決定的な「崩壊」は、ある火曜日の朝に訪れた。
いつものように教室のドアを開け、僕は息を呑んだ。
僕の席の隣。そこにあるはずの陽太の机と椅子が、跡形もなく消えていたのだ。
ただ消えたのではない。
最初からそこには何もなかったかのように、僕の机と、その隣の女子生徒の机が詰められ、不自然に広い通路が作られていた。
「……あ、おはよう、湊。どうしたの、そんな顔して」
前の席の男子が、不思議そうに僕を振り返る。
「……陽太の机は。隣に座ってた、浅陽はどうしたんだよ」
僕の声は、自分でも驚くほど震えていた。
クラスメイトたちは、顔を見合わせた。
一瞬の沈黙。
そして、彼らは困ったような、あるいは哀れむような笑みを浮かべた。
「浅陽? 誰だよ、それ。……湊、お前、最近本当に大丈夫か? 一人で喋ったり、誰もいない席を眺めたりさ」
「ふざけるな! 一週間も一緒に授業を受けてただろ! 転校生の、浅陽陽太だよ!」
僕が声を荒らげると、教室がしんと静まり返った。
担任が入ってきて、出欠を取り始める。
僕は祈るような気持ちで名前を待った。
ア行、浅陽……。
だが、担任の口からその名前が呼ばれることはなかった。
出席簿の上からも、彼の名前は最初から存在しなかったかのように消去されていた。
「……いるんだ。そこに、いるんだよ」
僕は、今は「通路」になってしまった場所に目を向けた。
そこには、陽太がいた。
彼は窓枠に腰掛け、自分を探してパニックになる僕を、ひどく静かな、そして悲しげな瞳で見つめていた。
「湊、もういいんだ」
陽太の声が、耳元で風のように囁く。
「世界が、俺を『修正』し始めた。俺はもう、誰の記憶の引き出しにも入らない存在になったんだ」
「……嫌だ。僕が覚えてる。僕が、全部記録してる!」
僕は鞄から昨日の写真を掴み出し、クラスメイトたちに突きつけた。
「見ろ! ここに写ってるだろ! これが浅陽陽太だ!」
だが、写真を見た彼らの反応は、僕をさらに絶望させた。
「……湊、これ。ただの空き地の写真だろ? 何も写ってないぞ」
「いや、こっちはボケた光が写ってるだけだ。……お前、本気で病院行ったほうがいいって」
写真からも、彼の姿が消えていた。
いや、正確には「僕以外の人間には、彼の姿を認識できなくなっている」のだ。
世界という強固なシステムが、僕という一個人の抵抗を嘲笑うように、現実を上書きしていく。
放課後、僕は陽太を連れて旧校舎へ逃げ込んだ。
ここなら、まだ「世界の隙間」が残っている気がした。
埃の舞う音楽室。陽太の体は、もうほとんど背景の壁紙と同化していた。
「湊、お前まで俺と一緒に消えちゃいそうだ。そんな顔すんなよ」
陽太が透けた手を伸ばし、僕の頬を撫でるふりをする。何も感じない。ただ、冷たい空気だけがそこにある。
「どうして君なんだ。どうして、こんなに鮮やかな色を僕に教えておいて、君だけが消えなきゃいけないんだよ」
僕は床に崩れ落ち、カメラを抱きしめた。
僕が彼を撮り続けても、誰にも見えないのなら、それは「存在しない」ことと同じではないのか。
「……湊。俺が消えても、お前の中に色が残れば、それで俺の勝ちなんだ」
陽太はピアノに近づき、音の出ない鍵盤を指でなぞった。
「俺はノイズだったけど、お前の世界を彩るためのノイズだった。そう思えば、悪くない人生だったよ」
その夜、僕は自分の部屋で狂ったようにノートを書き綴った。
陽太の身長、瞳の色、笑い方の癖、好きなパンの種類。
いつか僕の記憶までもが世界に上書きされてしまう前に。
僕の指先が動かなくなるまで、僕は「浅陽陽太」という少年がここにいたことを、文字という楔(くさび)で世界に打ち込み続けた。
だが、窓の外では、残酷なほど美しい月が、すべてを忘れ去った街を白々と照らしていた。
