冬の海は、音だけが先に届く。波が岩に砕ける「どん」という低い響きが、木の床を震わせた。
康太は、その音を聞いた瞬間に「ここ、夜のくせにうるさいな」と口にして――自分の声が、空気に混ざって消えたのを見て、黙った。
手のひらを目の前にかざす。輪郭はある。けれど、灯りの角度によって透ける。息を吐いても白くならない。
「……俺、どうなってんだ」
返事の代わりに、廊下の奥から鈴の音がした。ちりん、と小さく、やけに得意げに。
角を曲がると、黒猫がいた。毛並みは夜そのもの。首に赤い紐、胸元に小さな札。猫は康太を一瞥し、尻尾で「ついてこい」と合図した。
「おい、猫。ここ、どこだよ。俺、さっきまで……」
言いかけたところで、記憶が跳ねた。ハンドル。対向車のライト。雨。ブレーキ。誰かの名前を叫ぼうとして――喉が空っぽのまま。
黒猫は、階段を上りきった屋根裏部屋の前で立ち止まった。扉は半開き。中から、古い木箱の匂いがする。
猫が前足で箱を叩く。コツン、と乾いた音。
康太が覗き込むと、箱の中に、銀色の枠があった。眼鏡でも、宝石でもない。まるで「眼」だけが、道具になったみたいな形――レンズの中心に、淡い金色の点が浮いている。
「魔法の眼……?」
名前が舌に乗ったのは、不思議なことに初めてじゃない気がした。誰かが、昔ここでそう呼んだのを、聞いたことがあるような。
黒猫が、ちりん、と鈴を鳴らす。
次の瞬間、階下でガタン、と大きな音がした。
「ちょ、待って。これ……鍵、合ってるよね?」
心遥は、別荘の玄関で鍵束を振った。金属がぶつかって、しゃらしゃら鳴る。夜の森の静けさに、その音だけがやたら明るい。
「……よし。開いた。勝ち」
誰に向けた勝ちなのか、自分でもわからないまま、心遥は中へ入った。床板がきしむのを気にせず、靴のまま一歩、二歩。懐中電灯の光が、古い写真立てを横切った。
ここは、亡くなった叔母が大事にしていた別荘だ。遺言状には「一度だけ、夜に来なさい」とだけ書いてあった。
わざわざ夜? 意味がわからない。でも、意味がわからないほど、やってみたくなる。
心遥はリビングのテーブルに手をつき、顔を近づけた。
「で、何が起きるの。幽霊? 出るなら出て。私、寝不足になるの嫌なんだけど」
返事はない。代わりに、廊下の奥から鈴の音がした。
ちりん。
「……呼んだ?」
心遥が廊下へ向かうと、黒猫が座っていた。首の赤い紐が目立つ。猫は人間を見上げて、まばたきひとつせず、くるりと踵を返した。
「ちょっと。案内してくれるの? いいよ、乗る」
心遥は笑って追いかけた。階段を上り、屋根裏へ。猫が半開きの扉の前で止まる。中には木箱。
心遥は箱を開けた。
銀色の枠。中央に金色の点。
「……眼鏡? 違うな。片目だけ。変なの」
心遥は迷わず、それを自分の右目に当てた。
視界が、ひゅっと狭まり――次の瞬間、屋根裏の空気が「誰かの息づかい」で満ちた。
目の前に、青年が立っていた。濡れた髪。ジャケット。目を丸くして、こっちを見ている。
「え。見えるの?」
心遥が言うと、青年が指で自分の胸を指した。
「俺……見えてる? 君、誰? っていうか、ここ……」
心遥は魔法の眼を外した。青年が消えた。
「おお。消えた。じゃあ、これ、当たり」
もう一度当てる。青年が戻る。
心遥は、肩をすくめた。
「当たりって言われても困る、って顔してるね。とりあえず、名乗って。私は心遥」
青年は一拍置いてから、正面を向いた。
「康太。……多分、俺、死んだ」
言い切ったあと、康太は口を閉じた。言葉に責任を置くみたいに。
心遥は、康太を上から下まで眺めて、ふっと息を漏らした。
「うん。透けてる。死んでるっぽい。で? どうする? 泣く? 叫ぶ? 私は叫ばない方が好き」
「泣くとかじゃなくて……俺、まだやり残しが――」
「それ、叔母の遺言のことか。夜に来い、ってやつ。つまり、今夜だけの用事がある。でしょ?」
心遥は言い切って、黒猫を見た。猫は尻尾をぱたぱた振った。
そのとき、心遥の耳には普通の鳴き声に聞こえたのに、魔法の眼越しには、猫の声が言葉になって届いた。
