静心ふたつ、茶の道ひとつ

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 夏休みが終わり、九月最初の週末がやってきた。
 金曜日と土曜日に行われる文化祭で、明智高校は開会式から大きな盛り上がりを見せていた。僕は、入学当初は文化祭も体育祭も脇役として静かに過ぎていくのを見守るだけだと思っていた。でも、思いもよらず、開会式からずっと緊張で心臓の音が鳴り止まない。

「和泉、今日本番だね。頑張ろう」

 開会式が終わり教室に戻ると、朝比奈さんが僕に声をかけてくれた。
 僕たちのクラスは喫茶店をやることになっているが、シフトは運動部のみなさんで回してくれるらしい。僕たちは心おきなく茶道部に専念できるというわけだ。

「うん、緊張するけど、頑張ろう」

 僕は、教室の中を見回して、蒼の姿がないことに気づく。
 お手洗いにでも行っているのだろうか。それともすでに部室のほうへ?
 朝比奈さんに目で問いかけるも、彼女も蒼の姿を探しているようだった。

 蒼のことはひとまずおいておいて、朝比奈さんと二人で茶道部の部室へと向かう。
 一時間後に一般公開が始まり、お客さんがやってくる。茶道部のお茶会も、十時から一回四十分で、休憩を挟みつつ五回行われる。三年生が全員亭主として出られるようなスケジュールだ。
 僕たちは部室に着くやいなや、先輩たちと一緒にバタバタと準備を始めていた。

「一年生のみんな、初めての本番で緊張すると思うけど、練習した通りにやってくれたら大丈夫だから。点数を競うようなものでもないし、落ち着いていこう」

 深草先輩が、緊張している一年生たちにアドバイスをしてくれる。今日は三年生の先輩たちはみんな、着物を着ている。みんなとても綺麗で、僕は先輩たちのことを直視していられなかった。

「あれ、香月くんはまだ来てないの?」

 深草先輩がここでようやく蒼の不在に気づいたように、辺りをきょろきょろと見回した。僕も朝比奈さんも、それから他の四人の一年生たちも首を横に振る。

「まだみたいですね。もしかして欠席……?」

 江口さんが不安げに言葉を揺らす。僕はまさかと思い、LINEを確認してみるも、蒼から特にメッセージは届いていなかった。

「あなたたち、もうそろそろ本番ですよ。準備をしてください」

 僕たちが固まって蒼の不在を訝しんでいたところへ、久遠先生が声をかけてきた。

「香月くんがまだ来ていないんです。先生は何かご存知ですか」

 僕は勇気を出して、久遠先生にそう尋ねた。先生はいつものようにキリッとしたまなざしで僕や朝比奈さん、それから深草先輩を順番に見つめて、ゆっくりと口を開いた。

「香月くんからは、今朝退部届を受け取りました。なので、今日からもう来ません」

 一瞬、久遠先生の声が脳を素通りした。
 少し遅れて、心臓を鷲掴みにされたような衝撃に襲われた。

「あ、蒼が、退部……?」

「香月が……そんな」

 僕と朝比奈さんはお互いに目を見開いて見つめ合う。二人とも、蒼が退部届を出したことなど知らなくて、動揺を隠しきれない。他の一年生たちも同じだった。深草先輩も今初めて聞いたのか、目を大きく見開いていたが、部長としてしっかりしなくてはと思い直したのか、「そうだったんですね」と静かに頷いた。

「……退部届を出してきたなら仕方ないです。残念だけど、残りのみんなで今日を乗り切りましょう」

 先輩が無理やりつくった笑顔で微笑みながら、僕や朝比奈さんの肩をぽんと叩く。「頑張ろう」と言ってくれているのだということはよく分かった。でも、僕たちはその場から動くことができずに、一年生同士で「聞いてた?」と蒼の退部について確認し合う。

「蒼が退部なんて、僕は全然知らなくて……」

「和泉が知らないんだったら、他の誰も知らないよ。久遠先生にだけ伝えたんじゃないかな」

「ど、どうしよう……。今日のためにみんなで練習してきたのに」

 稲葉さんが、か弱げな声で弱音を漏らす。僕たちにとって、蒼は太陽みたいな存在だった。茶道部の中で、一番“静心”なんて持ち合わせいなくて、それでも彼の明るさに、みんなが救われていた。