静心ふたつ、茶の道ひとつ

 白い壁の戸建ての家にたどり着いた僕は、大きく深呼吸をする。
 ちゃんと、「香月」と表札がある。
 インターホンを押すと、静寂に包まれていた住宅街に緊張感が駆け抜けた。

「はい」

 しばらく待つと、インターホンから蒼の声が響いた。僕はごくりと唾を飲み込んでから、「和泉だけど」と答えた。

「宗貴……何の用?」

 何の用かなんて、薄々気づいているくせに、彼は僕に帰ってほしいのか、突き放すような口調で言った。

「蒼を連れ戻しにきた。入れてもらえないかな」

 勇気を出して単刀直入にそう言った。インターホン越しに、蒼の気配が揺れるのを感じた。

「……嫌だって言ったら?」

「無理矢理にでもここを突破して、蒼を家から引き摺り出す」

 僕らしからぬ一言に、蒼が「ふっ、なんだそれ」と軽く笑った。

「分かったから、入れよ。今開けるから」

 蒼は僕の勢いに観念したのか、扉を開けて、僕を家に入れてくれた。玄関で出迎えてくれた蒼は今朝教室で会ったはずなのに、どこかやつれて見える。蒼の中で何かがあったのだ。瞬時にそう理解した。

「勘違いしないんでほしいんだけど、退部の件は今日思いついたことじゃないからな」

 蒼が先手を打つようにそう言った。僕は「分かってるよ」と呟く。

「ここで、考えてたんだ。俺、このまま茶道を続けられるかなって……」

 蒼がそう言いながら、僕をリビングの奥の和室へと案内する。蒼の家はどこか哀愁が漂っていて、広い家の中が物寂しく感じられた。ご両親は仕事だろう。蒼がこの広い家で一人、何をしていたのだろうかと想像したのも束の間、和室の奥の景色に、僕は息を呑んだ。
 
 茶碗と、棗と、茶杓と、茶筅。
 畳の上に綺麗に並べられたお道具たちに、僕ははっと視線を吸い寄せられる。そして、そのお道具の背後には立派な仏壇が鎮座していた。
 遺影は四十代ぐらいの蒼に似た女性が、ふんわりと愛らしい笑みを浮かべた写真だった。
 僕は驚きで固まった。それから、ゆっくりと蒼の顔を見る。蒼は無表情のまま遺影を見つめていた。

「一年経ってる。一年前の夏に、死んだんだ。子宮頸がんで。夏休みにいろいろ思い出してたら、部活にも行けなくなってた」

「一年前の夏に……」

 そう言われて、夏休みに蒼が二週間ほど休んでいたのを思い出す。あれはやっぱり、法事だったのだ。みんなはおじいちゃんかおばあちゃんの法事ではないかと予想していたが、違った。
 お母さんの法事だ……。
 蒼が、仏壇の前に座り込んで、お茶碗をそっと手に取った。

「これは母さんの形見なんだ。母さんは茶道が好きだった。宗貴が水屋で読んだあの手紙は、母さんの遺書だよ」

「遺書……」
 
 遺書、という言葉の響きに僕は慄き、なんでそんな大切な手紙を盗み見てしまったんだと後悔する。
 蒼はやっぱりあのお母さんからの手紙を僕が見たことで怒っているのだろうか。
 そう思って蒼の顔を見つめたが、「べつに怒ってないからな」と僕の心を読んだかのように答えた。

「前にも言ったけど、俺は宗貴に母さんの遺書を読まれたことは何とも思ってねえ。それより……怖くなったんだ」

「怖い?」

 普段は天真爛漫な明るい笑顔を浮かべている蒼が、ぎゅっと眉根を寄せてお茶碗を両手で握りしめる。その手が真っ赤に染まっていくのを僕はじっと見ていた。

「ああ……。本当は怖かったんだよ。母さんの好きなものに執着して、このまま母さんのこと立ち直れずに、自分を見失ったらどうしようって」

 蒼がずっと胸に秘めていた気持ちを、ゆっくりと吐露していく。柄杓でお釜から汲んだお湯を、お茶碗に注ぐみたいに慎重に。僕はそんな蒼の言葉を、まるで自分のことのように聞いていた。

「だけど、母さんが好きだった茶道を手放すこともできなくて。宗貴と一緒なら大丈夫だって思った。でも最近……お前が本当に茶道を楽しんでくれてるかわかんねえし、この前も喧嘩しちまって、お前と関わるのも、怖くなったんだ」

 蒼がそんな気持ちを抱えていたなんて、僕は知らなかった。
 心から茶道を愛していて、お母さんが好きなものをそのまま追いかけていて、尊敬すらしていた。だから、蒼の心に恐怖心が芽生えていたことに、僕は気づくことすらできなかった。