ちょうどそのとき、部室の扉が開き、誰かが入ってくる気配がした。
「こんにちは」
明らかに学生のものとは違う、年配の女性の声だった。
「あ、久遠先生、こんにちは」
今まで僕たちに話をしてくれていた先輩のうち一人が、ぺこりと会釈する。つられて香月くんも「こんにちは!」と朗らかに挨拶をした。
僕も慌てて頭を下げたあと、じっとその女性を見つめた。
白髪混じりの髪の毛を上品に結ってお団子をつくっている。キリッとした顔立ちが特徴の、七十代ぐらいの女性だった。
この人が先生なのか。
ひと目で「厳しそうな人だな」と内心びくりと震えた。対して香月くんは特になんとも思っていない様子で、普段通り、人懐っこい笑顔を浮かべている。
確か先輩は「久遠先生」と呼んでいたな。
久遠……どこかで聞いたことのある名前のような気もするが思い出せない。
久遠先生は、固まったままでいる僕をじっと値踏みするように見つめている。もともとの表情がそうなのか、鋭い眼光に射竦められそうになった。
何か、気になることでもあるのだろうか。
それとも、僕の顔に何かついてる?
思わずそう聞いてしまいそうになるほどの長い間、僕たちは見つめ合っていた。
やがて久遠先生は僕を観察することに飽きたのか、先輩のほうを向いて指示を出す。
「深草さん、新入生が来ているようなので、早速お稽古を始めます。三年生から、準備してちょうだい」
「分かりました」
久遠先生の一声に、茶室にいた部員たちもバタバタと水屋にやってきて準備を始めた。その中に、見知った顔を見つける。
「あれ、香月に和泉じゃん。なんでいんの?」
「よお、朝比奈。なんでって、部活見学」
香月くんがなんでもないふうに答える。
「は? 見学って、二人が? ここ茶道部だよ」
「そんなの言われなくても分かってるし。朝比奈はもう入部してるんだっけ?」
「してるよ。あと、二組の咲、三組の芳佳、六組のひなの、莉音も一緒」
「じゃあ、俺たちが入ったら一年生は七人になるってことか」
香月くんのあっけらかんとした物言いに、訝しそうに僕たちをジト目で見つめるのは、僕たちと同じ一年四組の朝比奈芽里だ。彼女は気が強く、クラスでも女子たちの中心メンバーといえる。香月くんと同じような立ち位置ではあるが、犬系男子とは違う。彼女の言葉には少し棘があるのをひしひしと感じていた。
正直、朝比奈さんが茶道部にいるのは意外だし、彼女だって“歩くお墓”と一緒の部活になるのは嫌だろう。
彼女の毒に当てられないように早いとこ退散したいんだけど……。
先輩たちはすでにお稽古の準備を始めていて、ここから逃げられそうにない。
「まだ入るって決めたわけじゃ……」
朝比奈さんの視線が気になって、つい茶道部には入らないというアピールをしてしまったが、僕の声は「それじゃあお稽古始めます!」という深草先輩の声にかき消されてしまった。
「きみたちはお客さんで入って。芽里ちゃん、他の一年生たちは?」
「まだ来てないです。咲と莉音は休みって言ってました」
「そう。じゃあとりあえず芽里ちゃんと——」
「香月蒼です! こっちは和泉宗貴」
「香月くんと和泉くん、ここからお席に入ってね。芽里ちゃんは教えた通りによろしく。メンズ二人はとりあえず中で正座してくれたいいから」
「分かりましたー!」
場違いなほど明るく大きな返事をする香月くんを見て、上級生たちがくすくすと笑っている。可愛い一年生が冷やかしに来たとでも思われているんだろうな。
