迷子の放送室で、君にだけ見つかりたい

ページの文字は目に入っているのに、意味だけが滑っていく。俺はそれを諦めて、指先で行をなぞるふりをした。悠真は本を開いたまま、視線を紙面に置いている。図書室の「話さない空気」を守ったまま、話すための姿勢。慣れる練習、ってこういうことかもしれない。

「……結城」

小声。名字じゃないのに、まだ不自然じゃない。俺の胸がひゅっとなる。ひゅっとなるけど、息は浅くならないように、ゆっくり吐く。

「……なに、悠真」

俺も小声で返した。名前を口にした瞬間、頬が熱くなる。でも、言えた。言えたことが意外で、少しだけ誇らしい。悠真が本の端を押さえたまま、笑いを噛み殺す。

「慣れてない声」

「うるさい」

「うるさくない。小声だし」

「……そういうとこ」

俺が睨むふりをすると、悠真は「はいはい」と言わずに、ちゃんと受け取るみたいに頷く。そのまま、冗談を一滴だけ混ぜる。

「じゃあ、練習。三回言う」

「何を」

「俺の名前」

俺は息を詰めた。図書室でそれは、拷問に近い。でも逃げないって決めた。俺は本の影に顔を隠すみたいに視線を落として、言った。

「……ゆ、うま」

一回目は噛む。悠真が肩を揺らして笑いそうになって、でも笑わない。笑うと逃げるのを知ってる。

「もう一回」

「……悠真」

二回目は少し滑らかになる。俺の胸の奥のざわつきが、ほんの少しだけ丸くなる。

「最後」

「……悠真」

三回目は、声が自分のものになる。言った瞬間、恥ずかしさより先に、安心が来る。呼び方が“嘘”じゃなくなる感じ。俺はそのまま、反撃みたいに言った。

「今度は、お前」

悠真が目だけで「はい」と返す。

「……結城」

二回目。

「……結城」

三回目。

三回目で、俺の胸が静かに揺れた。俺が呼んだのと同じように、悠真の声も少しずつ“慣れていく”。名前で呼ばれるのは、背中を押されるみたいで怖いのに、同時に落ち着く。距離が決まるからだ。

「これで、当番の続きも呼べる」

悠真が囁く。俺は小さく頷いた。

「……呼ぶ。逃げない」

言葉にすると、約束が形になる。図書室の静けさの中で、俺たちは本を読むふりを続けながら、名前だけを少しずつ日常に混ぜていった。慣れる練習は、派手じゃない。派手じゃないから、続けられる。