サイン欄に並んだ文字を見ていると、妙に現実味が出た。黒いインクの“相澤”が、俺の“結城”の隣で乾いていく。たったそれだけなのに、胸の奥がそわつく。
「次、備品返却。体育館倉庫寄るぞ」
相澤がいつもの調子で言って、俺もいつもの調子で返すはずだった。
「分かった、相――」
そこで舌が滑った。声が、勝手に別の形になった。
「……分かった、悠真」
言ってしまってから、時間が止まる。廊下の遠くで誰かが笑ってるのに、音が薄い。俺は掲示板のピンを抜くふりをして目を逸らした。今のは無かったことにしたい。したいのに、相澤が無かったことにしない沈黙が落ちる。
「……今」
相澤が小さく言う。
「今、名前で呼んだ?」
からかう声じゃない。確認の声。逃げ道を残したまま、逃げっぱなしにしない声。俺は喉が熱くなって、適当に否定しそうになって、やめた。雑な否定はもう、したくなかった。
「……呼んだ」
相澤が一拍置いて、ほんの少しだけ笑った。薄いコメディの笑いじゃなく、嬉しいのを隠す笑い。
「規約、改訂?」
「だから規約ないって……」
言い返したのに、声が弱い。相澤は笑いを引っ込めて、真面目に言う。
「嫌じゃないなら、そのままでいい」
その一言で、俺の胸がきゅっとなる。嫌じゃない。嫌じゃないどころか、呼んだ瞬間に怖さと一緒に、変な安心が混ざった。名前で呼ぶと、距離が変わる。変わるから怖い。怖いのに、戻れなくなるのが嫌じゃない。
「……今だけ」
俺は苦し紛れに言った。相澤が頷く。
「了解。“今だけ”の固定」
「固定って言うな」
「言わないと消えるから」
相澤がさらっと言って、俺の方を見ずに掲示物の束を持ち上げる。その横顔がいつも通りで、だから余計に、今の一言が現実になる。
俺は息を吸って、吐いて、結局もう一回だけ言った。
「……行くぞ、悠真」
相澤が「うん」とだけ返す。
廊下の当番の続きは、呼び方ひとつで、ちゃんと“俺たちの続き”にもなった。
「次、備品返却。体育館倉庫寄るぞ」
相澤がいつもの調子で言って、俺もいつもの調子で返すはずだった。
「分かった、相――」
そこで舌が滑った。声が、勝手に別の形になった。
「……分かった、悠真」
言ってしまってから、時間が止まる。廊下の遠くで誰かが笑ってるのに、音が薄い。俺は掲示板のピンを抜くふりをして目を逸らした。今のは無かったことにしたい。したいのに、相澤が無かったことにしない沈黙が落ちる。
「……今」
相澤が小さく言う。
「今、名前で呼んだ?」
からかう声じゃない。確認の声。逃げ道を残したまま、逃げっぱなしにしない声。俺は喉が熱くなって、適当に否定しそうになって、やめた。雑な否定はもう、したくなかった。
「……呼んだ」
相澤が一拍置いて、ほんの少しだけ笑った。薄いコメディの笑いじゃなく、嬉しいのを隠す笑い。
「規約、改訂?」
「だから規約ないって……」
言い返したのに、声が弱い。相澤は笑いを引っ込めて、真面目に言う。
「嫌じゃないなら、そのままでいい」
その一言で、俺の胸がきゅっとなる。嫌じゃない。嫌じゃないどころか、呼んだ瞬間に怖さと一緒に、変な安心が混ざった。名前で呼ぶと、距離が変わる。変わるから怖い。怖いのに、戻れなくなるのが嫌じゃない。
「……今だけ」
俺は苦し紛れに言った。相澤が頷く。
「了解。“今だけ”の固定」
「固定って言うな」
「言わないと消えるから」
相澤がさらっと言って、俺の方を見ずに掲示物の束を持ち上げる。その横顔がいつも通りで、だから余計に、今の一言が現実になる。
俺は息を吸って、吐いて、結局もう一回だけ言った。
「……行くぞ、悠真」
相澤が「うん」とだけ返す。
廊下の当番の続きは、呼び方ひとつで、ちゃんと“俺たちの続き”にもなった。
