陽太が隣に座ってからというもの、僕の周囲の空気密度は明らかに変わってしまった。
二時間目の数学も、三時間目の英語も、隣からは絶えず「音」が聞こえてくる。
教科書をめくる乾いた音、ペンを回す音、そして時折、退屈そうに漏らされる小さな溜息。
僕はそれを無視することに全神経を注いでいた。
いつも通り、灰色の世界の中で石像のように固まっていれば、そのうち飽きてどこかへ行くだろう。
そう思っていた。
しかし、昼休みになった瞬間、その淡い期待は粉々に打ち砕かれる。
「なあ、湊。飯、どこで食うの?」
教科書を片付けようとした僕の視界に、ぬっと陽太の顔が割り込んできた。
「……屋上とか。でも、一人で食いたいから」
「お、屋上! いいじゃん、青春っぽくて。決まりな」
「話を聞けよ。僕は一人で――」
「俺、転校初日で友達一人もいないんだぜ? このまま一人で寂しくパンを齧る俺を見捨てられるほど、お前は薄情なのか?」
陽太はわざとらしく眉を下げ、悲劇の主人公のような顔をしてみせる。
けれど、その瞳の奥には、僕を逃がさないという確信に満ちた光が宿っていた。
結局、僕は背後から陽太の気配を感じながら、屋上へと続く階段を上る羽目になった。
五月の屋上は、地上よりも風が強く、フェンスがガタガタと頼りない音を立てている。
僕はいつものように、隅にある貯水タンクの影に腰を下ろした。
ここなら誰の目にも触れず、自分だけの静寂を守れるはずだった。
「わあ、すげえ。ここ、最高だな!」
陽太は僕の隣にどさりと座り込むと、購買で買ったらしい焼きそばパンの袋を威勢よく破った。
「お前、毎日こんな良い景色を独り占めしてたのか? 贅沢だなあ」
「景色なんて、どこで見ても同じだよ」
僕はコンビニの素っ気ないおにぎりを口に運ぶ。
「同じわけないだろ。今日の空、見てみろよ。あんなに騒がしい青だぜ?」
騒がしい青。
妙な表現だと思ったが、今の僕にはその意味が痛いほど理解できた。
僕の目に映る空は、いつだって平坦な灰色か、せいぜい薄汚れら白だ。
なのに、隣にいる陽太というフィルターを通すと、その白に暴力的なまでの「色彩」が混じり始める。
彼の青い瞳が、僕の網膜を焼き、強制的に世界をアップデートしようとしてくるのだ。
「……君は、どうして僕なんだ」
耐えきれず、僕は問いかけた。
「クラスにはもっと、君みたいに明るくて、楽しそうな奴らがたくさんいる。あっちに行けばいいだろ」
陽太は焼きそばパンを頬張ったまま、空を仰いだ。
少しの間、咀嚼する音だけが響く。
「うーん。なんて言うかさ、お前、すごく『静か』だったから」
「静か?」
「ああ。みんな、自分をよく見せようとして、カラフルなノイズを撒き散らしてる。でも、お前だけは、しんと静まり返った深い水の底にいるみたいに見えたんだ。……そこなら、俺の音がちゃんと響く気がしてさ」
その言葉に、心臓の奥がチクリと疼いた。
僕が必死に築いてきた「透明な壁」を、この男は、まるで最初から存在しないかのように透かして見ている。
「あ、そうだ。湊、カメラ貸してくれよ」
唐突に陽太が手を伸ばしてきた。
「嫌だ。これは古いし、扱いが難しいんだ」
「いいじゃん、一枚だけ! 俺を撮るんじゃなくて、俺が撮るの!」
強引に鞄からライカを引っ張り出そうとする陽太と、それを阻止しようとする僕。
もみ合っているうちに、不意に僕の手が滑り、カメラが陽太の手に渡った。
「よし。じゃあ、記念すべき初作品!」
陽太はレンズを僕に向けた。
「おい、やめろ――」
反射的に腕で顔を隠す。
カシャッ、という硬質なシャッター音が、屋上の風にかき消された。
「……あ」
陽太が、奇妙な声を漏らした。
カメラを構えたまま、彼は凍りついたように動かなくなった。
「どうしたんだよ。壊したのか?」
不安になって覗き込むと、陽太はカメラのファインダーから目を離し、自分の右手をじっと見つめていた。
その手は、昼の陽光にさらされているはずなのに、一瞬だけ、嘘のように**「透けて」**見えた気がした。
「……いや。なんでもない。悪い、これ、返すよ」
陽太はいつもの明るい笑顔を貼り付け直したが、その声には先ほどまでの覇気がなかった。
彼は慌てたようにカメラを僕に押し返し、立ち上がる。
「昼休み、もうすぐ終わりだな。先に戻るわ!」
逃げるような足取りで、陽太は屋上の扉の向こうへ消えていった。
一人残された僕は、手の中に戻ったライカの冷たさを感じていた。
ファインダーを覗いてみる。
そこには、陽太が去った後の、無機質なコンクリートの床だけが映っていた。
けれど、僕の胸の中には、彼が残していった「青いノイズ」が、不吉な予感と共にざわめき続けていた。
