――声が欲しい。
それすら叶わぬまま、わたしはこの家で、人形のように生きている。
わたしの言葉には言霊が宿ってしまう。
音にすれば、人の心を惹きつけ、望まぬ方へ傾ける。
だから、口を閉ざせと言われた。
乞うな。
望むな、と。
誰かの名を呼ぶことさえ、罪であるかのように。
人の心を惹きつける力を持ちながら、行使することは許されない。
けれど、許されたところで、きっと同じだった。
この力がある限り、誰かの優しさも、眼差しも。
――愛を囁かれた言葉でさえも。
わたしには、それが本物なのか判らない。
わたしの言葉で、あなたの心を曲げたくない。
魅了で愛されるくらいなら、愛されない方がましだった。
欲しいのは、誰かを従わせる言葉ではない。
誰かの心を奪い、こちらへ向かせる力でもない。
ただ、わたしの心を、わたしのものとして届けるための声だ。
和泉邸は、静けさに包まれていた。
家司の目は隅々まで行き届き、檜の板廊下は磨き上げられている。
襖は乱れず、空気さえ整えられているようだった。
庭には、鬼門を預る低木と、鹿威し。
乾いた音が、ときおり静寂へ落ちる。
由緒正しく、清雅――。
その在りようは、この家そのものだった。
その庭の片隅にある、土蔵の書庫にて――。
椿は作業に没頭していた。
つま先を揃え、若芽のようにすっと背筋を伸ばしている。
その上半身だけが、本棚の前で忙しなく動いていた。
指先は休まない。
巻物と和綴じの別なく棚を設け直し、めくれを整え、冊子の背を揃え、ときに数え、記し、一つ一つを確かめていく。
全てを終えて、漸く床を掃き清める。
それが早朝の日課であった。
古びた紙と墨の匂い。
埃と混じりあった空気を逃がすため、重い扉は外へ向けて開け放たれている。
「お姉さま、また斯様なところに」
軽やかな調子が、ふいに書庫の静けさを破った。
振り向いたのは、殆ど反射だった。
白塗り壁にもたれて立つ紬路が、目に飛び込んでくる。
春めいた装い。
朝の光を吸ったような色。
見たくて見たのではない。
その華やぎが、椿の目を刺した。
椿は、直ぐに視線を落とした。
「朝からご精が出ますのね……黄ばんだお着物で」
棘はある。
けれど、それは無邪気な域を出ない。
椿は、僅かに顔を上げた。
聞こえている、というだけの証。
そして、また視線を書物の山に戻す。
――今、忙しいの。
そう示すための仕草だった。
なぜなら、椿は母に口を利くことを禁じられていた。
妹も当然ながら知っている。
……なのに、今日は絡んで来ている。
明け切らぬうちに運び込まれ、毎朝うず高く積み上げられる貴重な書物を整えるのが、椿の朝の仕事だった。
紬路が着物の虫干しに心を砕く娘であるなら、書物に囲まれている自分は、さしずめ本の虫といったところか。
――声が欲しい。
否、本の虫ともいえない。
声が欲しい。
意思が欲しい。
たった此れだけのことさえも、誰にも伝える術がない。
人の容貌をしただけの人形だ。
まだ春も浅い。
冷えた空気が、二人の間に静かに横たわっていた。
「まあ、よろしいわ。わたくし出かけますの。これから宮中ですのよ」
ふふ、と悪戯めいた笑みを残し、紬路は踵を返した。
どうやら半ば自慢がてら、着合わせのもたらす印象を確かめに来たらしい。
椿が目を丸くするようであれば、華美に過ぎる――そういった見極めのための揶揄いだろう。
木造の離れの裏手を抜けて通用門へ向かう後ろ姿を、椿は黙ったまま見送る。
遠ざかる襲色目は、紅つつじ。
妹の名を冠する、往昔からの定まった色。
幾度となく袖を通し、自分の色として手懐けている。
その着こなしのよさが、遠目にも判った。
使用人たちが掃除の手を止めて、会釈していく。
ほどなく車宿の馬車の中へ身を納めるはずだ。
初対面であろうと、今日ばかりは、一目で名前を印象づける装いを選びたかったのだろう。
宮中へは、必ず和装で参内するのが礼とされる。
都一の后がねと目される矜持にかけて、その顕現は、鮮烈でなくてはならない。
今日は、今上帝のおわす内裏にて、春の訪れを言祝ぐ桜花の宴が催される日だった。
数日前、都中の若い娘たちへ、俄かな触書が回覧った。
天候と桜の開花具合に合わせた、気まぐれな催しである。
突然の沙汰に両親も戸惑いを隠せなかったが、半幅帯しか着慣れぬ姉に代わり、齢十六の紬路を急ぎ初参内させることとなった。
やがて車上の人ともなれば、込み合う四脚門からの入輿を経て、紫宸殿の開宴にもゆるりと間に合う。
