「なんかさー、和泉と香月のお点前って私らと違うくない?」
六月上旬の月曜日、二度目のお稽古を終えて十分休憩を挟んだところで、一年生の江口莉音が笑いながらそう言うのを聞いた。
一年生の女子とは、付かず離れずの距離で、部活動に勤しんでいる。
週二回の部活なので、他の運動部なんかに比べると、どうしても異性である彼女たちと仲良くなるまでには至れていなかった。
おまけに僕はもともと他人と喋るのが苦手だ。香月くんとはなんとか彼の勢いに乗せられて話せているものの、女子と仲良く会話なんてできるはずもなかった。
「分かるー! 先輩たちも誰も指摘しないよね。贔屓されてんじゃない」
ひそひそと僕たちを見ながら囁き合う一年生たち。なんだか嫌な感じだな、と僕も香月くんもむっとしていた。
とそのとき、お手洗いに行っていた久遠先生が戻ってきて、こう告げた。
「女性と男性は、少しずつお点前が違うところがあるのです。あなたたち、他人のお点前を馬鹿にしていないで、自分のお稽古に励みましょうね」
凛と筋の通った声で、一年生女子たちにぴしゃりと言い放つ。
先生の言葉に、女子たちも「は、はい」と返事をせずにはいられなかった。
「ごめん、二人とも。私ら男女の違いとかよく知らなくて……」
江口さんがしゅんとして僕らに謝ってきた。僕は香月くんと顔を見合わせて、ぷっと吹き出す。
「いいって! 俺たちもまだまだ知らないことばっかだし。女子の中に紛れ込んでうざいっていう自覚はあるからさ」
手をひらひらさせながら答える香月くんに、江口さんは「そんなことないよ」と小さく呟いた。
「二人、入ってきたばっかりなのに、メキメキ上達しててすごい。ちょっと嫉妬してたんだ。だから本当にごめん」
素直に謝ってくれる彼女はたぶん、根はとても良い人なのだ。江口さんだけじゃない。他の一年生女子たちも、きっと同級生同士で仲良くしたいと思ってくれているはずだ。
僕は今まで、同じ一年生の部員同士なのに彼女たちのことをよく知ろうとしなかった自分を恥じた。
「茶道部はいつか俺たちが引っ張っていく立場になるからさ、みんなで仲良くしようぜ」
香月くんの圧倒的な明るさに、その場がほっと和んでいく。
近くにいた朝比奈さんが、香月くんのことを憧れのまなざしで見ているような気がして、僕は心臓がドキリと鳴った。
色恋沙汰には疎い僕にも、彼女が香月くんに恋をしているということは一目で分かってしまった。
「なんかいいよな。男点前っていうのがあって。俺らにしかできない感じがして」
香月くんが僕にそう言いながら笑いかけてくる。僕は「そ、そうだね」と頷いた。
「香月くんはさ、なんで茶道部に入ろうって思ったの?」
僕は、彼に対してずっと疑問に思っていたことを聞いた。すると香月くんは「蒼でいいよ」とニッと唇を持ち上げて笑う。
「呼び方。俺だけ宗貴って呼んでんの、なんか寂しかったから。俺のことも蒼って呼んで」
「蒼……」
友達のことを下の名前で呼ぶのはいつぶりだろう。
うんと幼かった頃は名前で呼ぶこともあったと思うが、成長するにつれ、人間関係が希薄になっていた僕にとってはかなり久しぶりのことだった。
「……なんか照れくさいな」
「そう? 恋人でもあるまいし、恥ずかしがんなよ〜」
そう茶化してくる香月くん——蒼は、僕に下の名前で呼んでもらったことが嬉しいのか、鼻の下を掻きながら、それこそ照れたような顔つきになる。僕は、胸にほんのりとかすかな喜びが芽生えるのを感じた。
なんでだろう……ずっと、高校生活は静かに、波乱のない日常を送って、何事もなく卒業をできればそれでいいと思っていた。恋愛なんてもってのほかで、友達すらできずに終わっても仕方がないと思ったし、それでも良かった。平和な日常を好む僕にとっては、クラスメイトの華やぐ声も雑音にすぎなかった。
でも、蒼が僕に話しかけてくれて、こうして一緒に茶道部に入ってから、僕の中で確かに何かが変わり始めているのを感じていた。
新しいことが始まる——僕が今まで知らなかった日常が、人生が、この先僕の心を鮮やかに色付けてくれるんじゃないか——そんな気がした。
「で、さっきの質問の答えなんだけどさ」
名前呼びのことですっかり意識が飛んでいた。
僕は蒼に、なぜ茶道部に入ろうと思ったのか聞いたんだった。
「俺の知り合いで、茶道をやってた人がいて。ふと思い出して、俺もやってみたいなーって」
