君の体温、春のひだまり

放課後の理科準備室。西日が差し込む窓際で、私は息を止めていた。

「……ねえ、心春。こっち向いて?」

低いけれど、どこか甘い声。幼馴染の遥斗くんが、私の顔を覗き込んでいる。


さっきまで一緒にテスト勉強をしていたはずなのに、いつの間にか彼のノートは閉じられていて、代わりに私の右手が、彼の手の中に収まっていた。

「……やだ。今、絶対私、変な顔してるもん」

私は俯いたまま、自由な左手で熱くなった頬を押さえる。


心春(こはる)という名前の通り、私は昔から感情がすぐに顔に出てしまう。
今の私の顔は、春の桜よりもずっと赤くなっているはずだ。

「変じゃないよ。心春はいつだって可愛い」

さらりと言ってのける彼に、心臓が跳ねる。


遥斗くんは、学校では「クールで近寄りがたい秀才」なんて言われているけれど、私の前でだけは、こういう「あざとい」言葉を平気で口にする。

「……嘘つき。遥斗くん、他の女の子にもそうやって言ってるんでしょ」

「言うわけないだろ。……俺がこんなに必死なの、心春だけなんだけど」

繋がれた手に、ぎゅっと力がこもる。


驚いて顔を上げると、そこには余裕たっぷりな微笑みではなく、耳まで赤くした遥斗くんがいた。

「……え」

「気づいてないの? 俺、ずっと心春の『幼馴染』から卒業したくて、頑張ってるんだけど」

彼は私の手を引き寄せると、その指先に小さく唇を落とした。

窓の外で部活中の掛け声が聞こえるけれど、今の私には、耳元で響く自分の鼓動と、彼の熱い体温しか感じられない。

「明日からは、もっと覚悟して。……もう、ただの幼馴染のふりなんて、してあげないから」

夕闇が迫る教室で、彼は私にだけ、とびきり甘い独占欲を見せた。

指先に触れた唇の感触が、電気のように全身を駆け抜ける。


私は、繋がれたままの手を震わせるのが精一杯だった。

「……は、遥斗くん……っ」

名前を呼ぶ声が、自分でも驚くほど上擦っている。


彼はそんな私を逃がさないと言うように、空いた方の手を私の背後の棚につき、ゆっくりと距離を詰めてきた。


いわゆる「壁ドン」の形になって、私の視界は完全に遥斗くんで埋め尽くされる。

「ねえ、心春。心臓、すごい音してるよ」

耳元で囁く彼の声が、いたずらっぽく、でも切なく響いた。


至近距離で見つめ合うと、いつもは涼しげな彼の瞳が、見たこともないほど潤んで、真っ直ぐに私だけを映している。

「それは……遥斗くんのせいでしょ」

「そうだよ。俺のせい。……俺も、同じだから」

彼は私の手を自分の左胸の位置へと導いた。


厚い制服越しでもわかる。トク、トク、と、私と同じくらい——いいえ、それ以上に速くて力強い鼓動。

「……あ」

「心春だけじゃない。俺も、余裕なんて全然ないんだ」

遥斗くんが、私の髪を一房、愛おしそうに指先で弄ぶ。
その仕草があまりに優しくて、私はぎゅっと目を閉じた。

「……目、閉じちゃダメ。ちゃんと、俺のこと見て」

甘い命令。


逆らえずに薄く目を開けると、彼の顔がすぐ近くにあった。
鼻先が触れそうな距離で、遥斗くんが吐き出す熱い吐息が、私の唇をかすめる。

「……心春……好きだよ」

それは、今まで何度も聞いてきたどんな「好き」よりも、重くて、甘くて、逃げ場のない告白だった。


彼の手が、そっと私の頬を包み込む。
親指で私の下唇をなぞり、彼はそのまま、吸い込まれるようにゆっくりと顔を傾けた。

重なる直前、彼はもう一度、壊れ物を扱うような声で囁いた。

「——これ以上優しくする自信ないけど、いい?」

返事をする代わりに、私は彼のシャツの裾をぎゅっと握りしめた。

重なる直前、彼の唇が私の肌に触れるか触れないかの距離で止まった。


心臓の音がうるさすぎて、世界がぐらぐら揺れている。