二時間目の数学も、三時間目の英語も、隣からは絶えず「音」が聞こえてくる。
教科書をめくる乾いた音、ペンを回す音、そして時折、退屈そうに漏らされる小さな溜息。
僕はそれを無視することに全神経を注いでいた。
いつも通り、灰色の世界の中で石像のように固まっていれば、そのうち飽きてどこかへ行くだろう。
そう思っていた。
しかし、昼休みになった瞬間、その淡い期待は粉々に打ち砕かれる。
「なあ、湊。飯、どこで食うの?」
教科書を片付けようとした僕の視界に、ぬっと陽太の顔が割り込んできた。
「……屋上とか。でも、一人で食いたいから」
「お、屋上! いいじゃん、青春っぽくて。決まりな」
「話を聞けよ。僕は一人で――」
「俺、転校初日で友達一人もいないんだぜ? このまま一人で寂しくパンを齧る俺を見捨てられるほど、お前は薄情なのか?」
陽太はわざとらしく眉を下げ、悲劇の主人公のような顔をしてみせる。
けれど、その瞳の奥には、僕を逃がさないという確信に満ちた光が宿っていた。
結局、僕は背後から陽太の気配を感じながら、屋上へと続く階段を上る羽目になった。
五月の屋上は、地上よりも風が強く、フェンスがガタガタと頼りない音を立てている。
僕はいつものように、隅にある貯水タンクの影に腰を下ろした。
ここなら誰の目にも触れず、自分だけの静寂を守れるはずだった。
「わあ、すげえ。ここ、最高だな!」
陽太は僕の隣にどさりと座り込むと、購買で買ったらしい焼きそばパンの袋を威勢よく破った。
「お前、毎日こんな良い景色を独り占めしてたのか? 贅沢だなあ」
「景色なんて、どこで見ても同じだよ」
僕はコンビニの素っ気ないおにぎりを口に運ぶ。
「同じわけないだろ。今日の空、見てみろよ。あんなに騒がしい青だぜ?」
騒がしい青。
妙な表現だと思ったが、今の僕にはその意味が痛いほど理解できた。
僕の目に映る空は、いつだって平坦な灰色か、せいぜい薄汚れら白だ。
なのに、隣にいる陽太というフィルターを通すと、その白に暴力的なまでの「色彩」が混じり始める。
彼の青い瞳が、僕の網膜を焼き、強制的に世界をアップデートしようとしてくるのだ。
「……君は、どうして僕なんだ」
耐えきれず、僕は問いかけた。
「クラスにはもっと、君みたいに明るくて、楽しそうな奴らがたくさんいる。あっちに行けばいいだろ」
陽太は焼きそばパンを頬張ったまま、空を仰いだ。
少しの間、咀嚼する音だけが響く。
「うーん。なんて言うかさ、お前、すごく『静か』だったから」
「静か?」
「ああ。みんな、自分をよく見せようとして、カラフルなノイズを撒き散らしてる。でも、お前だけは、しんと静まり返った深い水の底にいるみたいに見えたんだ。……そこなら、俺の音がちゃんと響く気がしてさ」
その言葉に、心臓の奥がチクリと疼いた。
僕が必死に築いてきた「透明な壁」を、この男は、まるで最初から存在しないかのように透かして見ている。
「あ、そうだ。湊、カメラ貸してくれよ」
唐突に陽太が手を伸ばしてきた。
「嫌だ。これは古いし、扱いが難しいんだ」
「いいじゃん、一枚だけ! 俺を撮るんじゃなくて、俺が撮るの!」
強引に鞄からライカを引っ張り出そうとする陽太と、それを阻止しようとする僕。
もみ合っているうちに、不意に僕の手が滑り、カメラが陽太の手に渡った。
「よし。じゃあ、記念すべき初作品!」
陽太はレンズを僕に向けた。
「おい、やめろ――」
反射的に腕で顔を隠す。
カシャッ、という硬質なシャッター音が、屋上の風にかき消された。
「……あ」
陽太が、奇妙な声を漏らした。
カメラを構えたまま、彼は凍りついたように動かなくなった。
「どうしたんだよ。壊したのか?」
不安になって覗き込むと、陽太はカメラのファインダーから目を離し、自分の右手をじっと見つめていた。
その手は、昼の陽光にさらされているはずなのに、一瞬だけ、嘘のように**「透けて」**見えた気がした。
「……いや。なんでもない。悪い、これ、返すよ」
陽太はいつもの明るい笑顔を貼り付け直したが、その声には先ほどまでの覇気がなかった。
彼は慌てたようにカメラを僕に押し返し、立ち上がる。
「昼休み、もうすぐ終わりだな。先に戻るわ!」
逃げるような足取りで、陽太は屋上の扉の向こうへ消えていった。
一人残された僕は、手の中に戻ったライカの冷たさを感じていた。
ファインダーを覗いてみる。
そこには、陽太が去った後の、無機質なコンクリートの床だけが映っていた。
けれど、僕の胸の中には、彼が残していった「青いノイズ」が、不吉な予感と共にざわめき続けていた。