いつものように教室のドアを開け、僕は息を呑んだ。
僕の席の隣。そこにあるはずの陽太の机と椅子が、跡形もなく消えていたのだ。
ただ消えたのではない。
最初からそこには何もなかったかのように、僕の机と、その隣の女子生徒の机が詰められ、不自然に広い通路が作られていた。
「……あ、おはよう、湊。どうしたの、そんな顔して」
前の席の男子が、不思議そうに僕を振り返る。
「……陽太の机は。隣に座ってた、浅陽はどうしたんだよ」
僕の声は、自分でも驚くほど震えていた。
クラスメイトたちは、顔を見合わせた。
一瞬の沈黙。
そして、彼らは困ったような、あるいは哀れむような笑みを浮かべた。
「浅陽? 誰だよ、それ。……湊、お前、最近本当に大丈夫か? 一人で喋ったり、誰もいない席を眺めたりさ」
「ふざけるな! 一週間も一緒に授業を受けてただろ! 転校生の、浅陽陽太だよ!」
僕が声を荒らげると、教室がしんと静まり返った。
担任が入ってきて、出欠を取り始める。
僕は祈るような気持ちで名前を待った。
ア行、浅陽……。
だが、担任の口からその名前が呼ばれることはなかった。
出席簿の上からも、彼の名前は最初から存在しなかったかのように消去されていた。
「……いるんだ。そこに、いるんだよ」
僕は、今は「通路」になってしまった場所に目を向けた。
そこには、陽太がいた。
彼は窓枠に腰掛け、自分を探してパニックになる僕を、ひどく静かな、そして悲しげな瞳で見つめていた。
「湊、もういいんだ」
陽太の声が、耳元で風のように囁く。
「世界が、俺を『修正』し始めた。俺はもう、誰の記憶の引き出しにも入らない存在になったんだ」
「……嫌だ。僕が覚えてる。僕が、全部記録してる!」
僕は鞄から昨日の写真を掴み出し、クラスメイトたちに突きつけた。
「見ろ! ここに写ってるだろ! これが浅陽陽太だ!」
だが、写真を見た彼らの反応は、僕をさらに絶望させた。
「……湊、これ。ただの空き地の写真だろ? 何も写ってないぞ」
「いや、こっちはボケた光が写ってるだけだ。……お前、本気で病院行ったほうがいいって」
写真からも、彼の姿が消えていた。
いや、正確には「僕以外の人間には、彼の姿を認識できなくなっている」のだ。
世界という強固なシステムが、僕という一個人の抵抗を嘲笑うように、現実を上書きしていく。
放課後、僕は陽太を連れて旧校舎へ逃げ込んだ。
ここなら、まだ「世界の隙間」が残っている気がした。
埃の舞う音楽室。陽太の体は、もうほとんど背景の壁紙と同化していた。
「湊、お前まで俺と一緒に消えちゃいそうだ。そんな顔すんなよ」
陽太が透けた手を伸ばし、僕の頬を撫でるふりをする。何も感じない。ただ、冷たい空気だけがそこにある。
「どうして君なんだ。どうして、こんなに鮮やかな色を僕に教えておいて、君だけが消えなきゃいけないんだよ」
僕は床に崩れ落ち、カメラを抱きしめた。
僕が彼を撮り続けても、誰にも見えないのなら、それは「存在しない」ことと同じではないのか。
「……湊。俺が消えても、お前の中に色が残れば、それで俺の勝ちなんだ」
陽太はピアノに近づき、音の出ない鍵盤を指でなぞった。
「俺はノイズだったけど、お前の世界を彩るためのノイズだった。そう思えば、悪くない人生だったよ」
その夜、僕は自分の部屋で狂ったようにノートを書き綴った。
陽太の身長、瞳の色、笑い方の癖、好きなパンの種類。
いつか僕の記憶までもが世界に上書きされてしまう前に。
僕の指先が動かなくなるまで、僕は「浅陽陽太」という少年がここにいたことを、文字という楔(くさび)で世界に打ち込み続けた。
だが、窓の外では、残酷なほど美しい月が、すべてを忘れ去った街を白々と照らしていた。
