陽太が消えた場所には、陽炎すら残っていなかった。
僕はただ、真夏の直射日光に焼かれるアスファルトの上に立ち尽くしていた。
腕の中に残っていたはずの微かな冷たさも、今はもう、湿った熱気に上書きされている。
世界は、何事もなかったかのように回っている。
通行人が僕の横を通り過ぎ、不審なものを見るような視線を投げかけてくる。
彼らにとって、この場所はただの道であり、僕が抱きしめていたはずの存在は、最初からこの宇宙に存在しない虚像でしかない。
「……う、あああああ!」
喉の奥から、言葉にならない獣のような叫びが漏れた。
僕は狂ったように、地面に転がったライカを拾い上げた。
裏蓋を開け、使い切ったフィルムを引きずり出す。
意味がないことはわかっていた。
現像しても、そこには彼が愛した風景しか写っていない。
僕がどれだけ叫んでも、世界という巨大な消しゴムが、浅陽陽太という少年の軌跡を綺麗に消し去ってしまったのだ。
絶望に打ちひしがれ、僕はふらふらと歩き出した。
足が向かったのは、僕たちの「始まりの場所」――旧校舎の音楽室だった。
立ち入り禁止のテープをくぐり、埃の匂いが充満する廊下を走る。
音楽室の扉を勢いよく開けると、そこには、あの調律の狂ったピアノが静かに佇んでいた。
陽太がいない。
彼が座っていた椅子も、彼がなぞっていた鍵盤も、今はただの古い木材に戻っている。
「陽太……。君は、本当にいたんだよな……?」
僕はピアノの前に座り込み、鍵盤に額を押し当てた。
その時だった。
視界の端に、何か「青いもの」が映った。
ピアノの譜面台の隙間。
そこに、小さなメモ用紙が挟まっていた。
それは、僕のノートの端を破ったような、歪な形の紙切れだった。
震える手でそれを広げる。
そこには、殴り書きのような、けれど力強い文字でこう記されていた。
『湊へ。 俺を撮ってくれて、ありがとう。 俺が消えた後、お前の世界がまたモノクロに戻ろうとしたら、このピアノの「ド」の音を叩け。 そこには、俺が最後に込めたノイズが隠してある。 約束だぞ。俺が消えても、お前の世界は、ずっと鮮やかなままだ』
涙が、メモを濡らした。
僕は震える指で、ピアノの中央にある、象牙の剥げかかった「ド」の鍵盤を叩いた。
――ポーン。
歪んだ、けれど途方もなく透明な音が響いた。
その瞬間。
音楽室の埃、窓から差し込む斜陽、壁のシミ、そのすべてが激しく「ノイズ」のように揺らいだ。
そして。
僕の耳に、聞こえるはずのない声が届いた。
『笑えよ、湊。俺が惚れたのは、お前が撮る、最高に鮮やかな世界なんだからさ』
それは、陽太の声だった。
脳内再生の記憶じゃない。
空気そのものが震え、僕の心臓を直接叩くような、本物の声。
僕は顔を上げた。
僕の瞳に映る世界は、モノクロに戻ることなんてなかった。
むしろ、陽太という存在を構成していた「青」が、世界中の光に溶け込み、あらゆる風景に命を吹き込んでいるのが見えた。
空はより高く、影はより深く、光はより激しく。
彼というノイズは、消えたのではない。
この世界というキャンバスに、永遠に消えない下地として塗り込められたのだ。
「……ああ。約束するよ、陽太」
僕は涙を拭い、ライカに新しいフィルムを装填した。
彼が遺したこの鮮やかな世界を、僕が死ぬまで記録し続ける。
写真の中に彼の姿は見えなくても、僕が撮るすべての「色彩」の中に、彼は生き続ける。
それが、僕たち二人だけの、世界に対するささやかな反逆であり、永遠の絆だ。
僕は窓を開け放った。
夏の風が吹き込み、僕の頬を撫でる。
そこには確かな感触があった。
目には見えないけれど、触れられないけれど。
僕たちは今も、この青いノイズの中で、背中合わせで笑っている。
