迷子の放送室で、君にだけ見つかりたい

印刷室に入ると、空気が一段だけ“現実”に戻る。紙の匂い、インクの熱、プリンタの低い唸り。倉庫の暗さに残っていた指先の熱が、ここでは作業の温度に紛れていく気がした。俺は借りた手袋を外そうとして止めた。まだ、外したら何かを思い出しすぎる。

「掲示、差し替え版いける?」

相澤がいつも通りの声で聞く。いつも通り、が助かる。俺は机の上の束をトントンと揃えて、赤ペンを取り出した。

「いける。『案内放送室』統一。QRなし。避難導線注意文は…この位置」

「OK。俺、印刷回す。結城、誤字」

「了解」

短い言葉が、ちょうどいい。言葉を増やすと、倉庫の“止まった一瞬”が戻ってきそうで怖い。でも、減らしすぎると、また遠くなる。その間を、プリンタの音が埋めてくれる。

俺は紙を一枚ずつめくる。
「受付」表記の統一、送り仮名、句読点。淡々と潰していくと、胸のざわつきが少しずつ薄くなる。相澤が用紙を補充して、余白に付箋を貼っていく。役割が噛み合うと、世界がちゃんと回る。

「結城」

相澤が呼んで、俺は反射で顔を上げそうになって、止めた。代わりに「なに」と作業の声を出す。

「手袋、あったかい?」

質問が普通すぎて、逆に刺さる。俺は視線を紙に戻したまま答えた。

「……あったかい」

「よし。じゃ、今日の印刷はそれでいける」

それだけ言って、相澤は何も足さない。“さっき触れた”も、“固定”も、ここでは持ち込まない。持ち込まないのが優しさだと分かってしまって、俺は少しだけ息を吐いた。

プリンタが最後の一枚を吐き出す。紙がトレイに揃っていく音が、小さな終わりの合図みたいだった。俺は束を揃えて、付箋の位置を確認する。

「……戻ったな」

ぽろっと漏れた俺の言葉に、相澤が小さく笑う。

「戻した。日常に」

“戻した”が、俺の胸の奥に静かに落ちた。告白じゃない。決めただけ。そうやって、今日もまずは紙を揃える。俺は借りた手袋の指先を軽く握って、次の束を受け取った。