回想から戻ると、手元のコーヒーはすっかり冷めていた。
私は深く息を吐き、マグカップをテーブルに戻した。
窓の外、鴨川の水面が冬の弱い日差しを反射してきらめいている。
あの日、関空からこの街へ辿り着いてから、もう八年の月日が流れたのか。
最初の冬、猫たちは「日本」という異文化に大いに戸惑った。
特に彼らを驚愕させたのは「こたつ」だった。
南国育ちの彼らは、最初、この怪しげな発熱するテーブルを警戒して近づこうとしなかった。
だが、ある夜、好奇心に負けた平平(ピンピン)がおっかなびっくり頭を突っ込み、
数秒後、魂を抜かれたような顔で全身を滑り込ませた。
それを見ていた安安(アンアン)も続き、
以来、彼らは春が来るまでこたつから出てこなくなった。
「悪魔の家具だわ」と美玲(メイリン)は笑ったが、
彼女自身もまた、こたつで蜜柑を食べる日本の冬を愛するようになっていった。
こたつは彼女にとっても悪魔の家具だったようだ。
冬の夜、仕事から帰ってこたつ布団をめくると、
中には必ず二匹が「川の字」になって眠っている。真ん中に平平、端に安安。
空いているもう一つのスペースは、いつだって私か美玲のための指定席だ。
私がその隙間に足を差し込むと、平平が「仕方ないな」という顔で少しだけ場所を譲り、
安安は文句を言いたげながらも、私の太ももに顎を乗せる。
その重みと温かさに包まれていると、外の底冷えも、仕事の疲れも、すべてどうでもよくなってしまう。

春にはベランダから吹き込む花の匂いを追いかける。
猫を連れて鴨川沿いの桜を見に行った。
夏には窓辺で蝉の声に耳を澄まし、五山の送り火をベランダから眺めた。
秋には落ち葉を運ぶ風を目で追う。
初めて雪が降った日のことも覚えている。
窓の外を舞う白い欠片を、平平は目を丸くして凝視し、安安は「あれは何?」と美玲に問いかけるように鳴いた。
猫たちは京都の四季を学び、畳の感触を覚え、少しずつ、しかし確実に「日本の猫」になっていった。
京都の四季は、今や私たちだけでなく、彼らの記憶のアルバムにも一枚ずつ、確かに刻まれているのだと思う。
そして、阿福(アーフー)。
台湾の里親さんを通じて定期的にLINEで
彼の日常を知らせる写真が届いていた。
広い庭のある家で、日向ぼっこをする写真。新しいお母さんの膝の上で、王様のようにくつろぐ写真。
その表情はどれも穏やかで、満ち足りていた。
私たちが帰省のたびに会いに行くと、彼は「よう、来たな」といった顔で尻尾をひと振りし、喉を鳴らしてくれた。
彼は約束通り、あの家で王様になり、愛され、そして三年前の秋、眠るように天寿を全うした。
訃報を聞いた夜、私たちは泣いた。けれど、それは後悔の涙ではなかった。
彼は最期の瞬間まで、温かい手の中で、家族に見守られて旅立ったのだから。
阿福の体は台湾の土に還った。
だが彼の魂の一部は、間違いなく海を渡り、今もこの部屋のどこかで私たちを見守っている気がする。
ふとした瞬間に感じる視線や、誰もいないはずの場所がきしむ音。
それはきっと、彼が「ちゃんとやってるか?」とパトロールに来ている合図なのだろう。
「ねえ」
美玲が、私の足元で伸びている平平を撫でながら呟いた。
平平はもうすっかりおじいちゃん猫になり、若き日のような鋭さはなく、好々爺のような顔をしている。
「この子たち、日本に来て幸せだったかな?」
それは、この八年間、私たちが何度も自問してきた問いだった。
生まれ育った南国を離れ、言葉も気候も違う国へ連れてこられたこと。
あの過酷な検疫を強いたこと。
それは本当に、彼らにとって正解だったのだろうか。
