深草先輩は、お点前に使う道具を一つ一つゆっくりと運び始めた。足の運びが滑らかで、とても上品だ。僕は先輩の綺麗な所作に、思わず見入ってしまっていた。
隣に座っていた香月くんも同じだったんだろう。食い入るように深草先輩を見つめるその顔には、憧れが滲んでいるようだった。
先輩が一通り道具を運び終えると、いよいよお点前が始まった。
途中で久遠先生は特に口を挟むこともない。
きっと深草先輩のお点前が完璧だからだ。
お茶碗の中に抹茶を入れて、釜の蓋を開けてお湯を注ぐ。その動作一つ一つにも、真剣なまなざしで、片時も気が緩むようなことはなさそうだった。
茶道と言われて僕がイメージしたのは抹茶を点てるところだけだったが、実際は抹茶を点てるまでにいろんな動作があるのだと知る。
やがて深草先輩は、竹でできた泡立て器のようなものを持ち、お茶碗の中で手首をなめらかに動かす。そして、出来上がった抹茶を釜の縁の手前あたりに置いた。両手をついて膝をくくると、お茶碗を再び手に取り、お茶碗の絵柄が僕たちのほうに向くようにお茶碗を回して所定の位置にお茶碗を再び置いた。
そこで、正客として座っていた先輩が立ち上がり、深草先輩が点てたお茶を取りにいく。再び自分の席へと戻ると、朝比奈さんに「お先に」と声をかけてから、
「お点前頂戴いたします」
と、亭主に向かって礼をした。
何度かお茶碗を回した先輩は、ずずっとお茶碗に口をつけて一気にお茶を啜る。なるほど、あんなふうにして飲むのか。
続いて順番に深草先輩が一年生三人のお茶を点ててくれたので、僕たちも「お点前頂戴いたします」とぎこちない挨拶をしてお茶を飲んだ。
「苦いけど、不思議とうめえな」
香月くんが正直な感想を言う。僕も同じ感想だった。先ほど甘いお饅頭を食べたからか、抹茶の苦味がほどよく舌の上で溶けて、とても美味しかった。
「いいでしょう、茶道は。日常が忙しくてストレスフルでも、茶室に入ればすべて忘れて心を空っぽにできる。和泉くん」
「は、はい」
突然、久遠先生が僕の名前を呼んだので、抹茶を飲み終えたばかりの僕はぴくんと肩を揺らした。
「きみは、静かな空間が好きそうじゃない。お線香の香りがするし、もしかしてご実家が寺、ということはないかい」
ずばり、自分の特性を二つも言い当てられて、僕は「え?」と驚いて久遠先生をまじまじと見つめてしまう。人の心を読んでいるかのような深い視線に、僕は完全に射止められたように頷いた。
「おっしゃる通り、実家は靜心寺というお寺です。静かな場所がとても好きです」
というか、できることなら高校三年間も心を無にして静かに、平穏無事な毎日を過ごしたい。そんな僕の心中を見透かしたかのように、「そうかい」と久遠先生は納得した様子で呟いた。
「それなら、きみは茶道が向いているわ。ぜひ、茶道部に入ってください」
まさか、講師から名指しで入ってくださいと言われるとは思っておらず、恐縮すぎて肩を竦めてしまう。
「でも、僕なんかに……」
深草先輩の完璧なお点前を見た後に、自分もこんなに美しいお点前ができるようになる自信がなかった。
僕は遠慮しながら久遠先生の顔をじっと見つめる。僕をまっすぐに見つめるその顔に、どこか既視感を覚えた。
久遠先生……久遠さん……もしかして。
久遠先生に対する一つの予想が頭の中を駆け抜けて、同時に全身に電流が流れたかのような衝撃に襲われた。
僕は彼女に、昔、一度だけ会ったことがある。
まだ僕が物心ついてすぐくらいのことだ。
今は父と離婚した母が、自分の実家へと僕を連れていったのだ。
その家に、おばあちゃんがいた。
今、茶室の床間の前にすっと背筋を伸ばして座っている、久遠先生が。
だが母の旧姓は「久遠」ではない。「新島」である。
久遠先生は——おばあちゃんは確か、離婚をしていたのだ。
ややこしい話だが、僕の母方のおじいちゃん、つまり久遠先生の元夫の姓が「新島」だった。母は「新島」姓を名乗り生まれて来たが、母が成長してから祖父母が熟年離婚。その後、祖母の姓は旧姓「久遠」に戻った。
だから母と祖母は姓が違っている。
というストーリーを、祖母に会いにいった際に母から聞かされた。
でも、祖母に会ったのはその一回きりだったし、母は僕が小学一年生の時に僕を置いて家から出ていったので、祖母のことはそれっきり、思い出すこともなくなってしまっていた。
