈していく。
ほどなく馬車の中へ身を納めるはずだ。
初対面であろうと、今日ばかりは、一目で名前を印象づける装いを選びたかったのだろう。
宮中へは、必ず和装で参内するのが礼とされる。
都一の后がねと目される矜持にかけて、その顕現は、鮮烈でなくてはならない。
今日は、今上帝のおわす内裏にて、春の訪れを言祝ぐ桜花の宴が催される日だった。
数日前、俄かに都中の若い娘に触書が回覧った。
天候と桜の開花具合に合わせた、気まぐれな催しである。
突然の沙汰に両親も戸惑いを隠せなかったが、作業着しか着慣れぬ姉に代わり、齢十六の紬路を、急ぎ初参内させることとなった。
やがて車上の人ともなれば、込み合う四脚門からの入輿を経て、紫宸殿の開宴にもゆるりと間に合う。
卒業したばかりの女学校の同級とも、思いがけず言葉を交わす機会があるだろう。
そうした浮かれ娘たちの多くは、白い梭織洋紗の半襟を合わせ、羽を膨らませた福良雀を背に結んでいるに違いない。中には、銘仙や縞御召といった、目にも綾な装いも。
だが手編みの繊細なレースは、間近で見てこそ真価を発揮する。銘仙は遠目にも大胆すぎ、縞御召もまた、その織りの妙は近くで見てこそ活きる。
馬車止め近くに居合わせた使用人たちが、次々と腰を折っている。
「紬路お嬢様、いってらっしゃいませ」
「いつものお召し物と、さして変わらんじゃァ、ねえでしょうか……?」
こら、と女中頭が制し、家司もまた、私語を洩らした者をきっと睨みつけた。
だが、一たび零れた声は、もう他の耳にも届いてしまっていた。
「そりゃあァ、血税を使い込みそうな派手好き娘、お后にはなさいますまいよ」
ならば。
帝のおわす殿上からでも映えるのは、きっと荘重な襲に、文庫結びを合わせた――立后しても瑕疵のない重々しい娘。
巡り巡って近くに召し上げられてから、織りの趣向を凝らせばいい。
もし紬路と同じ蘇芳の表地、樺桜の襲色目を選び、御前にまかり出る者があったとしても、それはただ、同じ趣向の中に埋もれるだけ。
紬路は見送りに出て来た使用人たちに嫣然と微笑んでみせた。
――桜を賞でる会なのだもの、樺桜はあまりに凡庸だわ。
――わたくし、どなたにも負けませんわ。
――今を盛りの桜にも勝る、この躑躅で。
抜かりはない筈だ。
幼少の砌より温めてきた夢なのだから。
勝ち気で華やかな妹が去れば、和泉の屋敷には、旧いままの静寂だけが残る。

