目を開けた、と思った。
 だけど瞼の感触はなく、周辺は漆黒の闇が広がっている。
 ここはどこだっけと記憶を辿るも、指先から砂が溢れるように何一つ掴めなくて。闇雲に手を伸ばそうにも、その手はどこにあるのかが分からない。
 地面に着くはずの足も、体の重さも、上か下がさえも。

 こんな訳が分からない状況に速くなるはずの息遣いも呼吸もなく、動揺しているはずの体は紅潮して熱くなることも青ざめて冷えることもない。
 まるで、体なんて存在しないように。

 記憶も、肉体も、体の機能すらも失われたのかもしれないのに、思考力だけは残っている。
 そんな、全てに置いてかれてしまった状況に、私もこの闇に解けて消えてしまいたかった。


『───ようこそ、死の入り口へ』
 暗黒の奥より、石を転がすような不気味な声が響く。その言葉が落ち、闇に見えない波紋が広がっていく。

 死の入り口?
 解せない言葉に眼球や首を動かして声の主を探そうとするも、瞼同様にそれらの感覚は持ち合わせてはいないようだ。
 問いかけてみようと声を出そうとするも、私から放たれるものは何もない。告げられた言葉だけが、虚無の空間に消えていく。

『お前は、ある人物の身代わりとなった。まもなく、死ぬ運命だ』
 抑揚のない声がまた新たな波紋を作り、私の前を通り過ぎていく。
 何を言われているのかが分からない。いや、意味は分かるけど。やっぱり、分からない。
 唯一残されているであろう思考力を使い、今まで起きたことを順番立ててまとめていく。極めて冷静に。

 だけどあまりにも不可解なことが起こり過ぎていて、こんなこと現実ではあり得なくて。
 やっぱり意味が分からない。そんな平坦な答えしか出なかった。

『お前が助かる方法は一つ。その人物を言い当て、「その命を返せ」と叫ぶことだ。さすれば、死の運命を戻してやる』
 まだ理解が追いついていないのに、どんどんと蓄積されていく情報量。
 また考えを巡らせても答えなど出るはずもない話に、最後の砦である思考力すらオーバーヒートを起こして停止してしまったようだ。

 考えなくて良い。ゆっくり思い返せば、そこから手掛かりが掴めていく。だから大丈夫、まずは自分のことから……。
 そんな思考より、思う。私は───、誰?

 直前までの記憶だけでなく自分の存在すら曖昧で、記憶のピースは完全に砕け散ってバラバラ。
 何度思い返しても、やはり分からない。
 こんな状態だというのに、体からは痛みも、震えも、湧き上がる感情もなく、ただ身を任せているだけ。
 私の存在全てを、否定されたような気がした。

『ああ。お前の記憶と肉体は、我が手にある。死ぬ運命なのだから、当然だろう?』
 私の思考はお見通しと言わんばかりに、的確な返答をしてくる、無機質で氷を擦るような声。
 それはあまりにも冷たく、耳に残る不調和音で、私の精神まで削られたような気がしてくる。

 ───体と、記憶を?

 否定の言葉を並べようにもやはり声帯もないようで、声が出せず、手が動かず、体そのものを動くことも出来ず。どうして私が死を押し付けられたかも、自分が誰かも分からない。

 この状況を否定する方法がない私は文字通り何も出来ず、死の狭間という異質な空間で、ただ身を任せるしかなかった。

『……お前は、恐れないのか?』
 感情のない声が問うのは、死についてだった。
 大概の人間は寿命が尽きたと告げられると泣き叫び、命乞いをしてくるらしい。中には身代わりを立ててまで、生きようとする人まで。
 つまり私は、その人物の「身代わり」として死ぬ運命らしい。


 死ぬとは、どうゆうことなのだろうか? 勿論、理論的には分かるけど、その他には?
 体が動かなくなる、言葉を発せなくなる、息をしなくなる。
 痛みも、苦しみも、体の重みもない。感覚もなく、ただ浮遊するだけの存在となる。
 誰が死んでも世界からひっそり存在が消え、何もなかったかのように、日が登り沈んでいくだけ。

 そんな世界で、どうして人は生きたいと願うのだろう? 自分が消えても気に留めてもくれない世界で、どうして死にたくないと願うのだろう?
 死にたくないから生きてるの? 生きたいから、死にたくないの?

 自分でも驚くほどに醒めた考えをしている私は、どんな人間性なのかを嫌ってほど突き付けられていく。
 死に対して、恐れも嘆きもなく。生に対して、願望や執着もない。
 ……私は、普通の人間ではなかったのだろうか?

