2018年1月11日。
関西国際空港の空は、鉛色の雲に覆われていた。時折、冷たい冬の雨が窓ガラスを叩きつける。
到着ロビーのベンチで、私は何度目かの腕時計の確認をした。
定刻通りなら、台北発のチャイナエアライン機は、あと三十分で着陸する。
私の心臓は、朝からずっと不整脈を起こしたように波打っていた。
手の中のスマートフォンには、今朝の美玲(メイリン)からのメッセージが表示されたままだ。
『今から飛行機へ搭乗するね。平平(ピンピン)も安安(アンアン)も、いい子にしてるよ』
それが、フライト前の最後の連絡だった。

上空1万メートル。気温マイナス50度の世界。
もちろん機内は与圧され、空調も効いているはずだ。
だが、猫たちが預けられた貨物室(バルクカーゴ)は、客室と同じ環境とは限らない。

真っ暗闇の中で、ジェットエンジンの轟音が響き渡る空間。
乱気流に巻き込まれれば、小さなクレートは激しく揺さぶられるだろう。
怖がっていないだろうか。
パニックを起こして、過呼吸になっていないだろうか。
阿福(アーフー)を置いてきた判断は正しかったと信じている。
だが若くて健康な平平と安安にとっても、この数時間のフライトは命がけの試練だ。
もし到着したクレートの中で、二匹が冷たくなっていたら……。
悪い想像ばかりが頭をもたげる。私は祈るように手を組んだ。
神様、仏様、台湾のあらゆる神々よ。
どうか、彼らを守ってくれ。

到着案内の掲示板が「着陸(Landed)」に変わった。
だが、到着ロビーでその姿を見られるまでには、まだ少し時間がかかる。
美玲が入国審査と荷物の受け取りを済ませ、貨物室から運び出されたクレートを引き取らなければならないからだ。
それが終わったら、今度は到着ロビーの端にある動物検疫カウンターで、猫たちは最終チェックを受けることになる。

10分、20分、30分。
永遠のように長い時間が流れた。
周りでは、他の到着客を出迎える家族の歓声が聞こえる。
「お帰り!」「元気だった?」
その幸福な風景から、私だけが切り離されているようだった。
自動ドアが開くたびに、私は身を乗り出した。見知らぬ旅行客が出てくるたびに、落胆のため息をつく。
そして、40分が過ぎた頃。
ウィーン、と低い音を立てて自動ドアが開いた。
そこに、見慣れた小柄な女性の姿があった。
美玲だ。
彼女は大きなカートを押していた。その上には、二つのハードクレートが積まれている。
私は弾かれたように立ち上がり、駆け寄った。
「美玲!」
「裕!」
美玲の顔は疲労で蒼白だったが、私を見つけるなり、泣きそうな笑顔を浮かべた。
私は彼女を抱きしめるよりも先に、カートの上のクレートに飛びついた。
網目の隙間から、中を覗き込む。
「平平? 安安?」

暗がりの中で、二つの目がギラリと光った。
クレートの中から、強い匂いがした。猫の匂いと、わずかなアンモニア臭。長い旅の証だ。
「……ニャアッ!!」
鼓膜を震わせるような、太く、低い声。
平平だ。
彼は網目に鼻を押し付け、「ここから出せ! 酷い目に遭ったぞ!」と抗議するように叫んでいた。
生きている。元気だ。
下の段のクレートを覗く。
安安は奥の方で小さくなっていたが、私の指の匂いを嗅ぐと、安心したように「ナァ」と小さく鳴いた。
二人とも、無事だ。
私はその場に崩れ落ちそうになる膝を、必死で支えた。

そのまま私たちは、到着ロビーの端にある動物検疫カウンターへ向かった。
係官が書類を受け取り、厳しい目でチェックを始める。

ここが、本当の意味での最後の関門だ。
書類に不備があれば、その場で係留、あるいは送還。
私は半年間、何度も何度も書類を見返した。日付のズレはないか。
ロット番号は合っているか。サインは漏れていないか。
完璧なはずだ。私が作ったのだから。
それでも、検疫官のハンコが押されるまでは、生きた心地がしなかった。

カサ、カサ、と紙をめくる音だけが響く。
私は息を止めて見守った。
マイクロチップの読み取り機が、平平の首筋に当てられる。
『ピッ』
電子音が鳴る。書類の番号と照合される。
係官が頷いた。
「はい、確認できました」
続いて安安。
『ピッ』
「こちらも、問題ありません」
係官は手元の書類に目を落とし、そして、最後のスタンプを手に取った。
 ダンッ。
 ダンッ。
乾いた音が二回、ロビーに響いた。
「輸入を許可します。お疲れ様でした」

その事務的な言葉は、私には勝利の雄たけびのように聞こえた。
やっと終わった。長かった。
180日間の戦いが、今、終わったのだ。
「ありがとうございます……!」
私は深々と頭を下げた。隣で美玲も、何度もペコペコとお辞儀をしている。
カウンターを離れた瞬間、美玲が私の胸に飛び込んできた。
「よかった……本当によかった……」
彼女の体は小刻みに震えていた。
昨日は一人で阿福を預け、
今日は猫を連れて一人で飛行機に乗り、不安と戦い続けた彼女の緊張の糸が、ようやく切れたのだ。

私は彼女の細い背中を抱きしめ、その髪を撫でた。
台湾のシャンプーの甘い匂いと、少しばかりの空港の埃っぽい匂いがした。
「よく頑張ったな。本当に、よくやった」
私の目からも、熱いものがこみ上げてきた。
私たちは人目もはばからず、到着ロビーの真ん中で抱き合って泣いた。
足元のクレートの中で、平平と安安が「早く家に帰ろうぜ」と言うように、ガサゴソと動き回っていた。

乗ってきた自動車に荷物を積み込み、私たちは空港を後にした。
雨は上がっていたが、外気は冷蔵庫の中のように冷たかった。
助手席の美玲が、窓の外の景色を眺めながら肩をすくめた。
「寒いわね、日本は」
台北とは違う、冬の渇いた色をした空。
これから彼らは、この寒さの中で生きていくのだ。
だが、不安はもうなかった。
私はハンドルを握りながら、バックミラー越しに後部座席の二匹を見た。
彼らは疲れ切って眠っているようだった。
「寒いよ。でも――」
私は美玲の手を取り、自分のコートのポケットに入れた。
「家は暖かいよ。床暖房も入れたし、こたつもある」
「コタツ?」
「猫をダメにする悪魔の家具さ。きっと二人とも気に入るよ」
美玲がふふっと笑った。その笑顔は、いつもの明るい彼女に戻っていた。



新居のドアを開けると、冷たい外気とは対照的に、ほんのりとした床暖房の熱が足元から立ち上ってきた。
クレートの扉を開けてやると、平平はまず一歩目でフローリングの感触を確かめ、
二歩目で堂々と部屋の中心まで進軍した。鼻を高く掲げて空気の匂いを嗅ぎ、
「ふむ、新しい縄張りだな」とでも言いたげに尻尾をピンと立てる。
安安はというと、扉を開けてもすぐには出てこない。クレートの中から顔だけ出し、
畳の匂いと見知らぬ家具をじーっと観察している。
やがて、私と美玲の足元をぐるりと一周したあと、
「まあ、この人たちがいるなら大丈夫ね」と言わんばかりに、ようやく腰を上げた。

車は高速道路を走り抜け、京都へと向かう。
3000キロの海を越え、国境の壁を越え、私たちはついに一つの場所に辿り着いた。
ここはもう、旅の途中ではない。
ここが、私たちの「新居」だ。