「……いいよ、遥斗くん……」

消え入るような声で私が答えた、その時だった。

カチャリ、と背後の棚で小さな音がした。


遥斗くんの動きが止まる。
彼は私を抱きしめるような姿勢のまま、私の肩越しに、準備室の奥にある古い保管庫をじっと見つめた。

「……誰か、いるの?」

私が震える声で尋ねると、遥斗くんはすぐにいつもの涼しい顔に戻り、「ネズミかな」と短く笑った。


でも、彼が私を解放して立ち上がったとき。


彼のポケットから、一枚の古びた写真が滑り落ちた。

「あ、待って、落ちたよ」

私が拾い上げようと手を伸ばすと、遥斗くんは目にも止まらぬ速さでそれを奪い取った。


一瞬だけ見えたその写真には、幼い頃の私と彼が写っていた。


……そこまではいい。


おかしかったのは、写真の中の私の顔だけが、真っ黒に塗りつぶされていたこと。

「遥斗くん、今の……」

「……見ちゃダメだって、心春」

彼の声から、さっきまでの甘い温度が消えていた。


代わりに宿ったのは、底の見えない暗い熱。
彼は私の頬をもう一度なでると、壊れた機械のように完璧な笑顔を浮かべた。

「心春は、何も覚えてなくていいんだよ。……俺が、全部覚えてるから。十年前のあの火の日のことも、心春が俺に『殺して』って言ったことも」

「……え?」

私の記憶に、そんなシーンはない。


十年前、私と遥斗くんはただの近所の幼馴染で、平和に遊んでいただけのはずなのに。

「さあ、帰ろうか。明日もまた、ここで『勉強』の続きをしよう」

彼は私の手を握り、何事もなかったかのように教室の鍵を閉めた。


繋がれた手はあんなに温かいのに、私の背中には冷たい汗が伝う。


私の知っている遥斗くんは、本当に、私の知っている遥斗くんなの——?

「……遥斗、くん?」

震える声でその名を呼んでも、彼は二度と振り返らなかった。
夕闇が落ちた廊下を、私の手を引いて歩く彼の背中は、どこまでも真っ直ぐで、どこまでも遠い。

繋がれた手からは、相変わらず逃げ出したくなるほどの体温が伝わってくる。


でも、今の私にはそれが、私を繋ぎ止めるための「鎖」のように感じられた。

「……ねえ、十年前のことって、何? 私、誰かにそんなこと……っ」

立ち止まろうとする私を、彼は振り返らずに、でも拒絶できない強さで引き寄せる。

「心春。言ったでしょ。覚えてなくていいって」

駅へと続く階段の踊り場で、彼は唐突に足を止めた。


街灯がチカチカと不規則に瞬き、彼の影を長く、歪に地面へ落とす。

「……君が忘れてくれたから、俺たちはこうして笑い合えるんだ。あの日、真っ赤に燃える部屋で、君が俺の首に手をかけたことも……全部、俺だけの宝物にしてあげる」

遥斗くんが、私の耳元に唇を寄せる。


その声は、とろけるような蜂蜜に毒を混ぜたみたいに、甘くて、残酷だった。

「だから、思い出そうなんてしないで。……もし思い出したら、俺、今度こそ君を——」

彼は言葉を切り、私の首筋に、まるで印をつけるように深く、熱いキスを落とした。

「——本当に、食べて壊しちゃうよ?」

顔を上げた彼の瞳は、先ほどまでの「優しい幼馴染」のものじゃない。


捕食者が獲物を見つめるような、剥き出しの独占欲。

「……さあ、電車が来るよ。おいで、心春」

彼はまた、いつもの「完璧な遥斗くん」の笑顔に戻って、私の手を優しく握り直した。


ガタン、ガタン、と遠くから電車の音が迫ってくる。


私は、彼の隣を歩きながら、自分の記憶の空白に指を突っ込んだような、形容しがたい恐怖に震えていた。


でも、それ以上に——。


冷え切った私の心臓を動かしているのは、彼に触れられている場所から伝わる、あの狂おしいほどの熱だった。










『私を愛する彼は、私の記憶を殺した犯人かもしれない。』