『日の出まで。未練、片づけろ。腹も減った』
「しゃべった……!」
心遥が目を輝かせると、康太が一歩下がった。
「いや、そこ驚くとこだろ」
「だって、面白い。で、猫。未練って何」
黒猫は鼻を鳴らし、階段を下り始めた。
『この家に残ったもの。人の手で、ほどけ』
リビングの暖炉は冷えきっていた。けれど、テーブルの上に置かれた古いノートは、なぜか温かい。表紙には、叔母の字で「朝までの手順」と書かれている。
心遥はノートを開き、指でページを叩いた。
「うわ、丁寧。『魔法の眼を通して見える光の糸をほどくこと』。ふむふむ。『ほどけた糸は、灯りに変わる』。灯り?」
康太はノートを覗き込み、眉を寄せた。
「叔母さん、これ知ってたんだ……」
心遥は康太に視線を向ける。魔法の眼越しにしか見えない彼の目は、逃げない。ちゃんと向き合う目だ。
「あなた、ここに来る予定だった?」
康太は、うなずいた。
「俺、賑やかな場所が好きなんだ。人の声がして、笑ってて、うるさいくらいが落ち着く。……だから、ここを、そういう場所にしたかった」
心遥は口の端を上げた。
「別荘を? 森と海しかないのに?」
「だから、準備してた。屋台じゃなくてもいい、鍋でも、提灯でも。……けど、いつも後回しにしてた。『忙しい』って言って」
言い訳をしない言い方だった。心遥は、その「言わない分」を拾うように、ノートの次のページをめくった。
「糸が結ばれてる場所、四つ。台所、廊下、中庭、音楽室。行こ」
「行こ、って……君、怖くないの?」
「怖いなら、挑まない。ほら、先に行って。見えるんでしょ?」
康太は笑いそうになって、笑えなかった。代わりに、頷いて歩き出した。透けた足音はしない。だから心遥が、わざと床を強く踏んで「二人分」の音を作った。
台所に入ると、鍋の上に光の糸が張っていた。細い金色が、蜘蛛の巣みたいに揺れている。
魔法の眼越しに、白い割烹着の男が立っていた。包丁を握り、眉間にしわ。鍋を見つめて、何度も首を振っている。
『味が決まらん……!』
黒猫が、冷蔵庫の前に座った。
『こいつ、最後まで煮込みたかった。途中で倒れた。だから、ほどけ』
心遥は腕まくりした。
「料理ね。できる。挑戦、好き」
康太が素直に言う。
「助かる。俺、味見は……できないっぽい」
心遥は鍋の蓋を開け、匂いを嗅いだ。少しだけ焦げの匂いがする。でも、具は悪くない。
「塩、足りない?」
康太は、舌の代わりに、目で鍋を見た。
「ここに、追加するなら、少し。入れすぎたら戻せない」
「入れすぎたら戻せないって、言い切るんだ」
「戻せると思って、やらかしたことあるから」
心遥は、笑って塩をひとつまみ入れた。鍋が、ふっと光った。
割烹着の男が、静かに頷き、鍋に向かって頭を下げた。次の瞬間、光の糸がほどけて、暖炉の上のランプに吸い込まれた。ランプが、ぽっと点いた。
「灯り、増えた」
心遥が言うと、康太は小さく息をついた。
「……すごいな」
「すごいのは、叔母さんの手順書。あと、猫の腹」
黒猫が、にゃあ、と鳴いた。魔法の眼越しには『まだだ』と聞こえた。
廊下の写真立ての前にも、光の糸があった。写真には、若い叔母と、少年の康太が写っている。ふたりの後ろに、同じ別荘。まだ新しい頃の木の色。
写真立ての前に、少女の影が立っていた。リボンのついた髪。口を尖らせ、写真を睨んでいる。
『ごめん、って言えなかった』
康太が写真を見て、喉を鳴らした。
「……それ、俺だ。いや、俺じゃない。昔の俺が……」
心遥は魔法の眼を押さえたまま、康太の横に立った。
「何をしたの」
康太は、写真に向かってまっすぐ言った。
「俺、ここに来るたび、叔母さんが作るケーキを勝手に食べてた。叱られて、逆ギレして、家を飛び出して……そのまま、謝らなかった」
言いながら、康太は廊下の床を見た。視線が逃げる。けれど、言葉は止まらない。
「今日こそ、謝りたい。……けど、俺、声が届かない」
心遥は写真立てを持ち上げ、鏡の前へ運んだ。鏡は壁にかかっている。そこに写真立てを映すと、少女の影が鏡の中でこっちを向いた。
