その日の夜、僕は自宅の押し入れを改造した簡易暗室に籠もっていた。
換気扇の回る単調な音だけが響く狭い空間。
赤いセーフライトが、現像液の入ったバットを怪しく照らしている。
旧校舎で撮影したフィルム。
それをリールに巻き取り、現像タンクに入れ、時間を計る。
いつもなら、この無機質な作業が僕の心を一番落ち着かせてくれた。
何も考えず、ただ化学反応に身を任せれば、世界は正しく紙の上に定着する。
だが、今日は違った。
バットの中で揺れる印画紙を見つめる僕の指先は、微かに震えていた。
「……っ」
ゆっくりと、像が浮き上がってくる。
旧校舎の音楽室。埃を被ったグランドピアノ。
窓から差し込む夕陽。
背景は完璧だった。
僕が切り取った通りの、静謐で死んだような灰色の世界。
だが、そこにいるはずの「彼」が――。
陽太の姿は、まるで水に滲んだインクのように崩れていた。
顔があるべき場所には、無数の「ノイズ」が走り、体は透けて背後のピアノの鍵盤が見えてしまっている。
心霊写真なんて言葉では片付けられない。
それは、まるで世界そのものが「彼はここに存在してはならない」と拒絶し、消しゴムで消しかけたような、残酷な空白だった。
僕は現像液から印画紙を引き上げ、水洗もそこそこに、部屋の明かりを点けた。
蛍光灯の白い光の下で改めて見る。
やはり、同じだった。
陽太の足元は床に接地しておらず、輪郭からは常にデジタルバグのようなギザギザとした線が飛び出している。
「嘘だろ……。なんだよ、これ」
昼間、屋上で彼の手が透けたのは見間違いじゃなかった。
陽太は、この世界に正しく「定着」していない。
僕がモノクロームだと思っていた世界の中で、彼だけが唯一の「異物」であり、そして今にも消え去ろうとしている「バグ」なのだ。
翌朝、僕は寝不足のまま学校へ向かった。
鞄の中には、昨夜現像したあの写真が入っている。
教室に入ると、陽太はすでに自分の席に座っていた。
「よお、湊! なんだ、クマがすごいぞ。夜更かしして変な動画でも見てたのか?」
陽太はいつものように、屈託のない笑顔で僕の肩を小突こうとした。
僕は思わず、その手を避けてしまった。
「……湊?」
陽太の動きが止まる。
その瞳に、一瞬だけ鋭い「青」が宿った。
「君は……何者なんだ」
僕は周囲に聞こえないよう、声を潜めて言った。
陽太はふっと表情を消すと、窓の外を見つめた。
昨日の旧校舎での明るさが嘘のように、彼の横顔はどこか冷たく、遠い存在に見えた。
「……写真は、現像できたのか?」
「……ああ。君の言う通り、はっきり写っていたよ。君がこの世界から消えかけてるっていう、証拠がね」
陽太は短く笑った。それは自嘲するような、枯れた笑い声だった。
「早いなあ。やっぱりお前、いい写真家だよ。普通の人には、まだ俺の姿はちゃんと見えてるはずなのにさ」
陽太が立ち上がる。
「行こうぜ」と短く言い、彼は教室を出て行った。
僕は吸い寄せられるように、彼の後を追った。
二人が向かったのは、体育館の裏手にある、普段は誰も通らない細い通路だった。
陽太は壁に背を預け、自分の右手を光にかざした。
「俺さ、小さい頃からずっとこうなんだ。少しずつ、少しずつ、世界との繋がりが薄くなっていく。最初は影が薄くなって、次は写真に写らなくなって……最後には、誰の記憶からも消えてなくなる」
「そんな病気、聞いたことない」
「病気じゃない。現象だよ。俺みたいな存在は、世界のノイズみたいなもんなんだ。時々、不具合で生まれてきちゃうんだよ。……だから、誰とも深く関わらないようにしてきたんだけどな」
陽太は僕をじっと見つめた。
その青い瞳が、僕の灰色の心に深く突き刺さる。
「でもさ、お前にだけは、俺のことが見えてる気がしたんだ。色がなくて、静かなお前の世界なら、俺っていう『ノイズ』が最後まで残れるんじゃないかって」
恋愛なんて言葉じゃ足りない。
これは、孤独を共有してしまった二人の、生存本能に近い共鳴だった。
僕の世界に色を付けたのは彼で、彼の世界を繋ぎ止められるのは僕だけなのだ。
「……ふざけるな」
僕は震える声で言った。
「勝手に現れて、勝手に消えるなんて、そんなの許さない。僕は記録するよ。君が消えようとしても、指が透けても、何度だって撮り続けてやる」
陽太の瞳に、初めて涙のような光が滲んだ気がした。
だが、彼はすぐにまた不敵に笑い、僕の頭を乱暴に撫でた。
「頼もしいねえ、相棒。じゃあ、まずはその『透けかけた俺』を最高にカッコよく撮るところから始めてくれよ」
二人の間に、確かな「絆」の火が灯った瞬間だった。
だが、それと同時に、廊下の向こうから歩いてきたクラスメイトの男子が、陽太のすぐ横を通り過ぎながら不思議そうに首を傾げた。
「あれ、湊? 一人で何ブツブツ言ってんだ?」
心臓が凍りついた。
