通訳の奇跡を経て、季節は冬へと移ろっていた。
台北の街から湿気が引き、乾いた風が吹き始める12月。
私たちの渡航準備はラストスパートに入っていた。
猫たちは驚くほど元気になっていた。平平(ピンピン)と安安(アンアン)は、 
減り続ける家具を気にすることなく、積み上げられた段ボールを新しいアスレチックだと思って飛び回っていた。
阿福(アーフー)も食欲を取り戻し、いつものクッションの上で喉を鳴らしていた。



私は、阿福という猫が好きだった。
彼は、決して人間に媚びない。
おもちゃを振っても無視するし、名前を呼んでも耳をピクリと動かすだけだ。
だが、美玲(メイリン)が泣いている時だけは違った。
 
以前、美玲が職場の人間関係で悩み、部屋で一人塞ぎ込んでいた時期があったという。
その時、阿福はずっと彼女の膝の上に座り続けていたそうだ。
重たい体を預け、ゴロゴロと深い低周波のような音を鳴らし続けた。
「阿福のゴロゴロ音はね、魔法なの」
美玲はそう言っていた。
「あの音を聞いていると、凍っていた心が溶けていくの。阿福は私のナイトであり、カウンセラーなのよ」
そんな彼を、日本へ連れて行ける。
京都の冬は寒いが、床暖房のある新居なら、老体の彼ものんびり余生を過ごせるはずだ。
鴨川の桜を、彼と一緒に見るのが楽しみだった。

運命の歯車が狂ったのは、出発を1ヶ月後に控えた最終メディカルチェックの日だった。
私は日本で、美玲からの報告を待っていた。
いつもならすぐに来る「完了」のスタンプが、その日はいつまで経っても来なかった。
嫌な予感がした。胸の奥がざわざわする。
夕方、ようやく鳴った電話の向こうで、美玲は泣いていた。
『裕……どうしよう』
「何があった? 類に不備でも?」
『違うの。阿福が……』
彼女の言葉が詰まる。
『阿福の心臓に、雑音があるって』
私は息を呑んだ。
獣医の診断は、残酷なほど明確だった。
心臓弁膜症。グレード4。
高齢の阿福の心臓は、静かに、しかし確実に弱っていたのだ。
地上の生活なら、薬でコントロールしながら穏やかに暮らせるレベルだという。

だが、飛行機は別だ。
『上空の気圧の変化。貨物室の轟音。低い気温。
それらが阿福の心臓にどれだけの負荷をかけるか、想像してください』
獣医は美玲にそう告げたという。
『日本に着く前に、心臓が止まる可能性が高い。
あなたはこの子を、空飛ぶ棺桶に乗せるつもりですか?』

「……連れて行くのは、無理か」
私が絞り出すように言うと、美玲は子供のように泣きじゃくった。
『嫌よ。連れて行くって約束したじゃない。みんな一緒だって…
…通訳の人にも、そう伝えてもらったのに。これじゃ嘘つきになっちゃう』
「でも、死なせるわけにはいかない」
『分かってる! 分かってるけど……っ』
選択肢は二つしかなかった。
約束を守って連れて行き、死のリスクに晒すか。
約束を破って置いていき、命を守るか。
それは、自分のエゴを取るか、相手のための愛を取るかという、究極の選択だった。

その夜、私たちは一睡もせずに話し合い、そして決断した。
阿福を、置いていく。
ただし、ただ置いていくのではない。里親を探す。
阿福を世界いち、愛してくれる最高の「終の棲家」を見つけるのだ。

翌日、私は急遽、台北へ飛んだ。
行動を起こさずにはいられなかったからだ。

私たちはインターネットの里親募集サイトやSNSを駆使し、阿福の事情を正直に書き、募集をかけた。
高齢で病気がある猫の里親探し。それは、私たちの想像以上に険しい道だった。

募集をかけた直後から、スマートフォンの通知音が鳴り止まなくなった。
だが、その大半は私たちの心をえぐるものだった。
「可哀想。飼い主の資格ないですね」
「日本に移住するなら連れて行くのが筋でしょう。最低」
匿名の正義感を振りかざす人々からの誹謗中傷。
画面をスクロールする美玲の指が震えていた。
さらに、応募者とのやり取りも困難を極めた。
「高齢の猫なんていらない」という学生。
「外でネズミ捕りさせたい」という農家。
「病気? じゃあやめます」と、阿福のスペックだけを見て断ってくる人々。
美玲の疲労はピークに達していた。
それでも彼女は、一つ一つのメッセージに丁寧に返信し続けた。「阿福のためだから」と。
批判は覚悟の上だったが、精神は限界に近づいていた。
そんな中、ようやく数10件のまともな応募があった。台湾には、猫を愛する人が多い。
私たちはその中から条件の良さそうな5つの家庭を選び出し、阿福を連れて面接に行った。

一軒目は、富裕層の家だったが、そこは猫をまるでアクセサリーのように扱っていた。
「この子は珍しい色をしているわね。私のコレクションにぴったりだわ」
女主人のその一言を聞いた瞬間、美玲は顔色を変え、「結構です」と席を立った。