心遥は、鏡に向かって言った。
「聞こえる? 康太が言う。『ごめん』って。言い訳はしないって」
康太は一歩前に出て、鏡の前で頭を下げた。深く、長く。
少女の影が、しばらく眉を寄せたまま黙っていたが――ふっと肩を落とし、笑った。
光の糸がほどけ、廊下の壁のブラケットライトが点いた。
「二つ目」
心遥が指を立てると、康太は、照れたみたいに口角を上げた。
「……君、さっきから手が止まらないな」
「止めない。朝まででしょ」
康太は、頷いた。
中庭に出ると、海風が頬を切った。提灯が何個も吊るされているのに、どれも真っ暗だ。光の糸が、提灯から提灯へ、蜘蛛の巣みたいに張り巡らされている。
康太が、提灯を見上げた。
「……これ、俺が買った。ここで、みんな集めて、笑って、うるさくして。父さんに見せたかった」
心遥は提灯のひとつを手に取った。紙は少しだけ湿っている。けれど、破れてはいない。
「つけるには、火? 電池?」
黒猫が、提灯の下に置かれた箱を前足で叩いた。
『蝋燭。だけど、灯りだけじゃ足りん。笑い声が要る』
「笑い声?」
心遥は、唇を尖らせた。
「今、夜中だよ。海と森しかない。人、呼ぶ?」
康太が、正直に言った。
「呼びたい。……けど、迷惑だ。俺、生きてた頃から、そういうの、気にして後回しにした」
心遥は康太を見た。魔法の眼越しの彼は、いつも自分を誤魔化さない。だから余計に、腹が立つ。
「迷惑って言う前に、一回だけやってみなよ。失敗したら、私が責任取る」
「責任って、何を――」
「怒られたら、私が謝る。ほら、電話する」
心遥はスマホを取り出し、連絡先を開いた。叔母の家の近所の人の番号が、遺言状と一緒に封筒に入っていたのを思い出したのだ。
コール音。三回目で出た。
「もしもし。夜中にすみません。心遥です。叔母の別荘に来てて……ええ。今、中庭の提灯が、全部、点けたがってるんです」
康太が目を丸くする。
「それ、説明になってない!」
心遥は電話口に向かって、さらっと言った。
「はい。変な話です。でも、朝焼けが綺麗な場所なので、もし起きてる人がいたら、温かい飲み物持って、来ませんか。……はい。無理なら大丈夫。私はやるだけやったってことで」
通話が切れた。心遥は肩をすくめる。
「呼んだ。来るか来ないかは、相手が決める」
康太は、しばらく黙っていたが、ぽつりと言った。
「……ありがとう」
「今さら。蝋燭、点けよ」
心遥は箱から蝋燭を取り出し、ライターで火をつけた。提灯の中へ。ひとつ、ふたつ。火が揺れて、提灯の紙がほんのり赤く染まる。
けれど、光の糸はほどけない。
「まだ、笑い声」
心遥は康太を見た。
「笑わせて。得意なんでしょ、賑やかな場所」
康太は、真面目な顔で言った。
「俺、面白いこと言うの、得意じゃない」
「じゃあ、踊る?」
「踊れない」
「じゃあ、叫ぶ?」
「叫ぶのは……好きだけど、今の喉じゃ無理だ」
心遥は、ふっと笑った。
「じゃあさ。昔の話、して。ここで、ケーキ盗み食いしてた話みたいに。恥ずかしいやつ。私が笑う」
康太は、顔を覆いたくなったみたいに目を細めた。
「……そんなのでいいのか」
「いい。ほら、早く。朝までだよ」
康太は、観念したように話し始めた。別荘の階段で滑って尻もちをついた話。海に向かって格好つけて石を投げたら、自分の足元に落ちた話。叔母に「次やったら、皿洗い百枚」と言われて、本当に百枚数えた話。
心遥は、噴き出した。肩が揺れ、息が止まる。
その瞬間、提灯の光が、ひとつ、ふたつ、ぱっと強くなった。光の糸がほどけ、空へ昇っていく。
「……笑い声、これでいいんだ」
康太が呟いた。声が震えた。
玄関の方から、車のライトが揺れた。砂利を踏む音。複数の足音。
「来た!」
心遥が走り出す。魔法の眼を当てたまま、玄関を開けると、近所の男性と、その奥に数人。手にはポット、紙コップ、毛布。
「夜中にすまんねえ。……提灯が点けたがってるって、どういう――」
男性の言葉が途切れた。彼の視線が、心遥の右目の道具に止まる。
魔法の眼越しにだけ、康太が玄関に立っている。
男性の喉が動いた。