僕だって香月くんのことをたくさん知っているわけではないのに、なんだかちょっとだけ悔しい、と思ってしまった。その感情がなんなのか、説明がつかない。クラスメイトのことを馬鹿にされてようで悔しいのか、はたまた“友達”のことを正当に評価されないことが納得いかないのか……。
「行こう、宗貴」
香月くんは、朝比奈さんが茶室に入室した後に、後ろに並んで立っている僕に静かにそう告げた。その声が、彼らしからぬ落ち着きを孕んでいて、ただならぬ気配を感じる。
普段から教室ではおちゃらけているように見える彼の、意外な深い呼吸。
もしかして……こっちのほうが本当の彼なんだろうか。
そう思わずにはいられないほど、この静謐な空間にぴったりな男だと感じている自分がいた。
しかし、茶室に入った途端、彼は叫んだ。
「膝いってー!」
正座に慣れていないからだろう。まだ肝心のお点前の主が入って来ていないにも関わらず、彼は即座に正座をギブアップ。床の間の前に座っている久遠先生から、「慣れてないでしょうから、足を崩していいですよ」と正座免除をしてもらっていた。
一方僕は寺の息子であるので、正座には慣れている。
僕たちがゲストだからか、久遠先生は意外に優しい。
が、深草先輩が襖を開けた途端、先生の顔つきがすっと一本筋が通ったかのように変化した。
「お菓子をどうぞ」
手に丸い木箱のようなものを持った深草先輩が、正客の先輩の前に箱を置く。あの中にお菓子が入っているのだろう。一礼して箱を置いた深草先輩は一度茶室から出ていった。
正客から順番にお菓子を取り出して、自分の正面に置いていく。僕たちは前の人の見よう見まねでお菓子を置いた。とてもおいしそうなお饅頭で、香月くんなんかはよだれが垂れそうな勢いだ。
「頂戴いたします」
先輩が最初に一礼をしてお菓子を食べ始める。僕は緊張したまま、朝比奈さんい続いてお饅頭を頬張った。
「んま!」
香月くんが、この場にふさわしくない声を上げる。久遠先生が香月くんを一瞥したが、「おいしいでしょう? 薯蕷饅頭と言うんです。すりおろした山芋と米粉で作られているからもっちりとして食べ応えもありますよ」と丁寧に説明してくれた。
僕たちが薯蕷饅頭を食べ終えた頃、再び茶室の扉が開かれた。
「お薄茶を一服差し上げます」
亭主である深草先輩が襖の縁の向こうで正座をしたまま床に手をつき、お辞儀をする。
「はい、総礼」
久遠先生の合図で、久遠先生に一番近くに座っている正客の先輩と、隣の朝比奈さんが同じように礼をする。僕と香月くんは少し遅れて礼をした。
「こんにちは」
明らかに学生のものとは違う、年配の女性の声だった。
「あ、久遠先生、こんにちは」
今まで僕たちに話をしてくれていた先輩のうち一人が、ぺこりと会釈する。つられて香月くんも「こんにちは!」と朗らかに挨拶をした。
僕も慌てて頭を下げたあと、じっとその女性を見つめた。
白髪混じりの髪の毛を上品に結ってお団子をつくっている。キリッとした顔立ちが特徴の、七十代ぐらいの女性だった。
この人が先生なのか。
ひと目で「厳しそうな人だな」と内心びくりと震えた。対して香月くんは特になんとも思っていない様子で、普段通り、人懐っこい笑顔を浮かべている。
確か先輩は「久遠先生」と呼んでいたな。
久遠……どこかで聞いたことのある名前のような気もするが思い出せない。
久遠先生は、固まったままでいる僕をじっと値踏みするように見つめている。もともとの表情がそうなのか、鋭い眼光に射竦められそうになった。
何か、気になることでもあるのだろうか。
それとも、僕の顔に何かついてる?