卒業したばかりの女学校の同級とも、思いがけず言葉を交わす機会があるだろう。
そうした娘たちの多くは、白い梭織洋紗の半襟を合わせ、羽を膨らませた福良雀を背に結んでいるに違いない。
中には、銘仙や縞御召といった、目にも綾な装いもあるだろう。
けれど、手編みの繊細な洋紗は、間近で見てこそ真価を発揮する。
銘仙は遠目には大胆に過ぎ、縞御召もまた、その織りの妙は近くでこそ活きる。
紫宸殿の中庭で、一目を奪うには先ず向かない。
だから紬路は、若い娘らしい流行そのものから、僅かに外したのだ。
愛らしさよりも、遠目の強さ。
殿上から見下ろされた時、ひときわ咲いて見える色。
あの子は、それを判っている。
自分がどこに立ち、誰に見られ、どの距離でいちばん美しく見えるか。
椿には与えられなかった場所で、妹の紬路はもう勝ち方を知っていた。
馬車止め近くに居合わせた使用人たちが、次々と腰を折っている。
「紬路お嬢様、いってらっしゃいませ」
「いつものお召し物と、さして変わらんじゃァ、ねえでしょうか……?」
こら、と女中頭がすぐさま制した。
家司もまた、私語を洩らした者を吃と睨みつけた。
だが、一たび零れた言葉は、もう他の耳にも届いてしまっていた。
誰かが、嗜める目を盗み、袖で口元を隠しながら言う。
「そりゃあァ、血税を使い込みそうな派手好き娘、お后にはなさいますまいよ」
帝のおわす殿上から映えるのは、きっと荘重な襲に、文庫結びを合わせた娘だ。
愛らしいだけでは遠目に散る。
目新しいだけでは軽く見える。
立后しても瑕疵とならぬだけの重みが、まず要る。
織りの趣向など、巡り巡って近くへ召し上げられてから凝らせばいい。
もし紬路と同じ蘇芳の表地、樺桜の襲色目を選び、御前にまかり出る者があったとしても、それはただ、同じ趣向の中に埋もれるだけ。
紬路は見送りに出て来た使用人たちへ、昂然と頭をもたげて微笑んでみせた。
――桜を賞でる会なのだもの、樺桜はあまりに凡庸だわ。
――わたくし、どなたにも負けませんわ。
――今を盛りの桜にも勝る、この躑躅で。
抜かりはない筈だ。
幼少の砌より温めてきた夢なのだから。
勝ち気で華やかな妹が去れば、和泉の屋敷には、旧いままの静寂だけが残る。
それすら叶わぬまま、わたしはこの家で、人形のように生きている。
わたしの言葉には言霊が宿ってしまう。
音にすれば、人の心を惹きつけ、望まぬ方へ傾ける。
だから、口を閉ざせと言われた。
乞うな。
望むな、と。
誰かの名を呼ぶことさえ、罪であるかのように。
人の心を惹きつける力を持ちながら、行使することは許されない。
けれど、許されたところで、きっと同じだった。
この力がある限り、誰かの優しさも、眼差しも。
――愛を囁かれた言葉でさえも。
わたしには、それが本物なのか判らない。
わたしの言葉で、あなたの心を曲げたくない。
魅了で愛されるくらいなら、愛されない方がましだった。
欲しいのは、誰かを従わせる言葉ではない。
誰かの心を奪い、こちらへ向かせる力でもない。
ただ、わたしの心を、わたしのものとして届けるための声だ。
和泉邸は、静けさに包まれていた。
家司の目は隅々まで行き届き、檜の板廊下は磨き上げられている。
襖は乱れず、空気さえ整えられているようだった。
庭には、鬼門を預る低木と、鹿威し。
乾いた音が、ときおり静寂へ落ちる。
由緒正しく、清雅――。
その在りようは、この家そのものだった。
その庭の片隅にある、土蔵の書庫にて――。
椿は作業に没頭していた。
つま先を揃え、若芽のようにすっと背筋を伸ばしている。
その上半身だけが、本棚の前で忙しなく動いていた。
指先は休まない。
巻物と和綴じの別なく棚を設け直し、めくれを整え、冊子の背を揃え、ときに数え、記し、一つ一つを確かめていく。
全てを終えて、漸く床を掃き清める。
それが早朝の日課であった。
古びた紙と墨の匂い。
埃と混じりあった空気を逃がすため、重い扉は外へ向けて開け放たれている。
「お姉さま、また斯様なところに」
軽やかな調子が、ふいに書庫の静けさを破った。
振り向いたのは、殆ど反射だった。
白塗り壁にもたれて立つ紬路が、目に飛び込んでくる。
春めいた装い。
朝の光を吸ったような色。
見たくて見たのではない。
その華やぎが、椿の目を刺した。
椿は、直ぐに視線を落とした。
「朝からご精が出ますのね……黄ばんだお着物で」
棘はある。
けれど、それは無邪気な域を出ない。