「え、それだけ?」
「うん。あ、あとお菓子も食べられるし」
へへっと笑いながら彼はそう言ってのけた。
知り合いで茶道をやっていた人がいたから——あの日、僕と一緒に茶道部に入ろうと声をかけてくれた蒼が、あまりに単純な理由で茶道を始めたことが分かり、なんだか拍子抜けした気分だ。
「入部なんてみんなそんなもんでしょー。体験が楽しかったからとか、綺麗な先輩がいたからとか」
「……言われてみれば確かにそうかも」
二つ目の理由はとても不純だけれど、子どもの考えることなんてみんなそんなもんだ。
「そういう宗貴はなんで俺と茶道部に入ってくれたの?」
「それは……蒼が強引だったから」
「えー、俺そんなに強引だった?」
真面目にショックを受けている様子で、彼は目を大きくしながら聞いてきた。
「うん、強引。でも……久遠先生にも言われたとおり、僕には茶道が向いてるかもしれないって思ったからでもあるかな」
入部した時の気持ちを思い出すと、胸に温かなひだまりのような温度が宿るのを感じた。
「そっか。宗貴は実際茶道部に入って良かったと思うか?」
彼は、いつになく真剣なまなざしで僕にそう問いかけた。
茶道部に入って良かったか——その答えはもう、決まっている。
「良かったよ。僕にも夢中になれることがあるんだって気づいたから」
何事にも心を乱さず、ただひっそりと息をすることだけが自分にできることだと思って生きてきた。
幼い頃に母が僕を置いて家を出て行った時、僕は自分が母にわがままを言いすぎたせいで母が出て行ったのだと思った。だからこそ、母がいなくなってから、僕は必要以上に自分の感情を外に出すことを避けてきた。
でも、こうして蒼と一緒に茶道を始めてから、僕の中で少しずつ変化する気持ちがあることに気づいた。
「それなら良かったよ。これからもよろしくな、相棒」
蒼が白い歯を見せながら爽やかな笑顔を浮かべる。その顔にはどこにも陰がなくて、僕は彼のようになりたいと憧れを抱いた。
蒼と、僕と。
全然違う二人なのに、僕たちはどこかで一つにつながっている——そんなふうに思えたから、僕はいつまでも蒼と一緒に稽古に励みたいと思った。
六月上旬の月曜日、二度目のお稽古を終えて十分休憩を挟んだところで、一年生の江口莉音が笑いながらそう言うのを聞いた。
一年生の女子とは、付かず離れずの距離で、部活動に勤しんでいる。
週二回の部活なので、他の運動部なんかに比べると、どうしても異性である彼女たちと仲良くなるまでには至れていなかった。
おまけに僕はもともと他人と喋るのが苦手だ。香月くんとはなんとか彼の勢いに乗せられて話せているものの、女子と仲良く会話なんてできるはずもなかった。
「分かるー! 先輩たちも誰も指摘しないよね。贔屓されてんじゃない」
ひそひそと僕たちを見ながら囁き合う一年生たち。なんだか嫌な感じだな、と僕も香月くんもむっとしていた。
とそのとき、お手洗いに行っていた久遠先生が戻ってきて、こう告げた。
「女性と男性は、少しずつお点前が違うところがあるのです。あなたたち、他人のお点前を馬鹿にしていないで、自分のお稽古に励みましょうね」
凛と筋の通った声で、一年生女子たちにぴしゃりと言い放つ。
先生の言葉に、女子たちも「は、はい」と返事をせずにはいられなかった。
「ごめん、二人とも。私ら男女の違いとかよく知らなくて……」
江口さんがしゅんとして僕らに謝ってきた。僕は香月くんと顔を見合わせて、ぷっと吹き出す。
「いいって! 俺たちもまだまだ知らないことばっかだし。女子の中に紛れ込んでうざいっていう自覚はあるからさ」
手をひらひらさせながら答える香月くんに、江口さんは「そんなことないよ」と小さく呟いた。
「二人、入ってきたばっかりなのに、メキメキ上達しててすごい。ちょっと嫉妬してたんだ。だから本当にごめん」
素直に謝ってくれる彼女はたぶん、根はとても良い人なのだ。江口さんだけじゃない。他の一年生女子たちも、きっと同級生同士で仲良くしたいと思ってくれているはずだ。
僕は今まで、同じ一年生の部員同士なのに彼女たちのことをよく知ろうとしなかった自分を恥じた。
「茶道部はいつか俺たちが引っ張っていく立場になるからさ、みんなで仲良くしようぜ」
香月くんの圧倒的な明るさに、その場がほっと和んでいく。