隣に座っていた香月くんも同じだったんだろう。食い入るように深草先輩を見つめるその顔には、憧れが滲んでいるようだった。
先輩が一通り道具を運び終えると、いよいよお点前が始まった。
途中で久遠先生は特に口を挟むこともない。
きっと深草先輩のお点前が完璧だからだ。
お茶碗の中に抹茶を入れて、釜の蓋を開けてお湯を注ぐ。その動作一つ一つにも、真剣なまなざしで、片時も気が緩むようなことはなさそうだった。
茶道と言われて僕がイメージしたのは抹茶を点てるところだけだったが、実際は抹茶を点てるまでにいろんな動作があるのだと知る。
やがて深草先輩は、竹でできた泡立て器のようなものを持ち、お茶碗の中で手首をなめらかに動かす。そして、出来上がった抹茶を釜の縁の手前あたりに置いた。両手をついて膝をくくると、お茶碗を再び手に取り、お茶碗の絵柄が僕たちのほうに向くようにお茶碗を回して所定の位置にお茶碗を再び置いた。
そこで、正客として座っていた先輩が立ち上がり、深草先輩が点てたお茶を取りにいく。再び自分の席へと戻ると、朝比奈さんに「お先に」と声をかけてから、
「お点前頂戴いたします」
と、亭主に向かって礼をした。
何度かお茶碗を回した先輩は、ずずっとお茶碗に口をつけて一気にお茶を啜る。なるほど、あんなふうにして飲むのか。
続いて順番に深草先輩が一年生三人のお茶を点ててくれたので、僕たちも「お点前頂戴いたします」とぎこちない挨拶をしてお茶を飲んだ。
「苦いけど、不思議とうめえな」
香月くんが正直な感想を言う。僕も同じ感想だった。先ほど甘いお饅頭を食べたからか、抹茶の苦味がほどよく舌の上で溶けて、とても美味しかった。
「いいでしょう、茶道は。日常が忙しくてストレスフルでも、茶室に入ればすべて忘れて心を空っぽにできる。和泉くん」
「は、はい」
突然、久遠先生が僕の名前を呼んだので、抹茶を飲み終えたばかりの僕はぴくんと肩を揺らした。
「きみは、静かな空間が好きそうじゃない。お線香の香りがするし、もしかしてご実家が寺、ということはないかい」
ずばり、自分の特性を二つも言い当てられて、僕は「え?」と驚いて久遠先生をまじまじと見つめてしまう。人の心を読んでいるかのような深い視線に、僕は完全に射止められたように頷いた。
「おっしゃる通り、実家は靜心寺というお寺です。静かな場所がとても好きです」
というか、できることなら高校三年間も心を無にして静かに、平穏無事な毎日を過ごしたい。そんな僕の心中を見透かしたかのように、「そうかい」と久遠先生は納得した様子で呟いた。
「それなら、きみは茶道が向いているわ。ぜひ、茶道部に入ってください」
まさか、講師から名指しで入ってくださいと言われるとは思っておらず、恐縮すぎて肩を竦めてしまう。
「でも、僕なんかに……」
深草先輩の完璧なお点前を見た後に、自分もこんなに美しいお点前ができるようになる自信がなかった。
僕は遠慮しながら久遠先生の顔をじっと見つめる。僕をまっすぐに見つめるその顔に、どこか既視感を覚えた。
久遠先生……久遠さん……もしかして。
久遠先生に対する一つの予想が頭の中を駆け抜けて、同時に全身に電流が流れたかのような衝撃に襲われた。
僕は彼女に、昔、一度だけ会ったことがある。
まだ僕が物心ついてすぐくらいのことだ。
今は父と離婚した母が、自分の実家へと僕を連れていったのだ。
その家に、おばあちゃんがいた。
今、茶室の床間の前にすっと背筋を伸ばして座っている、久遠先生が。
だが母の旧姓は「久遠」ではない。「新島」である。
久遠先生は——おばあちゃんは確か、離婚をしていたのだ。
ややこしい話だが、僕の母方のおじいちゃん、つまり久遠先生の元夫の姓が「新島」だった。母は「新島」姓を名乗り生まれて来たが、母が成長してから祖父母が熟年離婚。その後、祖母の姓は旧姓「久遠」に戻った。
だから母と祖母は姓が違っている。
というストーリーを、祖母に会いにいった際に母から聞かされた。
でも、祖母に会ったのはその一回きりだったし、母は僕が小学一年生の時に僕を置いて家から出ていったので、祖母のことはそれっきり、思い出すこともなくなってしまっていた。