私は、平平の隣で丸まっている安安を見た。
彼女は美玲の手の動きに合わせて、うっとりと目を細めている。
その安心しきった寝顔には、一点の曇りもない。
「幸せだよ」
私は確信を持って答えた。
「だって、ここには『家族』がいるから」
場所じゃない。国でもない。
大切なのは、誰といるかだ。
あの通訳の日、私たちは約束した。「ずっと一緒だ」と。
その約束が守られている限り、ここは彼らにとっても、
私たちにとっても、世界で一番安全な場所なのだ。
「……そうね」
美玲が微笑む。
「ここが、私たちの約束の場所だものね」
私の言葉を肯定するように、平平が「ニャッ」と短く鳴き、大きく欠伸をした。
その平和すぎる姿に、私たちは顔を見合わせて笑った。
ふと、リビングの棚に視線を移す。
額縁の中、琥珀色の西日を浴びて身を寄せ合う三匹の猫たち。
若き日の平平と安安。そして、真ん中で堂々と構える阿福。
写真の中の阿福と目が合った。
金色の瞳は、今の私たちの暮らしぶりを見て、満足げに細められているように見えた。
『おまえらも幸せそうだな』
そんな声が聞こえた気がして、私は心の中で「ありがとう」と返した。
窓の外、厚く垂れ込めていた冬の雲が切れ、薄日が差してきた。
柔らかな光が部屋に満ち、猫たちの毛並みを黄金色に染める。
私は冷めたコーヒーを一口飲み、温かいリビングを見渡した。
リビングの棚の木製の額縁に収まった1枚の写真から始まったこの平凡な日常は、
いま、足元で寝息を立てる二匹と、額の中で琥珀色の西日を浴びる一匹に見守られながら、静かに続いている。

ここには、愛がある。思い出がある。そして、守るべき命がある。
それだけで、人生は十分に美しい。
国境を越え、言葉の壁を越え、私たちはこれからも生きていく。
愛しい、小さな家族と共に。
私は深く息を吐き、マグカップをテーブルに戻した。
窓の外、鴨川の水面が冬の弱い日差しを反射してきらめいている。
あの日、関空からこの街へ辿り着いてから、もう八年の月日が流れたのか。
最初の冬、猫たちは「日本」という異文化に大いに戸惑った。
特に彼らを驚愕させたのは「こたつ」だった。
南国育ちの彼らは、最初、この怪しげな発熱するテーブルを警戒して近づこうとしなかった。
だが、ある夜、好奇心に負けた平平(ピンピン)がおっかなびっくり頭を突っ込み、
数秒後、魂を抜かれたような顔で全身を滑り込ませた。
それを見ていた安安(アンアン)も続き、
以来、彼らは春が来るまでこたつから出てこなくなった。
「悪魔の家具だわ」と美玲(メイリン)は笑ったが、
彼女自身もまた、こたつで蜜柑を食べる日本の冬を愛するようになっていった。
こたつは彼女にとっても悪魔の家具だったようだ。
冬の夜、仕事から帰ってこたつ布団をめくると、
中には必ず二匹が「川の字」になって眠っている。真ん中に平平、端に安安。
空いているもう一つのスペースは、いつだって私か美玲のための指定席だ。
私がその隙間に足を差し込むと、平平が「仕方ないな」という顔で少しだけ場所を譲り、
安安は文句を言いたげながらも、私の太ももに顎を乗せる。
その重みと温かさに包まれていると、外の底冷えも、仕事の疲れも、すべてどうでもよくなってしまう。

春にはベランダから吹き込む花の匂いを追いかける。
猫を連れて鴨川沿いの桜を見に行った。
夏には窓辺で蝉の声に耳を澄まし、五山の送り火をベランダから眺めた。
秋には落ち葉を運ぶ風を目で追う。
初めて雪が降った日のことも覚えている。
窓の外を舞う白い欠片を、平平は目を丸くして凝視し、安安は「あれは何?」と美玲に問いかけるように鳴いた。
