雨が上がり、七月の陽光が容赦なく街を焼き始めた。
だが、僕の隣を歩く陽太の熱量は、それとは対照的に、測れるはずもないほどに低下していた。
「……な……み、な……と」
陽太が何かを言おうとして、唇を動かす。
けれど、彼の喉から漏れ出るのは、壊れたラジオの砂嵐のような微かなノイズだけだった。
数日前までは、かすかに聞こえていた彼の声が、もう意味のある言葉として僕の鼓動に届かない。
彼はもう、立っていることさえも危うかった。
アスファルトの上、陽光が降り注ぐ場所に彼が立つと、光が彼を突き抜け、向こう側の景色が透けて見える。
まるで熱に浮かされた陽炎(かげろう)のように、彼の姿はゆらゆらと揺れ、世界の境界線から剥がれ落ちそうになっていた。
僕は、黙って彼の隣を歩いた。
学校へはもう行っていない。
出席簿から名前が消えた彼にとって、あの場所はもう居場所ではなく、僕にとっても、彼を認識できない人間たちの視線は、ただの「記録」の邪魔でしかなかったからだ。
僕は、買い溜めた大量のモノクロフィルムをバッグに詰め込み、彼を連れて街を歩き続けた。
彼が最後に見たがっていた、なんてことのない風景を撮るために。
古びた神社の赤い鳥居、路地裏で欠伸をする野良猫、商店街の軒先で揺れる風鈴。
陽太がその景色の中に立ち、僕がシャッターを切る。
ファインダーの中の彼は、もはや透明な「空白」だった。
けれど、僕にはわかる。
そこに、彼がいて、必死にこの世界にしがみつこうとしていることが。
「陽太、そこにいて。動かないで」
僕は震える手でピントを合わせる。
肉眼で見ても、彼の輪郭はもう、周囲の色彩に溶け込んでしまっていた。
空の青、街路樹の緑、そのすべてが陽太というフィルターを通り抜け、僕の網膜を刺す。
皮肉なことに、彼が透明になればなるほど、僕の世界は残酷なほど鮮やかになっていった。
彼が消えゆく代わりに、その「彩り」をすべて僕に託していくかのように。
「……っ、あ」
陽太がよろめき、ガードレールに手を突こうとした。
だが、彼の手は無機質な金属をすり抜け、彼の体は地面へと沈み込む。
僕は咄嗟に駆け寄り、その体を抱き留めようとした。
手応えはない。
それでも僕は、彼がいるはずの空間を強く、強く抱きしめた。
腕の中に、微かな震えを感じた気がした。
それは、もしかしたら僕自身の震えだったのかもしれない。
だが、僕は叫ばずにはいられなかった。
「陽太! まだだ、まだ消えさせない! 僕が撮る! 僕が君をここに定着させる!」
僕はカメラを構え、至近距離からシャッターを連打した。
巻き上げレバーを引く音が、静かな昼下がりの住宅街に空しく響く。
フィルムを使い切っても、僕は撮るのをやめなかった。
レンズ越しに彼を見つめ続けることが、彼という存在を繋ぎ止める唯一の、そして最後の魔法だと信じていたから。
陽太は、力なく笑った。
声は聞こえない。
けれど、その唇の動きが、はっきりと一つの言葉を紡いでいた。
『あ、り、が、と、う』
その瞬間、陽太の体が、ひときわ眩しい「青い閃光」を放った。
それは僕が人生で見た中で、最も純粋で、最も悲しい色彩だった。
思わず目を細めた次の瞬間。
僕の腕の中にいたはずの気配は、夏の湿った風に吹かれて、跡形もなく消え去っていた。
足元には、僕が落としたライカが転がっている。
周囲を見渡しても、そこにはただ、平凡な昼下がりの景色が広がっているだけだ。
犬の散歩をする老人。
遠くで響く踏切の音。
誰も、何かが失われたことに気づいていない。
僕は膝をつき、アスファルトを握りしめた。
そこに残されたのは、僕の体温で温まった、実体のない空気だけだった。
忘却のカウントダウンは、無慈悲に、そしてあまりに静かに、「ゼロ」を刻んだ。