思わずそう聞いてしまいそうになるほどの長い間、僕たちは見つめ合っていた。
やがて久遠先生は僕を観察することに飽きたのか、先輩のほうを向いて指示を出す。
「深草さん、新入生が来ているようなので、早速お稽古を始めます。三年生から、準備してちょうだい」
「分かりました」
久遠先生の一声に、茶室にいた部員たちもバタバタと水屋にやってきて準備を始めた。その中に、見知った顔を見つける。
「あれ、香月に和泉じゃん。なんでいんの?」
「よお、朝比奈。なんでって、部活見学」
香月くんがなんでもないふうに答える。
「は? 見学って、二人が? ここ茶道部だよ」
「そんなの言われなくても分かってるし。朝比奈はもう入部してるんだっけ?」
「してるよ。あと、二組の咲、三組の芳佳、六組のひなの、莉音も一緒」
「じゃあ、俺たちが入ったら一年生は七人になるってことか」
香月くんのあっけらかんとした物言いに、訝しそうに僕たちをジト目で見つめるのは、僕たちと同じ一年四組の朝比奈芽里だ。彼女は気が強く、クラスでも女子たちの中心メンバーといえる。香月くんと同じような立ち位置ではあるが、犬系男子とは違う。彼女の言葉には少し棘があるのをひしひしと感じていた。
正直、朝比奈さんが茶道部にいるのは意外だし、彼女だって“歩くお墓”と一緒の部活になるのは嫌だろう。
彼女の毒に当てられないように早いとこ退散したいんだけど……。
先輩たちはすでにお稽古の準備を始めていて、ここから逃げられそうにない。
「まだ入るって決めたわけじゃ……」
朝比奈さんの視線が気になって、つい茶道部には入らないというアピールをしてしまったが、僕の声は「それじゃあお稽古始めます!」という深草先輩の声にかき消されてしまった。
「きみたちはお客さんで入って。芽里ちゃん、他の一年生たちは?」
「まだ来てないです。咲と莉音は休みって言ってました」
「そう。じゃあとりあえず芽里ちゃんと——」
「香月蒼です! こっちは和泉宗貴」
「香月くんと和泉くん、ここからお席に入ってね。芽里ちゃんは教えた通りによろしく。メンズ二人はとりあえず中で正座してくれたいいから」
「分かりましたー!」
場違いなほど明るく大きな返事をする香月くんを見て、上級生たちがくすくすと笑っている。可愛い一年生が冷やかしに来たとでも思われているんだろうな。
僕だって香月くんのことをたくさん知っているわけではないのに、なんだかちょっとだけ悔しい、と思ってしまった。その感情がなんなのか、説明がつかない。クラスメイトのことを馬鹿にされてようで悔しいのか、はたまた“友達”のことを正当に評価されないことが納得いかないのか……。
「行こう、宗貴」
香月くんは、朝比奈さんが茶室に入室した後に、後ろに並んで立っている僕に静かにそう告げた。その声が、彼らしからぬ落ち着きを孕んでいて、ただならぬ気配を感じる。
普段から教室ではおちゃらけているように見える彼の、意外な深い呼吸。
もしかして……こっちのほうが本当の彼なんだろうか。
そう思わずにはいられないほど、この静謐な空間にぴったりな男だと感じている自分がいた。
しかし、茶室に入った途端、彼は叫んだ。
「膝いってー!」
正座に慣れていないからだろう。まだ肝心のお点前の主が入って来ていないにも関わらず、彼は即座に正座をギブアップ。床の間の前に座っている久遠先生から、「慣れてないでしょうから、足を崩していいですよ」と正座免除をしてもらっていた。
一方僕は寺の息子であるので、正座には慣れている。
僕たちがゲストだからか、久遠先生は意外に優しい。
が、深草先輩が襖を開けた途端、先生の顔つきがすっと一本筋が通ったかのように変化した。
「お菓子をどうぞ」
手に丸い木箱のようなものを持った深草先輩が、正客の先輩の前に箱を置く。あの中にお菓子が入っているのだろう。一礼して箱を置いた深草先輩は一度茶室から出ていった。
正客から順番にお菓子を取り出して、自分の正面に置いていく。僕たちは前の人の見よう見まねでお菓子を置いた。とてもおいしそうなお饅頭で、香月くんなんかはよだれが垂れそうな勢いだ。
「頂戴いたします」
先輩が最初に一礼をしてお菓子を食べ始める。僕は緊張したまま、朝比奈さんい続いてお饅頭を頬張った。
「んま!」
香月くんが、この場にふさわしくない声を上げる。久遠先生が香月くんを一瞥したが、「おいしいでしょう? 薯蕷饅頭と言うんです。すりおろした山芋と米粉で作られているからもっちりとして食べ応えもありますよ」と丁寧に説明してくれた。
僕たちが薯蕷饅頭を食べ終えた頃、再び茶室の扉が開かれた。
「お薄茶を一服差し上げます」
亭主である深草先輩が襖の縁の向こうで正座をしたまま床に手をつき、お辞儀をする。
「はい、総礼」
久遠先生の合図で、久遠先生に一番近くに座っている正客の先輩と、隣の朝比奈さんが同じように礼をする。僕と香月くんは少し遅れて礼をした。