近くにいた朝比奈さんが、香月くんのことを憧れのまなざしで見ているような気がして、僕は心臓がドキリと鳴った。
色恋沙汰には疎い僕にも、彼女が香月くんに恋をしているということは一目で分かってしまった。
「なんかいいよな。男点前っていうのがあって。俺らにしかできない感じがして」
香月くんが僕にそう言いながら笑いかけてくる。僕は「そ、そうだね」と頷いた。
「香月くんはさ、なんで茶道部に入ろうって思ったの?」
僕は、彼に対してずっと疑問に思っていたことを聞いた。すると香月くんは「蒼でいいよ」とニッと唇を持ち上げて笑う。
「呼び方。俺だけ宗貴って呼んでんの、なんか寂しかったから。俺のことも蒼って呼んで」
「蒼……」
友達のことを下の名前で呼ぶのはいつぶりだろう。
うんと幼かった頃は名前で呼ぶこともあったと思うが、成長するにつれ、人間関係が希薄になっていた僕にとってはかなり久しぶりのことだった。
「……なんか照れくさいな」
「そう? 恋人でもあるまいし、恥ずかしがんなよ〜」
そう茶化してくる香月くん——蒼は、僕に下の名前で呼んでもらったことが嬉しいのか、鼻の下を掻きながら、それこそ照れたような顔つきになる。僕は、胸にほんのりとかすかな喜びが芽生えるのを感じた。
なんでだろう……ずっと、高校生活は静かに、波乱のない日常を送って、何事もなく卒業をできればそれでいいと思っていた。恋愛なんてもってのほかで、友達すらできずに終わっても仕方がないと思ったし、それでも良かった。平和な日常を好む僕にとっては、クラスメイトの華やぐ声も雑音にすぎなかった。
でも、蒼が僕に話しかけてくれて、こうして一緒に茶道部に入ってから、僕の中で確かに何かが変わり始めているのを感じていた。
新しいことが始まる——僕が今まで知らなかった日常が、人生が、この先僕の心を鮮やかに色付けてくれるんじゃないか——そんな気がした。
「で、さっきの質問の答えなんだけどさ」
名前呼びのことですっかり意識が飛んでいた。
僕は蒼に、なぜ茶道部に入ろうと思ったのか聞いたんだった。
「俺の知り合いで、茶道をやってた人がいて。ふと思い出して、俺もやってみたいなーって」
「え、それだけ?」
「うん。あ、あとお菓子も食べられるし」
へへっと笑いながら彼はそう言ってのけた。
知り合いで茶道をやっていた人がいたから——あの日、僕と一緒に茶道部に入ろうと声をかけてくれた蒼が、あまりに単純な理由で茶道を始めたことが分かり、なんだか拍子抜けした気分だ。
「入部なんてみんなそんなもんでしょー。体験が楽しかったからとか、綺麗な先輩がいたからとか」
「……言われてみれば確かにそうかも」
二つ目の理由はとても不純だけれど、子どもの考えることなんてみんなそんなもんだ。
「そういう宗貴はなんで俺と茶道部に入ってくれたの?」
「それは……蒼が強引だったから」
「えー、俺そんなに強引だった?」
真面目にショックを受けている様子で、彼は目を大きくしながら聞いてきた。
「うん、強引。でも……久遠先生にも言われたとおり、僕には茶道が向いてるかもしれないって思ったからでもあるかな」
入部した時の気持ちを思い出すと、胸に温かなひだまりのような温度が宿るのを感じた。
「そっか。宗貴は実際茶道部に入って良かったと思うか?」
彼は、いつになく真剣なまなざしで僕にそう問いかけた。
茶道部に入って良かったか——その答えはもう、決まっている。
「良かったよ。僕にも夢中になれることがあるんだって気づいたから」
何事にも心を乱さず、ただひっそりと息をすることだけが自分にできることだと思って生きてきた。
幼い頃に母が僕を置いて家を出て行った時、僕は自分が母にわがままを言いすぎたせいで母が出て行ったのだと思った。だからこそ、母がいなくなってから、僕は必要以上に自分の感情を外に出すことを避けてきた。
でも、こうして蒼と一緒に茶道を始めてから、僕の中で少しずつ変化する気持ちがあることに気づいた。
「それなら良かったよ。これからもよろしくな、相棒」
蒼が白い歯を見せながら爽やかな笑顔を浮かべる。その顔にはどこにも陰がなくて、僕は彼のようになりたいと憧れを抱いた。
蒼と、僕と。
全然違う二人なのに、僕たちはどこかで一つにつながっている——そんなふうに思えたから、僕はいつまでも蒼と一緒に稽古に励みたいと思った。