 虚無の空間内で、そんな問いだけが響いていた。


『お前の名は篠崎(しのざき)(あかね)、年は十六。……少しは実感が湧いたか?』
 先程まで一切の温度がなかった声に、僅かな温もりを感じる。存在しないはずの体にそれが落ち、広がっていく。
 ───死んではいけない。

 どこからか湧き出てきた感情に、無いはずの胸が強く締め付けられるような気がした。


『期間は一ヶ月。十月十二日から、十一月十一日の間。本来、死を遂げる予定だった人物……。まあ今現在は、お前の命日となる日まで。……つまり、本日だ』

 き、今日……!
 まもなく死ぬって、そんな急な話だったの? そんな、いきなり言われても……。
 あまりにも突然過ぎる死の宣告に、浮遊している体がカタカタと小刻みに揺れたような錯覚を覚える。

『……話をよく聞け。期間は一ヶ月と言っているだろう? 我の力で、時を巻き戻してやる。だからお前はその期間で、身代わりを企てた人間を特定する。どうだ、単純な話だろう?』
 淡々と告げられる、命の期限。
 つまり、少なくてもあと一ヶ月は生きられるということ、なんだよね?
 揺れた体は自然と落ち着き、またこの場に身を任せて浮くだけの存在となる。
 何? この感覚は?
 気づけばこの闇に、どこか解け込み始めている自分が居るような気がした。


『ただし、その人物を当てられるのは一回だけだ。間違えた瞬間、お前の魂を握り潰し、我が養分となる』
 暗黒の中で一瞬、鈍い光沢が不気味に光る。
 まるで金属が反射で光った時のような弱い光が、私の視界を妨げてきた。
 クククッと響き渡る声は私の全身に駆け巡っていき、その身を硬直させてくる。
 先程まで感じていた解け込み感は一瞬で消え、私をまとう闇が表情を変えたような気がした。

 ───やらない選択肢は、ないのだろうか?
 その考えが浮かんだ途端、波紋となって広がっていく。
 だって、よく分からないし。それなのに一回しかチャンスがないなんて、私なんかに出来るはずないじゃない。
 ほら例えば、身代わりを企てた人と寿命を半分ずつとかに出来るなら、私はそれで良いと思うし。

『それが……、お前の答えか?』
 えっ?
 金属が擦れるような悪音と共に、私の魂らしきものは冷たく硬い何かに覆われ、全体にキリキリとした衝撃が襲ってくる。
 まるで全身を巨大な手により強く握り締められているような、痛みと苦しみ。
 体なんて概念ないはずなのに、生きていた頃のような息苦しさ。
 私に当たっている刃、おそらく死神の爪は、もし私が肉体を持ち合わせていれば、軽々と切り裂いてしまうだろう。

 手があれば振り払うことが出来るのに。足があれはもがくことも出来るのに。僅かでも声が出せたら、やめてと懇願出来るのに。
 私、どうなって、しまうの……?
 心臓がないはずなのに、どこかでドクンと鼓動のような音がした。これが、恐怖心なのだろうか?

 ───あ、あなたは、一体?
 締め付けられていた力が緩んで、気持ちの中で酸素を求めて息を切らせていた時に、不意に過った感情。
 こんなことを出来るのって、まさか……。

『死神だ。既にお前の魂と肉体を解離させてある。そこに疑う余地などないだろう?』
 氷の刃みたいな声で、私に現実を突き付けてくる。願っていた否定の言葉は、最も簡単に握り潰されてしまった。

 ……悪夢を見ているだけ、だよね?
 あまりにも現実から離れたことが起こり、夢で良かったと熱い溜息を吐くことがある。
 記憶なんてないはずなのに、そんなことが過ぎるなんて。それは人間として生きていた頃に、自分を守る為に構築された、防衛本能なのだろうか?

 しかし、死神の手は違うと嘲笑うかのように、また無力な魂を締め上げてくる。逃がさないと言いたげに、強く。
 このまま握り潰されてしまうのではないかと思うぐらいの圧。私の存在が真っ暗な闇の中で溶けてしまいそうで、意識が消えてしまいそうで。

 ───分かったから!
 気付けば、声のない叫びを上げていた。
 本心ではない。こんな話、信じられるわけ。
 ただ、この苦しみから解放されたくて。私の奥底で眠る何かが、それを思念として送っていたのかもしれない。

『信じるか、信じないかは、お前の自由。しかし一ヶ月後、我が手の中で悔やむ未来は確実に訪れる。争うか、受け入れるかは、お前の選択。我には関係ないないからな』

 冷たく突き放されるような言葉と共に、緩んでいく私を掴んでいたもの。しかし解放されたはずなのに、針が刺さるような鋭い痛みが、私を捕らえて離さない。
 おそらく爪を、こちらに食い込ませているのだろう。

 ───っ! 痛い、やめて!

 力の限り思念のようなものを送ると、鋭痛も、息苦しさも、スッと消えていく。
 私を覆っていたであろう、重い空気を纏った邪悪な気配。それはなくなり、また私は虚無の世界で、一人当てもなく浮遊しているようだった。

 はぁ、はぁ、はぁ、はぁ……。
 息なんてしていないのに、気づけばまた息遣いを想起させている。
 まるで呼吸をしなければならないと、何かが命令してくるみたいで。これも、生きていた頃の生存本能なのだろうか?

