透明な僕らと、世界を壊す青いノイズ

六月。
梅雨の湿った空気が、旧校舎の廊下に重くのしかかっていた。


僕は、狂っていた。


学校へ行っても、誰とも口を利かない。
授業中も、陽太がいるはずの空間にレンズを向け、シャッターを切り続ける。
周囲の目は「可哀想な奴」から「関わってはいけない異常者」へと変わっていたが、そんなことはどうでもよかった。


ただ、一つだけ耐えられないことがあった。


それは、目の前で刻一刻と薄くなっていく陽太が、それでもなお、無理をして笑っていることだった。

「湊! 次はさ、あの駅前の映画館に行こうぜ。チケットなんて買わなくても、今の俺ならスルーで入れるし……」

「……いい加減にしろよ」

僕の低い声が、音楽室の壁に跳ね返った。

陽太の言葉が止まる

「え? なんだよ、湊。せっかく面白い案を……」

「面白いわけないだろ! チケットも買えない、誰にも見られない、触れることもできない。そんな状態で遊びに行って、何が楽しいんだよ!」

僕は手に持っていた現像済みの写真を、床に叩きつけた。


そこには、ただの無機質な風景だけが写っている。
僕の目には見えるはずの陽太が、印画紙の上ではもう一筋の光の歪みにさえなっていない。

「お前さ、なんでそんなに平気な顔をしてられるんだ? 明日には、一分後には消えてなくなるかもしれないんだぞ? 怖くないのかよ。寂しくないのかよ!」

「……湊」

「僕は怖いんだよ! 君がいなくなった後、僕だけが君を覚えていて、僕だけが狂人扱いされて、そうやって生きていくのが死ぬほど怖いんだ!」

怒りと恐怖が混ざり合った叫び。
それは、陽太に対する怒りではなく、運命に対する無力な僕自身の叫びだった。


陽太は黙っていた。
夕暮れの光が、彼の透けた体を通り抜け、背後の壁に僕一人分の影だけを落としている。

「……怖くないわけ、ないだろ」

不意に、陽太の声が湿り気を帯びた。


見上げると、陽太の瞳から、一滴の「青いノイズ」が溢れ、床に落ちる前に消えた。

「怖いよ。消えたくない。お前と一緒にいたい。お前のカメラに、ずっと写ってたい。……でも、俺が泣いたら、お前はどうなる? 俺が『助けて』って言ったら、お前は自分を壊してでも俺を助けようとするだろ?」

陽太は一歩、僕に近づいた。


足音はしない。

けれど、彼の激しい感情の波が、ビリビリと肌を刺す。

「俺は、お前の世界を彩るために来たんだ。お前の世界を壊すために来たんじゃない! だから、笑うしかないだろ……。これ以上、お前に何を背負わせれば気が済むんだよ!」

陽太は、僕の胸元に拳を叩きつけようとした。


けれど、彼の拳は抵抗なく僕の体をすり抜け、僕の背後にある空気を殴った。


何度も、何度も。  触れられない。殴ることさえできない。


その残酷な現実を突きつけられるたびに、陽太の形がさらに歪み、霧のように拡散していく。

「……陽太、もういい。もういいから」

僕は無理やり、彼の「輪郭」がある場所を抱きしめた。


腕の中に手応えはない。
ただ、そこだけが異常に冷たく、そして切ないほどに震えていることだけがわかった。

「消えたくない……。湊、俺、忘れられたくないよ……」

かすれた、泣きじゃくる子供のような声。それが、浅陽陽太という少年の本当の「核」だった。

「忘れない。世界中が君を消しても、僕が絶対に、君をこの世に繋ぎ止めてやる。写真に写らなくても、僕の網膜に、脳細胞に、全部刻みつけてやるから」

僕は、見えない彼の背中を、何度も何度も撫でた。


恋愛ではない。


これは、二人の人間が、たった一つの「存在」を分かち合うための儀式だった。


嵐のような喧嘩のあと、音楽室には静かな、しかしこれまでで一番強固な「絆」が満ちていた。


外では、雨が降り始めていた。


その雨粒さえも、陽太の体を通り抜けていく。


それでも、僕たちは確かにそこで、二人きりで生きていた。