透明な僕らと、世界を壊す青いノイズ

昼休みの奇妙な違和感は、午後の授業中もずっと僕の胸に澱のように溜まっていた。


陽太の手が透けて見えた――そんなはずはない。
光の屈折か、あるいは僕の壊れかけた網膜が見せた一瞬のバグだろう。
そう自分に言い聞かせ、教科書の隅をシャーペンでなぞり続けた。


しかし、終礼のチャイムが鳴った瞬間、そのバグは再び実体を持って僕の前に現れた。

「湊! 決めたぞ、今日の目的地!」

陽太が僕の机をバンと叩いた。
昼休みの一瞬の動揺などなかったかのように、彼はまたしても眩しいほどのエネルギーを撒き散らしている。

「……目的地って、何のことだよ。僕はこれから帰って、現像の続きを……」

「ダメ。現像なんていつでもできるけど、『今』は今しかないんだぜ。ほら、行くぞ!」

強引に手首を掴まれる。
彼の指先は、昼休みよりも少しだけ冷たく感じられた。


連れて行かれたのは、校舎の北側にひっそりと佇む旧校舎だった。
数年前に新校舎が完成してからというもの、備品置き場として使われている以外、生徒が立ち入ることはほとんどない。
入り口には「立入禁止」の黄色いテープが無造作に貼られていた。

「おい、ここに入るのか? 見つかったら停学だぞ」

「大丈夫だって。先生たちはみんな会議中だし、ここは『世界の隙間』みたいな場所だから」

陽太は手慣れた手つきで窓の鍵を針金のようなもので外し、スルスルと中に滑り込んだ。溜息をつきながら、僕もその後に続く。


建物の中は、埃の匂いと、腐りかけた木材の匂いが混じり合っていた。


窓から差し込む夕陽は、舞い上がる埃を黄金色の粒子に変えている。
僕のモノクロームの世界において、この場所だけはセピア色の映画のような質感を保っていた。

「ここ、いいだろ? 時間が止まってるみたいでさ」


陽太はギシギシと鳴る廊下を、まるで自分の家のように歩いていく。

「……君は、どうしてこういう場所を知ってるんだ」

「さあね。俺、こういう『忘れ去られた場所』に鼻が効くんだよ。自分と似てるからかな」

陽太は立ち止まり、音楽室の重い扉を開けた。


中には、調律の狂った古いグランドピアノが鎮座していた。
壁に貼られた音楽家の肖像画は、湿気で茶色く変色し、その眼光だけが妙に鋭い。


陽太は無造作にピアノの椅子に座ると、人差し指一本で鍵盤を叩いた。


――ポーン。


ひどく歪んだ、悲しい音が静まり返った音楽室に響き渡る。

「湊、カメラ構えて」

「え?」

「今、俺を撮ってくれ。できるだけ、はっきりとさ」

陽太の声は、いつになく真剣だった。


僕は困惑しながらも、首から下げていたライカを構える。
ファインダー越しに見る陽太は、夕陽を背負って、その輪郭が黄金色に滲んでいた。


ピントを合わせる。右指でシャッターを切ろうとした、その時だ。


ファインダーの中の陽太が、またしても「揺らいだ」。


テレビの砂嵐のようなノイズが彼の輪郭に走り、彼という存在が、背景の音楽室に溶け込んでしまいそうなほど淡くなる。

「……っ」

僕は思わずカメラを下げた。
肉眼で見ると、陽太はそこにいる。
ニカッと笑って、僕を見つめている。

「どうした? フィルム、切れたか?」

「いや……そうじゃなくて。陽太、君……」

言いかけて、言葉を飲み込んだ。


何を言えばいい?


「君が透けて見える」なんて、正気とは思えない。

「……なんでもない。光が強すぎて、ピントが合わなかっただけだ」

「なんだよ、プロみたいなこと言いやがって。じゃあさ、代わりに約束してくれ」

陽太はピアノから立ち上がり、窓際に歩み寄った。


彼が指差した先には、旧校舎の庭に一本だけ植えられた、枯れかけの大きな桜の木があった。

「あの木が、もう一度花を咲かせるところを、一緒に見ようぜ」

「桜? もう五月だぞ。咲くわけないだろ」

「来年でも、再来年でもいい。とにかく、俺がここにいたって証拠を、お前のカメラで撮り続けてほしいんだ」

彼の言葉は、まるで遺言のようだった。

「恋愛ではない二人の絆」――その言葉が、不意に頭をよぎる。


それは憧れでも、性的な執着でもない。


ただ、この世界から今にも零れ落ちそうな一粒の光を、必死で繋ぎ止めたいという、もっと切実で、根源的な「祈り」に似た感情だった。

「……分かったよ。ただし、現像代は君持ちだぞ」

「あはは! ケチだなあ、湊は」

陽太は笑って僕の肩を叩いた。


その瞬間、彼の体が、確かに一瞬だけ僕の肩をすり抜けたような感覚があった。


僕は自分の肩を強く掴み、消えない冷たさを必死で押し殺した。


窓の外では、太陽が沈み、世界がまた灰色へと塗り替えられようとしていた。