和泉邸は静けさに包まれている。
人はいる。足音もある。
だが、それらは全て密やかだ。
無用な会話は慎むよう、台所女中にまで教育が行き渡っている。
早朝から家司が取り仕切る、由緒正しく清雅な家。
檜の板間にした廊下はすでに磨き上げられ、各畳敷き部屋を仕切る凝った意匠の襖は使用人の出入りにも乱れることなく、ぴたりと閉じられている。
細かい石を敷いて小川と目した石庭は、下草類でぐるりと囲まれている。
鬼門である北東隅に植えられた低木の陰には設えられた鹿威しがあり、すぐ傍らには中ほどをくり抜かれた置石が竹を伝って滴る水を湛えて受け皿のように鎮座しており、どちらも少々風化したり苔むしたりはしているが、決して見苦しくないよう手入れが行き届いていた。
その庭の端にある、土蔵の書庫にて——
椿は黙々と作業に没頭していた。
何かの拍子で指の腹を痛めることもなく、慣れた手つきだ。
古びた紙と墨の匂い、そして埃っぽい空気を逃すため、重い扉は外に向けて開け放たれている。
せわしなく動く指先は貴重な巻物のめくれを整え、折本や冊子本の背表紙の向きを揃え、必要とあらば絵巻や和綴じの別なく文脈棚を設けることさえある。
ただ一心に、つま先をきっちり合わせて伸びゆく若芽のように上半身のみ、忙しなく検分に立ち働いていた。
蔵書の整理を下女に任せきり、ただ目録を読み上げるだけの名家も多いと聞くが、これが、この家の長女としての在り方だった。
「お姉さま、またそのようなところに」
歌うような節を持った軽やかな声が、ふいに静寂を破る。
椿が振り向くと、妹の紬路が着物の裾を絡げながら、漆喰の壁にもたれて立っていた。
髪飾りや襟元など、ところどころ強調色に薄紅色をあしらった姿は春めいている。
「朝からご精の出ることね」
物問いたげな視線を受け止める気になれず、椿は蔵のむき出しの地面に目を落とした。
冗談めいたおちゃらかしだが、いくら因習に囚われない紬路とて和泉の家のお務めをわきまえているはずだ。
「……本当に、何を考えていらっしゃるのか判りませんわ」
その声は柔らかいが、わずかな棘を含んだ声色だった。
椿は聞こえている証拠に少し視線を上げ、首をめぐらせてあたりを見渡した。
紬路が着物の虫干しに心を砕く娘だとしたら、書物に囲まれている自分はさしずめ本の虫といったところだと思った。
まだ浅い春の朝の冷えた空気が二人の間に横たわっている。
「まあ、よろしいわ。わたくしは出かけますの。これから宮中に参りますのよ」
あでやかな笑みを残して、紬路は踵を返す。
どうやら半分自慢がてら、着合わせのもたらす印象を確かめに来たようだった。
椿が驚いて目を丸くするようであれば、華美が過ぎるということだ。
木造の母屋でなく、通用門を目指して裏庭を歩いていく後姿の襲色目はもちろん紅つつじ。妹の名の由来の色だ。
初対面であろうと、一も二もなく今日ばかりは確実に、周囲に印象づく着物を選びたかったのだろう。宮中へは必ず和装で参内しなければ礼節違反となる。
入内済みの高貴な姫たちをのぞいて、都一の后がねと目される矜持にもかけて、鮮烈な顕現でなければならない。
そう、本日は今上帝のお住まいになる内裏にて、春の訪れを寿ぐ桜花の宴が開催される日だった。
数日前、俄かに都中の若い娘にお触書がまわった。
予想される天気と桜の開花具合に合わせた気まぐれな開催の、突然のことに両親も困惑しきりで、作業用のみすぼらしい小袖と袴しか着付けたことのない姉の代わりに急遽、齢16歳の紬路を初参内させることに決めたのだった。
ほどなく馬車上の人となれば、込み合う四脚門への入輿からの紫宸殿の開催時刻にゆるりと間に合うだろう。
数か月前の女学校卒業からは手紙での付き合いとなっていた同級生とも、ゆくりなくおしゃべりを楽しむ余裕さえあるかもしれない。
そうした浮かれ娘たちの多くは、きっと近ごろ渡来流行の白い梭織レースの半襟や伊達衿をつけ、大きく羽を膨らませた福良雀を背に結っている。
銘仙や縞御召の華美なものもあるだろう。
手編みされた繊細なレースは間近で鑑賞されてこその本領発揮であり、銘仙では派手すぎる、縞御召もせっかくの絞加工が見えなければ駄目だ。
やはり帝のおわす遠目からでも色のはっきりすっきりした古風な襲と荘重な文庫結びの娘——めぐりめぐって帝の隣りに立つとも限らない后候補として重々しく似つかわしい娘——に、軍配が上がると思われる。
よしんば若向きの樺桜の襲色目を選んで御前にまかり出た者があったとしても、桜の鑑賞会にちなんで選んだ娘たちのつまらない型に埋没するだけだ。
紬路は卒業したての若さも相まって、その同じ年頃の娘たちの中でも一等目立つ筈だ。
表は樺桜と同じばばくさい蘇芳でも、裏地の薄紅のあしらいが何よりうまい。自らの名を冠する紅つつじの襲をこれまで幾度となく着付けてきた趣味のよさが際立っている。
また姿かたちも、小動物のような黒目がちの眼を一度でものぞきこんだら、どんな爵位の男も身を持ち崩すと噂されている。
似合ってるよ紬路、とよほど言ってやりたかったが——
華やかな妹が行ってしまうと、旧態依然とした和泉邸にはいつもの静寂のみが残された。