「……康太?」
康太は、背筋を伸ばした。逃げない。誤魔化さない。
「父さん。来てくれて、ありがとう」
男性――康太の父は、笑おうとして、うまく笑えなかった。代わりに、紙コップを握りしめた。
「お前……なんで、こんな……」
康太は、言葉を探してから、正面を向いた。
「俺、ここで、父さんに『ありがとう』って言いたかった。俺が好きな、うるさい場所にして。……でも、後回しにした。だから、今夜だけでも、やる」
心遥は、父の手に魔法の眼を渡した。
「見えます。たぶん。……朝までだけ」
父は震える指で、それを目に当てた。康太が見えた瞬間、父の肩が落ちた。息が漏れた。
「……ばか」
康太は、笑った。ほんの少し、子どもの頃みたいに。
「そうだな」
近所の人たちが、中庭へ向かった。提灯が揺れる。温かい飲み物の湯気が上がる。誰かが「寒い寒い」と笑い、誰かが「こんな夜に集まるなんて」と笑う。
心遥も笑った。康太も笑った。黒猫は、ポットの横に座り、得意げに尾を振った。
光の糸が、最後の一本だけ残っていた。音楽室の扉の隙間から、細く光っている。
音楽室には、古いアップライトピアノがあった。鍵盤の蓋は閉じている。光の糸は、ピアノの上に置かれた封筒へ伸びていた。
封筒の宛名は――「心遥へ」。
心遥は足を止めた。魔法の眼を当てたままでも、文字は読める。手が、少しだけ震えた。自分で気づいて、握りこぶしを作る。
「……これ、何」
康太は、封筒を見て、唇を噛んだ。
「俺が、書いた。今日、渡すつもりだった。ここに来たら、言えると思って……」
心遥は封筒を手に取った。封は、まだ閉じている。
「開ける?」
康太は、逃げずに言った。
「開けてほしい。……読んだら、笑ってほしい。泣くのは、ずるいから」
心遥は鼻で笑った。
「ずるいのは、今さら手紙。……でも、挑む」
封を切る。中の紙は、何度も折り直した跡がある。
心遥は声に出して読んだ。
「『心遥へ。俺、忙しいふりをして、会うのを後回しにした。会ったら、ちゃんと向き合わなきゃいけないから。……でも、逃げたくない。別荘を、みんなが笑う場所にしたい。君が、最初に笑ってくれたら、俺は始められる。今夜、ここで待ってる』」
読み終えて、心遥は顔を上げた。
康太が、まっすぐ見ていた。
心遥は、紙を胸に押し当てた。息を吸って、吐いた。
「……遅い」
「うん」
「でも、読めた」
「……うん」
心遥は、口角を上げた。
「さっきの提灯の話、続き。私は、ここを『朝焼けを見に来る家』にしたい。笑う人が来るなら、なおさら」
康太の目が揺れた。涙が落ちる代わりに、輪郭が少しだけ薄くなる。
黒猫が、ちりん、と鈴を鳴らした。
『時間だ。最後、ほどけ』
心遥はピアノの蓋を開けた。鍵盤は冷たい。でも、指は動く。昔、叔母に教わった曲の断片を、覚えている。
ぽろん、と音が鳴った。
音は、夜の別荘に響いた。中庭の笑い声と混ざり、海の音と混ざり、ひとつの「賑わい」になった。
康太が、父へ向かって頭を下げた。
「父さん。ありがとう。俺、先に行く」
父は、魔法の眼を目に当てたまま、頷いた。頷くしかできないみたいに。
康太は心遥を見る。
「心遥。来てくれて、ありがとう。……君が笑うところ、見られた」
心遥は、笑いながら言った。
「じゃあ、次は私が笑わせる番。……だから、勝手に消えないで」
康太は、困ったみたいに笑った。
「勝手じゃない。……朝だから」
窓の外が、薄桃色に変わっていく。海が、少し明るくなる。
光の糸が、ピアノの上でほどけた。糸は細い光の粒になり、康太の輪郭へ降り積もる。
康太は、最後に、黒猫へ目を向けた。
「猫。腹、満ちたか」
黒猫は、にゃあ、と鳴いた。魔法の眼越しには『まあまあだ』と聞こえた。
康太が笑って、消えた。
透けていた場所に、朝の光だけが残った。
心遥は魔法の眼を外し、握りしめた。金色の点は、まだ温かい。
中庭から、誰かが呼ぶ声がした。
「心遥ちゃん、あったかいの、まだあるよー!」
心遥は返事をした。いつもより少し大きな声で。
「行く!」
別荘の提灯が、朝の風に揺れた。