僕はただ、真夏の直射日光に焼かれるアスファルトの上に立ち尽くしていた。
腕の中に残っていたはずの微かな冷たさも、今はもう、湿った熱気に上書きされている。
世界は、何事もなかったかのように回っている。
通行人が僕の横を通り過ぎ、不審なものを見るような視線を投げかけてくる。
彼らにとって、この場所はただの道であり、僕が抱きしめていたはずの存在は、最初からこの宇宙に存在しない虚像でしかない。
「……う、あああああ!」
喉の奥から、言葉にならない獣のような叫びが漏れた。
僕は狂ったように、地面に転がったライカを拾い上げた。
裏蓋を開け、使い切ったフィルムを引きずり出す。
意味がないことはわかっていた。
現像しても、そこには彼が愛した風景しか写っていない。
僕がどれだけ叫んでも、世界という巨大な消しゴムが、浅陽陽太という少年の軌跡を綺麗に消し去ってしまったのだ。
絶望に打ちひしがれ、僕はふらふらと歩き出した。
足が向かったのは、僕たちの「始まりの場所」――旧校舎の音楽室だった。
立ち入り禁止のテープをくぐり、埃の匂いが充満する廊下を走る。
音楽室の扉を勢いよく開けると、そこには、あの調律の狂ったピアノが静かに佇んでいた。
陽太がいない。
彼が座っていた椅子も、彼がなぞっていた鍵盤も、今はただの古い木材に戻っている。
「陽太……。君は、本当にいたんだよな……?」
僕はピアノの前に座り込み、鍵盤に額を押し当てた。
その時だった。
視界の端に、何か「青いもの」が映った。
ピアノの譜面台の隙間。
そこに、小さなメモ用紙が挟まっていた。
それは、僕のノートの端を破ったような、歪な形の紙切れだった。
震える手でそれを広げる。
そこには、殴り書きのような、けれど力強い文字でこう記されていた。
『湊へ。 俺を撮ってくれて、ありがとう。 俺が消えた後、お前の世界がまたモノクロに戻ろうとしたら、このピアノの「ド」の音を叩け。 そこには、俺が最後に込めたノイズが隠してある。 約束だぞ。俺が消えても、お前の世界は、ずっと鮮やかなままだ』
涙が、メモを濡らした。
僕は震える指で、ピアノの中央にある、象牙の剥げかかった「ド」の鍵盤を叩いた。
――ポーン。
歪んだ、けれど途方もなく透明な音が響いた。
その瞬間。
音楽室の埃、窓から差し込む斜陽、壁のシミ、そのすべてが激しく「ノイズ」のように揺らいだ。
そして。
僕の耳に、聞こえるはずのない声が届いた。
『笑えよ、湊。俺が惚れたのは、お前が撮る、最高に鮮やかな世界なんだからさ』
それは、陽太の声だった。
脳内再生の記憶じゃない。
空気そのものが震え、僕の心臓を直接叩くような、本物の声。
僕は顔を上げた。
僕の瞳に映る世界は、モノクロに戻ることなんてなかった。
むしろ、陽太という存在を構成していた「青」が、世界中の光に溶け込み、あらゆる風景に命を吹き込んでいるのが見えた。
空はより高く、影はより深く、光はより激しく。
彼というノイズは、消えたのではない。
この世界というキャンバスに、永遠に消えない下地として塗り込められたのだ。
「……ああ。約束するよ、陽太」
僕は涙を拭い、ライカに新しいフィルムを装填した。
彼が遺したこの鮮やかな世界を、僕が死ぬまで記録し続ける。
写真の中に彼の姿は見えなくても、僕が撮るすべての「色彩」の中に、彼は生き続ける。
それが、僕たち二人だけの、世界に対するささやかな反逆であり、永遠の絆だ。
僕は窓を開け放った。
夏の風が吹き込み、僕の頬を撫でる。
そこには確かな感触があった。
目には見えないけれど、触れられないけれど。
僕たちは今も、この青いノイズの中で、背中合わせで笑っている。