猫たちは京都の四季を学び、畳の感触を覚え、少しずつ、しかし確実に「日本の猫」になっていった。
京都の四季は、今や私たちだけでなく、彼らの記憶のアルバムにも一枚ずつ、確かに刻まれているのだと思う。
そして、阿福(アーフー)。
台湾の里親さんを通じて定期的にLINEで
彼の日常を知らせる写真が届いていた。
広い庭のある家で、日向ぼっこをする写真。新しいお母さんの膝の上で、王様のようにくつろぐ写真。
その表情はどれも穏やかで、満ち足りていた。
私たちが帰省のたびに会いに行くと、彼は「よう、来たな」といった顔で尻尾をひと振りし、喉を鳴らしてくれた。
彼は約束通り、あの家で王様になり、愛され、そして三年前の秋、眠るように天寿を全うした。
訃報を聞いた夜、私たちは泣いた。けれど、それは後悔の涙ではなかった。
彼は最期の瞬間まで、温かい手の中で、家族に見守られて旅立ったのだから。
阿福の体は台湾の土に還った。
だが彼の魂の一部は、間違いなく海を渡り、今もこの部屋のどこかで私たちを見守っている気がする。
ふとした瞬間に感じる視線や、誰もいないはずの場所がきしむ音。
それはきっと、彼が「ちゃんとやってるか?」とパトロールに来ている合図なのだろう。
「ねえ」
美玲が、私の足元で伸びている平平を撫でながら呟いた。
平平はもうすっかりおじいちゃん猫になり、若き日のような鋭さはなく、好々爺のような顔をしている。
「この子たち、日本に来て幸せだったかな?」
それは、この八年間、私たちが何度も自問してきた問いだった。
生まれ育った南国を離れ、言葉も気候も違う国へ連れてこられたこと。
あの過酷な検疫を強いたこと。
それは本当に、彼らにとって正解だったのだろうか。
私は、平平の隣で丸まっている安安を見た。
彼女は美玲の手の動きに合わせて、うっとりと目を細めている。
その安心しきった寝顔には、一点の曇りもない。
「幸せだよ」
私は確信を持って答えた。
「だって、ここには『家族』がいるから」
場所じゃない。国でもない。
大切なのは、誰といるかだ。
あの通訳の日、私たちは約束した。「ずっと一緒だ」と。
その約束が守られている限り、ここは彼らにとっても、
私たちにとっても、世界で一番安全な場所なのだ。
「……そうね」
美玲が微笑む。
「ここが、私たちの約束の場所だものね」
私の言葉を肯定するように、平平が「ニャッ」と短く鳴き、大きく欠伸をした。
その平和すぎる姿に、私たちは顔を見合わせて笑った。
ふと、リビングの棚に視線を移す。
額縁の中、琥珀色の西日を浴びて身を寄せ合う三匹の猫たち。
若き日の平平と安安。そして、真ん中で堂々と構える阿福。
写真の中の阿福と目が合った。
金色の瞳は、今の私たちの暮らしぶりを見て、満足げに細められているように見えた。
『おまえらも幸せそうだな』
そんな声が聞こえた気がして、私は心の中で「ありがとう」と返した。
窓の外、厚く垂れ込めていた冬の雲が切れ、薄日が差してきた。
柔らかな光が部屋に満ち、猫たちの毛並みを黄金色に染める。
私は冷めたコーヒーを一口飲み、温かいリビングを見渡した。
リビングの棚の木製の額縁に収まった1枚の写真から始まったこの平凡な日常は、
いま、足元で寝息を立てる二匹と、額の中で琥珀色の西日を浴びる一匹に見守られながら、静かに続いている。

ここには、愛がある。思い出がある。そして、守るべき命がある。
それだけで、人生は十分に美しい。
国境を越え、言葉の壁を越え、私たちはこれからも生きていく。
愛しい、小さな家族と共に。

