窓際の一番後ろの席に座っているというのに、中庭であれだけ大胆に咲き乱れた桜の花びらがいつのまにか散ってしまったことにすら気づかなかった。
ついこの間、真新しい制服に包まれて新生活がスタートしたばかりだったはずだ。
でも、気がつけば葉桜さえ見なくなり、GWが開け、新緑の季節が訪れようとしていた。
僕の人生って、そんなもんだよな。
靜心寺という臨済宗の寺の息子としてここ、京都市上京区で生まれ育った僕——和泉宗貴は、住職である父親もびっくりするほど口数の少ない子どもだった。
いや、だったというと語弊がある。
この春、明智高校に入学した今もずっと口数が少なすぎてクラスメイトからは距離を置かれている。
「あっ! ごめん、ぶつかった」
昼休み、席についてお弁当を食べながら中庭を眺めていると、一人の男子生徒が僕の机に膝をぶつけた。そのあと、「おい、待てよ〜」ともう一人の男子生徒が彼を追いかけまわす。教室の中で鬼ごっこでもしているのだろうか。男子なんて、高校生になってもまだガキみたいなことばかりしている。
「謝ったって無駄だろ。そいつ、一言も喋んねーじゃん。別になんとも思ってないだろ」
追いかけていたほうの生徒が、膝をぶつけた男子に笑いながらツッコミを入れた。僕はうんともすんとも言わずに彼らのやりとりを、川の水の流れのように受け入れ、聞き流していく。
「それもそうだな。この前誰かがあいつのこと、“歩くお墓”って呼んでた」
「実家が寺だからだろ? 線香くせーしな」
今度は二人が先ほどより声のトーンを低くして、ひそひそと囁き合うようにして僕の陰口を言っているのが分かった。
陰口を言うなら、本人には聞こえないようにしてほしい。
わざと聞こえる声で言っているのだ。快活な自分たちとは違う種類の人間である僕とい存在を揶揄いたくて。それとも、日頃のストレスの発散のためかもしれない。
耳を塞いで、誰の声も聞かないように努める。
だってそうしたほうが、穏やかな一日を送れるから。
華の高校生活において、僕が願うことはただ一つ。
ただひたすら、静かで落ち着いた日常を送ること。
波乱のない一日を積み重ねて、友情とか恋とかSNSとか、みんなが食いつくような話題にはついていかず、自分だけを信じて生きること。
だってそうすれば、痛みも苦しみも感じなくていいから。
来る者拒まず、去る者追わず。でも、自分の信念を揺るがすような存在が近づいてきたら、最大限努力して、僕の日常を守るために闘おう——。
昼休みの喧騒の中で、陰口を言っていた二人が教室の外へと出ていく背中を見送りながら、高校生活のモットーを再確認していた。
そのとき、僕の視界いっぱいに、薄い黄緑色のB5くらいのプリントがひらりと映り込んできた。
咄嗟に中庭の風景が遮られて、何事かと後ろを振り返る。
そこに立っている、男子生徒がひとり。
「よ、宗貴くん。今日も元気かい?」
耳にかかるさらさらの黒髪をさっとかき上げる姿が様になる男子生徒——クラスの明るい人気者である香月蒼が、ひょうきん者のように、右手に持った黄緑色の紙をひらひらと揺らしていた。
「……」
突然、なに? という疑問しか湧かなかった。
話しかける人間を間違えたのではないだろうかと、きょろきょろと辺りを見回してみるも、僕の近くに他の男子生徒はいない。クラスの女子の何人かが集まってお弁当を食べているだけで、他の男子は全員外に行っているようだった。
「あれ、もしかして聞こえてない? 見えてない!? このプリント!」
反応がない僕を訝しがって、香月くんは僕の目の前で再びプリントを振った。
紙の端っこが目に入りそうになって、さすがに「やめろって」と声を上げる。