だが、僕の隣を歩く陽太の熱量は、それとは対照的に、測れるはずもないほどに低下していた。
「……な……み、な……と」
陽太が何かを言おうとして、唇を動かす。
けれど、彼の喉から漏れ出るのは、壊れたラジオの砂嵐のような微かなノイズだけだった。
数日前までは、かすかに聞こえていた彼の声が、もう意味のある言葉として僕の鼓動に届かない。
彼はもう、立っていることさえも危うかった。
アスファルトの上、陽光が降り注ぐ場所に彼が立つと、光が彼を突き抜け、向こう側の景色が透けて見える。
まるで熱に浮かされた陽炎(かげろう)のように、彼の姿はゆらゆらと揺れ、世界の境界線から剥がれ落ちそうになっていた。
僕は、黙って彼の隣を歩いた。
学校へはもう行っていない。
出席簿から名前が消えた彼にとって、あの場所はもう居場所ではなく、僕にとっても、彼を認識できない人間たちの視線は、ただの「記録」の邪魔でしかなかったからだ。
僕は、買い溜めた大量のモノクロフィルムをバッグに詰め込み、彼を連れて街を歩き続けた。
彼が最後に見たがっていた、なんてことのない風景を撮るために。
古びた神社の赤い鳥居、路地裏で欠伸をする野良猫、商店街の軒先で揺れる風鈴。
陽太がその景色の中に立ち、僕がシャッターを切る。
ファインダーの中の彼は、もはや透明な「空白」だった。
けれど、僕にはわかる。
そこに、彼がいて、必死にこの世界にしがみつこうとしていることが。
「陽太、そこにいて。動かないで」
僕は震える手でピントを合わせる。
肉眼で見ても、彼の輪郭はもう、周囲の色彩に溶け込んでしまっていた。
空の青、街路樹の緑、そのすべてが陽太というフィルターを通り抜け、僕の網膜を刺す。
皮肉なことに、彼が透明になればなるほど、僕の世界は残酷なほど鮮やかになっていった。
彼が消えゆく代わりに、その「彩り」をすべて僕に託していくかのように。
「……っ、あ」
陽太がよろめき、ガードレールに手を突こうとした。
だが、彼の手は無機質な金属をすり抜け、彼の体は地面へと沈み込む。
僕は咄嗟に駆け寄り、その体を抱き留めようとした。
手応えはない。
それでも僕は、彼がいるはずの空間を強く、強く抱きしめた。
腕の中に、微かな震えを感じた気がした。
それは、もしかしたら僕自身の震えだったのかもしれない。
だが、僕は叫ばずにはいられなかった。
「陽太! まだだ、まだ消えさせない! 僕が撮る! 僕が君をここに定着させる!」
僕はカメラを構え、至近距離からシャッターを連打した。
巻き上げレバーを引く音が、静かな昼下がりの住宅街に空しく響く。
フィルムを使い切っても、僕は撮るのをやめなかった。
レンズ越しに彼を見つめ続けることが、彼という存在を繋ぎ止める唯一の、そして最後の魔法だと信じていたから。
陽太は、力なく笑った。
声は聞こえない。
けれど、その唇の動きが、はっきりと一つの言葉を紡いでいた。
『あ、り、が、と、う』
その瞬間、陽太の体が、ひときわ眩しい「青い閃光」を放った。
それは僕が人生で見た中で、最も純粋で、最も悲しい色彩だった。
思わず目を細めた次の瞬間。
僕の腕の中にいたはずの気配は、夏の湿った風に吹かれて、跡形もなく消え去っていた。
足元には、僕が落としたライカが転がっている。
周囲を見渡しても、そこにはただ、平凡な昼下がりの景色が広がっているだけだ。
犬の散歩をする老人。
遠くで響く踏切の音。
誰も、何かが失われたことに気づいていない。
僕は膝をつき、アスファルトを握りしめた。
そこに残されたのは、僕の体温で温まった、実体のない空気だけだった。
忘却のカウントダウンは、無慈悲に、そしてあまりに静かに、「ゼロ」を刻んだ。