クラスメイトの目には、もう、陽太の姿が映っていなかった。
換気扇の回る単調な音だけが響く狭い空間。
赤いセーフライトが、現像液の入ったバットを怪しく照らしている。
旧校舎で撮影したフィルム。
それをリールに巻き取り、現像タンクに入れ、時間を計る。
いつもなら、この無機質な作業が僕の心を一番落ち着かせてくれた。
何も考えず、ただ化学反応に身を任せれば、世界は正しく紙の上に定着する。
だが、今日は違った。
バットの中で揺れる印画紙を見つめる僕の指先は、微かに震えていた。
「……っ」
ゆっくりと、像が浮き上がってくる。
旧校舎の音楽室。埃を被ったグランドピアノ。
窓から差し込む夕陽。
背景は完璧だった。
僕が切り取った通りの、静謐で死んだような灰色の世界。
だが、そこにいるはずの「彼」が――。
陽太の姿は、まるで水に滲んだインクのように崩れていた。
顔があるべき場所には、無数の「ノイズ」が走り、体は透けて背後のピアノの鍵盤が見えてしまっている。
心霊写真なんて言葉では片付けられない。
それは、まるで世界そのものが「彼はここに存在してはならない」と拒絶し、消しゴムで消しかけたような、残酷な空白だった。
僕は現像液から印画紙を引き上げ、水洗もそこそこに、部屋の明かりを点けた。
蛍光灯の白い光の下で改めて見る。
やはり、同じだった。
陽太の足元は床に接地しておらず、輪郭からは常にデジタルバグのようなギザギザとした線が飛び出している。
「嘘だろ……。なんだよ、これ」
昼間、屋上で彼の手が透けたのは見間違いじゃなかった。
陽太は、この世界に正しく「定着」していない。
僕がモノクロームだと思っていた世界の中で、彼だけが唯一の「異物」であり、そして今にも消え去ろうとしている「バグ」なのだ。
翌朝、僕は寝不足のまま学校へ向かった。
鞄の中には、昨夜現像したあの写真が入っている。
教室に入ると、陽太はすでに自分の席に座っていた。
「よお、湊! なんだ、クマがすごいぞ。夜更かしして変な動画でも見てたのか?」
陽太はいつものように、屈託のない笑顔で僕の肩を小突こうとした。
僕は思わず、その手を避けてしまった。
「……湊?」
陽太の動きが止まる。
その瞳に、一瞬だけ鋭い「青」が宿った。
「君は……何者なんだ」
僕は周囲に聞こえないよう、声を潜めて言った。
陽太はふっと表情を消すと、窓の外を見つめた。
昨日の旧校舎での明るさが嘘のように、彼の横顔はどこか冷たく、遠い存在に見えた。
「……写真は、現像できたのか?」
「……ああ。君の言う通り、はっきり写っていたよ。君がこの世界から消えかけてるっていう、証拠がね」
陽太は短く笑った。それは自嘲するような、枯れた笑い声だった。
「早いなあ。やっぱりお前、いい写真家だよ。普通の人には、まだ俺の姿はちゃんと見えてるはずなのにさ」
陽太が立ち上がる。
「行こうぜ」と短く言い、彼は教室を出て行った。
僕は吸い寄せられるように、彼の後を追った。
二人が向かったのは、体育館の裏手にある、普段は誰も通らない細い通路だった。
陽太は壁に背を預け、自分の右手を光にかざした。
「俺さ、小さい頃からずっとこうなんだ。少しずつ、少しずつ、世界との繋がりが薄くなっていく。最初は影が薄くなって、次は写真に写らなくなって……最後には、誰の記憶からも消えてなくなる」
「そんな病気、聞いたことない」
「病気じゃない。現象だよ。俺みたいな存在は、世界のノイズみたいなもんなんだ。時々、不具合で生まれてきちゃうんだよ。……だから、誰とも深く関わらないようにしてきたんだけどな」
陽太は僕をじっと見つめた。
その青い瞳が、僕の灰色の心に深く突き刺さる。
「でもさ、お前にだけは、俺のことが見えてる気がしたんだ。色がなくて、静かなお前の世界なら、俺っていう『ノイズ』が最後まで残れるんじゃないかって」
恋愛なんて言葉じゃ足りない。
これは、孤独を共有してしまった二人の、生存本能に近い共鳴だった。
僕の世界に色を付けたのは彼で、彼の世界を繋ぎ止められるのは僕だけなのだ。
「……ふざけるな」
僕は震える声で言った。
「勝手に現れて、勝手に消えるなんて、そんなの許さない。僕は記録するよ。君が消えようとしても、指が透けても、何度だって撮り続けてやる」
陽太の瞳に、初めて涙のような光が滲んだ気がした。
だが、彼はすぐにまた不敵に笑い、僕の頭を乱暴に撫でた。
「頼もしいねえ、相棒。じゃあ、まずはその『透けかけた俺』を最高にカッコよく撮るところから始めてくれよ」
二人の間に、確かな「絆」の火が灯った瞬間だった。
だが、それと同時に、廊下の向こうから歩いてきたクラスメイトの男子が、陽太のすぐ横を通り過ぎながら不思議そうに首を傾げた。
「あれ、湊? 一人で何ブツブツ言ってんだ?」
心臓が凍りついた。
クラスメイトの目には、もう、陽太の姿が映っていなかった。