「あ、見えてたんだ。よかったー」
「……見えてないはずないだろ。そんな近くで振られたら」
「だよな! てか宗貴って普通に喋るんだ。声初めて聞いたかも!」
ナチュラルに僕のことを「宗貴」と下の名前で呼ぶ香月くんのことを、今度は僕のほうが訝しく思いながら見つめる。
「ごめん、悪いんだけど僕、昼休みは静かに過ごしたいんだ。いや、昼休みだけじゃなくてできれば高校三年間ずっと——」
これ以上、圧倒的な太陽光線のような彼に話しかけられたら、僕の穏やかな日常が崩壊してしまう——危機感を抱いた僕は、絞り出した声で要望を伝えた。
でも。
「ふふん」
どういうわけか、香月くんは得意げに鼻を鳴らして、あまつさえ鼻の下を人差し指で擦ってにやにやと笑い出した。漫画で見るキャラクターのような仕草に、僕は呆気に取られる。
「そんな宗貴くんに、ちょうど良い部活動があるのです」
そう言うと彼は、例の黄緑色の紙をじゃーんとメニュー表を広げるみたいに見せてきた。
「茶道部! 俺と一緒に入らない?」
彼の楽しげな声が、ゆっくりと僕の耳の中でこだまする。
茶道部、
俺と一緒に入らない?
耳元でサーッと窓から吹き込んだ風が流れていく。五月の爽やかな風を受けた僕は、ウッと言葉を詰まらせる。
目の前で爛々と瞳を輝かせるクラスメイトは、もう僕が茶道部に入ることを了承しているかのような勢いだ。
「そういうことだから今日の放課後、部活見学行こうな。じゃ、よろしく!」
彼は、ひらりと片手を上げて、言いたいことだけ言い残し、颯爽と僕の前から立ち去った。僕が、「待って」と呼び止める暇もなく。女子に「香月くん」と声をかけられて「なにー?」と振り返ったのを、ぼんやり眺めることしかできなかった。
こうして僕の静かで波乱のない高校生活は、クラス一の人気者の男子、香月蒼によってゆるやかに崩壊していく。
ついこの間、真新しい制服に包まれて新生活がスタートしたばかりだったはずだ。
でも、気がつけば葉桜さえ見なくなり、GWが開け、新緑の季節が訪れようとしていた。
僕の人生って、そんなもんだよな。
靜心寺という臨済宗の寺の息子としてここ、京都市上京区で生まれ育った僕——和泉宗貴は、住職である父親もびっくりするほど口数の少ない子どもだった。
いや、だったというと語弊がある。
この春、明智高校に入学した今もずっと口数が少なすぎてクラスメイトからは距離を置かれている。
「あっ! ごめん、ぶつかった」
昼休み、席についてお弁当を食べながら中庭を眺めていると、一人の男子生徒が僕の机に膝をぶつけた。そのあと、「おい、待てよ〜」ともう一人の男子生徒が彼を追いかけまわす。教室の中で鬼ごっこでもしているのだろうか。男子なんて、高校生になってもまだガキみたいなことばかりしている。
「謝ったって無駄だろ。そいつ、一言も喋んねーじゃん。別になんとも思ってないだろ」
追いかけていたほうの生徒が、膝をぶつけた男子に笑いながらツッコミを入れた。僕はうんともすんとも言わずに彼らのやりとりを、川の水の流れのように受け入れ、聞き流していく。
「それもそうだな。この前誰かがあいつのこと、“歩くお墓”って呼んでた」
「実家が寺だからだろ? 線香くせーしな」
今度は二人が先ほどより声のトーンを低くして、ひそひそと囁き合うようにして僕の陰口を言っているのが分かった。
陰口を言うなら、本人には聞こえないようにしてほしい。
わざと聞こえる声で言っているのだ。快活な自分たちとは違う種類の人間である僕とい存在を揶揄いたくて。それとも、日頃のストレスの発散のためかもしれない。
