翌朝、僕はいつもの時間に目を覚ました。
カーテンを開けると、昨日と変わらない暴力的なまでの夏の光が部屋に流れ込んでくる。
かつてならその眩しさに目を背けていただろう。
けれど今は、その光の中に混じるかすかな「青」を、僕は無意識に探していた。
学校へ向かう足取りは、不思議と軽かった。
校門をくぐり、昇降口で靴を履き替える。
通り過ぎる生徒たちの会話に、陽太の名前はない。
彼らは今日、誰かが自分の世界から欠落したことなど微塵も気づかずに、昨日の続きを生きている。
教室のドアを開ける。
僕の席の隣は、やはり不自然に広い通路のままだった。
「あ、湊。おはよう」
昨日、僕を「異常者」を見るような目で見ていた男子が、おずおずと声をかけてきた。
「……ああ。おはよう」
僕が普通に応答すると、彼は少しほっとしたような顔をした。
「昨日のお前、なんだかすごかったからさ……。その、落ち着いたみたいで良かったよ。文化祭の委員とか、そろそろ決めなきゃいけないんだけど、お前もやるか?」
「委員?」
「ああ。記録係。お前、カメラ詳しいんだろ?」
僕は、かつての「背景」としての僕なら、間違いなく断っていただろうその誘いに、一呼吸置いてから頷いた。
「……分かった。やるよ」
椅子に座り、窓の外を見つめる。
陽太が座っていたはずの窓枠には、今はただ、埃の粒子が光に反射して舞っているだけだ。
僕は鞄から一冊のノートを取り出した。
それは、陽太がいなくなる直前まで書き綴っていた、彼に関する記録の束だ。
ページをめくると、僕の筆跡で埋め尽くされた「浅陽陽太」という個人のデータが躍っている。
――好きな色はスカイブルー。
――嫌いなものは静まり返った場所。
――誕生日は、自分でもよく覚えていないと言っていた。
読み返すと、胸の奥が焼けるように熱くなる。
世界は彼を忘れた。歴史からも、名簿からも、人々の脳細胞からも、彼は完全に抹消された。
けれど、このノートがある。僕の記憶がある。
僕が彼を覚えている限り、彼は「死んだ」のではなく「そこにいるけれど、誰にも見えないだけ」の存在になる。
それは孤独な戦いだ。
誰とも分かち合えない、僕だけの真実。
授業が始まった。
先生の書くチョークの音。
誰かのくしゃみ。
遠くで響く運動部の掛け声。
それらすべての音の中に、ときどき、あのピアノの「ド」の音のような、澄んだノイズが混じっている気がする。
僕はノートの最後の白紙のページに、ペンを走らせた。
『彼は、嵐のような奴だった。 僕の世界に色を付け、僕の世界を壊し、そして、僕の世界そのものになった。 これから僕が撮るすべての写真は、彼への手紙だ』
ふと、隣の「空席」から、聞き慣れた笑い声が聞こえた気がして、僕は隣を向いた。
そこには誰もいない。
けれど、窓から吹き込んだ風が、僕のノートのページをパタパタと捲り、まるで誰かがそこを読んでいるかのように一箇所で止まった。
そこには、昨夜僕が書いた一言があった。
――「またな、相棒」。
僕は誰にも気づかれないように、小さく微笑んだ。
モノクロームの朝は、もう二度とやってこない。
僕の隣には、目に見えない最強のノイズが、今も確かに息づいているのだから。
カーテンを開けると、昨日と変わらない暴力的なまでの夏の光が部屋に流れ込んでくる。
かつてならその眩しさに目を背けていただろう。
けれど今は、その光の中に混じるかすかな「青」を、僕は無意識に探していた。
学校へ向かう足取りは、不思議と軽かった。
校門をくぐり、昇降口で靴を履き替える。
通り過ぎる生徒たちの会話に、陽太の名前はない。
彼らは今日、誰かが自分の世界から欠落したことなど微塵も気づかずに、昨日の続きを生きている。
教室のドアを開ける。
僕の席の隣は、やはり不自然に広い通路のままだった。
「あ、湊。おはよう」
昨日、僕を「異常者」を見るような目で見ていた男子が、おずおずと声をかけてきた。
「……ああ。おはよう」
僕が普通に応答すると、彼は少しほっとしたような顔をした。
「昨日のお前、なんだかすごかったからさ……。その、落ち着いたみたいで良かったよ。文化祭の委員とか、そろそろ決めなきゃいけないんだけど、お前もやるか?」
「委員?」
「ああ。記録係。お前、カメラ詳しいんだろ?」
僕は、かつての「背景」としての僕なら、間違いなく断っていただろうその誘いに、一呼吸置いてから頷いた。
「……分かった。やるよ」
椅子に座り、窓の外を見つめる。
陽太が座っていたはずの窓枠には、今はただ、埃の粒子が光に反射して舞っているだけだ。
僕は鞄から一冊のノートを取り出した。
それは、陽太がいなくなる直前まで書き綴っていた、彼に関する記録の束だ。
ページをめくると、僕の筆跡で埋め尽くされた「浅陽陽太」という個人のデータが躍っている。
――好きな色はスカイブルー。
――嫌いなものは静まり返った場所。
――誕生日は、自分でもよく覚えていないと言っていた。
読み返すと、胸の奥が焼けるように熱くなる。
世界は彼を忘れた。歴史からも、名簿からも、人々の脳細胞からも、彼は完全に抹消された。
けれど、このノートがある。僕の記憶がある。
僕が彼を覚えている限り、彼は「死んだ」のではなく「そこにいるけれど、誰にも見えないだけ」の存在になる。
それは孤独な戦いだ。
誰とも分かち合えない、僕だけの真実。
授業が始まった。
先生の書くチョークの音。
誰かのくしゃみ。
遠くで響く運動部の掛け声。
それらすべての音の中に、ときどき、あのピアノの「ド」の音のような、澄んだノイズが混じっている気がする。
僕はノートの最後の白紙のページに、ペンを走らせた。
『彼は、嵐のような奴だった。 僕の世界に色を付け、僕の世界を壊し、そして、僕の世界そのものになった。 これから僕が撮るすべての写真は、彼への手紙だ』
ふと、隣の「空席」から、聞き慣れた笑い声が聞こえた気がして、僕は隣を向いた。
そこには誰もいない。
けれど、窓から吹き込んだ風が、僕のノートのページをパタパタと捲り、まるで誰かがそこを読んでいるかのように一箇所で止まった。
そこには、昨夜僕が書いた一言があった。
――「またな、相棒」。
僕は誰にも気づかれないように、小さく微笑んだ。
モノクロームの朝は、もう二度とやってこない。
僕の隣には、目に見えない最強のノイズが、今も確かに息づいているのだから。