椿は、僅かに顔を上げた。
聞こえている、というだけの証。
そして、また視線を書物の山に戻す。
――今、忙しいの。
そう示すための仕草だった。
なぜなら、椿は母に口を利くことを禁じられていた。
妹も当然ながら知っている。
……なのに、今日は絡んで来ている。
明け切らぬうちに運び込まれ、毎朝うず高く積み上げられる貴重な書物を整えるのが、椿の朝の仕事だった。
紬路が着物の虫干しに心を砕く娘であるなら、書物に囲まれている自分は、さしずめ本の虫といったところか。
――声が欲しい。
否、本の虫ともいえない。
声が欲しい。
意思が欲しい。
たった此れだけのことさえも、誰にも伝える術がない。
人の容貌をしただけの人形だ。
まだ春も浅い。
冷えた空気が、二人の間に静かに横たわっていた。
「まあ、よろしいわ。わたくし出かけますの。これから宮中ですのよ」
ふふ、と悪戯めいた笑みを残し、紬路は踵を返した。
どうやら半ば自慢がてら、着合わせのもたらす印象を確かめに来たらしい。
椿が目を丸くするようであれば、華美に過ぎる――そういった見極めのための揶揄いだろう。
木造の離れの裏手を抜けて通用門へ向かう後ろ姿を、椿は黙ったまま見送る。
遠ざかる襲色目は、紅つつじ。
妹の名を冠する、往昔からの定まった色。
幾度となく袖を通し、自分の色として手懐けている。
その着こなしのよさが、遠目にも判った。
使用人たちが掃除の手を止めて、会釈していく。
ほどなく車宿の馬車の中へ身を納めるはずだ。
初対面であろうと、今日ばかりは、一目で名前を印象づける装いを選びたかったのだろう。
宮中へは、必ず和装で参内するのが礼とされる。
都一の后がねと目される矜持にかけて、その顕現は、鮮烈でなくてはならない。
今日は、今上帝のおわす内裏にて、春の訪れを言祝ぐ桜花の宴が催される日だった。
数日前、都中の若い娘たちへ、俄かな触書が回覧った。
天候と桜の開花具合に合わせた、気まぐれな催しである。
突然の沙汰に両親も戸惑いを隠せなかったが、半幅帯しか着慣れぬ姉に代わり、齢十六の紬路を急ぎ初参内させることとなった。
やがて車上の人ともなれば、込み合う四脚門からの入輿を経て、紫宸殿の開宴にもゆるりと間に合う。
卒業したばかりの女学校の同級とも、思いがけず言葉を交わす機会があるだろう。
そうした娘たちの多くは、白い梭織洋紗の半襟を合わせ、羽を膨らませた福良雀を背に結んでいるに違いない。
中には、銘仙や縞御召といった、目にも綾な装いもあるだろう。
けれど、手編みの繊細な洋紗は、間近で見てこそ真価を発揮する。
銘仙は遠目には大胆に過ぎ、縞御召もまた、その織りの妙は近くでこそ活きる。
紫宸殿の中庭で、一目を奪うには先ず向かない。
だから紬路は、若い娘らしい流行そのものから、僅かに外したのだ。
愛らしさよりも、遠目の強さ。
殿上から見下ろされた時、ひときわ咲いて見える色。
あの子は、それを判っている。
自分がどこに立ち、誰に見られ、どの距離でいちばん美しく見えるか。
椿には与えられなかった場所で、妹の紬路はもう勝ち方を知っていた。
馬車止め近くに居合わせた使用人たちが、次々と腰を折っている。
「紬路お嬢様、いってらっしゃいませ」
「いつものお召し物と、さして変わらんじゃァ、ねえでしょうか……?」
こら、と女中頭がすぐさま制した。
家司もまた、私語を洩らした者を吃と睨みつけた。
だが、一たび零れた言葉は、もう他の耳にも届いてしまっていた。
誰かが、嗜める目を盗み、袖で口元を隠しながら言う。
「そりゃあァ、血税を使い込みそうな派手好き娘、お后にはなさいますまいよ」
帝のおわす殿上から映えるのは、きっと荘重な襲に、文庫結びを合わせた娘だ。
愛らしいだけでは遠目に散る。
目新しいだけでは軽く見える。
立后しても瑕疵とならぬだけの重みが、まず要る。
織りの趣向など、巡り巡って近くへ召し上げられてから凝らせばいい。
もし紬路と同じ蘇芳の表地、樺桜の襲色目を選び、御前にまかり出る者があったとしても、それはただ、同じ趣向の中に埋もれるだけ。
紬路は見送りに出て来た使用人たちへ、昂然と頭をもたげて微笑んでみせた。
――桜を賞でる会なのだもの、樺桜はあまりに凡庸だわ。
――わたくし、どなたにも負けませんわ。
――今を盛りの桜にも勝る、この躑躅で。
抜かりはない筈だ。
幼少の砌より温めてきた夢なのだから。
勝ち気で華やかな妹が去れば、和泉の屋敷には、旧いままの静寂だけが残る。



