はちみつ色


「それで!?」

 芹夏は身を乗り出し、私にマイクを向けた。
 大きく開かれた眼は輝いていて、期待に染まっているのが容易にわかる。
 しかしここから先には芹夏が待ち望んでいる展開は訪れないため、私はぎこちない笑みを浮かべた。

「一回だけ二人で遊びに行ったけど、二週間くらい……夏休み前に別れちゃった」
「二週間で!? めっちゃ両想いな感じだったのに!?」

 芹夏の驚いた表情は、なんだか懐かしい。佑奈も、今の芹夏と同じような反応をしていたから。
 ただ、佑奈のほうには怒りも滲んでいたような気がする。

 ――別れるんじゃなくて、友達に戻ろう
 ――君に僕は似合わない

 芹夏は、柳くんが私にそのメッセージを送ってきたことを知っているから。
 柳くんからのメッセージ通知に喜んだのもつかの間、一気に頭が真っ白になったのを今でも覚えている。
 だけど、不思議と私の気持ちは落ち着いていて、文字通りなにも考えられない状況というのは存在するのだと思った。
 それはきっと、好きな人と別れるということがどういうことなのかを、理解していなかったから。
 恋人関係が終わっても、またあの時間を過ごすことができると、本気で思っていたから。

 別れたら友達には戻れないのだと思い知ったのは、夏休みが明けてからだった。
 あれだけ部活に参加していた柳くんが、一度たりとも部室に顔を出さなくなったのだ。
 廊下ですれ違っても、目が合わない。
 それでようやくわかった。
 私たちは知り合う前の関係、他人になってしまったのだと。
 もう、柳くんの世界に触れることはできない。隣に並んで、同じ世界を見ることは叶わない。
 そういった柳くんと別れた痛みはじわじわと身体中に広がっていき、何度も胸が張り裂けそうになった。
 目を瞑れば、瞼の裏には優しく微笑む柳くんが浮かんでくるのに。
 この先、私がその優しさに触れることはないのだと思うと、泣き叫びたくなって。
 とうとう私は、笑い方すらも忘れていた。
 そんな抜け殻みたいな私を救ってくれたのは、佑奈だった。
 少しずつ日常に戻り始めたころには、私は柳くんとの思い出を上手に思い出せなくなっていた。

「といっても、本当に柳くんのことが好きだったのか、わからないけどね。芹夏にこうして聞かれるまで、ちょっと忘れてたくらいだし」

 私が作り笑いを浮かべて言うと、芹夏は信じられないと言わんばかりの顔をした。

「……灯里、本気で言ってるの?」

 七割くらいは本気で思っているので首を縦に振った途端、芹夏はマイクを置きながら大きなため息をついた。
 そして私に視線を向けたときには、真剣な眼差しに移り変わっていた。
 芹夏の力強い視線から逃げたいと思ってしまうのに、目が離せない。

「私は、逆だと思う」
「逆……?」

 芹夏は小さく頷く。

「灯里の生活に溶け込んで、灯里を変えた相手だよ?」

 溶け込む。
 その言葉が胸をくすぐる。
 芹夏が言うことを信じるのなら、私にとっての柳くんは、甘い蜂蜜。
 隠し味のように、私の心に沁みわたっているのだとしたら、こんなにも嬉しいことはない。

「好きなんてちっぽけな想いじゃない。灯里は柳くんのことを愛してたんだよ」

 聞きなじみのない言葉を芹夏がさらっと言うから、私が「あ……!?」と反応したのが子供みたいで恥ずかしくなる。
 だけどそのせいか、芹夏はいつもの雰囲気に戻った。

「いいなあ。私も一回くらいは、灯里みたいに誰かのことを一途に想ってみたい」

 そう羨ましがられると、柳くんへの思いを忘れようとしているのが悪いことのように思えてくる。
 報われなくても、この気持ちを大切にしていい。
 芹夏がそう言ってくれているようで、なんだか心が軽くなった気がする。
 忘れないといけないと思っていたから、余計に。

「ねえ、柳くんと会ったりしないの?」

 頬杖をついてこちらを見る芹夏は、すっかり私の恋バナを楽しむ芹夏に戻っている。

「今、どこでなにをしてるか全然知らないから……」
「連絡先は?」
「知ってたけど、消えちゃった」
「そっかあ」

 芹夏はそう言いながら、背もたれに体重を預けた。
 私だって、メッセージのやり取りができなくても、柳くんのアカウントを残しておきたかった。
 でも、柳くんがアカウントを消してしまったのだから、どうしようもない。

「……会いたいって思わないの?」
「どう、だろう……」

 柳くんと話さなくなったとは言っても、数か月前までは同じ学校に通っていたから、柳くんの姿をよく見かけていた。
 だからか、ものすごく会いたいとは思っていない。
 かといって、会いたくないかと言われればそれも違うような気がした。

「……でも、もし柳くんに再会することがあったら……好きになってよかったって思ってもらえるような人になってたいなとは、思ってるかな」
「そっか」

 芹夏は、私をからかう様子など微塵も見せず、穏やかに笑った。
 その瞬間、柳くんの笑みをはっきりと思い出した。ふたりはまったく似ていないのに。
 柔らかくて暖かい柳くん。芹夏に話したからか、あの日々が鮮明によみがえる。
 ああ、好きだなあ……
 どうして私は、好きかどうかわからないなんて言えたんだろう。
 この感情が好きではないのなら、私は一生、恋をすることはない。
 そう思うくらい、私の中で彼への想いは育っているらしい。
 もう会えないのなら、彼のことは諦めるべきなのかもしれない。届かない想いは、蓋をするべきなのかもしれない。
 でも、もう少しだけ。
 柳くんよりも大切にしたいと思える人に出会えるまで。
 私は、はちみつ色の恋をしていたい。

「よし、歌おっか!」

 芹夏が差し出したマイクを受け取り、私は今日も、私の日常を過ごしていく。
 優しい感情とともに。