二軒目は、古い平屋だった。玄関を開けた瞬間、強烈なアンモニア臭が鼻をついた。
多頭飼育の家だった。14匹以上の猫が狭い空間で暮らしており、衛生状態は最悪だった。
人の良さそうな主人だったが、阿福はケージの奥で小さく震えていた。
きっと先輩猫たちと馴染めないだろう。
ここにも預けられない。

他にも、留守番が長すぎる家、ベランダ飼育を条件にする家。
私たちの理想とする「城」は、なかなか見つからなかった。
「私は本当に勝手なことを言ってるかもしれない。預かってもらう立場なのに。
でも阿福は王様なの。王様にふさわしい城じゃなきゃダメなの」
そう言って唇を噛む彼女の姿は、娘を嫁に出す父親のようだった。

そして、最後の希望を託した五軒目。
台北郊外に住む、ある夫婦に出会った。
静かな住宅街にある一軒家。庭には花が咲き、日当たりは最高だった。
子供たちは独立し、夫婦二人で穏やかに暮らしているという。
その家の奥さんは、阿福を見ると、優しく微笑んでこう言った。
『まあ、なんて賢そうな顔をしているの。いろいろなことを見てきた目ね』
彼女は阿福の病気のことも、残された時間がそう長くはないかもしれないことも、すべて受け入れてくれた。
『猫との時間は、長さじゃないわ。深さよ。この子が最期の時を迎えるまで、私たちが責任を持って愛します』
その言葉を聞いた時、美玲は阿福のケージの前で泣き崩れた。
ここだ。ここなら、阿福を託せる。

リビングの窓の外には、小さな花壇があり、季節の花が風に揺れていた。
阿福はそこでしばらくぼんやり外を眺めていたが、一匹の蝶がひらひらと近づいてくると、
ゆっくりと立ち上がり、彼は若い頃を思い出したように一歩だけ前へ踏み出した。
けれど、次の瞬間には「まあ、追いかけるほどの相手でもないか」とでも言いたげに腰を下ろし、
代わりに窓辺の陽だまりに体を預ける。
奥さんがブラシを手に近づくと、最初は少しだけ警戒したものの、
背中にブラシが触れた瞬間、驚くほど大きく喉を鳴らし始めた。
その音は、まるで「ここも悪くないだろう」と新しい家を認めているかのようだった。

私たちは即決せず、2日間のお試しステイ(トライアル)をお願いすることにした。
阿福を預け、後ろ髪を引かれる思いでその家を後にする。
2日後、迎えに行くと、結果は驚くほど良好だった。阿福はその家のソファで、
まるで最初からそこにいたかのようにくつろぎ、奥さんの手からおやつを食べていた。
彼は分かっていたのかもしれない。ここが自分の新しい城になるのだと。
トライアルを終えて一度連れて帰るタクシーの中、美玲は複雑な顔をしていた。
安心半分、寂しさ半分。
「あっちの家の方が、気に入っちゃったみたい」
そう強がって笑う彼女の目は、赤くなっていた。

私はその翌日、一足先に日本へ戻った。
京都の新居で、猫たちを迎える準備を整えるためだ。
空港での別れ際、私は美玲に言った。
「1月10日。頼んだよ」
「うん。……ちゃんと、阿福を見送ってくる」
彼女は気丈に頷いたが、その手が震えているのを私は知っていた。
一番辛い役目を、彼女一人に背負わせてしまうことが歯痒かった。

そして、阿福の旅立ちの日が来た。
2018年1月10日。私たちが日本へ出発する、前日のことだ。
京都の空は、抜けるような瑠璃色だった。台北の空も同じ色だろうか。
私はスマートフォンを握りしめ、美玲からの連絡を待っていた。
今頃、彼女は一人で阿福を連れて、あの夫婦の家へ向かっているはずだ。

昼過ぎ、着信があった。
通話ボタンを押すと、美玲の静かな声が聞こえてきた。
『……預けてきたよ』
泣いてはいなかった。むしろ、やり遂げたような清々しさが感じられた。
『最後までね、いい子だった。玄関でお別れする時、抱っこしたの』
「なんて言ったんだ?」
『「行ってきます」って』
美玲は優しく言った。
『さよならは言わなかった。「阿福、行ってきます。また絶対に会いに来るからね」って伝えたの』
それは、永遠の別れではなかった。
家族の形が変わるだけだ。
阿福は台湾に残り、新居の王様になり、私たちは京都で暮らす。
けれど、絆が切れるわけではない。
『そうしたら阿福、喉を鳴らしてくれたの。「分かった、いつでも待ってるよ」って言うみたいに』
目に浮かぶようだった。
美玲の言葉を信じ、ゴロゴロと喉を鳴らす老猫の姿が。
阿福は分かっていたのだと思う。
自分がここに残ることが、美玲のためになるのだと。
だから彼は、最期まで「美玲のナイト」として、彼女を安心させるために喉を鳴らしたのだ。

「……そうか。また、会いに行こう」
 私が言うと、美玲は力強く頷く気配がした。
『うん、会える。私たちが台湾に帰るたびに、会いに行こうね』
「ああ、約束するよ」

私たちは一番大きな荷物を下ろしたのではない。
大切な宝物を、安全な場所に預けたのだ。
いつかまた会う日のために。
その希望を胸に、明日の朝、美玲と二匹の猫は海を渡る。