 でも、これでハッキリした。
 私の命は、死神により転がされている。そして一ヶ月後、確実に握り潰される。手の平の上で。
 
 ───私の、体は?
 恐怖心は人を生きることに前向きにさせるのか、気付けば私は生存への一歩を探っていた。

『それは問題ない。厳重な管理により、保たれている。魂を戻せば肉体と融合し、記憶も戻る。安心することだな。……まあ、運命を変えれたらの話だがな』
 ギリギリとした笑い声は、不安と不快を誘発をさせるものを混ぜているようで、私の奥底にある心を削ってくる。

 この人、……いや、死神にとって、死を押し付けた人間と押し付けられた人間、どっちが死のうと関係ないんだ。

 ないはずの心臓がまたドクンと響いたような気がして、その鼓動が闇に一瞬の振動を起こしたように揺れる。
 ここに感情論や、倫理観なんてない。味方なんていない。
 生き残るか、消されるか、ただそれだけだ。

 その現実に、爪の刃がいまだに刺さっているような錯覚が襲ってくる。
 痛い、息苦しい、……怖い。
 押し寄せてくる様々な感情を、一つ、一つ、私の中で鎮め込んでいく。
 泣いたり、溜息を吐いたり、誰かに話したり。そうゆう何気ない動作がいかに人間にとって必要なことだったと、こうなってようやく気づいた。


 私は「身代わり」にされて、死ぬ運命。
 それを企てた人を特定出来たら、私の勝ち。運命は戻り、生存。
 ───だけど、間違えれば死。時間切れでも死。
 期間は一ヶ月。
 ……その他には?

 魂の奥底より湧き上がる恐怖心を紛らわす為、頭の中を思考で埋め尽くしていく。

『あと一つ、付け加えておいてやる。死の運命を押し付ける条件は、互いに面識が必要。どうだ、相手はかなり絞られただろう?』
 私の思考に合わせて、あまりにも有益な情報が降り注いでくる。
 ……それってつまり、相手は顔見知り。……ということ?
 次に襲ってきたのは、チリチリとした痛みが奥底が焼けるような感覚。これが、心の痛みなのだろうか?


 ───大丈夫、私にはまだ感情がある。それさえあれば、頑張れる。そうだよね?
 私の小さな容量では受け入れられなかったものを、「生きたい気持ち」により、跳ね除けていく。
 うん、大丈夫。これだけ軽くなったら、ちゃんと考えられるから。

『そろそろ時間だ』
 あまりにも呆気なく告げられる、闘いの始まり。
 一瞬、闇の中で光りが生じたかと思えば、溢れてくる煌々とした光。まるで空間を切り取ったように、光が差す世界は広く感じた。

『期間は一ヶ月。指名出来るのは一回のみ。夢夢、忘れなきよう』
 私の意思とは関係なく、この身は光りの先へと吸い込まれるように、闇の世界を抜けようとする。

 光の反射により見えたのは、死神のものと思われる長い指に爪。自分の大きさなんて分からないけど、その気になれば脆弱な魂の存在である私なんか、最も簡単に握り潰せるだろう。
 本当に、死神の手の平で転がされているんだ私。

 目を閉じることも、視線を逸らすことも叶わなかった私が目の当たりにしたのは、鋭い刃。
 死神の手に握られている鎌は細く鋭く。その光沢と目が合った途端に、私の全身が刺されたような痛みが走る。
 鈍く光っていたのは、鎌だったんだ。

 ああ、そっか。……私はあれで、魂を抜かれたんだ。
 初めて取り戻した記憶は、胸に鎌が刺さり魂を抜かれる瞬間。
 あまりの衝撃に叫びそうになったけど、口を何かで塞がれていた。
 僅かに聞こえたのは、規則正しく鳴る人工的な音。
 遠い記憶だけど聞き覚えがある。心が締め付けてくるのに、ひたすらに止まらないでと願った幼少期。

 グラッと揺れたような景色になんとか焦点を合わせると、広がるのは光り溢れる世界。
 開かれていた空間は、私が通り過ぎた途端に音もなく閉まる。
 ……もう後戻りは出来ない。
 自分の意思で動かせない魂は雲の上を浮遊しており、夕暮れ時の空下、ただ地上へと進んでいく。

 これは解放ではない、闘いの始まり。
 命を賭けたデスゲーム。身代わりを仕立て上げた側と、その生贄に捧げられた側の。

 一体誰が、死の運命を押し付けたのだろう?
 そう思考を巡らした途端に、眺めていた町並みがぼやけてくる。
 酸欠を起こしたかのように、どんどんと薄れていく意識。
 私は、この感覚を知っている。

 カチッ、カチッ、カチッ、カチッ。
 時計の秒針みたいな音がどこからか聞こえてきて、命のカウントダウンが始まったのだと嫌でも察せられた。

 余命、一ヶ月。いや、もっと短いかもしれない。
 一秒、また一秒と命が削られていく中、意識が途絶える直前に、ふっとある考えが過ぎる。
 ───私は、そこまで恨まれる人間だったのだろうか?

 最後に見た茜色の空は、どこまでも優しかった。