耳を塞いで、誰の声も聞かないように努める。
だってそうしたほうが、穏やかな一日を送れるから。
華の高校生活において、僕が願うことはただ一つ。
ただひたすら、静かで落ち着いた日常を送ること。
波乱のない一日を積み重ねて、友情とか恋とかSNSとか、みんなが食いつくような話題にはついていかず、自分だけを信じて生きること。
だってそうすれば、痛みも苦しみも感じなくていいから。
来る者拒まず、去る者追わず。でも、自分の信念を揺るがすような存在が近づいてきたら、最大限努力して、僕の日常を守るために闘おう——。
昼休みの喧騒の中で、陰口を言っていた二人が教室の外へと出ていく背中を見送りながら、高校生活のモットーを再確認していた。
そのとき、僕の視界いっぱいに、薄い黄緑色のB5くらいのプリントがひらりと映り込んできた。
咄嗟に中庭の風景が遮られて、何事かと後ろを振り返る。
そこに立っている、男子生徒がひとり。
「よ、宗貴くん。今日も元気かい?」
耳にかかるさらさらの黒髪をさっとかき上げる姿が様になる男子生徒——クラスの明るい人気者である香月蒼が、ひょうきん者のように、右手に持った黄緑色の紙をひらひらと揺らしていた。
「……」
突然、なに? という疑問しか湧かなかった。
話しかける人間を間違えたのではないだろうかと、きょろきょろと辺りを見回してみるも、僕の近くに他の男子生徒はいない。クラスの女子の何人かが集まってお弁当を食べているだけで、他の男子は全員外に行っているようだった。
「あれ、もしかして聞こえてない? 見えてない!? このプリント!」
反応がない僕を訝しがって、香月くんは僕の目の前で再びプリントを振った。
紙の端っこが目に入りそうになって、さすがに「やめろって」と声を上げる。
「あ、見えてたんだ。よかったー」
「……見えてないはずないだろ。そんな近くで振られたら」
「だよな! てか宗貴って普通に喋るんだ。声初めて聞いたかも!」
ナチュラルに僕のことを「宗貴」と下の名前で呼ぶ香月くんのことを、今度は僕のほうが訝しく思いながら見つめる。
「ごめん、悪いんだけど僕、昼休みは静かに過ごしたいんだ。いや、昼休みだけじゃなくてできれば高校三年間ずっと——」
これ以上、圧倒的な太陽光線のような彼に話しかけられたら、僕の穏やかな日常が崩壊してしまう——危機感を抱いた僕は、絞り出した声で要望を伝えた。
でも。
「ふふん」
どういうわけか、香月くんは得意げに鼻を鳴らして、あまつさえ鼻の下を人差し指で擦ってにやにやと笑い出した。漫画で見るキャラクターのような仕草に、僕は呆気に取られる。
「そんな宗貴くんに、ちょうど良い部活動があるのです」
そう言うと彼は、例の黄緑色の紙をじゃーんとメニュー表を広げるみたいに見せてきた。
「茶道部! 俺と一緒に入らない?」
彼の楽しげな声が、ゆっくりと僕の耳の中でこだまする。
茶道部、
俺と一緒に入らない?
耳元でサーッと窓から吹き込んだ風が流れていく。五月の爽やかな風を受けた僕は、ウッと言葉を詰まらせる。
目の前で爛々と瞳を輝かせるクラスメイトは、もう僕が茶道部に入ることを了承しているかのような勢いだ。
「そういうことだから今日の放課後、部活見学行こうな。じゃ、よろしく!」
彼は、ひらりと片手を上げて、言いたいことだけ言い残し、颯爽と僕の前から立ち去った。僕が、「待って」と呼び止める暇もなく。女子に「香月くん」と声をかけられて「なにー?」と振り返ったのを、ぼんやり眺めることしかできなかった。
こうして僕の静かで波乱のない高校生活は、クラス一の人気者の男子、香月蒼によってゆるやかに崩壊していく。



